―パンデミック対策の先頭に立て―
産経新聞【正論】
2025年6月12日
≪3年越しの条約採択≫新型コロナウイルス感染症の世界的大流行(パンデミック)を教訓に、世界保健機関(WHO)と加盟国が3年越しの話し合いを続けてきた「パンデミック条約」が5月20日、WHOの年次総会で採択された。
今後、条約の詳細を詰め、加盟国の約3割に当たる60カ国が批准など国内手続きを終えた時点で発効する。
急速な温暖化で危険性が高まる新たな感染症のパンデミックに備えるためにも、わが国は国際社会の先頭に立って取り組みを強化する必要がある。
日本財団も令和3年、大阪大学と10年計画で230億円に上る「感染症対策プロジェクト」を立ち上げ、今年3月には同大吹田キャンパスに国内最大規模の感染症研究施設「感染症センター」が完成した。「学」「民」の連携で積極的に取り組む考えでいる。
新型コロナでは先進国と途上国の医療格差、とりわけワクチンなど医薬品の配布が先進国に偏った点が問題となった。
そうした反省から条約では、重大な感染症が発生した場合、病原体に関する情報を各国で共有し、医薬品の製造技術やノウハウを途上国に移転する対策を打ち出している。
製薬企業が病原体のサンプルや遺伝情報を迅速に入手する見返りとして、開発した医薬品の1割をWHOに無償で提供する新たな枠組みも盛り込んでいる。
新型コロナ禍で米ファイザー社などが1年に満たないスピードでワクチン開発に成功する中、わが国は3年を要した。海外からワクチンを調達して対応したものの、接種開始は主要7カ国(G7)で最も遅れた。
国内の不満に加え創薬国でありながら海外からワクチンを買い占めた姿勢に途上国から批判が出され、政府は3年6月、「ワクチン開発・生産体制強化戦略」を閣議決定した。
開発遅れの背景には、製薬企業にとってワクチン開発は確実性が低くリスクが高いといった事情もあるが、なんといっても大学などを対象にした文部科学省の科学研究費補助金(科研費)の伸び悩みが大きい。
6年は約2140億円が各大学などに配分されているが、物価高などを加味するとむしろ目減り感が強い。中でも、万一の事態が発生した場合に新たな技術を生み出す“源”となる基礎研究費は、中国や米国で大幅に増える中、落ち込みが目立つ。
昨年9月には、国内の15の学会連合会が「科研費が大きく目減りし、日本の研究力低下を招いている」として予算の倍増を文部科学省に求めている。
≪「宇宙船地球号」≫英国の科学誌ネイチャーが2023年10月、「日本の研究は、もはや世界トップクラスではない」とする記事を掲載、関係者に衝撃を与えた。背景には、こうした厳しい現実がある。
完成した大阪大学の感染症センターは、建築家の安藤忠雄氏が人類の危機に立ち向かう「宇宙船地球号」をイメージしてデザインした。同大の感染症総合教育研究拠点の中心施設となる。10階建て建物には最先端の研究機器が多数備えられ、国内外の関係者から強い関心が集まっている。
近代医学のパイオニア、緒方洪庵が設立した「適塾」を源流とする大阪大学は、免疫学研究で世界に知られる。4月に就任した熊ノ郷淳新総長は「海外からスター級の研究者を招き学生や若い研究者に刺激を与えたい」と語り、内外の英知を集めた世界の研究拠点として着実な成果を挙げると期待する。
新型コロナは19年末に中国・武漢で初の患者が確認されて以来、瞬く間に世界に広がり、累積感染者数は7億6000万人、死者も690万人(23年4月時点)に上った。現在も変異株の流行が続いている。
わが国では感染拡大が本格化した令和2年度だけで77兆円の莫大(ばくだい)な国費の投入を余儀なくされた。その意味でも手厚い事前の備えが欠かせない。
近年の温暖化で病原菌を媒介する蚊やコウモリの生息地域が拡大、永久凍土の融解に伴い氷の中に閉じ込められてきた古代のウイルスや病原菌が放出される危険性も増している。「新たなパンデミックの発生は時間の問題」と指摘する声も高まっている。
世界の感染症対策をリードしてきた米国は、ドナルド・トランプ大統領が1月にWHOからの脱退を表明したのを受け条約に参加しない。条約の実効性を懸念する声も出ているが、新たな感染症への備えとは別次元の話である。
≪日本にふさわしいテーマ≫健康安全保障への貢献は平和国家・日本に最もふさわしいテーマであり、それに応える力は十分ある。国内外の大学、研究機関との交流を強化し、中心的役割を果たす姿が、国際社会の中で急速に落ち込む日本のプレゼンスを再構築する道にもつながる。
(ささかわ ようへい)