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震災遺児支援 10年 [2021年03月10日(Wed)]

あしなが育英会で「東日本大震災10年 津波遺児が語る今」記者会見があり、私も会見でコメントを述べさせていただきました。


会見で3人の遺児たちが、これまでの10年そして今を語ってくれました。


「同じ体験をしている仲間と出逢えた」「グリーフプログラムは成長の場になった」と、グリーフプログラムに対する思いもみなさん語ってくだいました。

そしてこれまで支えてくれた人たちへの感謝とこれから自分がすべきことや、自分が幸せであることの大切さなどを話してくれました。

私の感じたことを記しておきたいと思います。


【レジリエンス】

震災時、佐藤利憲先生や相澤治さんら地元の支援者に、あしなが育英会が加わって下さって、震災遺児のサポートにあたりました。


当時、マスコミから「遺児の心のケアは何年必要ですか?」とよく尋ねられました。

私は「その子が、亡くした親の年を超えるまで」と答えていました。

「え???3年、5年でなく?」と驚いた記者さんは沢山いました。

予後のわかるような病気をイメージして「治癒まで何年?」という感じで訊いたのだと思います。

死別後のグリーフは病気ではないです。

消す薬もないです。悲しみは消えることはありません。

「その人が戻ってきたら」悲しみは消えるでしょう。

しかし、そんな魔法はありません。

震災時、まだお母さんのお腹の中にいた遺児もいます。

その子が10歳になります。

今日、記者会見で体験を語ってくれた遺児たちも、まだ未来のビジョンを模索する年代です。

10年の支援で、やっと、ここまでです。

やっとです。


この先、10年、20年。

あの時、私が答えた「亡くした親の年齢を超えるまで」というスパンは間違ってなかったと確信します。

震災当時、40代だった私は50代になりました。

あと20年も遺児支援できるしょうか? 

「はい、70代になってもがむしゃらに支援します」

そう、この記者会見での遺児たちの話を聞くまでは思っていました。

「支援しなければ」と思っていたのです。

今日、彼女・彼らは「自分たちが同じような境遇の人を支えたい」と言っていました。

支えなきゃと思っていた子たちが、10年経つと支える側になっていました。

当事者に対する私の傲慢でした。

この子達は、擁護されるだけの存在なんかじゃない

自分たちの経験を生かして、心を痛めている人や同じような境遇にある人を支えることのできる人たちなんだ

と、今日の会見で認識しました。

グリーフの物語を会見で語ってくれて ありがとう。


PTG(外的心的外傷後成長)】

ここまで読んでいただいた方の中には

「ああ。震災遺児は、ちゃんとこころの支援を受けていて、世の中に役立とうとしてるのか」と思う方も多いと思います。

今日、記者会見に臨んでくれた遺児たちは、震災体験を「感謝」や「未来」に変えたPTG(外傷後成長)の部分を語って下さいました。

遺児支援してきてよかったなと、彼らの話を聞いて、心の底から思いました。


実際は、サポートにつながらなかった子も多いと思っています。

グリーフプログラムに通ってこられる子どもは、グリーフプログラムに送り迎えしてもらえる子たちです。

「同じような体験をした仲間と出逢えてよかった」いう体験を、生活状況が厳しいあるいはこころのケアの理解のない家庭の中にいる子どもほどできていません。

今日、記者会見に臨んでくれた遺児たちは、グリーフプログラムにつながってくれたケースです。

子どもは家庭を選べません。

だから、親御さんが情報を得られなくても、親御さんがプログラムに連れてくることができなくても

「プログラムに行きたいな」と思う、支援を必要とするすべての子どもにグリーフサポートが行き届くといいなと思います。

今日の会見のあの子たちのように未来に進む子も沢山います。

とはいえ、あの会見があの子たちの「すべて」だとは私は思いません

前を向いたり後ろを向いたり、私たちが想像できないこころの体験をしたと思います。


前向きになれない震災後の子どもたちもいる。

支援につながられない子もいる。

そこを見落とすことなくこれからも支援していきたいです。


Posted by 高橋聡美 at 17:58
あいまいな喪失に関する書籍の [2019年03月06日(Wed)]
【新刊のご案内】
3月20日に誠信書房より『あいまいな喪失と家族のレジリエンス』が発行されます。

黒川雅代子先生、 石井千賀子先生、中島聡美先生、瀬藤乃理子先生ら、東日本大震災の喪失後の心理社会的支援に関する科研チームの共著で、私は第3章で子どものアプローチの部分を自身の体験も踏まえつつ書かせていただきました。

「あいまいな喪失」が通常の喪失とどのように違い、どのような支援が求められるのかを解説しています。
専門書でかつ災害メインなので一般向けではないですが、2011年の震災の際、行方不明者のいる家族を取り巻く支援、本当に苦労しました。
暗中模索の中、ミネソタ大学のポーリン・ボス先生に教えを請いつつ、0から勉強し支援を形にしてきました。

本著はチームの8年間の集大成となります。

311を機に、「あいまいな喪失」という概念が国内に徐々に浸透してきていると感じています。
これから、この概念が災害だけでなく、いろんな場面で応用されるようにこれからも努力していきたいと思います。

あいまいな喪失と家族のレジリエンスチラシ_pages-to-jpg-0001.jpg
Posted by 高橋聡美 at 14:50
あいまいな喪失〜行方不明という喪失体験〜 [2012年11月12日(Mon)]

東日本大震災では、多くの方が犠牲となり、行方不明の方がいまだ2000人を超えています。
このように沢山の人が行方不明なるというのは我が国の経験としては極めて稀な経験だと思います。

世界的に見ると、スマトラ地震・津波の際には死者・行方不明者は20万人以上で、行方不明者は5万人を超えました。また、911テロの際には2,973人の方が亡くなり、ビル内にいたとされる約1100人の方の亡骸は最後まで発見されませんでした。

このように行方の分からない喪失をあいまいな喪失(Ambiguous loss)といいます。
あいまいな喪失のケアに長年携わってこられたミネソタ大学のPauline Boss博士は、あいまいな喪失を「はっきりしないまま、解決することも決着を見ることも不可能な喪失体験」と定義し、「通常の喪失と異なり、あいまいな喪失の中にある人は、その悲しみのために前に進めなくなってしまう」と述べています。

311震災の行方不明者の家族の支援は、遺族支援と混同されて行われてきましたが、死別後の家族と行方不明者の家族では、社会的にも心理的にも大きな相違があります。
まず、死別は亡くなったことが確認できている状態なので、死亡届や財産相続など社会的な手続きを行うことができますが、行方不明者の場合は生存が定かではないのでそれらの手続きを行うことが困難となります。
また、死別の場合は葬儀などを通して、社会的にもその喪失体験を認識してもらえますが、周りから見ても行方不明という喪失はわかりにくいものです。
さらに、家族要員が欠けることは家族役割の変化をもたらしますが、死別の場合は、亡くなった方が本来行っていたことを遺された家族で分担したり、その人がいない状態で生活を変化させ適応していきます。一方、行方不明の場合は役割や生活に対して計画を立てることがなかなかできません。

ウォーデンは「死別後の課題」として@喪失の事実を受容する A悲嘆の苦痛を経験する B亡くなった人のいない環境に適応する C亡くなった人を情緒的に再配置し、自分の生活に力を注ぐという4つをあげていますが、行方不明者の家族の課題は多くの場合はこれらは該当しません。

行方不明の場合は遺族支援とも違うと言われたときに、どのように支援すればいいのか・・・という疑問にぶつかります。

震災後の支援の現場では、行方不明の方のいる家族に対し「死を認めてもらうこと」を暗に強いる傾向がみられますが、行方不明であるということは「生きているか亡くなっているか誰もわからない」状態です。その状況は周囲の人が説得して区切りがつくものでもなく、ご家族はそのあいまいさの中で生きていかなくてはなりません。私達、周りにいる者たちには、まず、「どちらにも決められない」状況を理解することが求められます。
また、行方不明の場合は周囲の人もどう声をかけてよいか戸惑い、無意識に距離を置いたり、「早く前へ進みなさい」と死の受容を強要するなど不適切な言動を取りがちですが、励まそうとしたりこの状況の解決を急がせようとすることなく、その人自身が自分の中で自分なりの答えを見出すプロセスをその人のペースに合わせて見守ることが何よりも大事だと思われます。
ご家族が「生きているかもしれない」と思っている限りは「生きているかもしれない」ということが現実なのです。

震災から2年が近づこうとしている今、改めてグリーフケアの重要性があちこちで言われていますが、その片隅におかれてしまっている行方不明の方がいるご家族のケアというのも忘れてはならない大事な課題だと思います。
Posted by 高橋聡美 at 14:23
セルフケア  [2012年04月13日(Fri)]
去年の今頃の話。
震災から1カ月で、まだ生活もままならず、
津波の被害にあった場所を訪れる度に泣きくれ、遺族の話を聞いて​泣き腫らしていました。

季節が冬に向かっているのか夏に向かっているのかもわからず、
サクラをぼんやり眺め、ようやくハナミズキが咲くのを見て
「あ!夏に向かってるんだ・・・」とハッとしたのを今でも鮮明に​覚えています。

なんと辛い季節だったことでしょう。

あれから1年経ち私は仙台から300キロ離れた東京におり
桜を愛で、風を感じ、空を見上げて深呼吸をし、未来を感じます。

それはまるで外国にいるような感覚のようでもあります。

空を見上げて「未来」に立っている自分を感じる時、
否応なしに、その「未来」があの日の延長にあるその事実が私を襲​います。

そんな時は歯を食いしばります。

歯は食いしばることができても、涙はこぼれます。

東京は賑やか過ぎで、ちっとも落ち着く街ではないけれど
散歩してカフェテラスで本を読むことが許され、
贅沢な食材を買っても、「被災地」に申し訳ない気持ちを抱かずに​済む「別世界」です。

私はこの2週間で東京に随分と癒されました。
本郷の古い坂道も、大手町のビルの狭間の緑の空間も、通勤途中に​見えるスカイツリーも。
どこに行っても私は「あの日」を思い出すことがありません。

生活が落ち着いたことですし、そろそろまた、少し仙台の活動を再​開すると致します。

支援者が癒されてこそ支援が成立するのだと、東京は私に教えてく​れました。
Posted by 高橋聡美 at 08:49
震災から1年を過ぎて〜支援者のケア〜 [2012年04月08日(Sun)]
震災から1年が経ち、被災地の各地で「復興作業」が進んでいます。瓦礫が取り除かれ、町はさら地となりました。

その光景はそこにいた人々のこころの回復をもイメージさせますが、町の再建とは違い、気持ちをさらにして新たな人生の道を作るのはなかなか大変なものがあります。

瓦礫は取り除かれても震災で受けた心の傷は取り除かれることはないし、真新しく建物を作り直すように新しい人生を作り直すという風にはいかないものです。物理的な回復と気持ちの回復は全く別物であり、町が新しい姿になればなるほど、あの日のまま止まったこころが置き去りにされて行きます。

被災地の人々を支える支援者たちもまた傷ついた心を抱えながら走り続け、精神的に追い込まれています。月日が経つごとに医療従事者、宗教者など町に人たちの心の支えになってきた人たちの自殺が次々と起きてしまいました。支援者の自殺は、それまで踏ん張っていたコミュニティに必要以上に失望を与え、強烈なまでに絶望を連想させました。

311大震災で宮城県の医療機関の約2割が被災し、石巻市の職員の6割が自宅や家族を失いました。この過酷な状況の中、医療従事者・行政職員など市民の命を預かる人たちは、セルフケアも十分でないまま1年、休むことなく支援を続けました。

<アルコール問題>
そんな中、被災地で何度か様々な職種から「震災後のメンタルヘルス研修」の依頼があり、講習を行ってきました。
震災後に起きる心理的反応やグリーフ、そしてそれに対するストレスマネジメントとセルフケアについて話をしました。忙しい業務の中、きっと研修に来る時間も惜しい位だろうと思いましたが、みなさん大変熱心に受講して下さいました。講習会の感想の多くが「自分は被災していないと思っていましたが、自分も傷ついていることがわかりました」というものでした。支援者達は自らの疲れやストレスに気付かないまま、さらに「まだまだ、このままでは足りない」と息を切らしながら走って来た様子が伺えました。

また、会場からは「震災後、お酒の量が増えた。どうすれば減らせるか」「自分はアルコール依存なんかとは全く縁がないと思っていたけど、もしかしたら自分も依存かもしれない」「どの位の量でアルコール依存と言うのですか」とアルコールに関連した質問が非常に多かったのが印象的でした。

多くの人はアルコール依存症は酒豪で意思の弱い人間がなる病気と思いがちですが、いざこのようなストレス下に置かれると、逃げ場としてアルコールは選択されやすい物であることがよく分かります。被災地での仕事は過酷でストレスを発散させようにも娯楽施設は全て被災しています。お酒は手軽に手に入る上に、現実逃避をさせる手っ取り早い物質でもあります。現状が厳しければ厳しいほどお酒の量は増えることは想像にかたくありません。平常時と非常時ではアルコールの影響は確実に異なります。このような非常時であればあるほど、様々な面でリスクの高いアルコールは控えるべき嗜好品と言えるでしょう。

<セルフケア>
「休みを取っても、住んでいるところが被災地なので休んだ気にならない。かといってどこかに旅行に行くのも自分だけ逃げているようで気が引ける」「他の人が一生懸命にやっているのに私だけ休むわけにはいかないですよね」被災地で支援をしている方々からこんな声を沢山頂きました。そこには「逃げているよう」「他の人が一生懸命にやっているのに」 と言う風に他者の目を気にするという共通の感覚があります。

しかし、誰かを支えるためには自分自身がしっかりと立っていること必要要件で、誰かの犠牲の上に支援など成り立ちません。疲れているのは自分自身であり、休むべきは自分自身なのです。
また、娯楽が少ない被災地ではアルコールやパチンコがストレス解消の手段として安易に選ばれがちですが、ストレス解消と思ってやっていることがストレス要因となることがあります。

例えば、ギャンブルもアルコールも依存を生みますし、借金を抱えたり健康を害したりというリスクもあります。特にアルコールを「寝酒」として飲まれる方が多く、震災後は飲酒量が増えたという方も少なくありません。お酒を飲むとぐっすり眠れるというのは誤解で大量の飲酒は確実に睡眠の質を下げます。さらに、抑うつ傾向にある時にお酒を飲むと抑うつ気分を助長すると言われています。

被災地ではアルコールとギャンブルが問題となりDVなどの新たな問題も生じていると言います。自分自身の状態が不安定な時程、ストレス解消の方法はローリスクの物を選ぶということは大事でしょう。

この震災でもうこれ以上誰も傷ついてはなりません。
Posted by 高橋聡美 at 10:40
支援者の曖昧な喪失:Ambiguous loss [2012年03月14日(Wed)]
喪失には目に見えて分かる喪失と目に見えない喪失があります。

311大震災においては、家族・友人・家・仕事・故郷・お墓など多くのものを一瞬にして一度に失った人が大多数を占めました。
津波で職場を流された人は仕事を失くしただけではなく、収入を失くし社会的役割を失い将来の夢や希望までも奪われました。

このように喪失の対象は物や人だけではなく自己の尊厳やアイデンティティに関わる心理・社会的なものも含くみます。 さらに、行方不明の場合などは「曖昧な喪失(ambiguous loss)」として位置づけれます。

その一方で、家族も家も失くしていない支援者達の多くが「私は何も失ってないはずなのに、何かを失ったような感覚がずっとある」ということを話していました。

何も失っていないのに失った感覚。

この喪失感とは何なのでしょう。

私自身も被災地に支援に入り、帰りの車の中で涙が止まらないという体験を何度かしました。
悲しくて泣くのではないのです。
甚大の被害の中で自分がやっていることがあまりにも無力に感じたり、自分の知識や技術が十分に発揮できないという無力感・役割不全感ひいては自責の念など、そういう途方もない虚しさに襲われて涙が止まらないのです。
 
この時、私は何を失っていたのでしょう。

一つは‘先が見えない’という安定した「未来」の喪失感がありました。
それから、専門職としての自分の「自信」や「誇り」であったり、自分の「役割」や「力」を見失っていたのだと思います。このような「曖昧な喪失」を感じた方は多いと思います。

このような曖昧な喪失を抱えたまま活動を続けると焦燥感に駆りたてられ、活動した割には達成感が全く感じられず、燃え尽きやすい状態になります。普段よりも燃え尽きやすい状態にあるということを私たちは知っておかなければ、支援する人、支援を受ける人諸共落ち込んで行きます。
 
確かに、できないことはたくさんあります。
やってもやっても追いつかない現実がここにはあります。

けれども、私たち一人の力は微力だけれど無力ではないし、失われたものもあるけれど、失われていないものも確実にあるはずです。

私たち支援者が、人々のいいところを見出し引きだしていくように、自らにもその優しい眼差しを向け、気遣い労わることは大事なセルフケアだと思います。

私たちは十分にやっています。


Posted by 高橋聡美 at 00:08
命日反応 [2012年03月09日(Fri)]
3月11日を控え、「去年の今日はこんなことやっていたな」と去年のことを色々と思い出す今日この頃です。

311の数日前に何回か地震がありました。
一つは新幹線も止まるほどの大きな地震で、その日の午後はみぞれが降っていたのを覚えています。

こうしてあの時はこうだった、ああだったと、1年前の記憶をきっと誰しも辿ることでしょう。
3月11日の地震のあの時間に携帯からけたたましく地震警報が鳴った瞬間を思い出すと、今でも身ぶるいがします。

亡くなった人の命日や月命日、誕生日や記念日などに、悲嘆が深くなることがあります。これをanniversary reactionといい、日本語では記念日反応・命日反応と呼ばれています。
この命日反応は、悲嘆を抱える方なら誰しも起こし得る反応で決して異常な反応ではありませんが、その死別体験が突然であった場合などは強い苦痛を伴います。

ご遺族の中には「いつまで経っても泣いてばかりで」とか「いつまで経っても前を向けなくて」と悲嘆が長引いている自分を責めたりすることがあります。
悲嘆のプロセスは人それぞれで、前を向けたかと思うとまた揺り戻されたり、気持ちも行きつ戻りつします。その悲嘆の波も含めてプロセスなのだと思います。

しかし、悲しみがあまりに深く、食事ができない、夜眠れない、死にたい気持ちが強いなどの状態があるようでしたら、専門医にかかることをお勧めします。

私自身、3月11日が来ることがとても怖いです。
あの日のことを忘れた日はありません。
でも、あの日のことを、思い出したくありません。
きっとテレビはこぞってあの日の映像を流すことでしょう。
この地にいた者として、映像などを通してあの時のことを知っておくことは大事なことのようにも思いますが、その一方で、またあの時の気持ちに心が引きもどされて、落ち込んでしまう自分を想像すると、とても怖くてテレビなどつけれそうにもありません。

3月11日は安心できる場所で、安心出来る人達と一緒に過ごして下さい。
亡くなった方々を自分のペースで悼む時間を持てると良いなと思います。
Posted by 高橋聡美 at 22:45
被災地における教職員のうつ [2011年11月30日(Wed)]
昨日の地元紙で、震災のストレスから宮城県内の小中学校の教職員の約3割がうつ状態であるという報道がされました。 (宮教組・小中学校調査)
河北新報 東北のニュース/震災でストレス、教職員3割うつ 宮教組・小中学校調査


 私が震災直後から一貫して主張してきたこと。それは「教員も被災者。スクールカウンセラーを配置するのではなく、担任を2人制にした方がいい」ということでした。2人担任が無理ならせめて2クラス3人担任制というのが私の考えです。
 
学校での心のケアというと、スクールカウンセラーを配置して一安心ということが往々にしてありますが、実際は子どもの心の悩みは相談室などではなく教室の中で語られることの方が多いです。
時にそれは遊びの中で表現されたりもします。
もし、スクールカウンセラーを増員するなら、スクールカウンセラーは常に学校を巡回し、授業参観をしたり、子どもと一緒に休み時間に遊んだり、いつも子どもたちの日常の中にいて、いち早く子どもたちの異変や変化に気づけるようにするのがよいと思います。
相談室に行く子ども達というのはすでに問題が顕在化・複雑化した状態である場合が多いようです。相談室に行ってからでは遅いのです。予防的な介入が必要です。

相談室で待っているだけのカウンセラーがどれだけ被災児童の現状を把握できるのかということは、震災直後からの私の懸念でしたが、それ以上に心配だったことは、数十人の被災児童を相手に日々授業をしなければならない教員が疲弊することでした。

被災地の学校の新年度は、例年より遅く始まりましたが、始業式に辿り着くまで先生方は、自身も被災しながら、子どもたちの安否確認をしたり、家庭訪問をしたり、奔走されていました。さらに、職場である学校は地域の避難所となっており、避難された方々のお世話もしていらっしゃいました。津波で使えなくなった学校は他の学校に間借りしての始業式となりました。
学校再開までどれだけのご苦労があったことでしょう。
家をなくして避難所暮らしをされていた先生、家族を亡くされた先生も大勢いらっしゃいます。
彼ら自身が心のケアを必要としていたはずです。

学校が始まる数日前からは「子どもの心のケア」などの研修会が連日、繰り返され「被災地の教師達は研修疲れしている」とまで言われましたが、どんなに疲れていても、子どもたちをきちんと迎えるために先生方は一生懸命研修を受けておられました。

約1カ月遅れで学校が始まると、笑顔で子どもたちを迎える一方で、歯を食いしばり子どもたちと一緒に涙を流しながら「まけねど!」と復興を誓いました。
 
震災後、当たり前のことながら、子どもたちは様々な反応を示しました。
ある子どもは赤ちゃんが返りをし、ある子どもは多動となり、ある子どもは暴力的となり、ある子どもは無気力となり・・・。クラス全体がいつもとは違っていました。
 
「普段通り」ということは何一つなかったと思います。
子どもたちの通学経路、保護者との連絡方法、間借りした教室、いつもと違う子どもたちの騒々しさ、入れ替わり立ち替わりやってくる支援者達、放射能の影響・・・。通常業務に加え、これらのことに先生方は対応しなければなりませんでした。

このような状況の中で、通常の人員配置でよく今まで乗り切ったなと思うと、今回の「教職員のうつが3割」というデータは、むしろ少ないと思えるほどです。

もちろん、私の提言している「被災地における2人担任制」というのは非常にコストのかかる政策であるということは百も承知です。しかし、担任を2人つけることで子どもたちは、ケアを受けやすくなりますし、先生も1人で全てを背負わなくて良くなります。
スクールカウンセラーを1人増やすよりクラスに1人教員を増やした方が教員、子ども、双方のメンタルヘルスに良い影響を与えるに決まっているのです。
こんなに傷ついている子どもたち、こんなに疲弊している教員に対して予算をつけない理由などあるのでしょうか。私たちは彼らを救うために、そして子どもたちの未来、東北の未来、日本の未来のために投資すべきなのではないかと思います。

もしも、今の状態が東北の教育現場で続くなら、教職員の自殺を招くでしょう。
この震災で、これ以上誰も亡くしてはならないし、子どもたちにこれ以上喪失体験をさせてはなりません。子どもたちは一生分と思えるほどの傷つき体験をしました。

子どもの心のケアを考える時に、子ども達を支える保護者や先生方のケアは必須です。しかし、せっかくカウンセリングをして鬱が改善しても、元の激務の中に放り込まれては、状況はよくなりません。根本的に解決するには、これ以上先生方の疲労が重ならないように一人一人の日常業務が少しでも軽くなるような手立てをしなければならないと思います。

先生方のうつはいわば二次災害です。一刻も早い救済が行われますように。




Posted by 高橋聡美 at 01:22
311 今改めて思う 私たちが喪ったもの [2011年11月27日(Sun)]
年末に向け、今年の震災を振り返る取材がいくつか続いています。
その中でよく問われるのが、「311大震災は高橋さんにとってどんな震災でしたか?」ということです。

改めて、この震災が一体どんな震災であったかと考えた時に、「沢山の人が亡くなったり、町がなくなったり、そういう目に見える物をなくしただけではなくて、心の何かを破壊されたような喪失感」というのを私は思いました。

先週、宮城県の内陸にある栗原市でグリーフケアについての講演会をした時のこと、年配の男性の方が手を挙げてこんなことをおっしゃいました。
「私は家が流されたわけでもなんでもないのですが、ここにきてあの時の喪失感がボディブローのように効いてきた感じがしています」
多くの方がこの発言に頷かれていたのですが、私もこの感覚は非常によく理解できました。

人や家等、具体的に何を喪ったわけでもないのに、確かに何かを私たちは喪い、その喪失感は9カ月にもなろうとしている今でもふっと湧き上がり、私たちの心に突如、容赦なく降りかかります。

単なる悲しみでもなく、単なる切なさでもない、淋しさでもない、何と名付けようもないこの喪失感は薄れるどころか、復興が進むにつれて日に日に増していくような気さえします。私たち被災地に住む人の気持ちはあの日のまま、何か止まっているのかもしれません。

日が経つにつれ、目に見えて町は復旧し始めました。復旧が遅れていた私の町の図書館もようやく今月末に再開することになりました。
確実に日常は戻っています。
だからこそ、置き去りにされた「戻らない心」が際立つのかもしれません。

かつて世界で起きた戦争の後、若者たちの心に異変が起きました。それは暴力的な行動であったり、国外の戦争に好んで行くようなことであったり、PTSDの症状に悩まされたりとその影響は多岐に渡ります。
この震災は戦争ではありませんが、この破壊的な風景は私たちの心を日々傷つけ、心の何かを確実に壊しているような気がしてなりません。

未曾有の災害と言いながら、私たちは今までの経験に基づき、この震災が人々の心に与えるダメージを想像してきました。しかし多くの想像は、支援する側の勝手な思い込みであり、被災者やご遺族の気持ちと解離しているということが現場では多々見受けられました。
未曾有ということを甘く見すぎているのではないか?と思うことがしばしばです。

今でも思います。「3月10日に戻らないかな」と。
今でも思います。「これは何か悪い夢だったんじゃないか」と。

3月10日までこんな未来があるなんて全く想像していませんでした。でも、もう私たちは未曽有の未来を経験してしまい、新たな未知と日々向き合っています。

津波の爪痕が残るこの被災地で、あとどれくらい勇気を振り絞れば、このグリーフと和解し生きて行けるでしょう。
あとどれくらい涙をこぼせば、この途方もない心細さから解放されるでしょう。

年末を迎えるこの季節。
年が改まれば、何かがリセットされるように思えていたのは去年までの話で。
今日の延長の明日が、明日の延長の明後日が、いくつもの夜を超えてもまだまだ「被災地」から抜けられない私たちがいます。

被災地の方々が最近、よく言葉にするメッセージ。
「忘れないで」

私たちはあの日と共に生きています。






Posted by 高橋聡美 at 18:00
被災地でのグリーフ講演会 〜松島病院〜 [2011年11月07日(Mon)]
先月あたりから少しずつ、宮城県沿岸部での講演会が入ってくるようになりました。

11月5日に、松島町にある松島病院で、スタッフ向けのグリーフに関する講演会をしてきました。

被災者や遺族の心理、この震災における心理の特徴、そして遺族と接する時の基本的な態度や、気をつけなければならない言葉などをレクチャーしてきました。
震災後、かなりの数の講演をこなし、グリーフの啓発に微力ながら貢献しているつもりでいましたが、今回の講演はいつになく不全感に襲われました。

私自身も地震を経験し、また震災直後から相談電話・メール・遺族のわかちあい・遺児のケアプログラムなどを行って、様々なことを経験してきたように自分で思うのですが、さて、自身も被災しながら、被災者たちを支えている地元の病院スタッフの皆さんを目の前にした時に、私に語る資格があるのだろうかと思えました。
被災地真っただ中にいて、津波に被害を受けた人達の経験の上に語れる学問などないように思えたのです。

それでも、講演の後、「救われました」とか、「私の感じていることが異常ではないとわかりました」とか、「どんな風にご遺族と接したらいいかヒントを得ることができました」と、感想を言って頂け、私自身、救われました。「震災以来、久しぶりに涙が出ました」と言われた方もおいででした。

講演会の最後に総師長さんから「大変な思いをしているスタッフに、言葉をかけたいという気持ちはあるのだけれど、かける言葉がない」と涙ぐまれて質問されました。

スタッフの中には家を流され避難場所から仕事に通った人もいると言います。自分も津波に溺れなんとか生き延びた方もいらっしゃいました。そんな中で、地域の医療に全身全霊で力を注いで来られたスタッフの皆さまの責任感と、総師長さんのスタッフへの愛が心にしみました。
遺族に言ってはいけない言葉とか、取るべき態度とか、色々うんちくはあるのですが、仲間と共に絶句し涙すること、それはどんな上手な言葉より相手の心に届くのではないかなと思います。

被災しながらも地域の医療を継続された皆様に改めて心から敬意を表したいと思います。

深い悲しみの中でも、患者さんを守り、被災者をケアし。愛ある職場に感動しました。
地域にこのような病院があること、きっと松島の方々も誇りに思うと思います。

被災地の真っただ中にありながら、愛に溢れる職場を拝見しこちらが勉強させて頂いた講演会でした。ありがとうございました。





Posted by 高橋聡美 at 00:52
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