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7月22日(金) [2011年07月22日(Fri)]

7月22日(金)

バンギ(中央アフリカ)発、パリ経由

13:40 成田着

15:30 自宅着

「モンゴルの変わった習慣」その1 [2011年07月22日(Fri)]


遊牧の民、子供達に託す親の思いは?
ウェブより転載



「モンゴルの変わった習慣」その1


それぞれの国には長い文化・伝統があり、日本を中心に考えるとおかしなことになる。

例えば、韓国では女性は立て膝で食事をし、食器を手にすることは食べ物を独占する意味があり、嫌われる。食器も箸も金属製なのは、古来、毒殺を恐れて銀食器を使用した名残りである。

民族学者・柳田邦男の「用の美」、即ち、生活用品の中に美を感じる文化は日本独特の世界に誇るべきもので、日本食をユネスコの世界無形文化遺産に登録しようとする運動も、是非成功してほしいものだ。

前置きが長くなったが、モンゴルは気候の厳しい国で冬は零下30度にもなり、放牧中の山羊や羊が大量に死ぬことも珍しくない。したがって、神を尊敬し、悪魔を恐れる風習は今なお色濃く残っており、特に子供と悪魔の関係はユニークで、可愛いい我が児が悪魔にさらわれない(死亡しない)ようにするために、わざと醜い名前をつける習慣がある。

「バースト(ウンコ)」、「フンビシ(人でなし)」、「テルビシ(あっちじゃない)」、「エネビシ(これじゃない)」、「ネルグイ(名無し)」、等々、中には「悪い犬」もある。

日本でも一時話題になった「悪魔」なる名前は、さすがのモンゴルにも無いらしい。「悪魔」が「悪魔」なる名前の子供を見つければ、真っ先に連れて行くに違いないからだ。

子供の褒め方にしても「まあ!! 不細工な子供ね」とか、「汚い子供ね」と褒めなければいけない。「まあ!! 可愛いい!」は悪魔にさらわれる(死亡する)と、お母さん方は本気で信じているらしい。

そういえば小乗仏教の国であるタイ、ミャンマー、スリランカなどでは、子供の頭には仏さまが宿るといわれ、日本のように子供の頭を可愛いいと言って撫でることはできない。

異文化交流は、まずその国の生活習慣を知ることが大切である。

7月21日(木) [2011年07月21日(Thu)]

7月21日(木)

6:35 バンギ(中央アフリカ)発

14:20 パリ着

19:25 パリ発、成田空港へ

7月20日(水) [2011年07月20日(Wed)]


トゥアンデラ首相より勲章を授与


7月20日(水)

7:30 朝食

8:40 サコ国務大臣、サル教育技術大臣、ナム初等・中等教育大臣

10:10 メディアインタビュー

10:50 DAMARA保健センター

12:00 フォクト国連連絡事務所長

12:40 マイカWHO代表と昼食

14:00 FAIRMED財団・ドリド代表

15:20 記者会見

19:00 トゥアンデラ首相主催夕食会・中央アフリカ政府より勲功章授与




メディアインタビュー

「マッセイ大学Sylffプログラム」20周年記念式典 [2011年07月20日(Wed)]


挨拶は鼻とオデコをつけて
マッセイ大学・マハレイ学長


「マッセイ大学Sylffプログラム」
―20周年記念式典―


マッセイ大学はニュージーランドを代表する大学である。

Sylff(笹川ヤングリーダー・フェローシップ・ファンド)は、世界44ヶ国、69の著名な大学の修士・博士課程の学生に授与されるもので、1987年、アメリカのフレッチャースクールを皮切りに続々と設立。今回はマッセイ大学とオーストラリアのオーストラリア・ビジネススクールの2校が20周年の節目を迎え、式典参加のため2泊5日という変則的なスケジュールで訪問した。

式典は、先方の出席者が30人弱という簡素なものであったが、20年前とは異なり、ちょっと変わった式典であった。

式典の前に、突然担当の先住民族マオリ人より式典の作法についての説明があり、学長挨拶の後にマオリ人がマオリ語の歌を唄うので、当方も筆者のスピーチの後に何でもいいから唄えという。

先方の出席者が起立し、マオリ人の低音による祈りの中を当方が入場し、対面する形で着席。筆者のスピーチの後、当方へ唄の番がまわってきた。幸い、同行者に日本財団を代表するテノール?・小沢直がおり、「千の風に乗って・・・私のお墓の前に・・・」を独唱。歌詞はともあれ、なかなかなものであった。

握手をしながらお互いの鼻とオデコをつける挨拶は初めてのことであり、近年、少数民族のマオリ人対策に神経を使っている様子がわかる一幕であった。

当然、ニュージーランドではラグビーの話が中心になる。今年は世界選手権がご当地ニュージーランドで開催される。勇壮なオールブラックも、最近はフランス、南ア、英国のウェールズ、スコットランド等も強く、予断は許さない。

東チモールの独立記念日で披露されたようなマオリ人兵士の勇壮な戦いの踊りも、オールブラックスの試合前の独特な踊りもなく、式典は静かに終了した。


****************


マッセイ大学SYLFFプログラム
20周年記念スピーチ


2011年6月27日
於:ニュージーランド・マッセイ大学
(原文・英語)

2月22日にニュージーランドのカンタベリー地方で発生した大地震では、130年の歴史を持つクライストチャーチ大聖堂の塔が倒壊した他、クライストチャーチ市で観測史上最大規模の液状化現象が発生し、4万から5万の家屋が被害を受けたと聞いています。その模様は日本でも毎日のように報道され、映し出される映像に日本国民が胸を痛めておりました。その矢先の3月11日、今度は日本で大地震が起こりました。この地震では、地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた大津波が一瞬にして人や家やビルを飲み込み、場所によっては集落全てを根こそぎ飲み込みました。私は高さ39メートルの津波に襲われたある町を訪れましたが、町の原型が残っておらず、陸には巨大な船がいくつも打ち上げられていました。私は自然の驚異に改めて恐怖を覚えたのと同時に、その津波を目の当たりにした方たちのことを思うと胸が痛んでなりません。今回の震災で2万4000人近くが犠牲となり、今も9000人近くが行方不明のままです。かろうじて生き残った人々も、その多くが家族や友人を失うのみならず、家や財産を失い、厳しい現実に身も心も衰弱しています。

その方たちを救おうとこれまでに国内外から多くの支援をいただいておりますが、なかでもここニュージーランドにおかれましては、自国の被災から2週間余りしか経過していない中、政府をはじめ多くの方々が日本への支援を表明して下さいました。そして地震発生からわずか48時間後、交通網が遮断され、余震が続いていたにもかかわらず、レスキュー隊が現地に入り、救助活動を開始して下さいました。この「友情」と「思いやり」にどれだけ多くの被災者が勇気づけられ、どれだけ多くの日本国民が感謝したことでしょう。私自身、ニュージーランドと日本の友好関係の深さを再認識した次第です。

さて、今年はマッセイ大学にSylffプログラムが設置されてから20年になります。尊敬するHon. Steve Maharey副学長をはじめとするSylff運営委員の皆様、そしてSylffフェローの皆さんにお目にかかれることができ、大変喜んでおります。本事業は、基金の寄贈を行う日本財団と、この管理及びフォローアップを一手に引き受ける東京財団、そして実際に奨学金の運営に関わる設置大学の3者が共同で実施しています。ここニュージーランドでは、マッセイ大学のたゆまない努力により、これまでに多くの優秀なフェローが世に送り出されました。関係者の皆様のご尽力に深く敬意を表します。

24年前に開始されたSylffプログラムは、社会が抱える課題に果敢に取り組み、解決策を示していくことの出来るヤングリーダーを育成することを使命としています。グローバルな視点に立ち、強い使命感を持ち、それぞれの専門分野で力を発揮できるポテンシャルを持つ人をフェローとして選出し、選ばれた方が将来リーダーとして活躍できるよう、必要な知識や能力、或いは経験を積めるようなプログラムになっています。

そして将来みなさんには、社会が抱える様々な問題に取組んでいただき、人々の生活に少しでも良い変化をもたらせられるようにリーダーシップを発揮して欲しいと思います。私はこれまでにSylffプログラムを終えた大勢のフェローがそれぞれの専門分野で培った知識や経験を存分に発揮し、人生をかけて尚足りないくらいの大きな目標、即ち「大義」を掲げ立派なリーダーとして社会を牽引している姿を見て参りました。今年はマッセイ大学にSylffプログラムが設置されて20年という節目の年でもありますので、Sylffフェローが目指すべきリーダーとは何かを、今一度確認したいと思います。

まず、リーダーとして仲間と協力しながら社会が抱える困難な問題に立ち向かい、私自身もおおいに刺激を受けたSylff フェローの方々をご紹介したいと思います。90年代前半、セルビアは、政治的混乱の影響からハイパーインフレが発生し経済は深刻な打撃を受けていました。まさにその混乱期にベオグラード大学でSylffフェローとして学んでいたのがDr. Dejan Soskicです。彼は2010年7月、セルビア国会の承認を受け同国中央銀行総裁に就任いたしました。Dr. Dejan Soskicは現在も総裁として、物価や外国為替市場におけるセルビアアディナールの安定化等、国家の金融課題に取り組んでいます。

また、NGOで活躍しているSylffフェローもいます。90年代後半、コンゴ民主共和国は政府と反政府勢力による内戦の渦中にあり、現在も内紛は続いています。非戦闘地域であっても政府の治安維持機構が機能せず、無法地帯となっている地域すらあります。この惨状を少しでも良くしたいと想ったFr. Rigobert Minani-Bihuzoは、90年代後半にSylffフェローとしてイタリアのペドロ・アルペ社会研究センター(Institute of Political Education Pedro Arrupe)で学びました。卒業後、彼はGroupe JeremieというNGOを立ち上げ、コンゴ民主共和国の民主化のために今も活動を続けています。

2000年以降のSylffフェローもリーダーとして、困難な問題に挑んでいます。イスラエルとパレスチナ自治政府の和平交渉が2000年に決裂して以来、イスラエルとパレスチナ双方の自爆テロが頻発するなど、情勢は混迷を極めています。この時期にアメリカのタフツ大学フレッチャースクールでSylffフェローとして学んだDr. Amal Jadouは、現在PLO Misssion in Washington D.C.のdeputy chiefとして、パレスチナ外交の第一線で活躍されています。私は「大義」を掲げ大きな目標の達成に向けて活躍しているリーダーを輩出できたことを大変喜ばしく思うのと同時に、せっかくの機会ですので、実際に彼らにお会いして感じた信頼されるリーダーに必要な能力について3つほどご紹介したいと思います。

まず最初に、物事をしっかりと整理し、的確な判断を下せる能力です。先ほどお話した3人の例からも分かりますように、「大義」のある大きな仕事は複雑で、問題を取り巻く状況も流動的です。このような問題に取組んでいくためには、多岐にわたる情報や知識を集めるだけでなく、分析をし、時勢や情況、情勢を見極め、どの方針を取るのか、どのような手段を用いるのか、冷静かつ的確な判断がリーダーには求められます。広い視野を持った思慮深い判断力は、リーダーにとって欠かせない能力の一つです。

また、「大義」のある大きな難しい (challenging) 仕事に取組んでいくには共に働く仲間が必要です。そして、彼らのモチベーションが社会をより良くするための原動力となります。よって仲間たちのモチベーションを維持し、更に高めていく能力はリーダーにとってとても重要です。社会の課題が大きければ大きいほど、簡単には結果がでず、時には失敗することもあるでしょう。そのような場面では、チームやグループ、或いは組織のメンバーの課題解決に向けたモチベーションが低下してしまうことが往々にしてあるので、リーダーは仲間を鼓舞(encourage)し、モチベーションを維持することが求められるのです。

3つ目は、必ず夢や目標を達成しようとする献身的なコミットメントを持って困難に立ち向かい、リーダーとして最後まで挑戦し続けられる能力です。人種差別が激しかった1950年代60年代のアメリカで、公民権運動の指導者であったキング牧師はまさに、この献身的なコミットメントを有していた偉大なリーダーであったと言えるでしょう。人種差別撤廃という「大義」の下に非暴力主義を掲げ、自宅の爆破や投獄など、自らの身を危険に晒してまでも「大義」を全うするために、群衆の先陣をきって活動されました。彼の示した献身的コミットメントに、多くの人が感銘を受け、今なお社会に影響を与えているのです。このような献身的なコミットメントは、リーダーとして重要な資質です。

少しでも良い社会を作りたいという目標に向かって邁進し、的確な判断を下せること、仲間のモチベーションを高めること、そして献身的なコミットメントを持つこと。これらの能力を活かし、Sylffフェローが世界の様々な課題解決に取組んでいるチームやグループ、そして組織のリーダーとして活躍してくれています。

そして私自身の経験からもう一つ加えさせていただくとすれば、今までの枠組みにとらわれずに、豊かな想像力(Imagination)を様々な場面でめぐらせてほしいと思います。グローバル化により一層多様性が増し、社会の状況が目まぐるしく変わる昨今、自分が見たり触れたり、経験したことのない世界で課題解決に取組む機会が多くなります。そのような環境で、課題に解決策を示し、より多くの社会の発展に貢献していくためには、想像力豊かに取り組んでいくことが大事です。これらを参考にしていただき、私はSylffフェローの皆さんに少しでも良い社会を実現するためにそれぞれ目標をたてて、それに向かって邁進していただくことを心から期待しています。

最後になりますが、ニュージーランドと日本は地理的には離れておりますが、多くの(42)都市で姉妹関係を結んでおり、スポーツであったり、ホームステイであったり、何百という交歓がいつも行われています。また、日本からは毎年多くの留学生がニュージーランドを訪れ勉学に励んでいます。その背景には、ニュージーランドが日本と非常に良好な関係を保っているということが言えると思います。どうか、これからもニュージーランドと日本の友好関係(フレンドシップ)を末永く続け、更に深めていくことができれば、一人の日本人としてこれ以上の喜びはありません。本日は在ニュージーランド日本大使でいらっしゃいます三田村英人大使にご臨席賜り感謝申し上げます。

7月19日(火) [2011年07月19日(Tue)]


中央アフリカ共和国・トゥアデラ首相


7月19日(火)

7:30 朝食

9:30 トゥアデラ首相

10:50 ガオンバレ国会議長

11:50 メディアインタビュー

12:20 マイガWHO代表、ビデ博士他昼食

15:10 コニゼゼ社会問題・ジェンダー国内連帯大臣

19:00 WHO主催夕食会(首相、保健大臣出席)




ガオンバレ国会議長表敬
議員勢揃い?

笹川良一17回忌 [2011年07月19日(Tue)]



「笹川良一17回忌」


昨日、7月18日は笹川良一の17回忌であった。

筆者は現在、中央アフリカ共和国でハンセン病制圧活動に従事中です。
さる7月2日に大阪府箕面市(みのおし)の墓所で花をたむけ、茨木市の本宅で筆者、母とその義妹の三人で、僧侶と共にささやかな17回忌供養法要を済ませました。

父の足跡の書類整理には10余年の歳月を必要としました。伊藤 隆・東大名誉教授の格別なご努力なくして、父の足跡を明らかにすることは不可能でした。

又、日本財団参与の鳥井啓一氏、ボートレース振興会常務理事の船越 真氏、両氏の真摯な協力にも感謝申し上げます。

以下は知人への挨拶状です。

*************


謹啓
 盛夏の候、貴台におかれてはつつがなくお過ごしのことと拝察いたします。
 早いもので、7月十八日は亡父・良一の十七回忌でございました。ともすれば、マスコミや進歩的学者といわれる方々に、批難・中傷を浴びせられても、淡々と我が道を歩む父でした。時には歯がゆく思い、諌言することもありましたが馬耳東風。彼らにも妻子がある。生活のためだから許してやれとの一言で、今にして思えばあっぱれな父でした。
 幸い、我が国現代政治史研究の第一人者である東大名誉教授伊藤隆先生の長年のご努力によって、笹川良一に関する資料整理は一段落しました。今回の「評伝・笹川良一」が伊藤隆先生による締めの出版となります。
 人の評価は蓋棺して定まると申します。何卒ご一読を賜り、父が過ごした時代を思い起こしていただければこれに過ぎる供養はございません。
 暑さ厳しき折、ご自愛を念じております。
敬白

平成23年7月吉日
笹川 陽平 拝



中央公論社及び中央公論新社から出版されました笹川良一関係の図書を左記に列挙致しました。

伊藤 隆   編書「続・巣鴨日記」
笹川良一と東京裁判T
伊藤 隆   編書「戦犯者を救え」
笹川良一と東京裁判U
伊藤 隆   編書「容疑者・逮捕・訊問」
笹川良一と東京裁判V
伊藤 隆   編書「国防と航空」
笹川良一と東京裁判 別巻
笹川良一     「巣鴨日記」
(校訂者・伊藤 隆)
佐藤 誠三郎 編書「笹川良一研究」
佐藤 誠三郎 編書「正翼の男」戦前の笹川良一語録

7月18日(月) [2011年07月18日(Mon)]


ロバエ地区のピグミー・アカ族・ハンセン病視察




7月18日(月)

6:30 朝食

7:40 マンダバ保健大臣

8:45  ロバエ地区のピグミー・アカ族の村へ出発(車移動2時間)

10:50 ロバエ地区到着・ピグミー・アカ族のハンセン病視察

13:40 ロバエ地区発

15:40 ホテル着

19:00 マイガWHO中央アフリカ代表宅夕食会

7月17日(日) [2011年07月17日(Sun)]


マイガWHO中央アフリカ代表が出迎え
奥が保健大臣


7月17日(日)

6:30 朝食

7:00 ホテル発

7:30 アジスアベバ着

9:10 アジスアベバ発

14:30 カメルーン・ドアラ経由で中央アフリカ・バンギ着
    (マンダバ保健大臣、マイガWHO中央アフリカ代表出迎え)
メディアインタビュー

15:30 外観が牢獄のような宿泊場所に到着

16:40 WHO事務所にてブリーフィング

19:30 関係者との夕食会



今日からここに宿泊 本当にホテル?

インドにおけるハンセン病制圧活動 [2011年07月17日(Sun)]

「ハンセン病制圧活動」


下記の文章は、静岡県にあるハンセン病療養所・駿河療養所入所者自治会機関誌「姶良野」盛夏号に掲載されたものです。


****************


インドにおけるハンセン病制圧活動


WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


2011年2月26日〜3月2日、インドに出張しました。私はハンセン病に関連する仕事でこの10年間に40回ほどインドを訪問していますが、これが今年最初のインド出張です。
インドは、2005年末に 「人口1万人あたり登録患者数一人未満」というWHO(世界保健機関)の“公衆衛生上の問題としてのハンセン病の制圧”の基準に到達していますが、そもそも人口11億人を擁する大国ですから、今も年間の新規患者は13万人(2009年)を超えています。ハンセン病は多剤療法(MDT)により完治はするものの、世界中で見られる回復者やその家族までもが社会の偏見により差別を受けるという構図は、ここインドでも特に顕著です。私の今回のインド出張は、ハンセン病に関するこうした“社会的問題”の解決を目指すための活動の一環でした。

春一番の南風が吹き抜けた翌日の2月26日、一転して冬の寒さが戻ってきた東京からインド航空の直行便で、午後6時に首都ニュー・デリーに到着しました。夕暮れ前で気温も20度近く、非常に過ごし易い時季です。その日は早々に市内のホテルにチェックインをし、荷を解きました。
翌27日、インドのハンセン病回復者の当事者団体であるナショナル・フォーラムの第一回理事会に招かれ、出席しました。この組織は、回復者の社会的権利を取り戻すためには回復者自身が団結し声を上げて社会に訴えなければいけないと、私が回復者でソーシャル・ワーカーであるP. K. ゴパール博士など主要な回復者の方々に強く働きかけて2005年に設立されました。回復者のための活動は、回復者自身が主役となって進めて行かなければいけないというのがナショナル・フォーラムの運動理念です。この5年ほどの間、ナショナル・フォーラムはインド全土に渡っての組織作り、回復者の全国・地方大会の開催、回復者コロニーの生活実態調査などを実施しています。また、ナショナル・フォーラムの働きかけにより調査を実施したインド連邦議会の陳情委員会がハンセン病に対する差別的法律の撤廃を訴える報告書を発表するという成果も生まれています。こうした流れを背景に、私は別途に、回復者の社会復帰を支援する超党派の国会議員グループを立ち上げるために動き始めているところです。このように活動実績を上げてきたナショナル・フォーラムは、2011年2月21日に正式な法人登録を果たし、その定款に従っての初めての理事会が開催されることになった次第です。

初めての理事会に招集されたゴパール博士を含む、自ら回復者である9人の理事が、インド全土からニュー・デリーに集まりました。定款の承認、会長の選出(ゴパール博士が就任)、銀行口座の開設、事務所の設置、今後の活動計画、諮問委員会の設置と議事が進みました。また、私はナショナル・フォーラムのパトロンを仰せつかることになりました。ナショナル・フォーラムは、法人格という基盤を得たことにより今後の更なる活動の拡大が期待されるところですが、その前途には課題も山積しています。まずは地方組織の強化。広大な領土と11億の人口を持ち地方分権が進んでいるインドでは物事は中央からの指示では動かず、州レベルで働きかける必要があります。各州の回復者リーダーが州内のコロニーを束ねると共に、回復者の声を行政や広く社会に届けられるような状況を作らなければいけません。州レベル、そして全国レベルで活躍できる若手の回復者指導者を育成することも喫堅の課題です。

また、ナショナル・フォーラムの具体的な活動目標の一つとして、ハンセン病回復者年金の創設があります。現在、国や州の制度として障害者年金や老齢年金はありますが、回復者を対象とする年金があるのは首都デリーとウッタラカンド州などほんの一部でしかありません。前述の陳情委員会が出した報告書では、各州で月額2000ルピー(約3,200円)の回復者年金を設置することを要請しています。昨年(2010年)に私は回復者年金を設置すべく回復者と共にビハール州で陳情をしましたが、この日の晩、私はその州都パトナへ飛びました。

インド東部にあるビハール州は、その人口規模(1億人超)で言えば日本に匹敵する大きさですが、インドの中で最も開発が遅れて貧困に悩んでいる州と言われ、WHOのハンセン病制圧基準も達していいません(ちなみに、釈迦が覚醒した地であるブッダ・ガヤは、ビハール州にあります)。前述のように私は昨年4月にビハールを訪問、ナショナル・フォーラムのビハール支部の人たちと伴に州の保健大臣や、公衆衛生が立ち遅れている18州に連邦政府が設置している当別機関である“国家地域保健ミッション”のディレクターであるサンジェイ・クマール氏を尋ね、回復者に対する社会保障の充実、具体的には州による回復者年金(月額1000ルピー=約1,600円)の設置や居住環境の改善等を訴えました。クマール氏は前向きな態度を示してくださり、具体的な行動を起こすのには州内のコロニー住民のリストが必要であるとのことだったので、ビハール支部が早急に詳細な調査をすることになり、私は調査報告を提出する際には再び戻ってくると約束してビハールを発ちました。彼らは、なんとその後の約2週間の間に、州内63コロニーの997世帯を訪問して調査を遂行しました。私は約束どおりに5月早々にビハールを再訪し、ビハール支部のメンバーに付き添ってビハール州政府の副首相を訪れ、報告書を手渡しました。

以上が9ヵ月前までの出来事で、それ以降、現地では州レベルの総選挙があるなどして事態に進展がなく、これまでに回復者の待遇改善についても何の回答も得られていませんでした。どうにか事態を進展させようと、ビハールを再訪することになった次第です。

2月28日、再び国家地域保健ミッションのクマール氏を、そして州上院のガンガ・プラサッド副議長を訪れ、高齢や障害を持つ回復者が乞食で生計を立てなければならない現状を解消するために、回復者年金の早急な設置をお願いしました。お二方とも、回復者の置かれている状況に深い理解を示し、それぞれの立場で最大限の努力をしてくれることをお約束くださいました。次に、やはり昨年5月にお会いしたビハール州政府のクマール・モディ副首相を訪問しました。副首相は、私達の熱意(と執念?)に応え、すぐさまその場で社会福祉省の担当者に電話をして具体的な年金計画を作成するように指示を出し、また、本件について副首相が自ら個人的に首相に話をして説得するとまで確約下さいました。1年に満たない期間にビハールに足を3回も運んだ結果として副首相からこのような言質を得られたことが、今回の私のインド訪問の最大の収穫でした。また、副首相の助言・手配により、同日の晩にアシュウィニ・クマール・チョービー保健相とも面談し、年金受給に必要となる回復者証明書の発行や、陳情委員会の報告書が要請する週2回のコロニーへの巡回医療、保護靴の支給、医療手当支給などについても、前向きな返事をいただくことが出来ました。この1年近く交渉は遅々として進みませんでしたが、ここにきてようやく事態が進展してきたことを実感できました。私は、今後に他の州でも同じような働きかけをしていきたいと計画しています。

またこの日は、英国救らい協会のビハール支部に立ち寄り、ビハール州内のハンセン病の状況についての詳しいブリーフィングを受けました。人口1万人あたりの登録患者数は1.08人で、年間の新規患者数は2万人を超えているとのことです(内、子供が約16%)。新規患者の中で障害を発症している人の割合は2%弱と少ないのは、病気が早期に発見されているという好ましい事態を示しています。

翌3月1日、早朝にフィールド視察に出発しました。まず到着したのは、パトナから北東に車で2時間半ほどのところにある、150村、人口15万人をカバーする公立のタジュプール病院です。ここでは、前日に訪問した英国救らい協会がハンセン病セクションを運営しており、毎月4〜5人の新規ハンセン病患者を受け入れているそうです。こうした患者の多くは150人いるボランティア・ワーカーが村を回って発見していて、こうした現場での努力によって早期発見・障害予防が可能になっています。月に2回、20〜30人の患者がこの病院で潰瘍にかかっている足のセルフ・ケアをしており、この日も、そうして集まっていた方々と交流をしました。
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