「ローマ教皇と会談」
―一枚の写真 ―
1月26日、バチカンでローマ教皇フランシスコ台下と会談した。
アルゼンチン出身の教皇にワールドカップで優勝したことのお祝いを申し上げると、「今はじめて知りました」とのこと。「多忙に紛れてテレビを見ることが出来ませんでした」とのお返事であったが、関係者によると、テレビはご覧にならないようで、話の糸口として申し上げたサッカーの話はこれのみであった。
バチカンと共催した「ハンセン病に関する国際シンポジウム」には、教皇から長文の署名入りメッセージ(原文手元にあり)を賜り、また、アルゼンチンにも多くの患者がいることに言及されて私の活動を評価され、「ハンセン病のない世界」の実現に更に努力するよう激励頂いた。
日本での思い出については「2回訪問しました。何といっても長崎で多くの悲惨な写真を見て戦争の残酷さを痛感し、絶対に戦争は良くない、良くない」と強い口調で話され、呼び鈴(リン)を押し、関係者に別紙の写真を指示され、私に見せて下さった。
写真の裏には、「戦争がもたらすもの」と
教皇からのメッセージが書かれていた
「焼き場に立つ少年」という有名な写真で、幼子(おさなご)が死んだ弟を背負い、唇(くちびる)をかみしめて、火葬を待つ写真である。私はこの写真を見て思わず落涙するところであった。
昭和20年3月9日の深夜、私が6歳の時に東京を襲った大空襲は、1晩で10万8千人余が死亡、数十万人が負傷、数十万戸の家が焼かれた。あの時、高熱で寝込んでいた母は毛布を頭からかぶり、私は防空頭巾に水筒を下げ、背中には風呂敷で包んだ1升の米を背負い、油製爆弾(焼夷弾)の燃え盛る炎を体に浴びて悲鳴を上げて死んでいく人々を目にし、正に生き地獄の中、奇跡的に生還した。多くの死体に直接手に触れ、町内の人を探し歩いた。その後の生活は栄養不足で全身に「おでき」(皮膚に膿(うみ)を持つ腫物)が出来て苦しんだ思い出が、この一枚の写真を見た時、一瞬にして走馬灯のように駆け巡った。
これが現在の私の人道活動の原点である。教皇は戦争の話になると必ずこの一枚の写真(一枚の写真は10万語に優る)を多くの人々に配っているとみえて、私にも15枚下さった。
いずれまた、世界のハンセン病の状況について説明に参りますと申し上げると「いつでもどうぞ(The door is open.)」とにっこりされた。お断りされて当然と思いながら「ハンセン病を忘れないで!」のバナー写真をお願いしたところ快く応じて下さった。
ローマ教皇と会談
多分、バチカンの長い歴史の中で、又、多くの教皇が活躍された歴史の中で、このような写真は初めてのことではないだろうかと、率直に応じて下さった教皇に深い感謝と「ハンセン病のない世界、偏見・差別のない世界」を改めて心に誓って宮殿を後にした。