「ロヒンギャ問題」その1
―困難な解決への道―
各国の指導者が間欠的にロヒンギャ問題は重大な人権上の問題であり、ミャンマーへの早期帰還を実現すべしとの「正義の発言」が発出されている。誠に最もな発言ではあるが、何時、どのようにとの具体的な解決への道筋と交渉についての言及はゼロである。あえて非難を覚悟して申せば、無責任な発言である。
私は6歳の時(昭和20年)、3月9日10日の東京大空襲の生き残りで、食糧不足による栄養失調と居住地が定まらず、小学校入学は一年遅れと、少年時代、悲惨な生活をせざるを得なかった。そんな経験から混乱するミャンマーにおいて、食料、衣服、住宅建設等、人道支援活動に限定して懸命に支援活動に努力を続けているところで、外務省の貴重な国際協力資金も活用させていただいている。
ロヒンギャの居住地も例外ではなく、2017年8月25日の夜、ロヒンギャ過激派グループ・アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)の攻撃にミャンマー国軍は激しく反撃。その結果100万人ともいわれるロヒンギャ難民が隣国バングラデシュのコックスバザールに殺到・避難して以来、何の進展もなく6年が経過した。
私は以前、長年にわたるイスラエルとパレスチナ紛争に、今は亡きチェコのハヴェル大統領やヨルダンのハッサン皇太子(当時)と、若干関与したことがある。
2014年6月8日、教皇フランシスコは、イスラエのペレス大統領とパレスチナのアッパス大統領を招き、平和のために祈られた。その直後、ハッサン皇太子の 仲介でペレス大統領とアッパス大統領と会談した。その内容は割愛するが、偶然にも両者から「両国の和解には何十年もかかる。小学校の子どもたちから共学してしっかり教えていくことが必要だ。憎しみに燃える現在の国民レベルでは解決は不可能に近い」と、意外な発言であった。
ラカイン州に住むロヒンギャン民族はほとんどミャンマー語が理解できず、事件発生前でも相互理解は難しい状況であった。勿論、スー・チー政権時代でもロヒンギャは居住地を中心に行動制限があり、遠隔地訪問には特別許可が必要であったらしい。
そこで日本財団では、前述の両大統領の発言を参考に、ラカイン州で建設した100校の学校の中の7校で両民族の子どもたちに共に学んでもらうことにした。「何の問題もなく学校運営は順調です」との報告に喜んでいたところ、例の8月25日の事件で学校は廃墟になってしまった。
日本財団では、バングラデシュの財団「BRAC」の協力を得て100万人とも言われる難民が居住するコックスバザールに2階建て学習施設3棟の建設、1階建て学習施設200棟の建設等をしたことは既に報告したとおりだが、ミャンマーにいつ帰還できるかは不明でも、その時のためにミャンマーの国歌とミャンマー語を教えてもらっている。

建設した2階建て学習施設
残念ながら事件発生から6年間が経過したが、帰還問題は遅々として進展がなく、国際機関による救援資金も大幅に減少。国連世界食糧計画(WFP)によると、2023年度は食糧引換券は1人当たり月額12ドルだったが6月には8ドルと大幅に減額しており、子どもの栄養失調の深刻化、児童労働や児童婚の強要、犯罪行為の増加が懸念されると警告を発している。

コックスバザールで食糧引換券を持って食料配布を待つ人々
このような状況下でも出生率は異常に高く、BRACのホセイン・ジル・ラーマン総裁によると、毎年3万人の子供が誕生しているという。私自身、夫に妻4人、その子供27人、計32人の家族の写真を見たことがある。すさまじい難民増加でコックスバザールも限界に近く、ハシナ首相はバサンチャール島に10万人程度収納可能なスペースがあると、バングラデシュ政府が所有者から土地を借り上げて移住を計画しているが、これは強制ではなく希望者だそうで、既に3万人が移住しており、「BRAC」の話によると、これらの難民はコックスバザールとは異なり、漁業や農業それに刺繍などを学んで自活しているそうで、日本財団は300万ドルの予算でBRACと協力して10万人と予想される難民の自活への事業を実施する予定です。