“笹川陽平批判”について
―有意義な論議を歓迎―
9月24日付朝日新聞朝刊に掲載された同社国際報道部機動特派員・柴田直治氏のコラム「日本財団 増す存在感、説明責任は十分か」に対し、亡父・笹川良一と私の姿を「宿命の子」にまとめられた作家 高山文彦氏が最近、フェイスブックで感想を発表された。
柴田氏はコラムで「アジアで日本財団の存在感は大きい」、「政府の途上国援助の現場で一部にしろ非効率と無責任さを見てきた私には、財団の事業の多くがODAより効率的に見える」などとする一方、「人権弾圧を批判する欧米が(ミャンマーの軍事政権に)経済制裁を科すなかで、独裁者タンシュエ氏ら軍幹部ともつきあった」、「透明性と説明責任がモットーの財団だが、画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く面がある」などと指摘された。日本財団、私に対し叱咤激励をいただいたと受け止めている。
これに対し高山氏は、例えば「軍幹部らともつきあった」の記述に対し、「『独裁者』と会うのは、ミャンマー国内への入口がそれしかなかったからだ」、「彼(笹川陽平)はビルマ族軍事政権とのみ『つきあった』のではない。ミャンマーと国境を接するタイ奥地へ何度も出かけ、そこで少数民族各州の代表者たちと会って、和平実現への協議を重ねてきた」など、何点かの反論を記した上で、柴田氏のコラムこそ「『画竜点睛を欠く』のではないか」と指摘されている。
私は日本財団会長に就任以来、財団の透明性と説明責任を第一義に職員教育はもちろん、自らにもそれを課し、本ブログでも極力、財団の取り組みや自分の考えを発信してきた。近年は財団事業や私自身がメディアに取り上げられる機会も増えたが、残念ながら影響力はいたって限定的である。
日本財団が「迅速な施策決定・実行」をモットーに事業を展開し、私が常日頃「責任は自分がとる」と公言しているのは否定しないが、事実は優秀な職員に支えられて職責を全うしているのであって独断で物事を決定しているわけではない。現実にも有識者によるアドバイザリー会議や評議員会、理事会と意思決定のプロセスは厳格であり、独裁が許されるような自由はない。
柴田氏もこの辺りの事情は十分、承知されているはずで、字数に限りある紙面の制約から意図が十分伝わらない面があったのではないかと勝手に解釈している。高山氏の理解ある目線にも感謝する。
勝手な言い方で恐縮だが、当事者である私は今回の“論争”を大変有り難いことだと受け止めている。こうした議論をしていただければ財団の事業の透明性は自ずと高まり、財団が目指すべき方向性にも有意な影響が出てくるからだ。
同時に、今後、「民」が果たすべき役割に対する社会の理解と期待も高まる。組織も批判するより、批判されることで強靭になる。
そんなわけで、この後にあえてお二人の文章を掲載させていただく。お二人には恐縮だが、本ブログも参考に活発なご意見、ご批判をいただければ幸いである。
2015年9月24日 朝日新聞 朝刊
【ザ・コラム】日本財団 増す存在感、説明責任は十分か 柴田直治ミャンマーの首都ネピドーの巨大な国際会議場で9日、日本財団の笹川陽平会長(76)は、少数民族武装勢力の長老ら49人をテインセイン大統領に引き合わせた。
政府と少数民族側はその場で、来月にも停戦協定署名式を催すことで大筋合意。67年前の独立以来続く内戦は、終結へ向け節目に近づいた。長老らの多くが首都に足を踏み入れるのは初めて。身の安全の保証人として笹川氏に同行を依頼した。財団はチャーター機を仕立てて一同を送り込んだ。
ミャンマー国民和解担当日本政府代表でもある笹川氏は、悪路の続く少数民族支配地域に30回以上足を運んできた。少数民族側はもとより、時に政府側の宿泊、交通、会合費も財団が臨機応変に用立ててきた。
日本政府は昨年1月、紛争地域の民生向上への支援を決定。食糧など十数億円分を支出したが、多くは財団が現地に届けた。
設立53年の財団にとり、この和平支援は今や、ハンセン病制圧と並ぶ事業の柱だ。
軍事政権時代から学校建設や福祉車両贈呈などの援助をしてきた。人権弾圧を批判する欧米が経済制裁を科すなかで、独裁者タンシュエ氏ら軍幹部ともつきあった。
現政権誕生後は紛争地近くで薬草園を開くなど活動の幅を広げている。
ミャンマーに限らず、アジアで日本財団の存在感は大きい。潤沢な資金力を背景に障害者、日系人、ボランティアや農業などを支援。国内でも東日本大震災時の素早い義援金の配布は記憶に新しい。多方面での活動を紹介するには紙幅が足りない。
だが20年ほど前まで世評は厳しかった。
◇
約35年前、徳島市に室内プールと体育館ができた。新人記者の私が原稿を書くと、先輩は「大きく扱う必要はない」。当時市内で最大規模の施設だったが、理由は「競艇の宣伝やないか」。日本財団の前身、日本船舶振興会の関連団体の事業だった。
日本財団には競艇の収益から100億円単位の交付金が毎年入る。フォード財団やトヨタ財団のような私財や企業利益でなくNGOのような寄付集めの苦労もない。
「カネの出自」に加え、陽平氏の父で初代会長の良一氏の個性が世に大きなインパクトを与えた。戦前の右翼にしてA級戦犯容疑者。ドンとも黒幕とも呼ばれた。「世界は一家、人類皆兄弟」「一日一善」のテレビCM。自己顕示と押しつけがましさにへきえきしたのは私だけではないはずだ。
良一氏は1995年に亡くなった。その前後、組織内で激しい内紛があり、幹部職員が汚職で摘発された。一族で資金を回しているのではとの報道もあった。
窮地に陥った財団は、作家の曽野綾子氏を後継会長に起用し、直接の世襲を避けた。事業の積み重ねや積極的な発信、マスコミ対策で徐々に失地を回復した。日本財団への改名もイメージ向上に寄与した。
◇
政府の途上国援助の現場で一部にしろ非効率と無責任さを見てきた私には、財団の事業の多くがODAより効率的にみえる。
財団に入る交付金が国庫に回り、国会の承認のもとに配分されたら、ミャンマーへの肩入れや和平交渉時の融通無碍(ゆうずうむげ)な資金投入などはあり得ないだろう。
官庁の天下りを排してきた。交付金の使い道は「すべてを公平に扱う必要はない」という陽平氏が最終的に決定する。
私は、シンガポールを連想する。初代と3代目のトップが父子。独裁体制で規律を守り、迅速に施策を決定し、実施する……。
ワンマンですね? 陽平氏に水を向けると「私ほど職員の意見を聞くトップはいない。そのうえでリスクを取っている」と反論された。「批判は歓迎。成果で応える」
透明性と説明責任がモットーの財団だが、画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く面もあると私は思う。
例えば、関連団体の多くに笹川の名を冠している。これらも改名すれば、世間に残る抵抗感をぬぐえるのではないか。
良一氏らが興した文化系団体などに基本財産を積んだうえ、毎年多額の活動費を出し続けている。公金の使途として適切か。
陽平氏が会長に就任して10年。任期に制限はなく、父親同様、事実上の終身職だ。
世襲批判は「逆差別」という。ならば後継はどうなるか。3代続けば家業である。シンガポールだってそれはなさそうだ。
(国際報道部機動特派員)
*高山氏のフェイスブック朝日新聞国際報道部機動特派員・柴田直治氏の「日本財団 増す存在感、説明責任は十分か」と題する記事をいまになってシェアするのは、ミャンマーで総選挙がおこなわれた現在、この無責任な、ジャーナリストとも思えぬ心無い記事を批判しておかなければならないと以前から思っていたからである。こうした批判を載せてくれる商業雑誌はないので、FBに投稿することにした。
柴田氏は日本財団と笹川陽平氏に対して、たいそう優等生な苦言≠呈しておられる。『宿命の子』の作者である私がこの記事を質すのは、笹川氏を守るためでもなければ、笹川氏から頼まれたわけでもない。予断と偏見に満ちたこの記事を読んだ読者が、さらに想像力を働かせて自己のなかで予断と偏見を膨らませることのないよう「事実」を伝えておきたいからである。
まず柴田氏は、長く続いたミャンマーの軍政下、「人権弾圧を批判する欧米」から経済制裁を課されたミャンマーにおいて、「(笹川氏は)独裁者タンシュエ氏ら軍幹部ともつきあった」として、なにか笹川氏や日本財団が特殊な利権を軍幹部と貪りあっていたような印象を読者に与える書き方をしている。しかし学校建設や福祉車両贈呈は「独裁者」が支配するエリアのみに対しておこなわれたのではない。独立を目指してビルマ族軍事政権と戦闘を繰り重ねてきた周辺の少数民族自治州に対してもおこなわれてきたのだ。それはたとえば薬箱を各集落単位で置いてまわる地道な活動でもあった。私はそうした3つの自治州へ実際に行き、医療従事者を育成する日本財団関係者の熱心な姿と、彼らとともに医療の充実を図ろうとする現地の人たちの熱心な姿をこの目で見てきた。
「独裁者」と会うのは、ミャンマー国内への入口がそれしかなかったからだ。少数民族自治州へ直接行こうとすれば、密入国の方法をとらざるを得ない。70年近く続いた内戦で、最も悲惨な虐殺、大量殺戮行為を受けてきたのは少数民族側であって、笹川氏の本心は、食糧ルートを絶たれ大麻栽培・密輸などで武器・弾薬や食糧を他国から取り寄せねばならなかった少数民族側の悲運を終わらせてやりたい、そのためには圧倒的多数を誇るビルマ族の軍事政権とのあいだで和平を実現しなければならない、ということにあった。
彼はビルマ族軍事政権とのみ「つきあった」のではない。ミャンマーと国境を接するタイ奥地へ何度も出かけ、そこで少数民族各州の代表者たちと会って、和平実現への協議を重ねてきた。やがて少数民族各州にも出かけ、ビルマ族軍事政権の了承を得て、コメ支援を実現させたのが今回の停戦合意(まだすべての自治州との停戦合意は成ってないが)への大きな一歩となった。
柴田氏は記事冒頭で、笹川氏が各少数民族の長老ら49人をチャーター機を仕立て首都ネピドーへ連れて行った事実を書いている。記事にもあるように、それは長老たちが身の安全の保障を笹川氏に求めてきたからである。停戦協定を結ぶたびに一方的に破棄され虐殺行為を被ってきた少数民族側にとって、自分たちだけで首都に出向くのは拉致・拘束の可能性を限りなくはらむ危険な行為なのだ。訴えを聞いて笹川氏はチャーター機を用意し、彼らの命を守るために自分も一緒に同機に乗り込んだのである。
残念ながら柴田氏はこうした行動を正面から評価するのではなく、記事後半にあるように、いったいこれに使われた多額な金銭は公正な出自をもったものなのかと追及している。使い道について「すべてを公平に扱う必要はない」との笹川氏のコメントを載せ、その用途については「陽平氏が最終的に決定する」と書いて、「独裁」への懸念を述べている。では柴田氏は本人から「配分には財団の精神に沿って、優先順位をつける。いま最も必要とされているところへ重点的に人も物も金も投入する。時を逸すれば、取り返しのつかないことになる」という言葉を聞かなかっただろうか。そうした最終判断は、ひとりでなければできるものではない。
ミャンマーでの笹川氏の思慮深い決断と行動は、柴田氏の筆に乗せられると、後半の持論展開のための枕にすぎないものとして取り扱われている。記事の中段では財団の過去の黒い評判についてわざわざ触れているが、はっきり言っておきたい。そのような評判は、なんの確証もとらず記事にして世間にひろめてきた朝日新聞の当時の記者たちの成果ではなかったのか。
記事の最後は「後継」を自分の息子に継がせるなとでも言いたげな文章で締めくくられる。なんに対しても「世襲」を否定するのは、人間の精神運動の柔軟さを信じようとしない者の卑屈さから生まれる。これは狭隘なコミュニストの特徴のひとつである。そうでなければ自分のお行儀の良さを世間に見せたいだけの優等生的心根の表われなのであって、「3代続けば家業である」などと断じてみせているけれども、この財団はそもそも大きな家なのだ。不正や腐敗が起きるのは、どの組織を見てもわかるとおり、創業者の精神を忘れ自己の利益のみを貪ろうとする幹部たちがいるところではないか。
「関連団体の多くに笹川の名を冠している」ので「これらも改名すれば世間に残る抵抗感をぬぐえるのではないか」
「良一氏らが興した文化系団体などに基本財産を積んだうえ、毎年多額の活動費を出し続けている。公金の使途として適切か」
こうした提案≠見るにつけ、私はある存在がこの人に寄り添っているのではないかと考え込まざるを得ない。笹川良一時代から曽野綾子時代を経て、財団は官僚の天下りを根絶することに成功した。こうした提案≠ヘ、そうした霞が関の人びとからも聞かれるのである。あるいは組織内に「世襲」を好まぬ人たちがいて、彼らから励まされて書かれたのではないかと疑ってみたくもなる。
「画竜点睛を欠く面もある」と柴田氏は笹川氏に対して述べている。そのまま私は返そう。いま言ったような余計な「予断」や「憶測」を抱かせる点においても、あなたの記事こそ「画竜点睛を欠く」のではないかと。
笹川氏も財団も抗議をしないだろう。しかしこのような「ためにする」論調を読者に伝えた柴田氏の責任は重い。日本のマスコミはいまだ笹川氏と財団を正面から見ようとしない。今回のミャンマー総選挙の監視団長をつとめたのは笹川氏なのである。やっと選挙が近づいて彼の名前を出すようになった。善行は規模が大きければ大きいほど、人には素直に理解されない。そこを正確につなげていくのがジャーナリストの仕事のひとつではないのだろうか。戦争のない国にいればこそ、大規模な善行も可能なのだ。平和であるいまのうちにできることを100年後からの視野で見つめ実践する人たちがいるのである。正気の目で見てもらいたい。