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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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「バングラデシュ」―第2回全国ハンセン病会議― [2024年04月30日(Tue)]

「バングラデシュ」
―第2回全国ハンセン病会議―


昨年11月12日、バングラデシュでハシナ首相ご出席のもと、第2回全国ハンセン病会議を開催しました。この内容を国立療養所・邑久光明園が出版する『楓』に投稿しましたところ、通巻616号に掲載されました。以下はその掲載文です。

*******************


バングラデシュで第2回全国ハンセン病会議を開催
―2030年までのハンセン病ゼロに向けた大きな一歩―
WHOハンセン病制圧大使 笹川陽平


コロナ禍で世界のハンセン病制圧活動は残念ながら停滞せざるを得なかった。ハンセン病は東南アジア、インド、ブラジル、アフリカ大陸などでは現在進行形の病気であり、2010年12月の国連総会本会議にて、「ハンセン病の患者・回復者とその家族への差別撤廃決議」と「原則とガイドライン」が192カ国の全会一致で採択されたにも関わらず、その実現は残念ながら十分とは言えない現状である。ようやくコロナ禍が収束方向に進み出したのを機に、私は世界中での活動を精力的に再開した。手始めにバングラデシュでの活動を報告させていただく。

2023年11月12日、第2回バングラデシュ全国ハンセン病会議を首都のダッカにて開催した。本会議の目的は、コロナ禍で停滞したハンセン病対策を再び強化し、2030年までにバングラデシュからハンセン病をゼロにすることで、ハシナ首相をはじめ、保健関係者、国内外の専門家、国際NGO、ハンセン病当事者団体代表ら約500人が一堂に会して行われた。会場には多くの写真展示を含め、大掛かりな準備がされていた。

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約500人が出席して開催された第2回全国ハンセン病会議


第1回に続いて出席くださったとハシナ首相は開会式で、「ハンセン病への差別は、現在、バングラデシュが推進する“スマート・バングラデシュ”(より豊かで、公平で、持続可能な未来を目指すもの)の理念に合致しない」と指摘し、ハンセン病当事者の雇用促進、ハンセン病対策予算の増額、ハンセン病治療薬の国内製造など、ハンセン病問題解決のための具体的なアクションを示した。このことが、2030年までにバングラデシュからハンセン病をゼロにすると言う活動に、大きな弾みとなったことは間違いない。これまでのバングラデシュにおけるハンセン病対策は十分とは言えなかったが、今回のハシナ首相の発言をもとに、バングラデシュ国家ハンセン病プログラムでは、今後、64の地域での医療従事者を中心としたワークショップを開催し、その後、小地区での啓発活動と患者発見活動を計画している。バングラデシュからハンセン病をゼロにする機運を軌道に乗せるために、中央政府のみでなく、各地域が主体的にアクションを起こす体制を整えているとのことである。保健省は早速、来年度予算の大幅増強を実現すると張り切っていた。

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ハンセン病問題解決のための具体的なアクションを示したハシナ首相


私もスピーチの時間をいただき、「4年前の第1回全国会議で、ハシナ首相が「2030年までにハンセン病をゼロにする」と、一国の指導者がハンセン病に関してこのような明確なゴールを示した例は他にはない。ハシナ首相の勇断は、バングラデシュで今も社会からの不当な偏見や差別に苦しむハンセン病患者や回復者、またその家族らに大きな勇気と希望を与えた」と感謝の意を示した。また、新型コロナウイルスの影響でハンセン病対策が多くの国で停滞し、統計上は新規患者が減少したように見えても、実際は診断や治療が受けられない、あるいは障害のケアを十分に行うことが出来ない患者が多くいること、また、ハンセン病にまつわる偏見や差別の問題は、未だに世界中でおきていることも忘れないでほしいと、訴えた。

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スピーチでハシナ首相の勇断に感謝の意を伝える筆者


どの国においても、ハンセン病は、結核、マラリア、エイズなどに比べて患者数が少ないため、一国の最高指導者の発言がなければ予算や活動人数も少なく、困難を極めるのが実情である。しかし私は「Never give up」、決してあきらめない精神でこれからも世界中で活動を強化していく所存である。

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「あなたが出席されるというので、会議に出席することにしました」とのリップサービスを受ける

「がん共存療法」―臨床試験開始― [2024年04月26日(Fri)]

「がん共存療法」
―臨床試験開始―


現在、日本人の4人に一人は「がん」になると言われてる。

日本財団のホスピスナースの育成事業に協力して下さった緩和ケア医でケアタウン小平クリニックの名誉院長・山崎章郎さんが自から「がん」を患い、つらい抗がん剤治療を断念されて「がん共存療法」の可能性について研究したいとのことで、日本財団はがん患者へのホスピスナースを4000人以上養成したり、がん緩和病棟建設の経験もあり、積極的に協力させていただいている。既に小規模の臨床試験が開始されており、その成果が期待されているところである。

4月9日の日経新聞「科学の扉」で編集委員の安藤淳氏が書かれておられるので、参考までに記事全文を拝借しました。

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【科学の扉】


がんが怖い病気なのはなぜか。さまざまな治療薬が開発され、必ずしも「不治の病」ではなくなった。死だけでなく、痛みや抗がん剤の強い副作用に対する恐怖も大きいかもしれない。

 つらい治療を経ても、完全に回復して元の生活に戻れるとは限らない。徐々に衰弱し動けなくなる人もいる。臨床試験で「5年生存率が有意に延びた」というデータが出ても、生活の質(QOL)の向上が実現するとは限らない。

 製薬業界の人たちにこの話をすると「副作用の問題は最新の技術で改善している」と反論される。例えば、がん細胞を狙い撃ちする分子標的薬や、患者一人ひとりのがん関連の遺伝子変異を調べてその働きを抑える薬を探す「ゲノム医療」がある。

 確かにこれらは人によっては劇的な効果があり、副作用は少ない。ただ、遺伝子変異が判明しても多くの場合、最適な薬はみつからない。薬にたどり着いたとしても、開発・製造プロセスの複雑さを反映して価格は高額になりがちだ。薬の種類が増えても保険ですべて賄うのは難しいだろう。

 多くの患者は異常に増殖するがん細胞に対して毒性を示す化学物質を使う、従来の抗がん剤などに頼らざるを得ない。薬の組み合わせや制吐剤の利用などで副作用はある程度抑えられるが、個人差は大きい。抗がん剤による標準治療が効果を示さなかったり、副作用で続けられなくなったりして「完了」となるケースは簡単には減らない。

 いずれ症状が悪化すると、最後は心身の苦痛や不安を取り除く緩和ケアへと移行する。この間、なすすべもなく最期を待つのはつらい。体がある程度動き、普通に近い生活ができているならなおさらだ。

 標準治療の完了と緩和ケアの間に生じる「空白」を何とかしたい――。緩和ケア医でケアタウン小平クリニック名誉院長の山崎章郎さんは、自らがんを患い、抗がん剤による標準治療を副作用のため途中で断念した経験から痛感した。

 この空白にはしばしば「代替療法」が入る。怪しげなものもあるが、山崎さんは丁寧に調べて科学的に説明のつくものを探した。自ら試したうえで糖尿病薬のメトホルミンやビタミンD、エイコサペンタエン酸(EPA)の摂取などを組み合わせた方法を考案した。

 がんが悪化せず安定した状態の「無増悪生存期間」を延ばすことが目的で「がん共存療法」と名付けた。エビデンスを集めるため、日本財団の助成を受けて2023年1月、聖ヨハネ会桜町病院で医師主導の臨床試験を始めた。大腸がんの手術後で、肺や肝臓に転移のあるステージ4の患者7人で継続中だ。全員体調はよく、50代男性は13カ月、60代男性は10カ月無増悪が続いているという。

 効果については臨床試験を終えてからの詳細な解析が必要になるだろう。臨床試験の規模も小さい。しかし、今後エビデンスが集まれば標準治療と異なる新たな選択肢になるかもしれない。患者に寄り添った取り組みとして注目したい。

【私の毎日】4月25日(木) [2024年04月25日(Thu)]

4月25日(木)

6:30 財団着

10:30 財団内打合せ

12:00 財団職員との意見交換ランチ会

13:00 財団内打合せ

13:30 2023年度アニュアルレポート作成のためのインタビュー

18:00 角川歴彦 角川文化振興財団名誉会長

終日 打合せ、原稿書き、寄付金への礼状書き 

「小さな活動、大きな喜び」―能登半島地震救援活動― [2024年04月25日(Thu)]

「小さな活動、大きな喜び」
―能登半島地震救援活動―


能登半島地震は、ようやく被災者の要望に応える活動ができるようになった。

珠洲市の北沢美容室の岸田孝子さんは、成人式のために預かっていた振袖9枚を何とか取り出して欲しいと、現場で活動する日本財団の関係者に依頼してきた。小型重機を駆使し、倒壊の危険性のある家屋で二日間、懸命な活動で9枚すべての振袖を探し出し、搬出することに成功した。

岸田孝子さんは「帯も、着物も、小物・飾まで出してもらいました。2〜3枚はちょっと袖が破れていたりしましたが、あとはほとんど無傷。ボランティアはヒーローでした。本当にかっこよかった」と語ってくれた。

日本財団の樋口裕司は「まだまだ厳しいことはあると思いますが、こういう一つひとつの積み重ねだと思います。一つひとつ取り戻せるものは取り戻し、笑顔を増やしていけたらと思います」と話し、日々懸命な活動を続けている。

珠洲市宝立町にある北沢美容室は能登半島地震で建物が全壊.jpg
珠洲市宝立町にある北沢美容室は能登半島地震で建物が全壊し、客から預けられた成人式用の振袖9着が取り出せなくなっていました。


北沢美容室 岸田孝子さん.jpg
岸田さん

【私の毎日】4月24日(水) [2024年04月24日(Wed)]

4月24日(水)

6:29 財団着

12:15 門野 泉 東京財団政策研究所理事長

14:00 園田裕史 大村市市長 寄付金目録贈呈式

終日 打合せ、原稿書き、寄付金への礼状書き

「水素活用、CO2排出ゼロ船」―国内で初めて成功― [2024年04月24日(Wed)]

「水素活用、CO2排出ゼロ船」
―国内で初めて成功―


日本財団では、無人運航船の実用化と共にCO2排出ゼロの水素を活用し、CO2排出ゼロ船舶の研究開発を精力的に行っている。

既に無人運航船の実験・成功についてはブログで報告済ですが、4月4日、北九州市で水素活用のCO2排出ゼロ船の運航に成功し、今後は主に国内で運航される船舶の実用化に鋭意努力を傾注して参る計画です。

以下は、4月4日、共同通信の記事を拝借しました。

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水素燃料電池を活用した旅客船.png


 日本財団は4日、水素を動力源とする水素燃料電池を活用した旅客船で、CO2を排出せずに運航する実証実験に成功したと発表した。バイオディーゼル発電機とリチウムイオン電池も搭載した国内初のハイブリッド船で、北九州市で一般向けに商業利用を始める。

 船は全長33メートル、総トン数は248トンで、定員は100人。トヨタ自動車製の水素タンクを採用し、商船三井などが参加する民間のコンソーシアムと共同開発した。

 実験は同市の小倉港から響灘沖にある白島までの片道約30キロで実施。従来のディーゼル船に比べ、CO2排出量を約1.7トン削減した。水素のみで航行したのは20トン以上の船では国内で初めて。

【私の毎日】4月23日(火) [2024年04月23日(Tue)]

4月23日(火)

6:30 財団着

9:00 財団内打合せ

10:00 日本財団理事会

12:00 海外広報写真撮影

13:00 マックス・メヒア世界海事大学(WMU)学長

14:00 胡 一平 笹川日中友好基金特任研究員

終日 打合せ、原稿書き、寄付金への礼状書き

【私の毎日】4月22日(月) [2024年04月22日(Mon)]

4月22日(月)

6:40 財団着

9:00 財団内打合せ

10:00 冨永重厚 笹川日仏財団理事長

12:00 財団職員との意見交換ランチ会

14:00 ミネルバ大学・日本財団 包括連携協定 締結式

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包括提携協定締結式(左からミネルバ大学マギー学長、筆者、ミネルバジャパン坂江代表)

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質疑応答


16:00 中村 亮 外務省南部アジア部長

19:00 Mediation Support Network総会 挨拶

終日 打合せ、原稿書き、寄付金への礼状書き

「元号『令和』の決定経過」―既に中央公論で発表済― [2024年04月22日(Mon)]

「元号『令和』の決定経過」
―既に中央公論で発表済―


4月21日付共同通信から「首相側近、元号案を独自に提示 国書出典「佳桜」など3案」の見出しで、元号の決定について杉田和博官房副長官(当時)をトップとする事務方と今井尚哉首相秘書官がいかにも対立していたともとれる記事が配信された。この元号「令和」の決定経過については、中央公論1月号に筆者が詳細を寄稿している。

正確なところは、筆者の「中国古典にとらわれず新元号を」との産経新聞「正論」の記事を安倍首相が読まれ、元号を国書からと意思を固められた。その決定プロセスは、決して今井秘書官が独自に活動されたことではないのは明白です。以下中央公論の全文を掲載しますので、私の文章の不足点や異論などありましたら、是非ご教授下さい。

元号は内閣総理大臣に決定権があります。その決定プロセスは正確に行われたと確信しておりますが、元号決定に内閣総辞職をも考慮に入れた当時の安倍首相の心境や、関係者の皆さんには大変なご苦労があったと拝察します。もし、事務レベルでのエピソードがありましたら是非ご教示賜り、より詳細な内容として将来の元号決定の参考資料にすると共に、今まで「元号」決定のプロセスを知りえなかった国民への情報開示となることでしょう。


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中央公論1月号
筆者:笹川陽平


「令和改元」を巡る新たな真実
安倍首相に和風元号を決断させた1本の投稿


 元号が「平成」から「令和」に代わって4年半が経過し、新元号は日々の生活の中にしっかりと定着した。しかし、制定の経過は今も「秘中の秘」とされ、明らかになっていない。特に新元号を従来通り漢籍からの引用にするか、国書するか、最後まで迷っていた安倍晋三首相(当時)が「国書」を決断した裏に何があったのか、最終的に新元号に決まった「令和」の提案が何故、ギリギリの段階まで遅れたのか、ナゾとして残っていた。

 そんななか、今年(2023〈令和5〉年)2月には安倍元首相が新元号にかけた決意や思い、迷いなどをふんだんに語った「安倍晋三回顧録」(中央公論新社、以下『回顧録』)が出版されたほか、元号制定当時、政務秘書官を務めた今井尚哉氏を含め関係者から、断片的ながらようやく証言を得ることができた。

 この中で@改元の年(2019年)新春の産経新聞「正論欄」に掲載された筆者の寄稿が、安倍首相が国書を典拠とする新元号を決断する決め手となったA寄稿後、今井氏の勧めもあり、國學院大學の関係者の協力で作成した三つの元号案を提出し、そのうちの一つに高い評価があつまったが、典拠となった『万葉集』の歌の歴史的背景に問題があり、新元号を決める同4月1日の閣議約3週間前に改めて新元号案の作成が発注されたBこの結果、閣議5日前に新しい元号案が到着、そのうちの「令和」が最終的に新元号に決まったーなど、慌ただしい動きがあったことが新たに分かった。

 改元は従来、天皇の崩御に伴って新たな元号名とその施行日を決めた政令が発せられ、崩御当日、あるいは翌日に新元号に移行するのが常だった。しかし、江戸時代後期の1817年に光格天皇から仁孝天皇に譲位されて以来202年振りの生前退位に伴う皇位継承・改元となった今回は、天皇陛下(現上皇陛下)が2016年6月(平成28)8月にビデオメッセージで退位の意向を示されてから19年4月に譲位されるまでに3年近の長い時間があり、国民の間にもかつてない幅広い論議が起きた。異例の新元号制定経過は、生前退位故に初めて生じたと言え、改元の姿を将来に引き継ぐためにも、新たに明らかになった経過を以下、報告する。

▼決め手となった新聞投稿

 筆者の「中国古典にとらわれず新元号を」と題する投稿は、改元の年の2019年1月3日付「産経新聞」朝刊正論欄に「新春正論」として掲載された。この中で筆者は「日本には優れた造語の歴史があり、特に明治以降は約1千語もの和製漢語が中国に導入され現在も広く使用されている」とした上で、「新元号は中国の古典からの引用を止め、わが国独自の自由な発想で定めてほしく思う」 、「それが新しい時代の元号の在り方であり、国民の親しみにもつながる」と主張した。

 今井氏によると、翌日の1月4日は新春恒例の首相伊勢神宮参拝。東京から名古屋までは新幹線、名古屋で近鉄の乗り換え、伊勢に向かった。今井氏は政務秘書官としていつもように首相の隣に座り、後ろに警護に当たるSP、さらに後部座席には新聞各紙に「首相の1日」、「首相官邸」など首相の動向を伝える共同、時事両通信社の若手記者らの姿もあり、今井氏が各紙の元旦紙面など正月の主だった動きを首相に報告する姿も目撃されていた。

 この中に「正論」のコピーも含まれ、これを読んだ安倍首相が『やっぱり国書じゃなきゃダメだよな』と最終的に国書を典拠とする元号にすることを決断。『もう一回、知恵を振り絞ってもらおう』と、元号案の策定作業をやり直すことになったという。

 ここで当の「正論」全文を参考までに紹介させていただく。

「中国古典にとらわれず新元号を」

 天皇陛下の退位に伴い「平成」が4月30日で終わり、4月1日には新元号(年号)が公表される。元号制度は紀元前の中国・前漢時代に始まり、日本は現在も公的に使用する唯一の国とされている。

 ≪漢籍に典拠を有する二文字熟語≫
 飛鳥時代の「大化」に始まり、現在の「平成」は247番目。歴史的に中国の漢籍に典拠を有する二文字熟語が使われてきた。しかし日本には優れた造語の歴史があり、特に明治以降は約1千語もの和製漢語が中国に導入され現在も広く使用されている。

 新元号は中国の古典からの引用をやめ、わが国独自の自由な発想で定めてほしく思う。それが新しい時代の元号の在り方であり、国民の親しみにもつながる。

 改元の定め方は時代とともに変わり、明治以降は一人の天皇に元号を一つに限る「一世一元」の制度が取り入れられた。現在は昭和54(1979)年6月に制定された元号法で「元号は政令で定める」「皇位の継承があった場合に限り改める」とされ、その手順は元号選定手続要綱に定められている。

 まず首相が複数の有識者に新しい元号にふさわしい候補名を委嘱し、提出された候補名を官房長官が中心となって複数案に絞り首相に報告、衆参両院の正副議長の意見も聴いた上、全閣僚会議の協議を経て閣議で決定される。

 ≪多くの造語が近代化に貢献した≫

 中国古典の引用を近年で見ると、「明治」は「易経」の「聖人南面して天下を聴き、『明』に嚮(むか)ひて『治』む」が由来。「聖人が北極星のように顔を南に向けて政治を聴けば、天下は明るい方向に向かって治まる」の意味で、明治天皇がいくつかの年号候補から選出したといわれている。

 「大正」はやはり「易経」の「『大』いに亨(とほ)りて以(もっ)て『正』しきは、天の道なり」が由来。意味は「天が民の言葉を嘉納し、まつりごと(政治)が正しく行われる」。「昭和」は四書五経の一つ「書経尭典」の「百姓(ひゃくせい)『昭』明にして萬邦(ばんぽう)を協『和』す」が由来。国民や世界各国の平和や共存共栄を願って付けられた。

 そして「平成」は「史記」五帝本紀の「内『平』外『成』」(内平らかに外成る)と「書経」大禹謨(たいうぼ)の「地『平』天『成』」(地平らかに天成る)が由来。国の内外、天地とも平和が達成される、の意味である。「修文」「正化」も候補に残ったが、アルファベット表記がともに昭和と同じ「S」で始まるため外された。

 元号の条件は「国民の理想としてふさわしい意味を持つ」「漢字二文字」「書きやすい」「読みやすい」など6項目で、それ以上の縛りはなく、中国の古典に典拠を求める規定もない。

 加えて日本には江戸中期、幕政を補佐した儒学者の新井白石や江戸後期の蘭学者・宇田川榕菴(ようあん)らで知られる卓越した造語の歴史がある。特に明治維新後、積極的に行われた欧米の出版物の翻訳では、原文に当時の日本にはない言葉が多く、福沢諭吉や西周らが精力的に造語をした。

 「文化、法律、民族、宗教、経済」といった社会用語、「時間、空間、質量、団体、理論」といった科学用語、「主観、意識、理性」といった哲学用語など、現在も日常的に使われている多くの言葉がこの時代につくられ、日本の近代化に大きく貢献した。

 ≪希望を託せるよう求めたい≫

 清時代末期から昭和初期にかけ中国では日本留学がブームとなり、6万人を超す中国の若者が日本を訪れ、和製漢語をそのまま取り入れ日本の書物を中国語に翻訳、祖国に西洋文明を紹介した。中国、朝鮮に広く普及し、現代の中国語はこれらの日本語なしに社会的な文章は成り立たないともいわれている。

 中国共産党が使う「共産党、階級、組織、幹部、思想、資本、労働、企業、経営、利益」なども、すべて明治時代につくられた和製漢語とされている。上海外国語大学の陳生保・元教授は「中国語の中の日本語」の論文で、「経済、社会、哲学などの日本語訳は、とっくに現代中国語の中に住みつき帰化している。それが日本語だということを、ほとんどの中国人はもう知らない」と指摘している。筆者も中国を訪問、大学で講演するたびに、漢字を通じた長年の両国の交流を紹介してきた。

 昨年11月末、中国共産党の聖地、陝西省延安の大学を訪れた際もこの話に触れ、学生たちも静かに耳を傾けてくれた。互いに影響し合いながら独自に発展する姿こそ文化の在り方であり、今回あえて中国古典にとらわれることなく独自の手法で新元号を定めるよう求める所以(ゆえん)もこの点にある。

 皇太子の即位に伴い5月から新しい元号が始まる。国際社会は対立と緊張感を深め、少子高齢化に伴う縮小社会の到来で国内も課題が山積している。新たな手法で、明るい希望を託せる新元号が定められるよう求めてやまない。

▼退位宣言―天皇陛下の固い決意

 記事の影響を検証する前に、まず改元に至る経過を振り返りたい。一連の動きは16年7月13日午後7時のNHKニュース「天皇陛下が生前退位の意向示される」の速報で始まった。皇室典範第4条は「天皇が崩じた時は、皇嗣が、直ちに即位する」としており、「昭和」から「平成」への改元も、昭和天皇が崩御された1989年1月7日に新元号を平成とし翌日から施行する旨の政令が公布され、1月8日から平成に変わった。明治時代の旧皇室典範は終身在位制、即ち天皇の即位からその死までを一つの元号とする「一世一元」を定め、戦後の新憲法もこれを引き継いでいる。

 2016年当時、天皇陛下は82歳。2003年には前立腺がんの手術も受けられ、2011年、東日本大震災が起きると何度も被災地に入り被災者を励まされた。筆者は15年1月13日に皇居で天皇・皇后両陛下に世界のハンセン病の現状をご説明する栄誉に浴したことがある。その際も、被災地を訪れるだけでなく、皇居で頻回に関係者と会って被災地の状況を聞き励まされている姿をうかがい知ることができた。「80歳を区切りに譲位したい」との意向を漏らされていたとも報じられており、体力・健康が衰える中、天皇としての使命・責任をどう全うするか、悩まれていたのではないかと推察する。

 約1ヵ月後の16年8月8日午後には、天皇陛下のビデオメッセージ「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」も公表された。全体で10分を超すメッセージの中で陛下は、「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と退位への思いを滲ませ、皇室典範が定める摂政に関しても「天皇が十分に、その立場を求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることにかわりはありません」と否定的な考えを示された。

▼想定外の事態と山積する難題

 天皇一代に1つの元号を使う「一世一元」制度は、「慶応」から「明治」に改元された1868年、太政官布告によって定められた。1979年に制定された元号法もこれを引き継ぎ、元号を「皇位の継承があった場合に限り改める」と明記している。前例のない事態に対する反響も大きかった。安倍元首相も回顧録第10章「新元号『令和』へ」で「それにしても、退位による改元は想定外でした。退位の法整備や様々な皇室関連行事、改元の手続きなどで結構、苦労しました」と語り、その上で「そうした機会に直面したのは、時代に選ばれた保守政権の使命だと思って取り組みました」と心境を語っている。

 当時、官邸記者クラブにいた元NHK解説委員の岩田明子氏は22年12月の月刊文芸春秋特別号で、当日の安倍首相を「驚き冷めやらぬ様子だった」と評した上で、「すぐさま生前退位を行う上での問題点を悟り、その晩の電話で、『現行の憲法上、陛下のご意向だけでは退位は認められないはずだ。それを可能にすれば、政府の思惑で強制的に天皇を交代させる余地を生んでしまう』、『とても簡単にクリアできる案件ではないが、何とか政府の責任でなし遂げなければならない』と語った」と記している。
 
 専門家の意見も割れた。ビデオメッセージを受けて16年10月に設置された「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の意見も、摂政を置く、あるいは特例法で今の陛下に限って退位を実現する案から、皇室典範を改正して退位を恒久制度化する案まで出た。 

 政府は宮内庁と生前退位回避の可能性について協議する一方で、「一世一元」との関係をどう調整するか、改元の日を何時にし、新元号が決まった場合どのように発表するか、生前譲位に伴って発生するいくつもの難題の解決策を模索した。宮内庁も当初は一世一元を定めた元号法などとの関係で生前譲位には消極的な立場だったが、天皇陛下の強い思いの前に「内閣で段取りをつけてくれ」と、政府に対応を委ねる姿勢を強めた。

 そんななか、新元号案づくりの作業が同時進行の形で進められた。元号選定手続きに関しては、第1次大平内閣時代の1979年に定められた「要領」で、官房長官が候補名を検討・整理し、結果を内閣総理大臣に報告する、としている。政府は万葉集研究の第一人者、中西進・国際日本文化研究センター名誉教授ら国書や中国史の専門家6人に候補名の考案を委嘱する一方で、要領に基づき、杉田和博官房副長官、古谷一之官房副長官補、総務省から出向した開出英之審議官の3人を有識者との連絡調整など実務担当に決めた。これにより、安倍首相、菅義偉官房長官=いずれも当時=の下で実務を担う担当者の態勢が整った。

▼元号案は60、70もあった

 天皇であっても不測の事態は有り得る。そんな訳で元号制度では、過去に採用されなかった元号案を引き継ぐとともに、国書や中国史の専門家に委嘱し、いつでも新たな元号案を準備できる態勢がとられている。考案者が故人となった場合、その元号案は除かれるようだが、残りは「いずれ使われる可能性がある」との考えに立って引き継がれ、その数は60から70にも上っていた。

 候補名に関しては79年の「要領」が、「漢字2字であること」、「書きやすいこと」など6項目の留意事項を定め、特に6番目の「俗用されているものではないこと」では、「人名、地名、商品名、企業名等は不可」の意味に解され、人名や葬儀社の名前に使われていたことから、不採用になった候補名もあった。さらにアルファベット表記の頭文字がM(明治)、T(大正)、S(昭和)、H(平成)と重なる元号は時代の近さから使いにくい事情もある。

 また元号案の中には、過去の元号で「天安」、「安政」など計17回も登場している「安」が付く元号案もいくつか含まれていたが、これについては安倍首相自身が自らの苗字と重なることもあり、使わないよう早い段階で実務担当者に指示していた。

 ただし、何よりも大きいのは、引き継がれてきた元号案が、過去に採用を見送られた“落選案”である点だ。安倍首相も「事務レベルの段階で落とした案には、落としたなりの理由があるのです。だから、全く新しい案でなければ、ダメだったのです」(回顧録)と語っている。

▼首相は当初、楽観視していた

 そんななかで安倍首相には当初、新元号は苦労なく決まるという安心感があったようだ。回顧録でも「事務レベルの検討で良い案が出てきて、淡々と決まっていくだろうと楽観視していました」と語っている。その一方で「出来れば国書による元号にしたい」としながら、新元号に対し「もし国民から『安倍はなんでこんなものを選んだんだ』と言われたら、元号制度の存立自体が揺らいでしまいます。そうなったら、首相辞任どころの話じゃない。切腹ものでしょう」(回顧録)と語るなど、「国書を典拠とする元号にしたい」、「国民から支持される元号にしたい」という二つの思いの中で迷い、時間だけが経過していった。

 事態が膠着する中、政務秘書官の今井氏も元号案チームに加わることになった。今井氏は経済産業省出身。第1次安倍内閣でも広報担当の秘書官を務め、安倍元首相も回顧録で「内政・外交のオールラウンドプレイヤーです。もちろん情熱もある」、「第2次内閣以降も、平気で私に厳しいことをいい続けました」と評するなど絶大な信頼を寄せていた。当の今井氏は「元号が漏れてはいけないので、私は入りません」と伝えたというが、新元号が決まれば政務秘書官として総理大臣談話を作成する立場にある。

 本人はチームへの参加を、大詰めを迎えた19年3月10日ごろというが、総理大臣談話作成の関係もあり、安倍首相から一通りの動きを、その都度、知らされていたようだ。安倍首相も「今井さんは『ストーリーが湧いてくるもの、情景が浮かぶものが良い』といって、杉田さんや古谷さんを補佐するわけです」(回顧録)と説明している。当の今井氏もその都度、「どういう世の中にしたいのか、新しい時代をどうしたいのか、談話の中身はこうなりますから、それに相応しい元号にしてください」などと伝えていたと語っている。

 同時に当時の状況を「はっきり言って、いい候補名はなかった。安倍首相も元号を漢籍にするか、国書にするか、決められないまま、どうやって新しい時代を迎えるか、大きく揺れていた」と語った。改元の年の正月には気に入った元号案がなく、それ故に漢籍にするか国書にするかも決まらず、関係者の焦りばかりが募っていた。

▼決定打

 筆者の「正論」投稿は、そんなタイミングで1月3日付「産経紙面」に掲載された。関係者の迷いが大きかった分、予想外にインパクトを持った気もする。掲載半月後の19年1月中旬には、今井氏から「笹川さんも元号案を出してください」との依頼も受けた。今井氏とは、前年の18年10月初旬、別用で尾形武寿・日本財団理事長とともに官邸を訪問した際、たまたま顔を合わせ、「国書由来の新元号を希望します」と伝えた経過もあった。 

 そこで、かねて親交があった國學院大學OBの経済人・木村知躬氏=アサガミ株式会社会長=に相談し、協力を求めた。國學院大學は近世の国学を伝承し、万葉集研究が盛んなことでも知られる。木村氏に相談したのは、そんな事情もあった。

 その後、木村氏を通じて「知道」、「桜花」、「佳桜」の3つの候補名とそれぞれの典拠を簡単に記した文書を受け取り、東京・銀座の新東通信で3案を墨書した上、尾形理事長が今井氏の元へ届けている。日本財団には19年1月24日の日付が入った新東通信の領収証が残されており、時期は同1月末から2月上旬と記憶する。木村氏からは考案者の一人が万葉集研究で知られる辰巳正明・國學院大名誉教授であることも知らされた。

 しかし、「正論」投稿が果たして関係者の目に触れたのか、目に触れたとして新元号決定にいささかでも影響があったのか、さらに提出した3案がどうなったのか、全く情報がないまま時間が過ぎた。そんな中、改元から3年以上経過した22秋、たまたま会った今井氏がようやく重い口を開き、その一端を語ってくれた。

 まず国書を典拠とする新元号を訴えた正論寄稿について、今井氏は「国書にするか、漢籍にするか、迷っている時に、記事が“ぱんっ”と出た」、「それが総理が改めてマインドセットする決定打になった」と語った。「国書からの採用を後押ししたということですか」と問うと、今井氏は「いや、後押しではなく決定打ですよ。(記事を受けて)作業をすべて振り出しに戻したんですから」とインパクトの大きさを語ってくれた。

▼3案の考案者

 それでは提出した3案がどうなったか知りたくねり、今年3月16日、埼玉県坂戸市の自宅に辰巳名誉教授を訪ねた。辰巳名誉教授は成城大学大学院博士課程時代に中西氏の教えを受け、改元2ヵ月後の19年7月には「『令和』から読む万葉集」(新典社親書)も上梓している。当日は、中西氏と並んだ写真や、たまたま近くで撮ったという野生のキジの写真を飾った部屋で2時間近くにわたり、倭国(日本)の文化や漢詩、大和歌の関係などについて詳細な解説をしてくださった。

 辰巳氏によると、元号案に関しては國學院大學の佐蛛iさなぎ)正三理事長から「元号案を出してほしい」との依頼を受けた。中西先生の文書というか、資料のようなものが付いており「国書を出典する案を」といった意味に解釈して、古事記の序文から「鴻基」、勅撰漢詩集である凌雲新集から「大業」、さらに万葉集から「桜花」の3案を作り、佐蝸搦亦キに渡した。

 「鴻基」は「大きな基本を持つことが国を治める要諦」、「大業」は「武器ではなく文章こそが国を治める基本」の意味で、「桜花」に関しては「万葉時代の桜は山桜だった。散るのも早いが、万葉に時代に散るということは悪いことではなく、むしろ美しいことの象徴だった」と詳細な説明を受けた。しかし3案がその後どうなったかについては「知らない」とのことだった。
 
▼「佳桜」に注目集まる

 では、残る「知道」と「佳桜」は誰による案なのか。尾形理事長が2月、東京都内の帝国ホテルで開かれた母校・東京農大の大澤貫寿理事長の叙勲祝賀会で偶然、佐蝸搦亦キと同じテーブルとなり、初対面の挨拶とともに「元号案の関係では國學院大學にお世話になりました」とお礼を述べ、ひとしきり新元号が話題となった。その中で佐蜴≠ゥら「『佳桜』の元号案を作ったのは私です」と話があり、尾形理事長が3月30日、東京都渋谷区の國學院大學理事長室に佐蜴≠訪ねた。

 佐蜴≠ヘ19年1月、OBの木村氏から相談を受け、針本正行学長と辰巳名誉教授に協力を依頼し、辰巳名誉教授作成の「桜花」と針本学長の「知道」、さらに自ら作成した「佳桜」の3案を木村氏に渡したという。佐蜴≠ノよると、針本学長作成の「知道」は、造語で出典はないが、「知」は物事の本質・価値を悟る意を、「道」は正しい道理、仁義・徳行の意を表し、天皇の御心のもと、物事の本質を極める精神や道徳心が日本国にあまねく広がることを祈念した元号案という。

 次いで自案の「佳桜」。万葉集第1巻にある天武天皇の27番歌「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見」(淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見)を主たる典拠に@「淑」を「佳」と読むとともに、本居宣長の「敷島の大和心をひととはば朝日に匂う山桜花」も意識したA日本の元号である以上、大和心は大事であり、「清楚」で「凛」とした姿の山桜のイメージを取り入れたB山桜の多くは、鳥たちがついばんだ種子から、日本の山々の自然と同化して増えていくことから、その「力強さ」も意識したーと説明した。

 3案の扱いに関しては一切、表に出ていないが、今井氏によると、想像以上に大きなドラマがあったようだ。提出された「知道」、「桜花」、「佳桜」のうち、「佳桜」を安倍首相と菅官房長官が高く評価、一時は新元号の有力候補に浮上したというのだ。今井氏によると、安倍首相は「『桜花』もいいけど、それに『佳き』が入る『佳桜』はさらにいい」と大層、気に入った様子だったという。

 しかし、元号として採用するからには典拠となった歌の歴史的背景などを詳細に調べ、いささかの問題もないことが確認される必要がある。前述したように、「佳桜」は万葉集第1巻にある天武天皇の27番歌が典拠。歌が詠まれたのは、天武天皇が兄・天智天皇と対立して逃れた奈良県・吉野。後に天武天皇が皇位継承をめぐって天智天皇の子息である大友皇子と争った壬申の乱(672年)での挙兵地でもある。「万一、浩宮さまと秋篠宮さまを揶揄するようなことに使われることがあってはならない」と慎重の上に慎重を期し、最終的に見送られることになった。今井氏は「断腸の思いだった」と語っており、今井氏も佳桜を高く評価した一人だったことをうかがわせている。

 尾形理事長から、そうした裏話を聞いた佐蜴≠ヘ、「我々はあくまで参考程度と思って案を提出しました。そのようなことがあったとは思ってもいませんでした」と驚きを語り、最後は「畏れ多くて死ぬに死ねない思いです」と恐縮された。

▼「もう一回知恵を」

 その一方で国書を典拠にした新元号とする方針は堅持された。閣議まで1カ月を切った3月上旬に候補として残った元号案は「英弘」(古事記)、「万和」(史記)など5案。現場の雰囲気は「万和」に傾きかけていた。しかし、安倍首相は納得していなかった。回顧録でも、「発表が近づいた3月20日、いくつかの元号案を見せてもらいました」(今井氏の記憶では発表の約3週間前)とした上で、「どれもピンとこなかった。日本人の心情に溶け込み、一体感を醸成する感じがしませんでした」(回顧録)と記している。

 ここで採用を見送った「佳桜」を引き合いに、「まだまだ国書でいい案があるのではないか」といった議論をし、安倍首相から「もう一回、最後の知恵を絞ってみてくれ」と注文があった。急きょ、中西進・国際日本文化研究センター名誉教授ら2人に元号案作りを依頼し、中西氏からは3月27日、「光知(こうち)」、「和景(わけい)」、「令和」の3案が提出された。新元号を決める4月1日(月)の閣議の5日前、ギリギリのタイミングだった。

 「光知」の典拠は万葉集にある山上憶良の長歌。「神なる天皇を賛美した歌」で、天皇を神格化し過ぎている点で時代に合わないと判断された。次いで「和景」。奈良時代の女帝・謙天皇の意思を伝達する詔(みことのり)が典拠。孝謙天皇が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を寵愛して藤原仲麻呂が乱を引き起こした史実に関心が集まる事態などを考慮して、やはり見送られ、「令和」を元号案として閣議にかけることになった。

 「令和」が追加されたことで、最終的に4月1日の閣議のかけられる「英弘」(古事記)、「久化」(易経)、「広至」(日本書紀、続日本紀)、「万和」(史記)、「万保」(詩経)、「令和」(万葉集)の6案が出そろう形となった。国書と漢籍から3案ずつ、バランスが取れた構成となり、安倍首相の心は「令和」に傾いていた。

▼異例の改元手続き

 約200年振りとなった生前退位に伴う今回の改元は、天皇崩御に伴う改元と違って解決が必要な課題が何点かあった。まず改元の実施時期。国会や国民の議論も19年元旦や同4月1日などに意見が分かれた。最終的に17年6月に天皇の退位等に関する皇室典範特例法、さらに同12月に特例法の施行日を19年4月30日とする政令を公布し、4月30日をもって天皇が退位、皇嗣である浩宮さま(徳仁皇太子殿下)に皇位が継承され、5月1日に新たな元号に移行することが決まった。

 安倍元首相はその間の事情を「2019年の元日の改元が一番自然だと思っていたのですが、宮内庁が反対したのです。元日前後は『皇室行事がいろいろと立て込んでいる』と言ってきました。畏き所から、そういう声が降ってきたら、『分かりました』と言うほかないでしょう」、「2019年4月1日は、4年に一度の統一地方選の最中に当たります。全国で選挙をしている時に、退位や即位の儀式を行うのはふさわしくないでしょう」(回顧録)と判断が難しい状況が続いたことを明らかにしている。

 5月1日の改元が決まった後も、なお難問が残った。「新元号は皇太子さまの即位後に使われるのだから、皇太子さまがその政令に署名すべきだ」という保守派から反発がそれだ。これに対し安倍元首相は回顧録で「(皇太子さまが)新しい天皇陛下というお立場で署名するとしたら、新天皇なのだから、既に元号も新しくなっていないとおかしい。矛盾が生ずるのです」と語っている。

 天皇崩御を受けて皇位継承がなされた従来のケースでは、翌日、新しい元号を定めた政令が施行され、1日遅れの改元になるのが普通だった。しかし、今回は生前譲位に伴う新たな事態。結局、1カ月前の4月1日に元号を定める政令を公布し、その施行日を特例法施行(4月30日)の翌日、つまり5月1日とする二段構えの手続きでクリアされた。

 今井氏によると、ITが広く普及した現代では、改元に伴って和暦で入力された生年月日の修正など、金融機関や公的機関を中心に膨大な量のシステム改修作業が必要となり、短期間での改修が不可能といった事情もあった。意見の違いだけでなく、ITが発達した新しい時代に伴う難題も多く、複雑な対応が求められる改元となった。

▼御進講

 憲法4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と定めている。新元号を決めるのは内閣であり、新天皇が元号の決定に関与したような形は、天皇の政治利用に当たることになり避けなければならない。しかし、陛下に気に入っていただけない元号もまた避けるべきだろう。

 安倍首相は6つの元号案が出揃った2日後の29日(金)の午前に当時の天皇陛下(現上皇陛下)、午後は皇太子(現天皇陛下)に「御進講」の形でこの難問に対処した。名目は外交問題に関する内奏。4月1日の閣議を目前にメディア各社は当然、元号絡みとみて今井氏に激しい取材攻勢をかけたが、「国際問題」の一言で押し通したという。

 当日はA3(約30a×42a)サイズの用紙に元号名とその典拠、引用文、その意味などを、それぞれの案ごとに記した一覧表を用意した。決定前であり、文字は墨書ではなく、通常の活字。安倍首相が皇居、次いで東宮御所にうかがい御進講に臨み、今井氏は官邸で待機した。終わった後、今井氏が「どうでしたか」と聞くと、「6つの案をお見せした」との答えだった。

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 以下は今井氏の「推測」を基にした御進講の模様である。天皇陛下、皇太子殿下いずれの場合も、6つの案を記した一覧表を殿下の前に置き、「週明けの月曜日(4月1日)に有識者の皆さんに議論いただき、閣議で決めたいと思います」と前置きした上、6案を順番に一つずつ説明した。並び順は50音順。天皇陛下、皇太子殿下から見て一番右が「英弘」、「令和」は一番左だった。

 官邸に戻った安倍首相は、天皇陛下、皇太子殿下への御進講の模様を今井氏に次のように語った。

 「どの案についても典拠や意味を淡々とご説明した。天皇陛下は「次の世代のことだからお任せします」と静かに応じられ、皇太子殿下は最後の『令和』の解説に対し頷いて微笑み、心持ち嬉しそうな表情を見せられた」

 安倍首相は、特定の案を指し示すようなことはしなかったものの、自分が「令和」に傾いていることを阿吽の呼吸で分かるように、それとなく強い調子で説明するなどブリーフィング能力を発揮されたのではないか、というのが今井氏の推測だ。

▼有識者会議・閣議

 残るは「元号に関する懇談会」と閣議。懇談会は官邸4階の特別応接室で開かれ、メンバーは上田良一・NHK会長(当時)、榊原定征・経団連名誉会長(同)、白石興二郎・日本新聞協会会長(同)、ノーベル医学生理学賞受賞者の山中伸弥氏ら9人。古谷官房副長官補が出典や意味を説明し、山中氏から「『広至』もいいですね」、榊原氏から「個人的には『英弘』もいいと思います」といった発言があったものの「令和」に依存を唱えるメンバーは1人もいなかった。

 閣議でも河野太郎外務大臣(当時)から、昭和に次ぐ「和」の一文字に「『和』が昭和と重なる」といった発言が出たものの、こちらもすんなりと「令和」に決まり、内閣総務官が直ちに車で皇居に運び、天皇陛下の署名(御名御璽)をいただき、かくて中西名誉教授が万葉集の「梅花の歌三十二首」の序文を基に作成した「令和」が、248番目の元号に決まった。

▼内閣総理大臣談話

 閣議決定を受け、「新しい元号『令和』について」と題する内閣総理大臣談話も発表された。談話は約850字。今井氏が首相秘書官としてまとめ、総理自らも何回も何回も推敲を重ねたとされ、「一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたい」との思いが込められた。今井氏は総理大臣談話について「2015年、戦後70年の首相談話と並び7年8カ月の秘書官在任中の最難関だった。安倍総理と一心同体でないと書けませんでした」と振り返っている。総理大臣談話の全文は以下の通りだ。

 本日、元号を改める政令を閣議決定いたしました。 新しい元号は「令和」(れいわ)であります。 

これは、万葉集にある「初春(しょしゅん)の令(れい)月(げつ)にして 気(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やわら)らぎ 梅(うめ)は鏡(きょう)前(ぜん)の粉(こ)を披(ひら)き蘭(らん)は珮(はい)後(ご)の香(こう)を薫(かおら)す」との文言から引用したものであります。そして、この「令和」には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております。
 
 万葉集は、千二百年余り前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。

 悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、「令和」に決定いたしました。文化を育み、自然の美しさを愛でることができる平和の日々に、心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ち溢れた新しい時代を、国民の皆様と共に切り拓いていく。新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております。
 
 五月一日に皇太子殿下が御即位され、その日以降、この新しい元号が用いられることとなりますが、国民各位の御理解と御協力を賜りますようお願いいたします。政府としても、ほぼ二百年ぶりとなる、歴史的な皇位の継承が恙なく行われ、国民こぞって寿ぐことができるよう、その準備に万全を期してまいります。

 元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに、千四百年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものともなっています。この新しい元号も、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくことを心から願っております。

▼結び 一連の経過を知って
 
 元号制定経過の一端を知り、驚くとともに恐縮している。自分の素朴な思いをまとめた新聞寄稿が、安倍元首相が国書を典拠とする元号を決断する決め手となり、これをきっかけに國學院大學関係者の協力を得て提出した3つの元号案、とりわけ「佳桜」が採用を見送られたものの、大詰めの段階で新元号「令和」につながる重要な役割を果たしたと聞き、光栄かつ畏れ多い思いである。

 元号はあらゆる公文書や運転免許証、健康保険証などで用いられ、「昭和生まれ」、「平成生まれ」といった形で日常的に使われている。間違いなく日本の文化であり、国民の日常生活の中にしっかりと根付いている。引き続き西暦表記とともに長く使われていくと思う。

 元号制定経過は「秘中の秘」として国民には見えない部分が多い。天皇崩御に伴い間を置くことなく新たな元号が定められ、不採用になった元号案が、次代に引き継がれていく一点からも、止むを得ない措置と思われるが、約200年振りとなった今回のような生前譲位のケースでは、国民の間にも幅広い議論が生まれており、新元号決定に至る経過を可能な限り公表する手もあるのではないか。一部に元号廃止を主張する向きもあるようだが、決定までの過程を知れば、元号に対する国民の親しみも増すはずだ。

 今回、「佳桜」や中西名誉教授が提案された3案のうちの「和景」が不採用になった経過を知り、首相以下関係者の間でそのような深慮がなされていたことに驚くとともに、改めて、この国の歴史の長さと伝統を知る思いを新たにした。

 同時に「安倍晋三回顧録」を拝読して「日本人の心情に溶け込み、一体感を醸成する」元号にかける元首相の強い思い、さらに「新元号に支持が得られなかったら政権交代だ」と語る言葉に元首相の責任感の強さと首相の役割の大きさも痛感する。今井氏も「(新元号制定の)実質は時の総理です」と語っている。

 今回は今井氏から、「大詰めの新しい流れのきっかけを作ったのは笹川さんだ」との有難い言葉をいただいた。あえて重い口を開き、新元号制定の一端を語っていただいたのも、そんな点があったのかもしれない。

 当の安倍元首相は22年7月、奈良市内で参議院選挙候補者の応援中に凶弾に斃れた。同年10月、衆議院本会議で行われた追悼演説で野田佳彦元首相は「安倍元首相がこの国に遺したものは何だったのか。(中略)遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません」と述べた。

 新元号制定を巡っては水面下の議論が長く続き、今井氏も「官邸と宮内庁、与党と野党、さらに与党の中でも右派と左派の意見に大きな違いがあった。どのテーマも『秘中の秘』。緊張を強いられる毎日だった」と振り返っている。今後も「明らかにできない事実」がたくさんあると推察する。それを承知で、時間の流れの中で少しでも多くの事実が明らかにされるよう望みたい。それが元号制度を引き続き健全に維持していく道につながる。

▼その他、「朝日新聞」の指摘について

 新元号制定に関連して朝日新聞取材班の「秘録 退位改元」(朝日新聞出版)は、安倍首相が2017年10月、日中平和友好条約締結40周年に合わせて訪中し、日中の企業関係者を集めた「日中第三国市場協力フォーラム」に出席した際のスピーチで、「19世紀になると、日本人が西洋の技術を取り入れ、中国が作った漢字を使って、西洋の思想を翻訳しました。哲学、経済など、その時につくられた新しい単語は、中国に逆輸入され、今でも、中国語として使われています」などと語ったと記し、「そろそろ国書から元号を」という思いの発露のように聞こえたと記述している。

 その上で「2019年1月、これに呼応するような論考が産経新聞に掲載される。タイトルは『中国古典にとらわれず新元号を』。筆者は山梨県鳴沢村の別荘で毎夏のように首相と懇談を重ねる日本財団会長、笹川陽平氏である」と記している。

 わが国は西洋の思想・技術を翻訳する際、多くの漢字熟語をつくり、中国にもそのまま輸入された。筆者はそうした歴史を踏まえ、「正論」後段でも、「中国を訪問、大学で講演するたびに、漢字を通じた長年の両国の交流を紹介してきた」、「昨年(2018年)11月末、中国共産党の聖地、陝西省延安の大学を訪れた際もこの話に触れ、学生たちも耳を傾けてくれた」と記している。また18年8月には「笹川陽平ブログ」に、鳴沢村の別荘で歴代の総理である森喜朗、小泉純一郎、麻生太郎、安倍晋三の4氏と懇談した写真を掲載した経過もある。 

 「秘録 退位改元」をそのまま読めば、国書による新元号を目指した安倍元首相と筆者の「正論」に関係があるかの如き印象を受ける向きがあるかもしれない。確かに安倍元首相にいささかの交流をいただいた。しかし、元号のような重大な事案について首相と直接話すようなことは有り得ない。筆者の考えをまとめて「正論」に寄稿したのはこのためだ。

 関連して同書には、「辰巳名誉教授が知人を介して笹川氏の依頼状を受け取り『大業』などを提出した」とした上で、「笹川氏は取材に対し、依頼について否定した」とも記されてもいる。事実、筆者は19年3月12日午後、朝日新聞記者2人の訪問取材を受け、その通りの対応をした。新元号制定が大詰めを迎えた当時、何ら全体の状況が分からないまま安易な答えをするのは躊躇される状況にあったことをご理解いただきたく思う。(了)  

「能登半島地震」―発災から3ヶ月の現場― [2024年04月22日(Mon)]

「能登半島地震」
―発災から3ヶ月の現場―


能登半島地震発生から3ヶ月が経過しました。日本財団で正月二日には災害対策事業部のベテランである黒澤司が現地に入り、今日まで1週間に1回の入浴で頑張り通し、各自治体との協議、救援団体、ボランティアへの仕事の割り振り等現在も活動しており、災害地には常に黒澤司の姿ありと、関係者の尊敬を受けているナイスガイです。

日本財団が多様な救援活動をスピーディーに行っていることは既に報告しておりますが、黒澤司から救援活動開始3ヶ月の現況報告が届きましたので報告致します。

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能登半島地震での救援活動を開始して三か月が経ちました。日本財団の現地支援チームは被害の最も過酷な珠洲市を中心に、連携する団体と力をひとつにし連日様々な支援活動を展開しております。三か月間、その活動にあまり大きな変化は無く、重機などを使い主に赤紙(危険家屋)家屋への対応を行っております。余震はかなり減ってきております。

避難所生活者の食事はNPOや自衛隊による炊き出しから、ようやく災害救助法による食事の提供が開始されました。珠洲市の場合は、地元仕出し事業者により避難者約2,500人分の弁当の配布。

大きな問題である水道の完全復旧は未だになされておらず、その事も金沢方面への転出の大きな要因となっております。日本全国から上下水道の技術者たちが珠洲に集結しておりますが、被害の甚大さから完全復旧にはまだまだ時間を要するとのことです。現在も住民への水の供給活動は私たちの重要な柱となっております。

公費による倒壊家屋の解体作業も殆んど見る事もなく、90日以上が経過しても発災直後と何ら変化のない街の景色は、未来に向かって歩く希望を被災者から奪っております。珠洲市の場合は1年間のゴミの処理量の130年分瓦礫が発生するとの試算になります。珠洲市の建設業者は社員の金沢などへの転出が止まらず厳しい状況が続いております。3月末で珠洲市唯一のタクシー会社も運転手の確保が難しく、営業を取りやめております。地震前の1万2千人から5千人は市外に出たと言われております。

社会福祉協議会が運営する災害ボランティアセンターから派遣される一般ボランティアの数は、一日平均100名〜130名とまだまだ足りない状況が続いております。その多くは金沢から県が手配した大型バスに乗り片道3時間をかけて珠洲に到着、15時に活動を終了し、再び同バスに乗り3時間かけて金沢に帰って行きます。半島先端の街の宿命は否めません。

私たちは、地域コミュニティを再構築する目的で、地域型炊き出しなども行っており、この時だけた被災者の沢山の笑顔に出会うことができます。

日本財団現場支援チームは、被災地の方々を希望への導く灯となり、これからも力を緩める事なく、安全に確実に支援活動を継続してゆく所存にて、引き続き後方支援を宜しくお願い致します。


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今日の活動計画の説明

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今日の仕事開始は「心を1つにして、ケガのないよう頑張ろう」と一致団結

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毎日危険の伴う倒壊家屋の整備

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小型重機を駆使しての活動

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暖かい食事の提供に被災者の明るい表情

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地域型炊き出し


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日本財団の4月10日現在の能登半島支援の実績は下記の通りです:

総額: 16億2497万933円
内訳:
循環型シャワー・手洗機支援:1,108,800,000円
RORO船:125,297,489円
漁船・造船所点検:71,740,000円
アスリートによる支援:30,000,000円
個室銭湯支援:17,350,300円
輪島第三の居場所修繕: 5,000,000円
青少年育成施設復旧: 7,040,000円
災害福祉拠点運営:5,000,000円
聴覚障害者支援:2,540,000円
その他203事業(199団体):252,203,144円
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