311 今改めて思う 私たちが喪ったもの [2011年11月27日(Sun)]
年末に向け、今年の震災を振り返る取材がいくつか続いています。
その中でよく問われるのが、「311大震災は高橋さんにとってどんな震災でしたか?」ということです。 改めて、この震災が一体どんな震災であったかと考えた時に、「沢山の人が亡くなったり、町がなくなったり、そういう目に見える物をなくしただけではなくて、心の何かを破壊されたような喪失感」というのを私は思いました。 先週、宮城県の内陸にある栗原市でグリーフケアについての講演会をした時のこと、年配の男性の方が手を挙げてこんなことをおっしゃいました。 「私は家が流されたわけでもなんでもないのですが、ここにきてあの時の喪失感がボディブローのように効いてきた感じがしています」 多くの方がこの発言に頷かれていたのですが、私もこの感覚は非常によく理解できました。 人や家等、具体的に何を喪ったわけでもないのに、確かに何かを私たちは喪い、その喪失感は9カ月にもなろうとしている今でもふっと湧き上がり、私たちの心に突如、容赦なく降りかかります。 単なる悲しみでもなく、単なる切なさでもない、淋しさでもない、何と名付けようもないこの喪失感は薄れるどころか、復興が進むにつれて日に日に増していくような気さえします。私たち被災地に住む人の気持ちはあの日のまま、何か止まっているのかもしれません。 日が経つにつれ、目に見えて町は復旧し始めました。復旧が遅れていた私の町の図書館もようやく今月末に再開することになりました。 確実に日常は戻っています。 だからこそ、置き去りにされた「戻らない心」が際立つのかもしれません。 かつて世界で起きた戦争の後、若者たちの心に異変が起きました。それは暴力的な行動であったり、国外の戦争に好んで行くようなことであったり、PTSDの症状に悩まされたりとその影響は多岐に渡ります。 この震災は戦争ではありませんが、この破壊的な風景は私たちの心を日々傷つけ、心の何かを確実に壊しているような気がしてなりません。 未曾有の災害と言いながら、私たちは今までの経験に基づき、この震災が人々の心に与えるダメージを想像してきました。しかし多くの想像は、支援する側の勝手な思い込みであり、被災者やご遺族の気持ちと解離しているということが現場では多々見受けられました。 未曾有ということを甘く見すぎているのではないか?と思うことがしばしばです。 今でも思います。「3月10日に戻らないかな」と。 今でも思います。「これは何か悪い夢だったんじゃないか」と。 3月10日までこんな未来があるなんて全く想像していませんでした。でも、もう私たちは未曽有の未来を経験してしまい、新たな未知と日々向き合っています。 津波の爪痕が残るこの被災地で、あとどれくらい勇気を振り絞れば、このグリーフと和解し生きて行けるでしょう。 あとどれくらい涙をこぼせば、この途方もない心細さから解放されるでしょう。 年末を迎えるこの季節。 年が改まれば、何かがリセットされるように思えていたのは去年までの話で。 今日の延長の明日が、明日の延長の明後日が、いくつもの夜を超えてもまだまだ「被災地」から抜けられない私たちがいます。 被災地の方々が最近、よく言葉にするメッセージ。 「忘れないで」 私たちはあの日と共に生きています。 Tweet |
Posted by
高橋聡美
at 18:00
ありがとう。
聞いてみるね。ありがたいね。あなたはいつも姉をちゃんと気にかけてくれる。
今日も仕事。今日は寝坊しなかった。