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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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【私の毎日】10月31日(木) [2019年10月31日(Thu)]

10月31日(木)

7:10 財団着

7:30 関係団体役員会議(社会変革推進財団)

9:00 秋元諭宏 笹川平和財団USA理事長

10:00 平松賢司 駐スペイン大使

10:30 沖津嘉昭 岩井コスモホールディングス会長

15:00 天皇御即位饗宴の儀 於:宮殿「豊明殿」

18:00 羅 怡文 ラオックス社長

【私の毎日】10月30日(水) [2019年10月30日(Wed)]

10月30日(水)

7:00 財団着

7:30 関係団体役員会議(東京財団政策研究所) 

10:00 国際海事大学連合(IAMU)第20回総会・開会式 挨拶

M_020122.jpg
IAMU総会で挨拶

          
14:30 有元隆志 産経新聞正論調査室長

15:30 稲葉正吉 蒲郡市長

19.10.30 蒲郡市長 寄付金.JPG
ボートレース蒲郡よりご寄付いただきました
有り難うございます

 
16:00 板野裕爾 NHK専務理事

16:30  アミット・ロイ(Amit Roy)笹川アフリカ財団常務理事

17:00 小泉進次郎 環境大臣 

19.10.30 小泉大臣.jpg
益々のご活躍、期待しています!

「日本財団創立記念日」―私の思い― [2019年10月30日(Wed)]

「日本財団創立記念日」
―私の思い―

10月1日
即興の挨拶です

今日は創立57年です。私はあまり過去を振り返るのは得意ではありませんが、日本財団は非常にユニークな組織であるということを、皆さん方には改めてしっかり認識してもらいたいと思います。

私は若い頃、General Motorsを世界的な企業に押し上げたアルフレッド・P・スローンJr.の著書であり、当時、経営の一つの聖書と評された「GMとともに」という本を読むなどしながらビジネスをしていた時期がありました。しかし40歳でビジネスを止め社会活動に入りました。

当時はコングロマリット、今はホールディングスといいますが、日本財団はホールディングスのような存在ですね。我々はこれまで、その時々の社会的ニーズに応えて、笹川平和財団、東京財団政策研究所、B&G財団、日本科学協会、笹川保健財団、笹川スポーツ財団、日本音楽財団等々、専門性を持つ多くの関連団体を設立してきたわけですが、これらは非営利組織におけるホールディングスとも言え、世界でも例がありません。

しかし誤解しないで下さい。ホールディングと言っても日本財団が関連団体を支配しているわけではありません。各財団は評議員会、理事会もあり、独立性のある組織です。日本財団との関係は縦より横のつながりと説明した方が良いかも知れません。日本財団は、このようなチャレンジングな仕事をずっと行ってきていますが、常に時代の変化に対応すると同時に、時代を超えた問題を提起し取り組んできた伝統があるわけです。少子高齢化も問題になっていますが、30年前に我々は将来を見据えて、スポーツ一つとっても、笹川スポーツ財団を立ち上げ、いわゆる競技スポーツよりも全ての人が健康にということで、生涯スポーツの分野にいち早く取り組んできました。

一つ一つ例を挙げればきりがありませんが、この日本財団という組織が世界的に大変チャレンジングな活動を続けている中で、皆さんが今存在していることを理解した上で、皆さん方にはさらなる未来志向のチャレンジをしていっていただきたい。

これからは若い人たちがもっともっと活躍をしてくれなければなりません。特に女性を積極的に採用してきました。それは、世の中が言うよりも前に、我々は女性の活躍する時代は必ず来ると考えていたからですが、残念ながら、いまだ女性の役員は出ていません。これは私としては非常に残念なことで、なんとか日本財団において、プロパーから女性の理事が誕生するために、女性の皆さんにはさらなる活躍を期待したいと思います。女性の採用については先進的に取り組んできましたし、今でも育児休暇などを踏まえた就業環境の整備を進めていますが、与えられた待遇に満足するだけでなく、上手に活用しながらより良い仕事をし、責任ある立場に立つように皆さん方に努力をしてもらいたい。

我々は革新的な仕事を未来志向でやっていく。そのためには我々自身が変化しないといけませんし、組織も変化していかないといけません。そうした躍動感溢れ、風通し良い議論が盛んに行われる中で未来志向の仕事を生んで欲しい。

ハンセン病制圧活動のように、30年40年やってきた仕事が、今や世界的に高く評価されるようになってきました。皆さん方が思っている以上に人々から日本財団が評価されてることは、大いなる責任を持ち仕事をしていく必要があるということです。自分に与えられた仕事に満足し、その中に埋没してしまうことがあってはいけません。日本財団の職員はあらゆる分野に配属されます。そうして私が言う「日本財団という方法」、いわゆる社会課題が見つけ、政治家、行政、学者、NGO、そしてメディアにも参加していただき、その問題を議論し、ある程度の方向性が見つかったらすぐ実践活動に入り、成功モデルケースを作り、関係者の参考にしていただくのです。

30年程前に一人部屋の老人ホームを作りました。当時の老人ホームは4人部屋、6人部屋が普通でした。専門家からも一人部屋などあり得ないと忠告されたことを思い出します。三箇所作った老人ホームは、全国の先駆けとなったのです。そういうことが出来る人材に一人ひとりがなっていってほしいのです。

今や日本財団自らが仕事をすると同時に、ホールディングスとして多くの関連団体と共に仕事をするケースも増えていくでしょう。皆さん一人ひとりが関連団体は何をしているか、どういう方向を向いてるかということも知って、総合力を発揮していかなければいけません。例えばB&G財団は、全国に470ヶ所もの施設を30年前から作ってきました。ほとんどが行政の行き届かない過疎地に作ってきました。今や、そこから育った多くの若者たちが市長や町長になっていますし、子供のスポーツのために開設していった施設ですが、今や老人の健康関連の仕事もできるようになり、この施設のネットワークが今度は子供の貧困対策も手がけていく。さらに、日本財団が持っている防災に関するノウハウを彼らと共有して防災拠点として活用し、地域の災害ボランティアも育成していく。

これから日本財団は、どれだけ関連団体と連携してやっていけるかが大変重要になってきます。これは1+1が5にも10にもなる関係です。実はそういうネットワークの強化は、すでに奨学事業において各国での奨学生たちとの連携を大切にしながらやってきています。

ネットワークの有効性の例を一つ挙げます。今回、世界の海底地図の世界大会において、海野常務が長く温め育ててきたチームが、世界各地から有力なチームが参加したシェル石油の主催する海底地図の作成コンペで優勝し、賞金4億円を獲得しました。このチームには本部も何もありません。日本財団のフェローがネットワークを組んで参加して優勝したのです。こういう例に対して、ただ「優勝したんだってね」と見過ごすのか、何故本部も何にもないチームが優勝したんだろうかと思って好奇心を持つことによって、皆さん方の能力の発揮の仕方が全然違ったものになってくるわけです。我々のチームは多国籍の混成チームだが、本部がない単なるネットワークだった。しかしなぜ、ネットワークでそのように力が発揮できるのか。それには皆さん方が使っているスマホや情報器具の活用が有効に機能したのです。そういうことに興味を持っていただければ、なるほどこれからはネットワークの時代だ。何も拠点や本部を設置し人件費をかけてなくてもできる方法があるんだなと。こういう方法を何とか我々も使えないものだろうかというように考え、発展していくわけです。日本財団は、自ら仕事をすると同時に、自らが一つのプラットホームとして、先ほども触れた「日本財団という方法」を実践していくことが求められます。

皆さん方には私の本を差し上げていますが、残念ながら、読んでくれたのは半分にも満たないと聞き驚いていますが、やはり、ここで私の話を聞くだけではなく、本をきちっと読み、その中からどのような歴史を踏まえて今日の財団があるかということを知り、皆さん方の個性をその中にプラスし、一人ひとりが素晴らしい活躍ができる。そういう組織体になっていく必要があります。

我々は組織も変えます。事務所のあり方も変えます。働き方も変えていきましょう。未来志向の仕事がきちっとできるネットワークを構築し、日本財団はどういう存在になりたいのかということを考えて下さい。自分はどういう立場なのだろうかだけではなく、どうなりたいのか、どうしたいのか。皆さん方が日本財団を希望して入られたときの初心というのは一体何だったのかという事を常に考えながら、自分自身の能力を高めていってほしいと思います。

自己研鑽さんは当然の話です。「人材を育成してほしい」と、ともすれば受身になりがちです。人材養成は日本財団にとっても大切なことです。すでに海外留学制度も皆さん方の希望の中から実現しました。しかし、与えられるだけではだめで、最後は自助努力です。私たちは皆さん方が自分自身の力を発揮出来るための補助線は当然引いていきます。しかし、情報を共有するためにも努力をして欲しい。私は知りません、聞いてません、ということを言う方がいます。知らないことは尋ねてください。待っていても情報が来るツールも出て来てはいますが、積極性がないところで革新は起こりません。やはり自らが変わり積極的に行動を取る姿勢こそ、人材養成の基本ではないかと私は理解をしています。

一般的な財団は、血眼になってファンドレイジングに取り組まないと自分たちの仕事ができません。ところが日本財団は、ファンドレイジングをしなくても毎月、毎年自動的にお金が入ってきます。そういう組織は世界中探したってありません。みんな非営利団体は、ファンドレイジングに命をかけなければいけない。我々のお金がいかに大切なものかということに対する私たちの理解は、もう少し真剣に考える必要があるのではないでしょうか。

今や、稼ぐ方の皆さんが血眼になって努力してくださって、今年もボートレースの売上は17%の伸びです。1日遊んでいただいているお客様の平均購買額は6,000円程度です。皆さん方がディズニーランドに行くよりも安いお金で多くのファンが楽しんでくださっているわけです。6,000円の中から、私達が頂戴してるお金は約3%ですから、180円を1人からいただいているわけです。皆さん方がやっている仕事の桁数はどの桁ですか。何百万円の仕事でしょう。1万人の人に舟券を買っていただいて180万円。180万のお金を日本財団が得るためには1万人の人がここ日本財団から行列する様子をイメージしてください。1万人の人がここから並んだら東京湾に届きます。ここから約3キロですから。それで180万円のお金をいただく。皆さん方は、そういうファンの何十万、何百万人分のお金を使ってるわけです。私たちが使うお金は公金です。株式会社のお金とは違います。心してください。1日も忘れてはいけません。多くのボートファンからお預かりしたお金は公金ですから、株式会社が稼いだ利益のお金とは意味合いが全然違います。ですから私達はこのお金を使うことに、大変重い責任があるのです。

私は40歳まで仕事してある程度の成功を納めました。今で言えばIT企業の走りをやったようなものです。しかし私の経験から、お金は稼ぐより意味あることに使う方がはるかに難しいことです。先ほど来言ってるように、皆さん方の努力で非常に評価をされる日本財団になってきました。私達は慎重に、でも大胆に行動しましょう。しかしそういうことを可能にしているのは、日本財団の総務や経理、そして監査という部署がしっかりしているからです。これも世界の公益法人では珍しいことで、自ら監査の業務も行っている組織は世界にありません。公金を私たちは透明性と説明責任をしっかり持って使い、仕事していくという大きな方針の中で、努力を続けています。

私が常にお願いしているように、お金を活用する皆さん方にはコスト意識をしっかり持っていただきたい。昔は丸めた数字で助成金額が出されましたが、あるとき理事会で非常勤の理事から叱られました。何千万円という整った数字ばかりあり得るのだろうか。しっかり計算しているのか。コスト計算はどうなっているのかと。私たちはそういう大きな公金を預かる身の引き締まる立場にいることを常に忘れないで仕事をしていく必要があります。私たちの過去の経験からもう一度原点に戻り、公金を預かる大切さをみんなで改めて認識を共有したいと思います。

未来志向の日本財団が、ユニークなホールディングスとしての立場をどう堅持して発展させていくか。全ては経験のない分野にチャレンジしてきた結果です。未来志向の変化変化、また変化です。それを皆さん方がやっていかなくてはいけない。もうすでに十分やっていただいていますが、まだまだあなた方は若いから可能性があります。失敗なんて恐れることはありません。ともすれば、公金という観点が強すぎて保守的な仕事のやり方に陥っている部分がちらほら見られます。しかし、そこはきちっとけじめをつけ、熟慮断行、勇断を持って未来志向の仕事にチャレンジしていきましょう。

この世界はテキストがありませんが、皆さん方には、ネットワークをうまく組み立てるキーパーソンになってほしい。海洋の世界で言えば、海野常務が世界の海のキーパーソンの一人になっています。これとこれとこれを繋げればこうなるという絵が描ける。そういう人になってください。政治家、専門家、役人、学者、NPOと連携して社会課題解決へのモデル事業を実践し、地方自治体や国の政策に反映させましょう。これからも我々に与えられた課題は大きいし、チャレンジする部分がたくさんある。こんなにうれしいことはありません。しかし船に例えれば、航路のない世界に出ていくわけですから、当然リスクも伴います。しかし度々皆さん方に伝えているように、全ての責任は私が取ります。私は逃げません。皆さんの責任は私が取ります。遠慮なくチャレンジングな仕事に邁進してください。

【私の毎日】10月29日(火) [2019年10月29日(Tue)]

10月29日(火)

7:20 財団着

7:30 関係団体役員会議(笹川スポーツ財団・ポランティアサポート)

9:00 ソーシャルイノベーションフォーラム打合せ

9:30 国際協力事業打合せ

10:45 伊東香織 倉敷市市長

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ボートレース児島より、災害復興特別基金にご寄付いただきました
有難うございます

   
11:00 エンダ・ケニー(Enda Kenny)アイルランド前首相

13:30 滝崎成樹 外務省アジア大洋州局長

16:00 白石祐治 鳥取県江府町長

16:30 竹口大紀 鳥取県大山町長

17:00 平井伸治 鳥取県知事

     

【私の毎日】10月28日(月) [2019年10月28日(Mon)]

10月28日(月)

7:10 財団着

7:30 関係団体役員会議(日本吟剣詩舞振興会、日本音楽財団)

9:30 グローバルアピール打合せ

12:00 武部恭枝 プライムコーポレーション社長

14:00 国際障害同盟(International Disability Alliance:IDA)
    ウラジミール・クック(Vladoimir Cuk)事務局長

15:00 寺澤元一 駐ミクロネシア大使

15:30 伊東高廣 ボートレース振興会常務理事

16:00 鈴木 哲 外務省総合外交政策局長

16:30 中国CCTV取材

18:30 ミャンマー タン・テイ(Than Htay) USDP議長一行歓迎レセプション
           

「中国の小話」その201―党と国どっちが先?― [2019年10月28日(Mon)]

「中国の小話」その201
―党と国どっちが先?―


10月1日は中国の国慶節。今年は中華人民共和国成立70周年という「大慶」の年に当たり、天安門広場では盛大なパレードが行われ、最新鋭の兵器が多く披露されるなど、世界的に注目されました。

ところが、だれも予想しなかったパレードの一幕が話題を呼び、ネット空間が騒然となりました。

その一幕とは、この写真の通りです。パレードの先頭を儀長隊が国旗を掲げて行進しますが、その更に前を陸海空三軍の儀長兵が中国共産党の党旗を掲げて闊歩していました。

党旗写真.JPG


ユーザーたちは、『中華人民共和国国旗法』を引用してこの作法を批判しています。

キャプションの訳:
『中華人民共和国国旗法』の規定によれば、「整列して国旗とその他の旗幟を掲げて行進する場合、国旗はその他の旗幟の前を歩かなければならない!」

註:中国では、中国人民解放軍は中国共産党によって創設され、中国共産党中央軍事委員会の指揮に従う構造になっている。ユーザーたちは、軍隊に対する党の指揮権と『国旗法』の矛盾を指摘している。

【私の毎日】10月25日(金)ノルウェー・オスロ→帰国−10月26日(土) [2019年10月26日(Sat)]

【私の毎日】10月25日(金)ノルウェー・オスロ→帰国

7:00 朝食

12:00 コンティキ博物館

40年前に植樹した桜と再会。コンティキ博物館の庭で。.JPG
40年前に植樹した桜と再会
コンティキ博物館の庭で


13:30 空港着

16:05 オスロ発

18:10 フランクフルト着(空港待機約4時間半)

22:10 フランクフルト発(出発が1時間半遅延)



【私の毎日】10月26日(土)ノルウェーから帰国

16:00 羽田着


「週刊エコノミスト」―問答有用インタビュー― [2019年10月25日(Fri)]

「週刊エコノミスト」
―問答有用インタビュー―


ハンセン病と戦って40年。
シャーナリスト・山崎博史との対談です。

*************


「問答有用」

日本財団会長
 笹川 陽平

≪人類最古の感染症と言われるハンセン病は、特効薬の開発によって不治の病ではなくなったが、今日もなお患者・家族への深刻な差別が世界中に広がる。その不条理との戦いを長年続けている。≫

「生きた証として一生貫くに値する仕事です」


――ハンセン病撲滅への活動が認められ、インド政府から2月、「ガンジー平和賞」を授与されました。

笹川 インドの国父であるガンジーの生誕125年を記念して1995年に創設され、南アフリカのマンデラ元大統領などノーベル平和賞受賞者らが過去の受賞者として名を連ねています。インドは世界一のハンセン病大国であり、ガンジーは撲滅を念願していました。私はハンセン病の制圧と差別撤廃の活動に、今日まで40年間取り組み続けており、それが評価されました。

―― どういう活動を?

笹川 WHO(世界保健機関)にはハンセン病制圧の活動資金がないため、日本財団がすべて負担していて、これまでの支援総額は約250億円に上ります。90年代後半には50数億円をかけて、完治力が高いMDT(多剤併用療法)薬を世界中に無料配布し、制圧を劇的に進めました。
 途上国では、薬を患者たちにちゃんと届けて飲んでもらうには、お金だけではうまくいきません。宗教・文化・政情、識字率など多様な問題が絡んで、一筋縄ではいかない。国のトップに談判して行政を動かし、メディアを啓蒙し、患者たちを現場で説得する必要がある。私は2001年、WHOのハンセン病制圧大使に就任し、そうした活動を担っています。

―― 世界の現状は。

笹川 WHOは、患者数が人口1万人当たり1人未満になれば、公衆衛生上「制圧された」とする認定基準を定めました。85年当時、アジア・アフリカ・南米を中心に122カ国あった未制圧国は、MDT無料配布の効果で現在ではブラジルの1カ国だけになりました。この間に世界で1600万人、インドだけで1100万人の患者が治癒しました。一方で、各国の対策はまだ不十分で、今も世界で毎年約20万人の新規患者が発見されています。

≪ハンセン病は、らい菌が皮膚や抹消神経を侵す感染症で、放置すると顔・手足の変形や失明など重大な症状が出る。人類の長い歴史にわたって患者・家族ともに忌み嫌われ、社会的差別の烙印を押され続けた。43年以降プロミンなど治療薬の開発が進み、81年のMDT療法により完治可能となった。しかし今もなお、社会の無知から深刻な差別が世界で続いている。日本では、約90年続いた患者隔離政策が96年に廃止され、元患者への国家賠償判決が01年、元患者家族への国家賠償判決が今年7月、いずれも確定した。≫

―― 病気が治ればいいというものではない?

笹川 私は03年、ハンセン病は医学的な問題だけでなく、さまざまな差別が複合した社会問題であると気づき、ジュネーブの国連人権高等弁務官事務所に駆け込みました。「極めて大きな人権問題だ」と訴えたら、皆さん初耳で驚いていた。翌年、国連人権委員会(現・理事会)で人権問題として告発するスピーチをし、粘り強く働きかけ続けて10年の国連総会の議題とすることができ、「ハンセン病差別撤廃決議」が全会一致で採択されました。国連決議のガイドラインを得て、病気を治すとともに「差別という病」をなくす、真の解決に向かっているところです。

自然に手が伸びるように

―― ハンセン病に取り組んだきっかけは。

笹川 父の少年時代の体験でしょうね。大阪の造り酒屋の長男だったんですが、近所にいた初恋の女性が、ある日突然家族ごといなくなった。ハンセン病らしいと、うわさを聞いた。ショックを受けた父は、ハンセン病への復讐を誓い、大人になってアジア各国に病院や施設を作りました。76年、韓国に作った病院の完成式典に、私は随行しました。
 手足が膿だらけで生ける屍みたいになった患者がベッドに横たわっていた。やおら父が、その手足を素手でなで始め、抱擁したんです。私、身がすくみました。まるで神に仕える者のごとき父の行動は、想像を超えていました。でもなぜか、これは自分が将来やるべき事だと感じました。それがハンセン病との出会いでした。 

2005年3月.jpg
インド・ウエストベンガルのハンセン病コロニー(2005年)


―― 触れるのが怖かったのに、なぜそこまで?

笹川 患者には「お医者さんは私の体に一回も触れたことがない。私の中のらい菌にだけ興味があって、私という人間にはない」といった思いがあるんです。患者に接し、心を交わすうち、私の手は自然に伸びるようになりました。もちろん素手のまま。誤解を恐れずに言えば、私も感染したかったというのが正直な思いです。
 7、8年前、国立感染症研究所で診断を受けました。うつれば患者との壁がなくなり、同士になれる。私はそこまで思い詰めていましたが、らい菌の感染力は極めて弱く、結果は“落第”でした。ハンセン病への支援活動は地味かもしれませんが、自分が生きた証として、一生貫くに値する仕事だと思っています。

≪日本財団(旧称・日本船舶振興会)は、モーターボート競走法により全国24カ所で自治体が主催するレースの売上金から一定割合(現行2.6%)の交付を受け、海洋船舶関連事業のほか、公益事業への助成や自主事業を行う公益財団法人。19年度収入予算は約554億円(うち交付金約481億円)。
 ボートレース(競艇)の売り上げの一部を事業に回す仕組みは、父の笹川良一・初代会長が50年代初めに築いた。戦後の海洋産業の復興と困窮者救済の財源として構想したが、巨額の予算を差配し、政財界に幅広い人脈を持つ良一氏は、「日本の黒幕」という汚名を背負った。≫

人道主義に徹した父

―― 「日本の黒幕」のイメージが記憶に残る中高年世代には、その二世が差別との戦いをライフワークとしていることに、意外感を持つ人も多いのでは。

笹川 私の差別との戦いは一方で、「笹川良一」を世界に正しく認識させるものでした。当時のマスコミが世界に拡散させた偏見の払拭が、秘めたる目標でした。でも95年に父が死んで、半分以上は解消しました。遺産は実質、借金の方が多かったんです。
 若くして相場取引で築いた巨額の財産は戦後、戦犯者の家族たちが路頭に迷わないように面倒を見たり、全て人々の救済に使い切っていました。スケールが大きすぎる破天荒な男だったので、世間には理解不能だったのでしょうが、せがれから見たら人道主義に徹した人でした。

≪陽平氏は、良一氏の庶子(正妻以外の子)三兄弟の三男。日本財団の会長は、初代・良一氏、2代・曽野綾子氏(作家)と続き、陽平氏は05年に3代会長に就任した。≫

―― 三兄弟の母を捨てた良一氏に対し、長男は反発し、次男は距離を取った。三男坊はなぜ、後を継いだ?

笹川 父は、よそ様の面倒見は損得抜きで尽くしたのに、わが子には「獅子は我が子を千尋の谷に」とばかりに冷淡でした。私は、母と暮らした大阪を16歳で離れ、東京の父の本宅に住み始めたんですが、仕事を探す人や生活難の母子らがたくさん連日寝泊りし、“笹川ホテル”といったふうでした。
 女中さんだけでは手が足りず、私に手伝えって言うんです。学校だけは行きましたが、朝早くから夜遅くまでやることがいっぱい。どうみても、下男扱いでした。なのに、なぜ父を尊敬したかというと、自分を捨てて世のため人のために奔走する姿をそばで見続けていたからです。妾の子だって真っ直ぐに成長しますよ(笑)。

―― もう一つのライフワークとして、ミャンマー国民和解担当日本政府代表の仕事がある。

笹川 ミヤンマーは135の多民族国家で、タイ、インド、中国との国境沿いには今でも20の武装勢力がいます。ミヤンマー政府とそれらの武装勢力との70年に渡る内戦を停戦させ、統一国家の樹立をお手伝いするのが、私の仕事です。13年に日本政府代表に任命されたのは、ミヤンマーでハンセン病制圧や小学校建設などの実績があったからです。日本財団は山岳地帯などに広がる少数民族地域に、小学校だけでも460校作っています。

―― 武装した人々の恐怖心や不信感。結局はそうした心の病を解消する仕事ですね。

笹川 はい。日本政府代表といったって、彼らが外国人を簡単に信用するはずがなく、そこは泥臭く回数で信用を得るしかない。山岳地帯の悪路を車で半日走って、高尚な理屈なんか通用しない相手に会いに行く。6年間で現地に94回入って、武装勢力のリーダーたちと面会を繰り返し、信頼関係を築きました。そのうえで彼らをヤンゴンに案内して政府要人に会わせる。これまでに10の武装勢力との停戦を実現し、残りの武装勢力との停戦にいま取り組んでいるところです。

いつ死んでもいい

 ≪会長就任15年で海外出張298回。途上国を中心に88カ国を延べ450回訪れ、行き先の多くは、農村、山奥、砂漠など。12年にはハンセン病視察で訪れた南米ペルーの空港で心臓異変で倒れ、ペースメーカー移植の緊急手術を受けた。1級障害者となったが、いまも週末0泊3日といった強行スケジュールが珍しくない。≫

DSC_0410.JPG
ハンセン病撲滅活動でカメルーンのジャングルを歩く(2016年)


―― 80歳を過ぎて心臓に病を抱えながら、機中泊を繰り返すなど大変では?

笹川 そりゃあ、つらくないかって聞かれたら、つらいに決まっている。でも、プロフェッショナルだもん、仕事は命がけでやるものです。私は若い時から常に死を意識していて、死ぬ瞬間は、いい人生だったなあと思って死にたい。命がけで働き続けるのは、そんな死の準備をしているからです。

―― どうしてそんな死生観を。

笹川 生まれ育ちが孤独だったせいか、徒党を組むのが大嫌いで、学生時代も友達なんか持ちたいと思わなかった。同窓会、葬式、結婚式、政治家のパーティーも、ほとんど行きません。
趣味は草取り、休みの日には山梨の山小屋で一日中無心にやっています。女房とは47年間一度も喧嘩しなかったし、まあいい人生ですよ。もう、いつ死んでもいいし、海外出張もいたるところ青山あり。女房には、どこで死んでも迎えに来るな、骨の一片だけを持って帰ってもらえ、と言ってあります(笑)。

―― ハンセン病患者と交わす抱擁に、今どんなことを思いますか。

笹川 世の虚飾を去った人間同士。生きとし生けるものとしての共感に、安らぎます。

【私の毎日】10月24日(木)ノルウェー・オスロ [2019年10月24日(Thu)]

【私の毎日】10月24日(木)ノルウェー・オスロ

7:00 朝食

9:00 ノルウェー政府主催"Our Ocean2019"会合

9:40 オラ・エルヴェステン(Ola Elvesten)ノルウェー気候・環境大臣

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エルヴェステン気候・環境大臣


10:30 西インド諸島島嶼国
    (バハマ国、アンティグア・バブーダ、バルバドス、セントクリストファー
     ネービス、ベリーズ、グレナダ、セントビンセント、セントルシア)閣僚と対談

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西インド諸島島嶼国の閣僚等と


11:30 パラオ共和国 レメンゲサウ大統領

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レメンゲサウ大統領


13:00 ホーコン・マグヌス(Haakon Magnus)王太子

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ホーコン皇太子


14:00 ノルウェー政府主催"Our Ocean 2019"会合(スピーチ)

"Our Ocean 2019"会合でスピーチ
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19:30 “Our Ocean2019”夕食会でエルナ・ソルベルグ(Erna Solberg)首相に挨拶

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エルナ首相

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夕食会は筆者の後ろにあるノルウェーの北極海探検船フラム号で行われた
最初の探検は1893年

「ちょっといい話」その116―世界王者の少年院訪問― [2019年10月24日(Thu)]

「ちょっといい話」その116
―世界王者の少年院訪問―


日本財団では「HEROs」という名で、スポーツ選手に社会貢献活動に参加していただいている。

その有力メンバーである世界ボクシング協会(WBA)ミドル級王者で、2012年ロンドン五輪金メダリストの村田諒太選手(33)=帝拳ジム所属=が、先ごろ、千葉県八街市の八街少年院を慰問し、更生を目指す約60人の少年たちと交流してくれた。

村田選手はチャンピオンベルトを肩にかけて講演会場に姿を現し、ボクシングとの出会いや荒れていた時期などのエピソードを飾りのない言葉で語った。栄光(勝利)の体験ではなく、むしろ挫折(敗北)の体験から多くを学んだという。

高校のデビュー戦では敗北した。「かっこ悪くてやめたかったけど、3カ月続けたら1年のインターハイで準優勝できた。これが最初の成功体験。我慢が必要だと学んだ」

3年間で、インターハイと国体、選抜大会で計五つのタイトルを獲得し、社会人も出場する全日本選手権では準優勝。だが、鳴り物入りで進んだ大学も初戦は負けた。

「僕はエリートじゃない。君たちも負けたからって諦めないでほしい。ボクシングをやめなかったことが僕の一番の誇り」

ロンドン五輪後にプロに転向。2017年の世界王座決定戦で判定負けしてベルトを逃すが、5カ月後の再戦で世界王者になる。さらに、防衛後の2018年10月に王座を陥落するが、2019年7月に同じ相手との再戦に勝ち、王座に返り咲いた。

村田選手は少年院の若者たちに繰り返し強調した。
「君たちの人生のリ・マッチ(再戦)は永遠にある。そのリ・マッチに勝って!」

村田選手の話には説得力があり、同行した法務省の幹部は勿論、日本財団職員も涙、涙であったそうだ。また、お礼の言葉を述べた少年の代表は、事前に用意していた挨拶文を途中で中止し「自分の言葉で話します」と言って、「大きな励みになりました。自分に負けないよう頑張ります」と、力強く誓ったという。

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村田選手へお礼の挨拶

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講演後、村田選手へパンチの返礼


日本財団はこれとは別に、「職親プロジェクト」を展開している。刑務所や少年院を出た者が再び犯罪を引き起こす再犯者率が年々上昇している現状(2017年は48.7%)を注視し、2013年2月立ち上げた。「職親(しょくしん)」とは耳慣れない文言だが、職(仕事)を与え、親代わりになって支えるとの意味が込められている。元受刑者らを雇用し、彼らの更生を後押ししてほしいという日本財団の呼びかけに応じた「職親企業」はプロジェクトの発足時、大阪の七社にすぎなかったが、2019年6月現在、全国で百三十社にのぼっている。

「人生はやり直すことができる」。これは職親企業の経営者が、とくに少年院を出た若者を雇用する際に言う励ましの言葉だ。村田選手が八街少年院での講演で若者たちに贈ったメッセージとぴったり重なっている。
(2019年9月20日の千葉日報電子版を参考にしました)

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