「私の写真館」その4
―ヨハネ・パウロ二世―
一枚の写真は10万語にも優る説得力があるという。
今年は日本の長年の夢が叶い、ローマ教皇の来日が内定したことは誠に喜ばしいことです。
1983年5月9日、父・良一は三代前のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世から特別謁見の栄を受けました。「人類を貧困、病苦、不公平から開放しようとする努力に敬意を表すため」というのが特別謁見の理由でした。
私は父のハンセン病制圧活動について、ローマ教皇を通じて世界中のカトリックの信者に理解してもらい、ハンセン病患者・回復者とその家族へのいわれなき差別を撤廃するために協力していただこうとの思いからでした。
どのようなルートで教皇との会見を実現するかが最大の問題で、まず上智大学教授で後に日本財団理事長に就任した篠田雄次郎氏が駐日ローマ教皇庁大使館と接触しましたが、不調に終わりました。その後、スウェーデンの環境団体「IFIAS」の某氏に相談したところ、幸運にもバチカンで「科学」担当の責任者をしているシャーガス枢機卿と面識があるとのことで、アポイントをとっていただき、当時NHK外信部を退職して我々の仕事を手伝ってくれていた田中至氏と二人で、バチカンにシャーガス枢機卿を尋ねました。広い庭の中に小じんまりした独立の建物があり、そこが彼の事務所でした。
挨拶もそこそこに、父の活動を情熱を持って説明の上、是非教皇との接見の機会を作って欲しいと願い出ました。私の話を聞いていた枢機卿は、心持ちうっすらと目に光るものを浮かべ、そっとハンカチを押し当てました。私が何事かと思っていると、枢機卿は即座に「約束します。接見を実現しましょう」と、力強くおっしゃった後、「私の父は南米の風土病として猛威を振るうシャーガス病の発見者です。お互い、立派な父親を誇りに思いましょう。私は貴男の父親を思う気持ちに感動しました」と述べられました。
このような経緯から1983年5月9日の接見が実現したのです。通常の接見室ではなく、バチカン内のトンネルのような長い廊下を歩き、通された部屋は何と、教皇の執務室で、扉を開く係りは純白の法衣を纏った黒人の男性でした。
教皇は父に歩み寄り、両腕で包み込むように父を抱かれました。父はこの時の感動を「まるで幼い時、父親に抱かれたような気持ちがした」と話しています。教皇は「あなた方は人々を病苦から救う為の努力をされている。今後もハンセン病対策に一層の努力をお願いします」と話し、励ましてくださいました。
父親に抱かれたような気持ち・・・
教皇の手からロザリオを
当日は教皇庁にとって歴史的な日で、350年前に地動説を唱えたガリレオの名誉回復を宣言したのです。
日本財団はポーランドの名門大学であるヤギェウォ大学の修士・博士課程に奨学金制度を設置して30年になります。以前大学を訪れた折、学長は「今日は良いお天気でしょう。賓客を迎える時はいつもお天気は上々なのです。笹川さん、理由は分かりますか?」とおっしゃいました。少し首を傾けると、「バチカンに電話をするのです。教皇はこの大学の卒業生です」と、いたずらっぽく微笑みました。特別の貴重品展示室には、地動説を唱えたコペルニクスが使用した望遠鏡や研究器具があり、大きな地球儀にはアメリカ大陸がありませんでした。
この大学の設立は1364年、コロンブスのアメリカ大陸の発見は1492年でした。