「インド・ジャルカンド州訪問」その2
―ハンセン病支援活動―
前回述べたように、訪問の目的は、ハンセン病制圧活動の再活性化と回復者の組織強化運動の一環であるハンセン病年金値上げを州政府担当局に陳情することであった。
ハンセン病回復者は、かつてのハンセン病病院の隣接地や誰も住まない墓地の跡、荒れ地やドブ川沿い等々に自然発生的に住みついた場所をコロニーと呼んで生活している。彼等は長い間、家族は勿論、社会からも見捨てられた人々であった。
中には、コロニーの環境改善を州政府に要求し、10数回も逮捕されながら闘争を通じて改善に努力したリーダーも存在する。しかし、1本の糸では弱い。弱い糸を数百本、数千本に束ねれば強いロープになる。そんな思いで日本財団が全額支援してハンセン病回復者の全国組織「ナショナル・フォーラム・インディア」を組織化し、活動を開始して8年になる。現在のところ850ヶ所のコロニーが加盟しているが、まだ未登録のコロニーも数多く存在するのが現状である。
ナショナル・フォーラムのナルサッパ会長、58のコロニーを束ねる州リーダーのジャイヌディン氏と私の3人で、マオイストのデモで州都ランチ以外への外出が制限されている中、市内の2ヶ所のコロニーで啓蒙活動を行った。
インディラ・ガンディー・コロニーは人口550人の比較的大規模なコロニーで、10年前に訪問した折に植樹した木の成長を楽しみにしていた。しかし、コロニーの発展と環境改善の中で、バラック小屋から土蔵作りの家に変貌し、植樹した木は跡形もなく消えていた。酷暑のこの地域では夏は涼しく冬温かい土蔵作りの家の方が快適だと思われるが、少女は早くレンガ積みの家に住みたいという。やはり住み心地より外見の美しさにあこがれるのだろう。
住環境は改善されたが、相変わらず住人が物乞いを主たる職業にしていることは、何百ヶ所のコロニーを訪問している筆者には、基本的な問題が遅々として解決していないことに驚いた。
家の隅や軒下のあちこちに壊れた木製の手押し車が放置されていた。重い障害者や老人を載せ、物乞いをする場所まで移動させるのである。若者の中には、物乞いの移動を手伝い、一日の稼ぎの半分を取り上げて生活している者もいる。手に職のない孤立したコロニーの若者にとって、採用してくれる職場もなく、社会から拒絶された存在として成長してきた経緯はある程度理解しなければならないが、このまま放置していて良い訳がない。何とか彼等に夢と希望を持たせたいのである。
最近「ササカワ・インド・ハンセン病財団」で、この種の若者に職業訓練の実習を行ったところ、75%が就職できたとの報告があった。訓練内容は一般社会人との会話の方法、挨拶や就職を希望する会社に自分の気持ちを伝える方法を指導する程度であるが、商店やレストランのサービス係に採用されたとのこと。しかし、月々確かな収入が得られることが彼等にとって望外のことだと思うのは支援している我々サイドの思い上がりで、若者の中には、8時間働くよりも物乞いの往復を手伝った方が楽で稼ぎが良いとする者も多い。朝夕の手伝い以外コロニーで所在なく過ごしている若者が存在するのも現実である。
コロニーに住む回復者の物乞いをゼロにしたいとの念願は、私の人生の目標の一つである。老人や障害者には政府に年金の増額を要請し、働ける人には「ササカワ・インド・ハンセン病財団」より少額融資で資金を提供する。これにより小規模商売、例えば、牛を飼って牛乳を売る、織物のための機械購入、花入れ用などの各種竹細工等々の指導も含めた協力活動、子供たちへの教育資金の提供も行っているが、コロニーの指導者の資質により、生活向上に意欲的なコロニーと旧体制依然としたコロニーでは、財団への支援要請の数でわかる。
一方、夢と希望を持って高等教育を受けている若者もいる。
今回、ササカワ・インド・ハンセン病財団の奨学金を受け、4年制の看護大学で勉強している二人の女子学生を訪問した。
マオイストのストで、日曜日にもかかわらず学長からの外出許可が下りず、当方から小一時間車に揺られ、荒野にポツンと建つ学校を訪ねた。
350名の女性が通う女子看護大学だが、日曜日のため人気はなく、コンクリートの壁のあちこちに色とりどりのリボンの飾りが貼りつけてあるのが唯一、女子大学めいた雰囲気で、殺風景この上もない建物の会議室で二人の女子学生は出迎えてくれた。歓迎の歌をデュエットで歌い、各々感謝の言葉と将来ンハンセン病コロニーで働きたいと、目を輝かせて語ってくれた。下記写真の砂絵のような作品は、多分、昨夜徹夜で制作してくれたのだろう。
砂絵の「Thank you」メッセージ
多分、徹夜で・・・
彼女たちの笑顔に接したとき、文豪トルストイの「幸福とは他人の幸福を見ることである」との言葉をしみじみ思い出した。
看護師奨学生
(つづく)