「ハンセン病制圧活動記」その33
―ブラジル訪問記―
〜ハンセン病制圧活動 ブラジリア、マットグロッソ、ペルナンブーコ〜
長島愛生園機関誌『愛生』
2016年1・2月号
WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平
2015年8月4日から16日までの13日間、ブラジルを訪問した。南米大陸最大の国土を誇るブラジルは多様性に富んだ文化・自然景観とスケールの大きさから多くの人を引き付つけてやまない。人口約2億人、国土面積は日本の約22.5倍にあたる851万km2の大国ブラジルはロシア、インド、中華人民共和国と並んで「BRICs」と呼ばれる新興経済国になるまで成長し、ラテンアメリカ最大の経済規模を持つ。ただし公衆衛生や教育などの公共サービスの水準は先進国に比べ低く、また沿岸部と内陸部との経済格差の差が著しいなど、早急に解決すべき課題が残されている。
ハンセン病に関しては、WHOが掲げるハンセン病有病率1万人に1人未満という制圧目標を達成されていない国は世界の中でブラジルだけである。また新規患者数がインドに続いて世界で2番目に多い31,044人(2013年)、政府・国際機関、NGOのさまざまな取り組みにも関わらず過去5年間は横ばいの状態である。WHOハンセン病制圧大使としてなんとか制圧を実現すべく、私は今回ブラジルを訪問した。
まず初めに訪問した首都ブラジリアではノバルティス財団主催の会議に参加した。テーマは「最後の1マイル」。薬の無料配布により患者数は激減したものの、年間20万人ほどの新規患者が世界では発見されており、減少する傾向は見られないとのこと。この問題の解決に向けて、政府、民間財団、NGO代表によって情報交換が行われた。
ノバルティス財団会議の冒頭で挨拶する機会をいただいた
会議の合間に保健省、人権庁、議員などの要人と面談を行い、ブラジルの政治を司る要人たちに協力・支援を惜しまないことを繰り返し伝えた。アルトゥール・キオロ保健大臣(当時)は「ブラジルは国を挙げてハンセン病対策に取り組んでおり、制圧は2015年までに達成される」と自信を持って発言されていたことが非常に印象深い。またブラジル司教協議会にも足を運び、カトリック教会の総本山であるバチカンと共にハンセン病差別対策に関する会議を開催したい旨を伝え、協力を要請した。
キオロ保健大臣(当時)と
また、今回の旅の大きな目的の一つであったWHO事務局長のマーガレット・チャンからの親書をジルマ・ルセフ大統領に手渡すことは、残念ながら面会の機会に恵まれず、日本大使館経由で渡して頂くことになった。
首都での会議と要人面談を終え、翌日からマットグロッソ州を訪問した。中西部に位置するブラジル3番目の面積を持つ広大な州で、ボリビアと国境を接している。ユネスコの世界遺産にも登録されている世界有数の大湿原パンタナールを訪れるために、州都のクイアバには大勢の観光客が立ち寄るという。産業は広大な面積を利用した大豆や綿花のなどの農業である。特に大豆はブラジル最大級の生産量を誇る。ただし、沿岸部に比べて経済発展が遅れており、保健衛生に関しては、交通機関やインフラの未整備から、十分な医療サービスが提供されていない。実際にブラジルで最も多くのハンセン病新規患者が発見されるのはこの州である。そんなハンセン病蔓延地域マットグロッソ州では何年間も新規患者が発見されていない「サイレントエリア」と呼ばれる地域がある。私はこのサイレントエリアにおいて患者の早期発見・早期治療に真摯に取り組む医師や看護師の活動に立ち会うこととなった。
今回の訪問地域はクイアバ市から車で20分ほど走ったスクリ村であった。2年間新規患者がゼロとのデータがあるが、周辺地域にはハンセン病患者が存在していることからも、発見されていない患者がいることは間違いない。州保健局・ハンセン病対策プログラムコーディネータであり、ヘルスポストの看護師であるシセロ氏はこのデータの信憑性に疑問を持ち、積極的に活動をしている。
まずは、診療所でハンセン病の疑いのある住民10人程度を対象にシセロ氏が診察しているところを見学させていただいた。診察は、しびれやこむら返りなどの症状はないか、家族にハンセン病患者はいなかったか等の問診と神経の腫れの確認、温水・冷水を皮膚に当てた知覚神経、針を足などに軽く当てた知覚神経の検査であった。
シセロ氏の診察を見学
私が診療所にいる間に4名が診察を受けて、そのうち1名がハンセン病の可能性が濃厚、別の1名がほぼ確定であると診断された。ハンセン病と診断された男性(21歳)には、薬を12か月服用すれば必ず完治すること、普段通りの生活を続けてもよいこと、家族や近所の人たちも診察を受ける必要があることなどが分かりやすく、かつ丁寧に説明されていた。また100人に1人に呼吸がしにくい、唇の色が紫色になるなどの副作用があることも伝えられていたが、それでも確実に治療を続けるように説得されていた。副作用については、予め伝えておかないと途中で薬をやめる患者もいるので、伝えるようにしているとのことである。
またハンセン病患者のいる家庭2軒を訪問し、その家族を診断する場面にも立ち会うことができた。1軒目にはハンセン病と診断された73歳の男性患者が暮らす。ロンドニア州に住んでいたが治療ができなかったため、治療が可能な弟家族が住むマットグロッソ州に移ってきたという。この日は、患者の妹、弟、姪(弟の娘)の3名を診察した結果、妹と姪はハンセン病であると診断され、大きなショックを受けていた。とくに姪は21歳と若く、ハンセン病についてはほとんど知らないと話していただけになおさらだろう。2軒目は、15日前にハンセン病であると診断された17歳少年が住む家を訪れた。一緒に生活している家族(父、兄二人、母)を診察すると、母以外の3名はハンセン病であることが判明。おそらく父から息子たちへ感染したと予想される。
温水が冷水を足にあて、知覚神経の有無を確認するシセロ氏
私が滞在した約半日の間にサイレントエリアから6人もの新規患者が発見されたことに非常に驚いた。本腰を入れて早期発見に努めれば、この地域からは大勢の患者が発見されるであろう。シセロ氏によるとサイレントエリアを生み出すのは、医療スタッフの頻繁な人事交代と医師の不足だという。症状が出ていない感染者を見つけるためには適切な医師の診断が不可欠である。また患者に接触する機会の多い家族や近隣住民を重点的に検査し、早期発見に努めることも非常に重要である。
クイアバに滞在している間、ペドロ・タケス州知事とレオナルド・アルバカキ州議員と面談することができた。特に知事は選挙の時にハンセン病問題の解決を公約に掲げるほど熱心にハンセン病対策に取り組んでいる人物で、残り3年の任期までに何としてでも解決したいと話されていた。私は40年間、120か国以上でハンセン病の制圧に関わってきた経験から、制圧には指導者の強い情熱が欠かせないことを知っている。そのため知事や政治家が本気で取り組むのであれば協力の準備はあることを伝えた。まずはマットグロッソ州で成功事例を作り、ブラジル全土に普及させることができれば、ブラジルの制圧も「絵に描いた餅」ではなくなる。
シセロ氏同様に新規患者発見に熱心に取り組むペレス医師とは具体的な対策について何度も話し合う機会を得た。ペレス医師は「早期発見を強化すると最初の3年で患者は倍増するでしょう。しかし3年後からは患者数は必ず減ります」と話していた。私は一時的にせよ患者数が増えることを恐れず、真剣に問題に立ち向かう姿勢に心底勇気づけられる思いがした。患者が多いことは恥ずかしいことではない。ただしそれを放置することは恥ずかしいことだ。ひとりでも患者を減らすために、マットグロッソ州での活動を支援したいと思う。
また、マットグロッソ州ではハンセン病回復者の団体IDEAの集会に参加した。IDEAはパロウィア地区のカトリック教会で回復者の生活向上の活動を行っている。回復者15名以外にも30名程度の地域住民が参加して、収入安定のための手芸活動や住民の健康を促す保健活動を行っている。近隣には多くの回復者がいるが、障害があるので人目を気にして外に出たがらないという。そこでメンバーは家を訪問して活動に加わるよう促しているそうだ。
組織の紹介をしてくれたのは、リーダーのアルジーラさん。彼女は14歳でハンセン病を患った。ある日親からサンパウロに出稼ぎに行くように言われた。娘の病気を隠すためだったと彼女は語る。コロニーで結婚して子供をもうけたが、最初の2人は引き離された。子供は自分の両親が育てることになった。手足に重い障害が残るアルジーラさんは、差別を肌で感じたために、同じような境遇の回復者が尊厳を取り戻し、安定した生活が送れるよう強い信念をもって活動している。
私は集会の参加者に対して、回復者の生活を改善するためにはアルジーラさんのように自らが立ち上がって戦うよう訴えた。さまざまな病気がある中で、なぜハンセン病患者・回復者だけが差別を受けなければならないのか。彼らが悪いのではなく、社会が間違っているからである。社会を直すためには、当事者自らが立ち上がっていかなければならない。彼らの地道な活動が社会を動かす大きな力になることを信じている。
最後の訪問地はペルナンブーコ州であった。ペルナンブーコ州は北東部に位置し、州の東側は大西洋に面している。ペルナンブーコに到着するとすぐに州保健局に向かった。保健局では、ハンセン病を含む「顧みられない熱帯病(NTD)」を対象とした新規患者発見および早期治療のためのプログラムであるSANAR計画について説明して頂いた。対象地域は州全体だが、深刻な地域にはより重点的に活動している。活動は州保健局がイニシアティブを取っているが、様々な機関と協力していることが特徴である。例えば教育機関と連携して、子どもの疾病の早期発見に努める活動などがある。ハンセン病に関しては、皮膚の斑点など初期症状の絵を見せて自分や家族に同じような症状がないか確認させている。2013年は24万人の児童を対象に活動を行い、20,107人が検査を受け、57人の感染者が発見された。また刑務所で650人の受刑者を対象にハンセン病検査を実施し、55人の感染が確認されたとのことだった。
次にレシフェ郊外にあるジェラル・ミルエイラハンセン病専門病院を訪問。1941年に開業して以来、多くのハンセン病患者を治療・収容してきた。家族や社会から隔離された患者・回復者は、敷地内で畑を作り、養鶏や養豚を始めた。教会などの宗教施設や劇場も作られ、11,000ヘクタールの病院敷地はまるで小さな町のようであったという。また音楽や文学などの芸術を通して、自分たちの存在をアピールする人たちもいた。それらの記録は看護師が大切に保存している。さらにその看護師は回復者が亡くなると当時の歴史も消えてしまうことを危惧し、回復者からの体験談を聞き出しており、できれば出版したいと話してくれた。一番多い時期には約500人のハンセン病患者が入院していたが、現在ではベッド数が61床までに減少した。外来患者は1カ月で約200名である。さらに社会復帰できない回復者の居住区もあり、現在では11名が暮らしている。重い後遺症の残る回復者は治ったと伝えても、なかなか理解してもらえない苦しさがあるという。
病院内にある大量の資料を見せていただく
看護師にカルテ保管室、外来病棟、リハビリ室、入院病棟、回復者の住居、劇場など施設を案内して頂いた。印象に残ったのは回復者の住居で43年間一人で住んでいるという男性で「27歳でここに入ってからずっとこの中で暮らしている。青春はすべてここだった」と話していた。その隣で一人暮らしをする女性は私のために歌を3曲も歌ってくれた。とても美しい歌声に癒され、地球の裏側から来た疲れが吹き飛んだような気がした。辛いこと、悲しいことを乗り越えて、たくましく生きる回復者を心から尊敬している。そして彼らの生活が平和で穏やかなものであることを願っている。
施設内にある住居に住む回復者を訪問
その後、ブラジルの回復者団体MORHANが開催した回復者およびその家族のための集会に参加した。ブラジルのハンセン病の歴史、引き離された家族についてMORHANのギルド氏を始め、参加者からの話を聞くことができた。ブラジルでは1962年にハンセン病患者の強制隔離が法律で禁止されるまで、患者は社会や家族から引き離され、施設の中で別の生活をしなければならなかった。少年期に入所した患者は学校に通うことができず、結婚も施設の中の相手に限られた。また生まれた子供は外の施設に送られたり、養子に出されたりしたという。MORHANは、当時のブラジル政府の非人道的な誤った政策に対して、回復者およびその家族が補償を求め、彼らの生活が改善されることを中央政府に対して訴えている。
日本財団はMORHANに10年以上支援をしている。次の世代が彼らのような深刻な経験をしないように、活動を活発にしなくてはならない。彼らは新規患者を見つけ、正しい知識を伝えることができる活動家たちである。私は参加者に対して、ひとりひとりの声が政治・行政を動かし、社会をよくする力になることを理解して欲しいと訴え、またこれからもMORHANを通して支援していくことを約束した。
今回の旅を通して最後のハンセン病未制圧ブラジルの課題が見えてきた。中央政府はハンセン病問題に真剣に取り組んでいるが、マットグロッソ州の「サイレントエリア」のようにまだ発見されていない患者が大勢いること。そして医療スタッフのレベルを上げる必要があること。患者の家族や近隣住民の診察を重点的に行うことで早期発見・早期治療が可能であることも分かった。私はマットグロッソ州での早期発見の取り組みを支援することでまずはモデルケースを構築し、その成果をブラジル全土に普及させる取り組みに着手しようと思う。また人権面に関して言えば、MORHANとの協力関係を強化して、回復者や家族の尊厳回復にも力を入れていきたい。ブラジルからハンセン病問題がなくなるまで、私は何度でもこの国を訪れるつもりである。