「全斗煥元大統領」
―ご逝去の報に接して―
ミャンマーから帰国した直後、全斗煥元大統領のご逝去の報道が流れていたが、全般的にあまり評価されない報道だったようだ。
今日の韓国の異常なまでの反日政策を見ると、昔日を懐かしく思うのは、高齢のせいであろうか。
全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)、金大中(キム・デジュン)、朴槿恵(パク・クネ)の各大統領、金鍾泌(キム・ジョンピル)首相、日本の協力で完成した韓国最大の製鉄会社「ポスコ」の創設者・朴泰俊(パク・テジュン)氏、サムスングループの創設者・李秉普iリ・ヘイテツ)氏等々、今は全てが懐かしい思い出となってしまった。
1980年8月5日、戒厳司令部での大統領就任直前の会談。【発言要旨】
@ 韓国の民主化のために、私は一期で必ずやめる。
A 私は経済的知識は乏しいが、韓国人は働き者なので、必ず世界的に活躍する日が来ると思う。彼らの自主的活動をサポートする。
B 万一北海道にソ連が侵攻してきた場合は、真っ先に韓国軍が支援に入ると福田首相に伝えてほしい。
そして、「私(大統領)に不測の事態があったら、あなたは生き証人になって下さい」と付言された。

厳戒のミャンマー・アウンサン廟に、全斗煥の名代として花輪を捧げる
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以下は、1989年12月の「週刊文春」の記事で、無断で拝借しました。
「落郷」の地は酷寒零下27度
全斗煥前韓国大統領独占会見記――――――――――――――――――――――――――――――――――
韓国の全斗煥前大統領が、雪岳山にある百潭寺という山寺で隠遁生活に入ってから、はや一年あまりを経過した。いまだに下山の道筋が見えてこないままである。その間、外国人の面会を一切謝絶してきた全氏に、この12月11日、笹川陽平氏が初めて会見に成功した。
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私は山奥に閉じ籠っています。ここは山岳地帯で、無線も通じない、ラジオの電波も届かないようなところです。
私がここへ来て、1年と1日目、言い換えれば366日目にやっと電気が入りました。それで裏山に高いアンテナを立てて、今ではテレビも見られるようになりました。
それでニュースを聞けるようになりましたが、その当時は、日本の天皇陛下が亡くなられたことを、全然知りませんでした。それで、亡くなられてから大分たって、私はそれを知り、すぐに日本の皇室に弔電を打ちました。
本来ならば、人間、袖が触れあっても因縁があるというのが常識であります。特に大統領時代にお会いした昭和天皇が亡くなられたのならば、私が直接弔問するのが当たり前の礼儀であります。
それにもかかわらず、亡くなられたことさえわからなかった、私のその当時の状況を、日本の皇室がご理解下さるように願わずにはおれません。また日本国民にも、日本の政界の方々にもすまなく思っています。
こういうところにいる私の事情を、日本の皆様にわかっていただければ非常に幸せに思います。 昨年11月23日、不正事件について「心から謝罪する」と国民に頭を下げ、人里離れた山寺、百潭寺に隠遁した全斗煥前大統領。
僧侶の着る濃紺のシャツに、綿の入った冬用の黒いズボン。緑色のカーディガンに、真っ白な靴下を穿いている。一時、禁煙を伝えられたが、パイプに煙草を挟んで、おいしそうに吸いながら、くつろいだ雰囲気で話をする。
寺に移ってきた当初は、感情が昂り、夜になってもなかなか寝付かれない日々が続きました。午前2時半頃になって、ようやくウトウトしかけると、木鐸の音がするんですね。
はたと目を覚ますと、まだ午前3時。きっと私のために読経をしてくれるのだろう、としばらくは我慢をしていたのですが、それが毎日続くので、ある日、こう尋ねたのです。
『お寺の方は、いつも何時に起きられるのですか?』と。寺側の答えは、『朝3時には、全国の寺が、読経を始めるのです』。それからは、私も早寝早起きに努めるようになり、寺での生活に慣れていきました。
大統領在任中の思い出では、うれしいことをふたつ記憶しています。
ひとつは李朝時代以来、韓国は借金国であり、債務国であったのだけれど、初めて貿易黒字の国となりました。それがいちばんうれしいことです。
もうひとつうれしいことは、オリンピック誘致の時に、日本の名古屋と競争になりましたが、結果的に韓国に誘致できたことを、非常にうれしく思っています。
私の日課は、午前3時から読経。6時から朝食。10時半から11時半まで読経。その後、昼食を取り、4時半からまた読経です。
読経以外の時間は仏教の研究をしています。5時半頃、夕食を取り、午後8時には消灯。読経の時以外はほとんど部屋をでません。
たまに訪れる結婚した娘とする話といえば、心清らかに、楽しいことだけを考えて、笑いながら生きていくことが大切だ、といったようなことです。―キムチの展示場となった寺― 生きている間は、人間、いろんなものを握っているけれども、死ぬ時には、すべて手放さなければならない。頂上まで登り切ってしまえば、あとは降りていくしかないのだ――ここで得た思いを、胸に去来するままに話して聞かせます。
私は人里離れた生活をして、いままで見えなかった点が見えるようになりました。今まで気付かなかった人間性にも目覚めました。
日本の多くの方々から、激励のお手紙を頂戴したり、また、われわれ夫婦に防寒のための衣料その他をお送り下さった方々がたくさんいらっしゃいます。
こういう人情というものに対して、私は深く感謝の意を表したいと思います。
韓国の中でも全羅南道(金大中氏の地盤)から、キムチを持ってわざわざ届けに来て下さった方もいらっしゃいました。他にも韓国全土から温かいご支援を受けておりますので、今は食べ物も充分に口に出来るようになりました。
おかげさまで全国のキムチが集まって来るので、まるでキムチの展示場のようになることもあります。いろいろな食べ物を、信者のおばあさんたちが作って持って来られるので、この寺では、現在、和尚さんたちを含めて、食べ物には不自由していません。(笑)
夫婦とも健康に生活をいたしております。 全氏は、この北端の寺を選んだ理由を百日祈禱を共にした僧侶にこう説明している。「自分はいま、国家と民族の観念しかない。国民に約束した通り、7年間の任期を終えて引退したが、マスコミも政治家も国民も、おかしい方向に流れていった。このままではいけないと思って、寺で生活することを考えた。
交通の便のいいところにある寺に入ったら、また身近なひとが集まって来るだろう。だから誰も来ないような静かなところ、いちばん不便なところと考えて、探したのがこの百潭寺なのだ」
今年の五5月に修理の手が入って少し綺麗になった百潭寺だが、全氏が入った時は半分崩れかかったような古びた寺だったという。同寺のある雪岳山の麓からは約8キロの山道を登るが、以前は徒歩で約2時間、全氏が入ってから道路が舗装されて、車でも登れるようになったが、それでも約20分かかる。
道路の片側は谷間、片側は切り立った崖で、車が1台やっと通れるだけ。登り降りの傾斜がきつく、曲がりくねった道は、雪が降れば通行不能になってしまう。
1日の参詣客は平均200人。1カ月前までに申請を出して、許可を得たものだけが入山を許される。同寺院の宗派である曹渓宗の僧侶の引率のもとに、山の麓の検問所で、最終的なチェックを受けて、お寺にたった1台ある36人乗りのマイクロバスに乗り換えて、寺まで運ぶという方法を取っている。
私は、日本の国が非常に発展し良くなっている理由が、この山に来て、初めてわかりました。中曾根さんを始め、いろいろな政界、財界の皆さんや、個人的な知り合いのひとから、病気に気を付けて、ゆっくり身体を養って下さいという手紙をもらいました。
日本が今日まで発展した理由のひとつは、そういった義理とか人情といったものを大事にする国民性にあるのではないか、と思いました。
また韓国の国民も、手編みのセーターとか手袋を、寺にお参りに来る時に、我々に持ってきてくれます。その国民の温かい気持ちがあれば、この国も必ず良くなると確信しています。
前大統領がこういう目に合うのも、私ひとりで終わりにしないといけないと思います。これから先、どんな大統領も、このような目に会わないことを私は願っており、実際そういうふうになるだろうと私は信じています(目がキラッと光る)。
経済的にも政治的にも、もう少し頑張れば、日本と並ぶところにまでいくと思います。―韓国マスコミの冷たい視線― 全氏がここへ移ってきてから、現在に至るまで、韓国のマスコミが全氏を見る目は一貫して厳しい。
移ってきた時に、全氏夫妻と寺の和尚が三人で話をしている姿がテレビで報道されたが、その時、李順子夫人がかすかに笑顔を見せた。すると韓国の新聞は、わずか数時間前に自宅を出る時には泣いていた李夫人が、もう笑っていると嘲った。
そういったこともあって、その後、一切外部との接触を断っていたが、隠遁から丸1年になる今年の11月23日、百潭寺で開かれた法要で、初めて報道陣を境内に入れ、集まった7、8千人(全氏によれば1万人)の信者を前に挨拶をした。
その内容は、「百潭寺に来た当初は、非常に恨めしく、私を死ぬような思いにまで追い詰めた人には必ず仕返しをしなければと考え、時には突き上げる怒りで夜中に床からいきなり跳び起きることもあった。
ところがここにいる間に、いろいろ修行して、私は変わることが出来た。仏様の話によれば、因果応報で自分が犯した罪は必ず子孫まで続くという。それで私は一生懸命念仏を唱え、百日祈禱もやったのだ。そのかいあって今は、心が楽になって、すべてを忘れて、みなさんがご覧になってわかるように、私はほがらかで元気になったのです」というものだった。
ところが韓国の新聞が報じたのは、前段の恨みつらみの部分のみ。集まった信者の数についても、1500人だけというものだった。全氏の1年間の隠遁生活による“謹慎”のイメージは、韓国内では吹っ飛んでしまった格好である。
そんなこともあって、寺側のマスコミ不信はますます強くなり、寺には報道関係者は一切寄せつけず、境内での写真撮影も禁止という方針を今も取り続けている。
外国人では、中曾根元総理なども訪問を希望しているというが、会えばまたマスコミの材料にされることがわかっているので、面会希望は一切断っている状態だ。
この寺に私が来て、1年目になる、先月の23日に、約1万人という数のひとが集まりました。ソウルのヨイドという広場で百万人が集まる以上の、意味のある人数だと思います。
あなたがこちららへ来られる時に、ここが険しいところだというのは、おわかりなったと思います。
しかし、その日、ここに集まった1万人というひとは、みんな自分のお金を出し、自分の車でもって、こんな険しいところまで、参拝に来てくれたのです。それを、非常に私は喜んでおります。
それにこれは冗談ですが、その日に仏壇に置かれた100円、200円のお金が、600万円になって、今あなたたちが乗って来られた、寺専用のバスを買うことができました。 寺は正面に30坪ぐらいの本堂。向かって左側に15坪ぐらいの『万海堂』という建物。右側には総員六名の僧侶が起居する建物がある。
全夫妻は『万海堂』の一部に、すき間風を防ぐためか、ビニールシートを掛けて、その中の2部屋(1部屋6畳)を使って生活をしている様子だ。
最近ついた全前大統領付きの秘書に案内されて、部屋に入ると座布団が3つ敷いてあった。6畳程度の小綺麗な部屋。約30センチ幅の小さなテーブルを挟んで、向かい合って座る。
壁には小さい鏡がひとつ、仏教の経典の一部を書いた掛け軸が2本。部屋の隅には、前日娘が孫を連れて訪ねて来たとかで、子供の玩具がひとつ、ふたつ転がっている。一方の部屋には洗濯物が、たくさん掛かっていた。
山に入ってから、10カ月くらいは、今我々が座っているこの部屋に、大きな金盥を出して、それで身体を拭くということをしておりました。しかし、最近は部屋をちょっと広くしていただいて、ビニールシートで囲ったシャワー室のようなものを、外に造りました。
来月から北寒が来るから、またこの部屋で、身体を洗わないといけないようになります。こちらは寒くて、平均温度が零下27度になります。
私は毎日、朝の読経に参加します。午後の読経も、一般信徒と必ずそこに参席して、仏様に祈っています。
人間は罪を犯したら、この世でその許しを仏様に受けない限り、子孫代々伝わって、その罰が当たるものです。ですから、私は祈るしかありません。
いつの日か、夫婦で日本に旅行に出かけたりすることができるような時が来ることを、期待しています。〈会見を終えて〉笹川陽平 私は、全氏が大統領に就任する一週間前に、話をする機会を持ちました。その時、氏が言ったことは、「私には3つの目標があります。ひとつは、7年後に必ず退き、民主的に大統領を交代すること。2つめは、経済を発展させ、近代化をはかること。3つめは、オリンピックを誘致することです」ということでした。結局、氏はその通り、約束を果たしたわけです。この功績は、もっと素直に評価されるべきではないか。
セマウル疑惑などで近親者の摘発が相次ぎましたが、全氏自身が何か罪を犯したわけではない。それなのに、現在、氏が置かれている状況というのは、あまりにもひどくはないか。実際に見て、想像以上に厳しい環境に驚きました。お別れに白衣の僧衣で軽く手を上げて読経のために本堂に入る姿を見送った時、私の見頭は熱くなった。
翻って、政治家の身の処し方のひとつとして、ある種の清々しさを感じたことも事実です。日本の政治家のそれと比べて、なおさらの感を深くしました。
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以下は、2002年6月24日、産経新聞「新地球巷談」第11回目の記事です。日韓の未来見守る『仏顔』
全元大統領との再会 日韓共同開催のサッカー・ワールドカップ(W杯)が開幕した直後の6月初め、韓国の全斗煥元大統領が故・斎藤英四郎元経団連会長の葬儀参列のため来日されました。その折、元大統領と旧交を温めることができました。元大統領は、私との関係を親しみを込めて「刎頚(ふんけい)の友」といわれますが、実は22年間の交友で、お会いしたのは今回を含めて4度でしかありません。
初めてお目にかかったのは1980年(昭和55年)、朴正煕大統領が暗殺され、政治的にも社会的にも混乱状態に陥った韓国で、49歳の清新な全斗煥少将が軍の実権を掌握し、大統領に就任する直前でした。父の故・笹川良一が体調を崩したため、急遽、名代として訪韓し、日本の民間人では初めて会談することになりました。
2時間近い会談は、日韓関係の将来など夢多い内容のものでした。なかでも最も印象に残ったのは「韓国に民主主義を定着させるために、必ず一期7年で職を辞す」と『精悍な顔』できっぱり言われたことでした。
朴大統領の「日韓関係正常化」を引き継ぎ安定させ、84年に韓国の元首として初めて来日、昭和天皇と会談されています。また、88年ソウル五輪誘致に成功するなど韓国の国際化に尽力した熱血の大統領でした。
しかし、88年2月の退任後、一族の中から不正利得関与者が出たことから、国民への謝罪の意を表すために、休戦ライン近くの雪岳山にある百潭寺に夫人とともに2年間、「落郷蟄居」されます。私は逆境にある人を励ましたいとの思いから、88年暮れ、肌着を携えて人里離れた山間の古寺を訪ねました。
「電気もなければラジオもなく、昭和天皇の崩御も知りませんでした。日本の国民に衷心より弔意を申し上げたい」
開口一番、元大統領はしんみりとおっしゃいました。厳寒の地の住まいは、すき間風を防ぐためビニールシートが張られ、とても大統領職を務めた人が住むような所ではありません。しかし、「ここに来た当初は夜中に目が覚め、怒りが込み上げてきましたが、読経三昧の日々を送るうちに、恨み、憎しみが消え去りました」と話す元大統領の顔は、熱心な仏教徒として『風雪に耐える苦行僧』のようでした。これが2回目でした。
3回目は99年、韓国滞在中の私は元大統領の自宅に招待されました。その夜饗された食事は、家族総出で買い出しから調理までを分担したという文字通りの手料理。ゴルフ談義から始まった会話は、83年、公式訪問中のビルマ・ラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)のアウンサン廟で起きた北朝鮮工作員による全大統領爆殺未遂事件に及びました。元大統領は、近くヤンゴンに行くという私に、名代として多くの部下が死傷したアウンサン廟への献花を要請され、後日、私は「第12代韓国大統領」の代理献花を行いました。
夜宴も終わりに近づいたころ、元大統領は突然、ほころんだ顔を引き締めて話されました。「われわれ二人は刎頸の友、心の友です」と。一度は国権を握りながら落郷蟄居し、さらに獄中で死を宣告されるという波乱万丈の経験がもたらしたのでしょうか、この夜の元大統領は、私もいつかはそうなりたいと願っている心和む『慈顔』でした。
古来、洋の東西を問わず、隣国と屈託のない関係を保ち続けた事例はありません。しかし、幸いなことに、このW杯を機に日韓両国の若い世代は蟠(わだかま)りなく交流を持ち始めました。高校時代名ゴールキーパーとして鳴らした元大統領のW杯への思い入れはひとしおで、杯を重ねながら、若い世代の相互信頼の芽を育てるべく「翁の知恵を出し尽くすのが、ご奉公」と自問自答されていました。
4度目の邂逅(かいこう)、71歳の『仏顔』が印象的でした。