「ハンセン病制圧活動記」その45
―アゼルバイジャン共和国のハンセン病療養所を10年ぶりに訪ねて―
多摩全生園機関誌『多摩』
2018年2月号
WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平
2017年10月にアゼルバイジャン共和国(以下アゼルバイジャン)を10年ぶりに訪問する機会を得た。今回の同国訪問の目的は、@南コーカサス地域(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの3国)に唯一あるハンセン病療養所の再訪、A日本の図書100冊事業の寄贈式、B中央アジア奨学金事業のアゼルバイジャン奨学生の同窓会出席であった。後者2つの日本財団事業については割愛し、療養所訪問について詳しく記したいと思う。
アゼルバイジャンはロシア、ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接し、様々な言語・文化・宗教が複雑に入り混じる地域に位置する。面積は日本の約4分の1。人口は約1,000万人(2017年現在)で、90%以上がイスラム教徒である。近年カスピ海で新たな油田が発見され好景気に沸いたが、現地の人たちによると原油価格下落の煽りを受けて一時期の勢いは失われつつあるという。ただ、首都バクーの幹線道路沿いに鬱蒼と立ち並ぶ高層ビル群は10年前には存在していなかった。カスピ海の水辺に広がる高層ビル群と周辺の乾いた岩山のコントラストは、さながら現代のオアシスを思い起こさせる。街には高級車が行き交い、有名ブランド店が軒を連ねる目抜き通りを着飾った女性たちが歩く様子は、パリかロンドンと錯覚してしまうほどである。
こうして国が発展する中、10年前に訪れたウンバキ療養所の元患者たちはどうしているのだろうか。療養所には30人ほどが入所していて、中庭のようなところで大きなケーキをご馳走になったことを覚えている。10年経ったいまはどうなっているのだろうか。私は当時撮った写真を携え、首都バクーから南西約80キロ離れたゴビスタン砂漠の中にある療養所へ向かった。ビルや住宅が並ぶカスピ海沿いの幹線道路を離れると景色は一変した。樹木1本生えていない荒涼とした大地が地平線まで続いていた。道路は依然、舗装はされていないものの10年前の干上がった川底のようなデコボコの道ではなく、平らにならされていた。

砂漠の中の一本道を走り続ける
砂埃をあげながら疾走する車の外に広がる青空の下の地平線を眺めながら、10年前にも感じていたことを思い出していた。世界中のハンセン病施設の多くが社会からの「排除」を目的としているため、人里離れたところに建てられている。この地も例外ではない。これから訪ねるウンバキ療養所は、もともと南コーカサス地域で唯一のハンセン病施設として1926年に首都バクー(当時はソビエト連邦)に開設され、その後数回場所を変えて1957年にこの砂漠の中に移された。当初は300人近い患者が入居していたという。(2時間近く)砂漠の中を移動すると見覚えのある鉄製の門が見えてきた。砂漠の中にぽつんと建てられた療養所の入り口である。幅4メートルほどの門は前回来た時は塗装が剥げていて何色かわからなかったが、いまは青色に塗り直されていた。

ウンバキ療養所の門の前で
一歩出れば砂漠が拡がる
門を入ったところで車を降りると10年前と同じ顔が私を迎え入れてくれた。療養所のアリエヴ院長である。早速10年前の写真を見せて、この方々はいらっしゃいますか、会いにやってきましたと伝える。すると、アリエヴ院長は写真を全てめくり終えると「この中の多くの方が亡くなりました」と教えてくれた。前回私が訪問した時、30人だった入居者は15人(女10男5)となり、ほとんどの方が80歳〜90歳になっていた。10年という月日を感じられずにはいられなかった。しかし、写真の中の何人かの方々は今もいらっしゃると聞き、早速会いにいくことにした。
まず、サヤラさんの部屋を訪ねた。木造の部屋の壁は綺麗な青色で塗られていた。ふかふかの絨毯にベッドが2つ置かれ、暖房が入っていて部屋の中はほんのり暖かかった。10年前の写真に写るサヤラさんは白衣を着ていたので私は看護師だと思っていたが、改めて話を聞くとハンセン病になって1969年に入所し、病気が治ったあとは施設内で暮らしながら介護などの仕事をしているとのことだった。10年ぶりに写真を一緒に撮りましょうと言うと「インターネットに私の写真が出ると親戚に迷惑がかかるので、やめてほしい」と断られた。私は、今なお偏見や差別に怯えながら生きる元患者がいることを思い知らされ、やるせない気持ちになった。しかし、サヤラさんからは「日本から来訪者が来ると聞いて、あなたが来ると思っていました。10年ぶりに会えて懐かしい」とうれしい言葉をかけてもらい、逆に励まされてしまった。
次に、庭で寛ぐセードバーニュさんを訪ねた。手渡した10年前の写真を懐かしそうに眺めながらご自身の話を少しだけ聞かせてくれた。出身はイランに近いランカランという地域で、14歳の時に入所して以来ずっとここに住んでいるという。家族とは連絡をとり続けているという。なぜ家族の元に戻れないのか、理由が想像できるだけに聞くことはできなかった。

懐かしそうに10年前の写真を眺めるセードバーニュさん
その他にも亡き妻を写真の中に見つけ、懐かしさで涙ぐむ男性や、「娘に孫が生まれて顔を見せに来てくれた」と顔をほころばせる女性にも会うことができた。私にはここに住む全ての方々が、残された時間を穏やかに過ごすことができるよう心から願うことしかできなかった。

お孫さんが会いに来てくれたと、嬉しそうに話す女性
かつてはアルメニア、ジョージア、タジキスタンからの患者もいたが、90年以降に帰国したとのことである。ふと、2012年にロシアのアストラハン・ハンセン病療養所を訪問した時にアゼルバイジャンから来たという男性に会ったことを思い出した。男性は25年間そこに住んでいると話していたので、その前はもしかしたらこの療養所にいたこともあったのかもしれない。
入所者の方々との再会を果たして施設内を歩いているとアリエヴ院長が、生い茂る木々を指差しながら「周りは砂漠だが、入所者たちが土を集めて果実を植えたので、ここは緑豊かです。ここはオアシスなのです」と誇らしげに話していた。家族や社会から「隔離」された人々が肩を寄せ合うようにひっそりと暮らす砂漠の中の療養所。「オアシス」と呼ぶには、あまりにも寂しい場所ではないだろうか。
現在、アゼルバイジャンではハンセン病の新規患者はほとんどいない。ロシアや中央アジアの療養所もそうだが、入居者は徐々に減り、やがていなくなるのは時間の問題である。ここも10年後には閉鎖されているかもしれない。たとえそうなっても、差別と排除の中で生きてきた人々がいるということを我々は忘れてはならない、と強く感じた再訪であった。

療養所の中には緑が茂る