「ハンセン病制圧活動記」その25
―スペイン・ポルトガル訪問記―
菊池恵楓園機関誌『菊池野』
2015年3月号
2014年11月1日から3日まで、スペインとポルトガルのハンセン病療養所を訪問した。現在、これらの国々をはじめヨーロッパの国々において、ハンセン病の新規患者はアフリカなどからの移民が年間数名発見されるほかは見つかっておらず、日本と同様、かつてハンセン病患者が集められた病院や療養所で高齢の回復者が静かに余生を送っている。これまでノルウェー、ロシア、ウクライナ、ルーマニアなどを訪れ、回復者の減少に伴う療養所の将来構想や、かつての隔離の象徴である建物や人々の声をどのように残して行くかに取り組む様子を視察してきた。今回の訪問も、それぞれの療養所の過去と現在、そして未来への展望を見つめる機会となった。
スペイン東部、地中海に面するバレンシアから南へ車を2時間弱ほど走らせたところに、フォンティーイェスハンセン病療養所があった。地中海沿岸らしい温暖な気候で、10月でも日中の気温は20度を超え過ごしやすい。空気と水がきれいで風がよく通る場所を選んで建設されたという療養所は、周りを山に囲まれた谷にあり敷地面積は70万平方メートルと広大。オレンジの屋根と白い壁が鮮やかなメインの療養施設と、かつての面影を残す古い建物が混在し、まるで中世ヨーロッパのお城に迷い込んだかのような錯覚に陥る。1909年、当時社会で孤立し助けを必要としていたハンセン病患者を気の毒に思ったイエズス会の神父と敬虔なカトリック信者である弁護士によって設立され、1920年代、周囲の村人が農作物に影響があると恐れたことから四方を覆う全長3kmの壁が建設されたが、すぐに誤解は解け、この療養所は村人たちの主な就職先となる。入院患者が最も多かったのは1940年代で438名が暮らし、教会や劇場、パン屋に大工、美容院に庭師など生活の全てが所内に揃っていたという。現在は使われなくなった建物も多く、回復者の数は35人。設立当初から続くハンセン病研究所としての機能は残り、ヨーロッパ随一のものとして名高く、医療関係者の研修も多く受け入れている。スペインで毎年見つかる15-55人の新規患者(南アメリカや北アフリカからの移民か、スペイン国外に長く滞在していた人)の診断・治療も行う。一般の病院や老人ホームとしての役割も兼ね備える。さらに、1989年からは海外への支援活動をはじめ、インドやブラジルでのプロジェクトも展開している。
フォンティーイェス・ハンセン病療養所
全長3キロの壁を臨む
到着すると、ラモン・トレナー・ガリンド所長ほか、フォンティーイェスの幹部が揃って出迎えてくれた。まず、療養所内の小聖堂で40名ほどの回復者やその家族、職員に交じってミサにあずかったあと、日当たりの良い廊下で入所者の皆さんと交流した。68歳のガルシアさんという元気な男性は、スペイン南部のアルメリアという港町出身で、若い時は船乗りをしており、療養所には8年前から住んでいる。サッカーを見るのが楽しみの一つで、ひいきのチームはバルセロナだという。また、76歳の女性は16歳で発症、フォンティーイェスに入所、ここで結婚し、子どもも孫もたくさんいるという。病気になったときは家族と別れるのが悲しくてたくさん泣いたけれど、今はとても幸せ、いつでも外に出て戻ってこられるしね、と笑顔を見せた。ヤシの木と手入れされた芝生が心地よい中庭では女性たちが車いすを寄せ合って井戸端会議に興じていた。性能の良さそうなピンクの車いすに乗ったマルムエラさんという80歳の女性は、「30歳の時にハンセン病を発症して療養所にやってきた。7人の子宝に恵まれたが、自分が39歳の時娘を亡くしたときはとても悲しかった。今は天国で生きている旦那を想いながら、友達とのお喋りを楽しみに暮らしているのよ」と穏やかに話した。
その後、研究ラボ、研修施設、教会などの施設に案内された。世界各国のハンセン病に関する資料を収集している図書館へは、多くのハンセン病研究者が国内外から訪れるという。国際事業担当のエドゥアルドさんは、イタリア、ギリシャ、ルーマニア、ポルトガルなど他国においてもハンセン病に関する歴史遺産の状況を調査し、連携の可能性を探りたいとの意欲を見せた。
図書館で貴重な資料を見せてもらう
療養所の職員はフォンティーイェスが果たす多面的な役割―高齢回復者の終の棲家、ハンセン病の歴史を保存し、次世代に伝えるためのセンター、豊富な経験と知識をもとに進められるスペイン国外の蔓延国への支援―に大変誇りを持っているようだった。早い時代から単に患者を社会から隔離するのではなく、患者の人間性に配慮して活動を進め、尊厳を持って生きていけるような生活の場、すなわち一つの村落共同体をつくりあげてきたフォンティーイェス。最終的に社会に復帰させるという創立者の意思を引き継ぎ、カトリック協議の弱者救済・社会奉仕の精神を原点に進めてきたこの療養所は、世界的に見ても稀有であり、ハンセン病問題のこれからを考えるにあたって重要な場所であることは間違いない。
フォンティーイェスの訪問を終えた後、バレンシアから飛行機で1時間半ほどの距離にあるポルトガルの首都リスボンに向かった。2003年に訪れた国立ハンセン病療養所ロヴィスコ・パイスを再訪するためである。リスボンから車で北に2時間で、世界遺産として有名なコインブラ大学がある街に辿り着く。コインブラからさらに西へ1時間ほど、海に向けて走ったところに療養所がある。
ロヴィスコ・パイスハンセン病療養所へは、1947年、ポルトガルで初めて、そして唯一のハンセン病専門病院兼療養所として設立された。200万メートルの広大な敷地を持ち、自給自足できる環境が整い、病院以外に住居や教会などの生活に必要な施設が揃っていた。入所者数のピークは1959年から60年頃で、およそ1,000名。何らかの理由で入居できない患者に対しては、療養所から監視員が派遣されたという。ポルトガルでは、1970年代後半から80年頃まで患者は強制隔離が義務付けられていた。またここは、ハンセン病研究センターとしての側面も強く、医学的研究が進んだ施設として知られ、国内初の形成外科手術もここで行われた。1996年に最後の患者が完治し、現在はハンセン病患者の治療は行わず、国内最大のリハビリセンターとして、脳に損傷を負った人などを年間約400人受け入れている。
10年前に訪れた際のスナップ写真を手に、高齢の回復者が暮らす病室を回った。最初に案内された最新の機材を備えた現代的なセンターに比べ、こちらは清潔ではあるが年季の入った建物である。40人いた回復者は現在、男性7名、女性5名の合計12名で、最年少は75歳、最年長は93歳である。前回訪れた際、ヨーロッパで最後に発見された新規患者である男性に出会っていた。畑仕事を生き甲斐にしており、再会を約束して太陽電池で動く腕時計をプレゼントしたのだが、数年前に70歳で亡くなったと聞かされた。ちょうどおやつ時だったため、女性3名、男性3名が食堂で介助を受けながらお茶を飲んでいたが、皆認知症が進み、会話は難しかった。ただ、私の持っていた写真に10年前の自分を見つけたある回復者は嬉しそうに頷いてくれたので、「お互い年を取りましたね。どうぞお元気で暮らしてくださいね」と一生懸命話しかけた。車椅子に座り廊下で窓に向かってずっと外を眺めている男性、見慣れぬ人種の訪問者に不思議そうな顔をする男性。障害の残る手に刻まれた深いしわは、ここが確かにかつてハンセン病療養所だったこと、そしてそれがもうすぐその役目を終えようとしていることを物語っていた。
10年前の写真を喜んでくれた女性
回復者との交流を終えた後、2つの印象的な施設に案内された。1つは、非常に珍しいV字型の古い教会。教会は普通、司祭が立つ祭壇があり、その手前に会衆が座る椅子が並ぶが、この教会は、Vの字の2辺が交わる部分に祭壇を設け、その前に4〜5列のみベンチが並び、両辺にあたる部分にいる人々がどちらからでも祭壇が見えるようになっている。これは、男女が交わらないように同時にミサに参加できる工夫で、片方の辺は男性用、もう片方は女性用、祭壇近くのベンチは療養所職員用に割り当てられたという。日本と同様、子どもができないように男女の患者を分ける風習があったことがわかる。それでも産まれた子どもはどうなっていたのか。そのヒントが続いて案内された古く朽ち果てた独特のコンクリート造りの平屋建ての建物に隠されていた。50畳ほどあっただろうか、電気は通っておらず、夕方近くだったために中は薄暗い。部屋の天井は高く、木枠にはまったガラス窓で3つの部分に区切られていた。ガラスには、直径3cmほどの穴が無数に空いている。療養所の職員は、この場所はかつて入所していた患者の親とその子どもが対面できる場所だった、子どもはこの近くで育てられ、教会関係の人が自立するまで育て、時々ここで親とガラス越しに対面したのだと説明する。
ハンセン病患者から産まれた子どもは親に育てさせてはならない。これはかつて世界のあちこちで常識であり、かつてポルトガルの植民地だったブラジルや、マレーシアなどの国においても、産まれて数日で両親と生き別れた二世の「元」子どもたちが肉親を探す取り組みをNGOが支援している。ポルトガルでもそのような悲劇があったのか。現地の職員の口からは詳細を聞くことはできなかったが、ちょうど今年の6月にある現地の雑誌に、証言を交えたこのような特集記事があったのを見つけていた。「ガラスで仕切られた壁のこちらとあちらに、木製のベンチが並べられ、何かが始まるのを待ちわびる人々が座っている。ドアが開き、よそ行きの格好をした子どもたちが入ってくる。子どもたちは、ガラスの向こうに自分の親を見つけて指差す。親がそうしたいというそぶりを見つけると、子どもたちを連れてきた大人が子どもを抱きあげ、ガラスの方に近づける。ガラス越しに親子が手を重ね、キスをする。親が、ガラスに空いた穴に向かって、ご飯は食べてる?良い子にしてる?元気なの?と必死に話しかける。子どもが全ての質問にうん、と答える。面会時間が終わって、子どもたちはまた大人に連れられて帰っていく。住む場所は2マイルしか離れていないのに、とても遠く離れているようだった―」現在4、50代になった二世の記憶は、目の前の使われなくなった建物の状況と全く一致していた。ここでどれだけの親子が、胸が張り裂けそうな時間を過ごしていたのだろうかと、雨が降り肌寒くなってきた建物の中でしばし思いを巡らせた。
インド建国の父、マハトマ・ガンジーはかつて、ハンセン病病院の開所式に招待された際それを断り、「この病院が閉鎖される時、扉の鍵を掛けるために出席します」と言ったという逸話が残っている。ガンジーの言葉が、スペインやポルトガルのような先進諸国から順に、現実のものとなりつつある。これは医療関係者をはじめとする多くの人々の努力の結晶であり、歓迎されるべきものである一方、世界各地のハンセン病療養所で起こったことをどのように次の世代に伝えていくかを考えることが急務となっている。多くの人々の証言を集め、建物を保存し、世界に共有していくことに、我々もできる限りの手伝いをしたいと改めて感じた。