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「全斗煥元大統領」―ご逝去の報に接して― [2021年11月29日(Mon)]

「全斗煥元大統領」
―ご逝去の報に接して―


ミャンマーから帰国した直後、全斗煥元大統領のご逝去の報道が流れていたが、全般的にあまり評価されない報道だったようだ。

今日の韓国の異常なまでの反日政策を見ると、昔日を懐かしく思うのは、高齢のせいであろうか。

全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)、金大中(キム・デジュン)、朴槿恵(パク・クネ)の各大統領、金鍾泌(キム・ジョンピル)首相、日本の協力で完成した韓国最大の製鉄会社「ポスコ」の創設者・朴泰俊(パク・テジュン)氏、サムスングループの創設者・李秉普iリ・ヘイテツ)氏等々、今は全てが懐かしい思い出となってしまった。

面談.png


1980年8月5日、戒厳司令部での大統領就任直前の会談。
【発言要旨】
@ 韓国の民主化のために、私は一期で必ずやめる。
A 私は経済的知識は乏しいが、韓国人は働き者なので、必ず世界的に活躍する日が来ると思う。彼らの自主的活動をサポートする。
B 万一北海道にソ連が侵攻してきた場合は、真っ先に韓国軍が支援に入ると福田首相に伝えてほしい。
そして、「私(大統領)に不測の事態があったら、あなたは生き証人になって下さい」と付言された。

20211125080732-0001.jpg
厳戒のミャンマー・アウンサン廟に、全斗煥の名代として花輪を捧げる


**************

以下は、1989年12月の「週刊文春」の記事で、無断で拝借しました

「落郷」の地は酷寒零下27度
全斗煥前韓国大統領独占会見記

――――――――――――――――――――――――――――――――――
 韓国の全斗煥前大統領が、雪岳山にある百潭寺という山寺で隠遁生活に入ってから、はや一年あまりを経過した。いまだに下山の道筋が見えてこないままである。その間、外国人の面会を一切謝絶してきた全氏に、この12月11日、笹川陽平氏が初めて会見に成功した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――

 私は山奥に閉じ籠っています。ここは山岳地帯で、無線も通じない、ラジオの電波も届かないようなところです。
 私がここへ来て、1年と1日目、言い換えれば366日目にやっと電気が入りました。それで裏山に高いアンテナを立てて、今ではテレビも見られるようになりました。
 それでニュースを聞けるようになりましたが、その当時は、日本の天皇陛下が亡くなられたことを、全然知りませんでした。それで、亡くなられてから大分たって、私はそれを知り、すぐに日本の皇室に弔電を打ちました。
 本来ならば、人間、袖が触れあっても因縁があるというのが常識であります。特に大統領時代にお会いした昭和天皇が亡くなられたのならば、私が直接弔問するのが当たり前の礼儀であります。
 それにもかかわらず、亡くなられたことさえわからなかった、私のその当時の状況を、日本の皇室がご理解下さるように願わずにはおれません。また日本国民にも、日本の政界の方々にもすまなく思っています。
 こういうところにいる私の事情を、日本の皆様にわかっていただければ非常に幸せに思います。


 昨年11月23日、不正事件について「心から謝罪する」と国民に頭を下げ、人里離れた山寺、百潭寺に隠遁した全斗煥前大統領。
 僧侶の着る濃紺のシャツに、綿の入った冬用の黒いズボン。緑色のカーディガンに、真っ白な靴下を穿いている。一時、禁煙を伝えられたが、パイプに煙草を挟んで、おいしそうに吸いながら、くつろいだ雰囲気で話をする。

 寺に移ってきた当初は、感情が昂り、夜になってもなかなか寝付かれない日々が続きました。午前2時半頃になって、ようやくウトウトしかけると、木鐸の音がするんですね。
 はたと目を覚ますと、まだ午前3時。きっと私のために読経をしてくれるのだろう、としばらくは我慢をしていたのですが、それが毎日続くので、ある日、こう尋ねたのです。
 『お寺の方は、いつも何時に起きられるのですか?』と。寺側の答えは、『朝3時には、全国の寺が、読経を始めるのです』。それからは、私も早寝早起きに努めるようになり、寺での生活に慣れていきました。
 大統領在任中の思い出では、うれしいことをふたつ記憶しています。
 ひとつは李朝時代以来、韓国は借金国であり、債務国であったのだけれど、初めて貿易黒字の国となりました。それがいちばんうれしいことです。
 もうひとつうれしいことは、オリンピック誘致の時に、日本の名古屋と競争になりましたが、結果的に韓国に誘致できたことを、非常にうれしく思っています。
 私の日課は、午前3時から読経。6時から朝食。10時半から11時半まで読経。その後、昼食を取り、4時半からまた読経です。
 読経以外の時間は仏教の研究をしています。5時半頃、夕食を取り、午後8時には消灯。読経の時以外はほとんど部屋をでません。
 たまに訪れる結婚した娘とする話といえば、心清らかに、楽しいことだけを考えて、笑いながら生きていくことが大切だ、といったようなことです。


―キムチの展示場となった寺―

 生きている間は、人間、いろんなものを握っているけれども、死ぬ時には、すべて手放さなければならない。頂上まで登り切ってしまえば、あとは降りていくしかないのだ――ここで得た思いを、胸に去来するままに話して聞かせます。
 私は人里離れた生活をして、いままで見えなかった点が見えるようになりました。今まで気付かなかった人間性にも目覚めました。
 日本の多くの方々から、激励のお手紙を頂戴したり、また、われわれ夫婦に防寒のための衣料その他をお送り下さった方々がたくさんいらっしゃいます。
 こういう人情というものに対して、私は深く感謝の意を表したいと思います。
 韓国の中でも全羅南道(金大中氏の地盤)から、キムチを持ってわざわざ届けに来て下さった方もいらっしゃいました。他にも韓国全土から温かいご支援を受けておりますので、今は食べ物も充分に口に出来るようになりました。
 おかげさまで全国のキムチが集まって来るので、まるでキムチの展示場のようになることもあります。いろいろな食べ物を、信者のおばあさんたちが作って持って来られるので、この寺では、現在、和尚さんたちを含めて、食べ物には不自由していません。(笑)
 夫婦とも健康に生活をいたしております。


 全氏は、この北端の寺を選んだ理由を百日祈禱を共にした僧侶にこう説明している。「自分はいま、国家と民族の観念しかない。国民に約束した通り、7年間の任期を終えて引退したが、マスコミも政治家も国民も、おかしい方向に流れていった。このままではいけないと思って、寺で生活することを考えた。
 交通の便のいいところにある寺に入ったら、また身近なひとが集まって来るだろう。だから誰も来ないような静かなところ、いちばん不便なところと考えて、探したのがこの百潭寺なのだ」
 今年の五5月に修理の手が入って少し綺麗になった百潭寺だが、全氏が入った時は半分崩れかかったような古びた寺だったという。同寺のある雪岳山の麓からは約8キロの山道を登るが、以前は徒歩で約2時間、全氏が入ってから道路が舗装されて、車でも登れるようになったが、それでも約20分かかる。
 道路の片側は谷間、片側は切り立った崖で、車が1台やっと通れるだけ。登り降りの傾斜がきつく、曲がりくねった道は、雪が降れば通行不能になってしまう。
 1日の参詣客は平均200人。1カ月前までに申請を出して、許可を得たものだけが入山を許される。同寺院の宗派である曹渓宗の僧侶の引率のもとに、山の麓の検問所で、最終的なチェックを受けて、お寺にたった1台ある36人乗りのマイクロバスに乗り換えて、寺まで運ぶという方法を取っている。

 私は、日本の国が非常に発展し良くなっている理由が、この山に来て、初めてわかりました。中曾根さんを始め、いろいろな政界、財界の皆さんや、個人的な知り合いのひとから、病気に気を付けて、ゆっくり身体を養って下さいという手紙をもらいました。
 日本が今日まで発展した理由のひとつは、そういった義理とか人情といったものを大事にする国民性にあるのではないか、と思いました。
 また韓国の国民も、手編みのセーターとか手袋を、寺にお参りに来る時に、我々に持ってきてくれます。その国民の温かい気持ちがあれば、この国も必ず良くなると確信しています。
 前大統領がこういう目に合うのも、私ひとりで終わりにしないといけないと思います。これから先、どんな大統領も、このような目に会わないことを私は願っており、実際そういうふうになるだろうと私は信じています(目がキラッと光る)。
 経済的にも政治的にも、もう少し頑張れば、日本と並ぶところにまでいくと思います。


―韓国マスコミの冷たい視線―

 全氏がここへ移ってきてから、現在に至るまで、韓国のマスコミが全氏を見る目は一貫して厳しい。
 移ってきた時に、全氏夫妻と寺の和尚が三人で話をしている姿がテレビで報道されたが、その時、李順子夫人がかすかに笑顔を見せた。すると韓国の新聞は、わずか数時間前に自宅を出る時には泣いていた李夫人が、もう笑っていると嘲った。
 そういったこともあって、その後、一切外部との接触を断っていたが、隠遁から丸1年になる今年の11月23日、百潭寺で開かれた法要で、初めて報道陣を境内に入れ、集まった7、8千人(全氏によれば1万人)の信者を前に挨拶をした。
 その内容は、「百潭寺に来た当初は、非常に恨めしく、私を死ぬような思いにまで追い詰めた人には必ず仕返しをしなければと考え、時には突き上げる怒りで夜中に床からいきなり跳び起きることもあった。
 ところがここにいる間に、いろいろ修行して、私は変わることが出来た。仏様の話によれば、因果応報で自分が犯した罪は必ず子孫まで続くという。それで私は一生懸命念仏を唱え、百日祈禱もやったのだ。そのかいあって今は、心が楽になって、すべてを忘れて、みなさんがご覧になってわかるように、私はほがらかで元気になったのです」というものだった。
 ところが韓国の新聞が報じたのは、前段の恨みつらみの部分のみ。集まった信者の数についても、1500人だけというものだった。全氏の1年間の隠遁生活による“謹慎”のイメージは、韓国内では吹っ飛んでしまった格好である。
 そんなこともあって、寺側のマスコミ不信はますます強くなり、寺には報道関係者は一切寄せつけず、境内での写真撮影も禁止という方針を今も取り続けている。
 外国人では、中曾根元総理なども訪問を希望しているというが、会えばまたマスコミの材料にされることがわかっているので、面会希望は一切断っている状態だ。

 この寺に私が来て、1年目になる、先月の23日に、約1万人という数のひとが集まりました。ソウルのヨイドという広場で百万人が集まる以上の、意味のある人数だと思います。
 あなたがこちららへ来られる時に、ここが険しいところだというのは、おわかりなったと思います。
 しかし、その日、ここに集まった1万人というひとは、みんな自分のお金を出し、自分の車でもって、こんな険しいところまで、参拝に来てくれたのです。それを、非常に私は喜んでおります。
 それにこれは冗談ですが、その日に仏壇に置かれた100円、200円のお金が、600万円になって、今あなたたちが乗って来られた、寺専用のバスを買うことができました。


 寺は正面に30坪ぐらいの本堂。向かって左側に15坪ぐらいの『万海堂』という建物。右側には総員六名の僧侶が起居する建物がある。
 全夫妻は『万海堂』の一部に、すき間風を防ぐためか、ビニールシートを掛けて、その中の2部屋(1部屋6畳)を使って生活をしている様子だ。
 最近ついた全前大統領付きの秘書に案内されて、部屋に入ると座布団が3つ敷いてあった。6畳程度の小綺麗な部屋。約30センチ幅の小さなテーブルを挟んで、向かい合って座る。
 壁には小さい鏡がひとつ、仏教の経典の一部を書いた掛け軸が2本。部屋の隅には、前日娘が孫を連れて訪ねて来たとかで、子供の玩具がひとつ、ふたつ転がっている。一方の部屋には洗濯物が、たくさん掛かっていた。

 山に入ってから、10カ月くらいは、今我々が座っているこの部屋に、大きな金盥を出して、それで身体を拭くということをしておりました。しかし、最近は部屋をちょっと広くしていただいて、ビニールシートで囲ったシャワー室のようなものを、外に造りました。
 来月から北寒が来るから、またこの部屋で、身体を洗わないといけないようになります。こちらは寒くて、平均温度が零下27度になります。
 私は毎日、朝の読経に参加します。午後の読経も、一般信徒と必ずそこに参席して、仏様に祈っています。
 人間は罪を犯したら、この世でその許しを仏様に受けない限り、子孫代々伝わって、その罰が当たるものです。ですから、私は祈るしかありません。
 いつの日か、夫婦で日本に旅行に出かけたりすることができるような時が来ることを、期待しています。


〈会見を終えて〉笹川陽平
 私は、全氏が大統領に就任する一週間前に、話をする機会を持ちました。その時、氏が言ったことは、「私には3つの目標があります。ひとつは、7年後に必ず退き、民主的に大統領を交代すること。2つめは、経済を発展させ、近代化をはかること。3つめは、オリンピックを誘致することです」ということでした。結局、氏はその通り、約束を果たしたわけです。この功績は、もっと素直に評価されるべきではないか。
 セマウル疑惑などで近親者の摘発が相次ぎましたが、全氏自身が何か罪を犯したわけではない。それなのに、現在、氏が置かれている状況というのは、あまりにもひどくはないか。実際に見て、想像以上に厳しい環境に驚きました。お別れに白衣の僧衣で軽く手を上げて読経のために本堂に入る姿を見送った時、私の見頭は熱くなった。
 翻って、政治家の身の処し方のひとつとして、ある種の清々しさを感じたことも事実です。日本の政治家のそれと比べて、なおさらの感を深くしました。

**************

以下は、2002年6月24日、産経新聞「新地球巷談」第11回目の記事です。

日韓の未来見守る『仏顔』
全元大統領との再会


 日韓共同開催のサッカー・ワールドカップ(W杯)が開幕した直後の6月初め、韓国の全斗煥元大統領が故・斎藤英四郎元経団連会長の葬儀参列のため来日されました。その折、元大統領と旧交を温めることができました。元大統領は、私との関係を親しみを込めて「刎頚(ふんけい)の友」といわれますが、実は22年間の交友で、お会いしたのは今回を含めて4度でしかありません。

 初めてお目にかかったのは1980年(昭和55年)、朴正煕大統領が暗殺され、政治的にも社会的にも混乱状態に陥った韓国で、49歳の清新な全斗煥少将が軍の実権を掌握し、大統領に就任する直前でした。父の故・笹川良一が体調を崩したため、急遽、名代として訪韓し、日本の民間人では初めて会談することになりました。

 2時間近い会談は、日韓関係の将来など夢多い内容のものでした。なかでも最も印象に残ったのは「韓国に民主主義を定着させるために、必ず一期7年で職を辞す」と『精悍な顔』できっぱり言われたことでした。

 朴大統領の「日韓関係正常化」を引き継ぎ安定させ、84年に韓国の元首として初めて来日、昭和天皇と会談されています。また、88年ソウル五輪誘致に成功するなど韓国の国際化に尽力した熱血の大統領でした。

 しかし、88年2月の退任後、一族の中から不正利得関与者が出たことから、国民への謝罪の意を表すために、休戦ライン近くの雪岳山にある百潭寺に夫人とともに2年間、「落郷蟄居」されます。私は逆境にある人を励ましたいとの思いから、88年暮れ、肌着を携えて人里離れた山間の古寺を訪ねました。

 「電気もなければラジオもなく、昭和天皇の崩御も知りませんでした。日本の国民に衷心より弔意を申し上げたい」

 開口一番、元大統領はしんみりとおっしゃいました。厳寒の地の住まいは、すき間風を防ぐためビニールシートが張られ、とても大統領職を務めた人が住むような所ではありません。しかし、「ここに来た当初は夜中に目が覚め、怒りが込み上げてきましたが、読経三昧の日々を送るうちに、恨み、憎しみが消え去りました」と話す元大統領の顔は、熱心な仏教徒として『風雪に耐える苦行僧』のようでした。これが2回目でした。

 3回目は99年、韓国滞在中の私は元大統領の自宅に招待されました。その夜饗された食事は、家族総出で買い出しから調理までを分担したという文字通りの手料理。ゴルフ談義から始まった会話は、83年、公式訪問中のビルマ・ラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)のアウンサン廟で起きた北朝鮮工作員による全大統領爆殺未遂事件に及びました。元大統領は、近くヤンゴンに行くという私に、名代として多くの部下が死傷したアウンサン廟への献花を要請され、後日、私は「第12代韓国大統領」の代理献花を行いました。

 夜宴も終わりに近づいたころ、元大統領は突然、ほころんだ顔を引き締めて話されました。「われわれ二人は刎頸の友、心の友です」と。一度は国権を握りながら落郷蟄居し、さらに獄中で死を宣告されるという波乱万丈の経験がもたらしたのでしょうか、この夜の元大統領は、私もいつかはそうなりたいと願っている心和む『慈顔』でした。

 古来、洋の東西を問わず、隣国と屈託のない関係を保ち続けた事例はありません。しかし、幸いなことに、このW杯を機に日韓両国の若い世代は蟠(わだかま)りなく交流を持ち始めました。高校時代名ゴールキーパーとして鳴らした元大統領のW杯への思い入れはひとしおで、杯を重ねながら、若い世代の相互信頼の芽を育てるべく「翁の知恵を出し尽くすのが、ご奉公」と自問自答されていました。

 4度目の邂逅(かいこう)、71歳の『仏顔』が印象的でした。

【私の毎日】11月26日(金) [2021年11月26日(Fri)]

11月26日(金)

6:45 財団着

8:30 評価委員会

10:00 東京新聞 取材

11:00 18歳意識調査打合せ

12:00 中谷比呂樹 慶應義塾大学医学部訪問教授

12:45 山田滝雄 在ベトナム日本国大使

14:00 松本清雄 (株)MCCマネジメント代表取締役社長

終日 原稿書き、寄付金への礼状書き

「ちょっといい話」その196―奨学生にコロナ支援― [2021年11月26日(Fri)]

「ちょっといい話」その196
―奨学生にコロナ支援―


コロナ禍は、日本は勿論、世界各国の為政者や人々の社会生活にさまざまなかつてない規模の直接的な悪影響を与えていることは日々の報道で承知しているが、世界69大学の笹川ヤングリーダー奨学生(修士博士課程)の中にも、学業は勿論、生活費にも困窮を極め、学業を放棄せざるを得ない学生も出てきた。

そこで、担当する東京財団政策研究所の鈴木真理常務理事の発案で、各国の物価状況に応じて3.5ヶ月分の生活支援(学費は送金済み)を発表したところ、55大学より287名の希望者があり、総額121万ドルを支援したら、大学及び学生本人から誠に感動的な感謝の手紙が多数送られてきた。

我々の奨学金制度は単に学費の支援をして終わりというものではなく、学業終了後も情報交換はもとより、お互い助け合い協力する「笹川ヤングリーダーフェローシップファンド」(略してSylffアソシエーション)を作り活動を続けている。

以下3通の礼状を紹介します。

******************


Ms. Le Huhyen Nhung Nguyen 立命館アジア太平洋大学 2018, 2019年フェロー
 2020年11月20日に開催された「Sylffフェローバーチャル交流会」で貴財団スタッフと参加フェローとお会いしてから早数か月が経ちました。このような支援を得られたことは、Sylffフェローの特権と感じております。交流会を通じてSylffコミュニティに対して、高い意識を持つことができ、これからもっと積極的に交流を深めていきたいという気持ちになりました。
 私は最近、COVID-19による渡航制限の中、多くの困難を乗り越えてベトナムに戻ることができました。自国ではリモートで研究を続け、予定通りに出版社に原稿を提出することができました。2021年の第4四半期に刊行される予定ですので、その際はまたご報告させていただければと存じます。書籍刊行プロジェクトに参加するのは今回が初めてで、Sylff Associationをはじめ、家族、編集者、同僚から多大な支援をいただきました。
 私は2021年のコロナ財政支援に深く感動いたしました。Sylff Associationからのタイムリーなご支援に、心から感謝しています。今後東京を訪問する機会がありましたら、会長と事務局に直接お礼を申し上げたく存じますが、まずは本礼状をもって感謝の意をお伝えさせてください。また、私自身も若いフェローたちを導き、財政的に支援できるよう、最大の努力をしていきたいと思います。

Mr. Seth Owusu-Mante フレッチャー法律・外交大学院 2019年フェロー
 笹川良一ヤングリーダー奨学基金のコロナ財政支援2021に心から感謝いたします。7100ドルが無事に入金されたことをご報告させていただきます。
 私の大学院在学中に、Sylffから手厚いご支援を賜り、誠にありがとうございました。2021年のコロナ財政支援で最大6ヵ月間の生活費がカバーされ、お蔭様で2021年秋からフレッチャー法律・外交大学院の博士課程に進学することができました。私の学業と、パリ協定に基づく気候変動に関する実証研究、エネルギー政策コンサルタントへのキャリアパスをサポートしていただき、誠にありがとうございます。
 私はSylffコミュニティにおいて積極的なメンバーであり続けるだけでなく、将来的には、若い仲間を支援するためのメンタリングや経済的援助を通じて恩返しができればと存じます。

Ms. Gabriele Slizyte パリ国立音楽院 2019年フェロー
 支援申請が受理されたことに心から感動しました。パンデミックが勃発して以来、貴財団のご支援は、私にとって、新たな学問を探求する気持ちを奮い立たせ、前進する力を与えてくださいました。
 コロナ財政支援のおかげで、私はフランスでの生活費を賄うことができ、また機会があれば昨年から会っていない家族を訪問することも考えています。
 フランスが移動制限を緩和し始めています。専門活動を再開し、フランスのさまざまな会議にて自ら手掛けた最新研究を発表することを心待ちにしています。今年の夏には、パリ国立音楽院での勉強の一環として、フォンテーヌブローのアメリカ音楽院で短期研修を開始します。そこでは、年齢・背景を問わず、クラシック音楽やミュージシャンとの関わりが少ない人々に、多様な音楽体験を提供していきます。これら社会的取り組みにより、長い闘いを乗り越えてきた人々が再び音楽や芸術と触れ合えることを願っています。
 この世界に多くの喜びをもたらす慈善活動に心から感謝します。私はSylffフェローであることを誇りに思っており、将来若いフェローを導き、サポートできることを心待ちにしております。

コロナ大学支援.png


【私の毎日】11月25日(月) [2021年11月25日(Thu)]

11月25日(木)

6:52 財団着

8:00 「職親PJ」事業打合せ

9:00 インフルエンザ予防接種

10:20 ベトナム ファム・ミン・チン(Phạm Minh Chính)首相

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ファム・ミン・チン首相


13:00 読売新聞東京国際部 取材

16:00 毎日新聞アジア総局 取材

18:00 麻生太郎 副総裁

「安藤美姫 アンバサダーへ」―日本財団の社会貢献に参加― [2021年11月25日(Thu)]

「安藤美姫 アンバサダーへ」
―日本財団の社会貢献に参加―


 日本財団は26日、元フィギュアスケート世界女王の安藤美姫(33)が今月1日付で「HEROs sportsmanship for the future」プロジェクトのHEROsアンバサダーに就任したことを発表した。

 同プロジェクトはアスリートと共に社会課題解決の輪を広げていくことを目的としており、安藤は社会に貢献していける次世代の「HERO」たちを育成するための学校訪問企画やフィギュアスケートファンらに向けたイベント企画に関わる予定だという。

 安藤が日本財団を通じて発表したコメントは以下の通り。

 アンバサダーとして様々な取り組みを行うことによって、スポーツのチカラで人と人との繋がりを増やし、明るい未来を創っていきたいと思います。

 HEROsのような取り組みが一人でも多くのアスリートに広がってほしいと思いますし、アスリートによる社会貢献活動の活性化に向け、少しでも貢献できれば嬉しいです。私自身も様々な方と関わることによって成長していきたいと思います。

 特にまだ冬季アスリートによる社会貢献活動が少ないと感じるので、北京五輪・パラリンピックに向けて、東京2020大会を開催した日本からスポーツの持つ力を世界に発信できたらと思います!

【私の毎日】11月24日(水) [2021年11月24日(Wed)]

11月24日(水)

6:50 財団着

9:00 大越健介 テレビ朝日報道ステーション・インタビュー

11:00 サンジェイ・クマール・ヴァルマ 駐日インド特命全権大使

13:00 天城 一 社会貢献支援財団専務理事

13:30 スピーチ内容打合せ

15:00 ホアン・スアン・チエン ベトナム国防次官

終日 原稿書き、寄付金への礼状書き

「プラスチックゴミ」―人体への影響は?― [2021年11月24日(Wed)]

「プラスチックゴミ」
―人体への影響は?―


プラスチックゴミが大量に海に流出し、クジラや魚類の内臓から発見されている。このゴミは長い年月を経てマイクロプラスチックになり、魚類の体内に浸透し、それを食べた人間にどのような影響を与えるかについては今のところ科学的エビデンスが存在しない。しかし、何となく悪影響を与えるだろうなとは素人の率直な感想だが、日本財団は某大学に依頼して研究分析中ですので、いづれ公表される日がくると思う。

ところで、日本財団ではプラスチック資源の循環活用の実現を目指して努力しているところで、先般は海に捨てられている不要の大量の魚網を活用して素敵なカバンにした成功例(8月20日プログ)を発案しましたが、今回はセブンイレブンに設置したペットボトルの回収の話です。

全国にはコンビニだけでも数万店もあるそうなので、全てのコンビニが参加するようになれば資源の再利用は勿論のこと、コンビニの社会貢献活動として大いにイメージが上がるのではないでしょうか。

******************

 2019年の夏、鎌倉の由比ガ浜海岸に打ち上げられたクジラの胃からビニール片が見つかり、大々的に報じられたことが契機となって、日本国内でも急速に意識が高まった「海洋プラスチック問題」。今回の取り組みは、回収したペットボトルを原料にしてペットボトルを再生する「ボトル・トゥ・ボトル」と呼ばれる新たな資源化モデルの構築を図ることを目指している。

半年で10万本

 市資源循環局によると、回収機はこれまでに市内16区のセブン‐イレブン120店舗に設置され、事業開始から半年ほどで約10万本のペットボトルが回収された。

 ボトルキャップとラベルを外し、中を洗浄したペットボトルを店頭に設置された回収機に投入すると自動で圧縮され、専門業者を通じ再生ペットボトルの原料となる。石油からペットボトルを製造する従来の形に比べ、二酸化炭素(CO2)排出量は25%ほど削減できるという。

 回収対象となるのは2リットルまでの透明なボトルで、5本ごとにセブン&アイグループの電子マネー「nanaco(ナナコ)」のポイントが1ポイント付与される。

年間数百万トンのプラが海洋へ流出

 プラスチックごみが海中を漂い、生物が誤飲・誤食するなど、生態系に影響を与えることは、50年以上前から研究者が指摘していた。

 世界規模でみると年間数百万トンものプラスチックが海洋へ流出していると推計され、2050年までに魚の重量を上回るプラごみが海洋を占めるという予測もある。

【私の毎日】11月22日(月) [2021年11月22日(Mon)]

11月22日(月)

6:54 財団着

9:00 PCR検査

10:00 理事会

終日 寄付金への礼状書き、事業打合せ

「東京オリ・パラ」―あまり知られていないボランティアの活動― [2021年11月22日(Mon)]

「東京オリ・パラ」
―あまり知られていないボランティアの活動―


以下は、日本財団ボランティアサポートセンターの「ちょっといい話」です。
(パラサポWEBより)

世界的に評価の高かった日本の大会ボランティア。
一心同体となった海外選手との裏話

コロナ禍という史上初とも言える苦境の中で行われた東京2020大会。国内でも開催に関しては議論が分かれ、ボランティアでの参加を断念した人も少なからずいた。

「いろいろな意見が聞こえてきましたが、私には全く関係ありませんでした。それよりも、4年間頑張ってきたのに1年開催が延期になって出られなくなったり、亡くなったりして人生が変わってしまったアスリートがいる一方、水泳の池江璃花子選手のように病気を克服して出場できたアスリートもいます。反対する声があったとしても、そのために頑張ってきた人達に対するリスペクトの思いから、参加することに躊躇はありませんでした」

と語るのは、アンゴラ共和国を皮切りにスペイン、ロシア、そして最終的にフランスの女子ハンドボールチームのリエゾン(チームに帯同して通訳とともに日常の細かなことをサポートする)として活動した藤堂栄子さん。藤堂さんは、読み書きの能力に困難を抱える症状「ディスレクシア」の、正しい認識の普及と支援を目的とするNPO法人EDGEを主宰し、去年コロナで延期したイベントをやっと今年開催させた。それにより周囲から感謝された経験から「場を提供するのは大事なこと」だと実感していたのも、大会ボランティアへの参加へ背中を押したのだそうだ。

一方、以前カナダに留学した際のホームステイ先がユニバーシアード(国際大学スポーツ連盟が主催する総合競技大会)のコーチ宅だったことから、スポーツの素晴らしさ、アスリートの凄さを知った湯浅朋子さんは、長野パラリンピックなど数々のスポーツ大会のボランティアを勤める。そして、かねてカナダのスポーツチームと繋がりがあったため、東京2020大会の開催が決まった当初、カナダオリンピック組織委員会からボランティアに採用されていた。

「私は宮崎出身・在住なんですが、地元ではスポーツの国際大会が開催されることが多かったんです。子供の頃からボランティアとして参加する機会が多く、あるときカナダのチームと親しくなりました。それが縁でカナダに留学することになり大変お世話になったので、いつかカナダに恩返しするのが願いでした」(湯浅さん)

しかし、思いも寄らぬコロナ禍の影響で、カナダオリンピック組織委員会は昨年3月、日本に選手を送らないことを決定した。湯浅さんは呆然とする。

「それからも、カナダからは延期になった来年まで、あなたたちはカナダから選ばれたことを誇りに思って、とにかく安全にいてほしいと何度も連絡が来ました。選手たちも頑張って練習しているからと。でも、結局直前になってボランティアチームは解散することになってしまいました。残念でしたが、彼らも苦渋の決断だったと思うので諦めるしかなかったですね」(湯浅さん)

その後、湯浅さんの元にはカナダオリンピック組織委員会からチームのメンバーの一員であるとして認証書が送られてきた。結果的にカナダチームへの参加は叶わなかったが、カナダからの温かいメッセージ、そして困難に立ち向かうボランティア同士の固い絆が生まれたことにより、オリンピックへの思いはさらに強いものになったのだという。

選手がユニフォームを忘れた!? トラブルから生まれた勝利のジンクス

前回の1964年の東京オリンピックは、外交官をしていた父親の仕事の関係でイタリアに住んでいたため日本のチームの様子が分からず、もどかしい思いをしたという藤堂さん。ところが、2012年のロンドンオリンピックとパラリンピックの、ちょうど狭間の時期に偶然にもロンドンに滞在する機会があったのだそうだ。

「ボランティアの方たちが、とってもにこやかにWelcomeといった感じで外国人を迎えているのを目にしたんです。道を聞いてもとても親切にしてくれて。このロンドンでの体験と、子供の頃東京オリンピックを身近で見られなかったもどかしさがきっかけで、東京2020大会ではボランティアで参加しようと決めました」(藤堂さん)

猛暑の東京での開催なので、当初は室内での活動を希望し、選手経験のあるハンドボールの試合会場で選手たちにタオルや飲み物を用意する係になっていたそうだ。しかし、偶然、会場責任者が大学時代の友人で、ボランティアの割り振り担当者に「藤堂さんは外国語ができるのだからそれを生かさないともったいない」と言ってくれ、大会一週間前に急遽女子ハンドボールチームのリエゾンに役割が変更になった。

「最初は、マスコミで報道があったように、チームが移動に使うバスが遅れて、1時間などと時間が決められている練習時間に間に合わなくなる、というようなトラブル続きでした。トラブルが起きる度にリエゾンが調整しなければいけないケースも出てきて、そこまで私たちがする必要があるのかなとも思いました。でも、アウェイで戦う選手たちにとっては、私たちが少ない味方なのです。ここに味方がいるよと、そういう安心感を味わってもらうことが大事なのかなと考えるようになりました」(藤堂さん)

そんな藤堂さんをある事件が襲う。試合時間直前、控え室から出てきたアンゴラチームの選手が自分の着ているTシャツを引っ張りながら言ったのだ。「忘れちゃった、どうしよう…」。なんと彼女はユニフォームを選手村に忘れてきてしまったのだという。しかも、忘れた選手はもうひとりいたのだ。

「驚きました。でも、実は私も忘れ物は多いので、そういうときはどうしたら良いのかわかっていたんです。こんな私がリエゾンで良かったねと(笑)。まず、ユニフォームがない選手がいても試合は開始できることを確認。本来なら選手村にいる人に持ってきてもらえば良いのですが、ユニフォームは各選手の部屋にあるため鍵がないと入れません。そこで私とマネージャーが鍵を預かりタクシーを飛ばして取りに行くことになりました」

結果、藤堂さんの機転により、試合後半には二人は藤堂さんが汗だくになって取りに帰ったユニフォームを着て出場。トラブルにも負けず、試合で勝つことができた。

その後予選でトラブルはなかったがフランスチームに藤堂さんが付くと勝つことが重なり、いつの間にか藤堂さんがリエゾンで行く試合には必ずチームは勝つというジンクスができあがっていたのだという。行く予定のなかった準決勝、決勝にも帯同し、チームは見事優勝を勝ち取った。

「試合に勝つと、“あなたがいてくれたからだ”と選手たちから言われたのが何より嬉しかったです。自分が役に立っていることが実感できてボランティア冥利に尽きましたね。私がついたフランスに限らず、多くの国が日本人のボランティアを高く評価していました。それは、やはりコロナ禍で自分たちは日本代表であるという気持ちをみなさんが共有していたことが大きかったからではないでしょうか。観客が入っていたら、ここまで濃密な関係にはならなかったかも知れません」(藤堂さん)

「ボランティアもチームの一員だから」心を大きく動かされた絆づくり

藤堂さんは、選手たちに対する“リスペクト”の気持ちからボランティア参加を決めたと語ったが、一方選手たちやチームの間で何度も“リスペクト”という単語を聞いたというのが湯浅さんだ。

「私が担当したのは選手団のアシスタントで、付いたのはスイス選手団でした。選手村に常駐して、選手の気持ちを高めるために空間をデコレーションしたり、ベッドメイキングやスタッフ、選手たちのタクシー手配をしたり。スイス側にはボランティアの窓口を担当するメラニーさんという女性がいて、彼女からその日やることのリストを渡されるんですが、とにかく忙しかったですね」(湯浅さん)

メラニーさんが担当するのはボランティアの世話だけではない、選手にまつわる様々なことも瞬時に判断して対応していく。英会話学校でマネジメントの仕事をしている湯浅さんには、彼女の選手やボランティアに対するサポートを見て、学ぶところが多かったそうだ。その一つにこんなエピソードがある。 ご存じの通り、選手たちは自由に街に出ていくことができなかったため、買い出しは日本人ボランティアがその役目を担っていたのだが、メラニーさんから必要な物の買い出しを初めて頼まれたとき、湯浅さんはあるものを手渡されたという。

「スイスチームのロゴ入りのリュックをもらったんです。私も東京2020大会のボランティア用のものを持っていたんですが、“これを使ってほしい。あなたもスイスチームの一員なのだから”と言われました。とても嬉しかったですね。それでますますボランティアの責任の重さを実感し、とにかく与えられたことを短時間で効率よく、しかもなるべく他者との接触を避けるということを念頭に置いて仕事を全うしようという自覚が高まりました」(湯浅さん)

そんな忙しい日々の中、チームのみんながたびたび“リスペクト”という言葉を口にしていたことが印象的だったのだそうだ。


「ことあるごとに、選手たちをリスペクトしよう、国籍が違う人をリスペクトしよう、障がいがある人をリスペクトしよう、さらに私たちボランティアをリスペクトしようと、そういう言葉が自然に聞こえてくるんです。すると自分ももっと頑張ろうという気持ちになったし、相手を尊敬する気持ちを改めて持つことの重要さを、そこで学ぶことができました」(湯浅さん)

ボランティアを通して得た経験は、一人ひとりに大きな刺激をもたらしたことだろう photo by 日本財団ボランティアサポ―トセンター
コロナ禍の中でのボランティア活動は、私たちの想像を絶する大変さがあったはずだ。絶対にウイルスを持ち込んで選手たちに感染させてはならない、自分たちのせいで何かが滞ることがあってはならないと、ただならぬ緊張感に包まれた日々であったことは想像に難くない。そんな中で藤堂さん、湯浅さんが学んだことは何だったのだろうか。

「コロナ禍の中での開催だったので、辞退するボランティアの方も少なからずいらっしゃいましたし、状況がどんどん変わるのでその度に仕事に変更があったりと大変ではあったんですが、ボランティアの方々は、みんなそれぞれの場所で自分の存在意義を感じつつ、楽しみを見つけて一生懸命やっていたと思います。年齢層も若い方から私よりちょっと上の方もいて幅広く、興味深い体験をしてきた方もいて、ともに活動することによって、こういう人たちがいる日本は捨てたもんじゃないなと思えたことが嬉しかったですね」(藤堂さん)

何ごともやらないで後悔することほど馬鹿なことはないと思っている藤堂さんは、やらなければゼロ、応募したところでプラス1と考えていた。そして選手に最も近いところでその姿を見たことにより、得たものはさらに何倍にもなったのだろう。同じく選手村で、選手たちの細かいお世話を担当した湯浅さんの得たものは、自分自身の背中を押すことになった。

「数々のスポーツ大会のボランティアをやってきて思うのは、選手たちの並ならぬ努力のすごさですね。特にオリンピックは4年、今回は5年でしたが、長い期間にわたって鍛錬し、努力を重ねるわけです。それを目の当たりにすると、自分なんかまだまだだなと思います。コロナ禍の中での開催ということもあって、選手のみならずボランティア同士でも団結力が高まって、私自身すごく鍛えられたと思います。何か悩みがあっても、『そんなこと小さい小さい』と吹き飛ばすことができるようになりましたから」(湯浅さん)

そんな湯浅さんに、今、ひとつの目標ができたのだそうだ。それはドイツ語の上達。スイスは公用語が英語・フランス語・ドイツ語の3つで、メラニーさんはボランティアとは英語でコミュニケーションを取っていたのだそうだ。しかし、選手たちには時々ドイツ語で話していたので、“今度会うときはドイツ語で話しかけて驚かせたい!”と決意したのだという。
藤堂さんは自身の主宰するNPOの活動において、湯浅さんは仕事の英会話学校のマネジメントにおいて、それぞれこのオリンピックでの経験が大きく役立つに違いない。お話をうかがったのは、東京2020大会が閉幕した直後だったが、疲れの中にも二人には大きな充実感がみなぎっていた。

こちらから伺ったわけではないのだが、お二人とも共通して口にしたのが「日本は捨てたもんじゃない」ということ。それは、ボランティアの仕事を通じてでもあるが、会場に向かう途中などにも感じられたのだという。ユニフォームを着ているのでボランティアだとわかった街の人やタクシーの運転手などから「ご苦労さまです」とか「みんなのためにありがとうございます」などと声をかけられることが度々あったのだそうだ。涙が出るほど嬉しかったと言う言葉に嘘はない。並ならぬ緊張感の中のお二人には、特に大きく響いたはずだ。この二人の経験を共有し、私たちも東京2020大会のレガシーとして未来への糧にしていきたいと思う。

【私の毎日】11月20日(土) [2021年11月20日(Sat)]

11月20日(土)

7:10 シンガポールより、成田空港着、PCR検査受検

8:50 検査等終了、成田空港発
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