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Jimmy (05/08)
scr8888 (03/29)
祖母の死 〜二人の遺児を育てた祖母の思い〜 [2011年10月28日(Fri)]
 先日、祖母が他界し鹿児島に帰省しました。3歳から18歳まで共に暮らした「ばあちゃん(と私は呼んでいた)」でしたので、「祖母」という存在以上の家族でした。私は、祖母の作る味噌汁も、からいも団子(さつまいも団子)もヨモギ餅も、あら煮も大好きでした。私にとって祖母の料理はおふくろの味であり、故郷の味です。彼女みたいな味は、どれだけ真似をしても絶対に作れません。

小学生だったある時、私は友人からいじめられ挙句に「あんたなんかとは絶交だ」と暴言を吐かれ、しょんぼりして自宅に帰って来たことがありました。祖母はそんな私の様子に気付き「聡美ちゃん、どうしたの?」と話を一生懸命、聞いてくれました。話を聞き終わるか終らないかのうちに、祖母は激怒し、「そんなことを聡美ちゃんに言うやつは、こっちから絶交してやれ!!」と言いました。
祖母は自分が守るべき人に対しては相手が何者であろうが、「うちの子はいい子だ」と言い切るような人でした。それは父が人様に迷惑をかけた時でも、私の弟が警察に補導された時でも一貫していました。
祖母の盲目的な家族への信頼は、お守りのようなものでした。自信を失くした時でも、自分を肯定できない時でも、ばあちゃんはいつでも私を肯定してくれました。その愛情があって今の私があります。

彼女は20代でいわゆる戦争未亡人になった人でした。戦後の貧困の中、女で一つで幼子2人を育てたのでした。その心細さや苦労は如何ばかりだったかと思います。

高校の時に祖母のことを作文に書いたことがあり、その時に「じいちゃんが戦死したって聞いたとき、ばあちゃん、どんな気持ちだったの?」と聞いたことがありました。「幽霊でもいいから逢いに来てほしい。もう一度逢いたいと思った」そうです。戦争で若くして夫を亡くすことはどれだけ理不尽だったことでしょう。
夫亡き後、祖母は嫁いで間もない面高家の家を守り、お墓を守り、幼い子ども二人を必死に育て生きてきました。7年前には最愛の息子(私の父)を見送りました。その時、祖母は息子の死を決して認めようとはしませんでした。何度も何度も「道治、目を覚ませ。目を開けんか。」と亡き骸に語り掛け、火葬の際、遺骨が出てくると「聡美さん、見んな、見んもんじゃなか。見んもんじゃなか!(見るな。見るものではない。見るものではない!)」と、半ば叫ぶように私に言いました。遺骨となった息子の姿を見ることは息子の死を認めることだったのかもしれません。彼女は結局、息子の死を否定し続けこの7年を生きてきました。

私はよく、私が遺児支援をしているのは戦争遺児であった父への弔いだというのですが、戦争で夫を亡くし、大変な貧困の中、子どもを育て生きてきた祖母への思いもまたこの活動のモチベイションでもあります。

若くして亡くなった夫の分まで長生きした祖母。
面ノブ 93歳。本当に見事な一生でした。

ばあちゃん、じいちゃんとお父さんに会えたね?
そっちで、待ってたでしょ?
66年ぶりにやっと3人一緒だね。
聡美が自信を失くした時に、「大丈夫だ」と言ってくれるばあちゃんはもうこの世にはいないけど、ちゃんと自分で自分に「大丈夫」と言ってこれからも生きていくからね。
東北の震災の遺族たちにはばあちゃんみたいな苦労はさせないとうに、聡美、がんばるから、ばあちゃん、見守っててね。
それから、ばあちゃん、今日はばあちゃんの94歳の誕生日だよ。
亡くなった後に、言うのも変だけど、誕生日おめでとう。
本当に見事な一生だった。ばあちゃん、ありがとう。




私が育った鹿児島の南西部。東シナ海は祖母と父の思いでの詰まった海。





Posted by 高橋聡美 at 22:35
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