「ハンセン病グローバルアピール」
―偏見・差別のない世界へ―
ハンセン病患者および回復者に対する偏見・差別の撤廃を世界に呼びかける「グローバルアピール」は、今年で第20回目を迎えました。今回は、世界55ヶ国の保健省の賛同を得て、1月末日にインド・オディッシャ州で発信しました。8年ぶりのオディッシャ州訪問の記録を含めた記事が、ハンセン病国立療養所・邑久光明園の広報誌「楓」5・6月合併号に取り上げられましたので、以下に掲載いたします。
*******************
「インド・オディッシャ州で見た現実と課題」
<グローバル・アピール 2025>2025年1月、ベンガル湾に面するインド東部のオディッシャ州を8年ぶりに訪問した。目的の一つは、長年続いているハンセン病患者や回復者に対する偏見や差別撤廃を訴える「グローバルアピール 2025」の宣言と発信を行うための会合を開催することであった。今年で20 回目を迎えるこの活動には、世界55 カ国の保健省から賛同を得て、宣言が行われた。
会合には、州の保健大臣をはじめ、インド各地のハンセン病回復者組織の代表者など約100人が参加した。会合の中で私は「オディッシャ州では、かつてハンセン病の回復者が州議員に選ばれたにもかかわらず、認められなかったことがありました。しかし皆さんの努力により、この差別的な法律は改正されました。このことは、ハンセン病とその偏見と差別に立ち向かう私たちにとって、大きな一歩となるばかりか、世界中の当事者に勇気と希望を与えました」と挨拶し、ハンセン病に対する偏見や差別のない世界の実現へ向けてより一層の努力をすることを約束した。


偏見や差別撤廃へ向けた宣言書を読み上げる高校生たち
<回復者たちとの意見交換>「グローバルアピール 2025」の会合後には、インド各地から集まった回復者組織の代表者たちとの意見交換を行なった。この場で現場の声を直接聞くことは私にとって非常に貴重な時間である。回復者たちから出された主な課題は土地、教育、年金に関するものであった。土地に関しては、政府から提供された土地に住んでいた回復者が土地開発などに伴い、立退を強制されるケースが増えているという。証明書がないため、地主から立退を要請されると従わざるを
得ない状況にあると、不安と悔しさを抱えた気持ちを吐露してくれた。
教育に関しては、オディッシャ州が山岳地帯に位置するため、公立の学校が遠く私立学校に通うには月 700ルピー(約1,200 円)が必要であり、経済的な理由で通えないという現実があった。また、オディッシャ州のハンセン病の回復者が受け取る特別年金は月 1,000ルピー(約1,700円)で、他の州では 3〜4,000ルピー(約5,100円〜6,800円)であるため、非常に低いとされ、これが教育の機会に影響しているとのことだった。
私の設立した全インドハンセン病回復者協会(APAL)のマヤ代表に、州のリーダーたちが集まる定期的な会議を開き、共通の課題や個別の問題を文書化するよう指示を出した。特別年金の値上げや奨学金の不足など、具体的な問題点を整理して、どのような支援が必要かを検討できるようにしてほしいと依頼した。また、APALが州ごとの課題解決に向けた強力な組織になることが重要だと強調し、「1本の矢は弱いが、50本、100本となれば強くなる。団結して共に課題を解決していこう」と激励した。

全土から集まった回復者リーダーたちとの対話
特別年金については、オディッシャ州の知事と面談した際に値上げを要請した。知事からは「特別年金にばらつきがあることは認識している。回復者がきちんと生活できるように手伝いたい」と前向きな返答を頂いた。過去にも、私が州の首相や知事に特別年金の増額を直接要請して実際に改善が見られた事例があるため、今回も期待しつつフォローアップを続けていきたい。
<ハンセン病コロニー内での差別>今回、オディッシャ州内の5カ所のコロニーを訪問し、住民との対話を通じて課題を聞き取ることができた。やはり土地や教育、特別年金の問題が主要な課題として挙げられたが、これらについても、今後 APAL からの報告をもとに対策を考えていく。

コロニーでの住民との対話
特に印象に残ったのは、併設する2つのコロニーを訪問した時の出来事だった。私が片方のコロニーからもう一つのコロニーへ行こうとしたところ、強く止められたのである。私は両方のコロニーを見て回ったが、特に目立った違いはないように感じた。あとで聞いたところ、これらのコロニーの間にはカースト制度のように上下関係が存在し、身分の低いコロニーには私を行かせたくなかったとのことだった。ハンセン病の回復者たちはアウトカーストとして社会から差別されることが多いのだが、その内部でも差別があるという現実を目の当たりにし、私は深く考えさせられた。
<22年前といま>22年ぶりに訪れたカタック・ハンセン病施設では、病院が新設されていたことは喜ばしいことだったが、施設と外を隔てる塀は昔のままであった。施設内には重度の後遺症を持つ人は少なくなったように見えたが、依然として社会からの偏見や差別により、この施設を出られない人々がいることは残念である。

2003年に訪れたときのカタック・ハンセン病施設

今回訪れたカタック・ハンセン病施設
インド独立の父マハトマ・ガンジーは当時、社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を改善するため、ハンセン病の問題を国づくりのマニフェストに取り上げた。ガンジーはハンセン病施設が「開所」するのではなく、「閉所」するときにこそ喜んで訪れるという言葉を残している。ハンセン病とその差別のないインドの実現は、ガンジーの夢でもあり私の夢でもある。その実現を見るまでは、私は何度でもインドを訪れ、関係者と共に闘い続けたいと思う。

敷地内に新しく建て替えられていたガンジー像と筆者