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笹川 陽平
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【私の毎日】3月12日(水) [2025年03月12日(Wed)]

3月12日(水)

6:30 財団着

7:00 財団内打合せ

8:45-10:00 ワールド・オーシャン・サミット2025 開会式挨拶

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ワールドオーシャンサミット開会式でスピーチ


10:00 マティアス・ヨナス 国際水路機関(IHO)事務局長

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国際水路協会のマティアス事務局長と


10:30 ルパート・グレイ オーシャン・センサス会長

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オーシャンセンサスのグレイ会長(筆者の右隣)たちと


11:00 太田義孝 日本財団オーシャンネクサス研究所所長

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日本財団オーシャンネクサス研究所の太田所長、フェロー5名と


13:00 ジャカヤ・キクウェテ タンザニア元大統領

Eキクウェテ元タンザニア共和国大統領.JPG

キクウェテ元タンザニア共和国大統領と


14:30 カリム・ムクタ― エジプト大使館公使参事官代理

16:00 東京財団政策研究所

19:00 ワールド・オーシャン・サミット レセプション

終日 原稿書き、寄付金への礼状書き

「夢の奨学金」―授与式と東京大空襲― [2025年03月12日(Wed)]

「夢の奨学金」
―授与式と東京大空襲―


何らかの家庭の事情で児童養護施設で育った子どもたちは、18歳になると施設を出て、多くの場合、慣れない社会で一人で生活することになります。

日本財団は、人生の目的をしっかり持った児童養護施設出身の方々に対して、「夢の奨学金」と称して彼らの学業支援はもちろんのこと、何でも相談できるメンター制度を提供し、常に話し相手や相談相手となり、月に一度は共に食事をする機会もつくっています。今年は19人の方々がこの奨学金を授与されました。毎回、記念写真の撮影には、親との関係などの事情で参加しない方もおられますが、今年は全員が参加し、嬉しいことでした。

3月9、10日で東京大空襲から80年を迎えましたが、その生き残りとして戦争を知らない世代に当時の経験を話しました。

以下、私の話です。

*******************
夢の奨学金認定証授与式


2025年3月7日(金)
日本財団会長 笹川陽平
於:日本財団


0311写真@.jpg
奨学生全員と記念写真


皆さん、本日はおめでとうございました。皆さんはお世話になった施設を離れ、高等教育で勉強し、やがて社会の一員として生活をされていくことになると思います。夢と希望そして不安もあるかもしれませんが、不安はみんなあります。元気そうに働いている人も不安や悩みを持っています。それが人間です。それが人生です。だから、徳川家康は「人生は重荷を背負って坂道を行くがごとし」という名言を残していますが、その通りです。では幸せとは何でしょうか。皆さん「幸せになりたい」と言いますが、それは瞬間的なもので「今日はよかったな」と思った時が幸せなのではないでしょうか。幸せが何年、何十年続くことはありません。

しかし、人間には記憶の美化作用があります。辛いこと、悲しいこと、嫌なことが長い時間の間になつかしい思い出に変わります。これが記憶の美化作用です。楽しかったことは記憶にあまり残りません。辛い、悲しいことを乗り越えたことが思い出として懐かしく記憶されるのです。説教がましい話になりますが、86年も生きてくると色々と経験していますので、「あの時笹川さんはこんなことを言っていたな」といつか機会があったら思い出してほしいと思います。

私自身は皆さんとちっとも変わらない生活をしてきました。驚くかもしれませんが、場合によっては皆さんよりも過酷な人生だったかもしれません。今年は昭和100年です。皆さんは平成生まれだと思いますが、今から80年前日本は戦争をしていました。私は1939年1月8日生まれ、数えで7歳になったばかりの3月9日の22時過ぎに空襲警報が鳴り、浅草に住んでいた私は枕元に置いてある水筒を肩にかけ、予備の食べ物をその反対にかけ、背中にお米一升を背負って、厚い防空頭巾をかぶって逃げたのです。私の母はその日39度の熱を出しており、二人の兄たちは学童疎開で地方の安全な場所にいましたので、母と私の二人だけでした。母は毛布をかぶって逃げましたが歩くのもままならず、何とか母親の手を引いて、第一避難場所になっていた浅草の郵便局に逃げました。

郵便局には町内会の人が集まっていました。夜中なのに大火災で空は真っ赤になっていました。東京は当時ほとんどが木造家屋でしたので、焼夷弾という油の爆弾を落として焼き払うというのがアメリカ軍の作戦でした。郵便局も危ないとなった時に、第二の避難場所の墨田川に逃げる算段になっていましたが、私は水が怖くて川に行きたくないとその場に座り込みました。町内会の会長も「一緒に逃げないと死んでしまうぞ」と話をしてくれましたが私は動きませんでした。そのため町内会の皆さんは「明日また会おう、元気でね」と私と母をその場に残して、100人くらいで一緒に避難していきました。そして、墨田川に避難したほとんどの人は亡くなりました。

郵便局も火の手が迫っており、私は母の手を引いて逃げましたが、道路は荷物を背負い、あるいは荷車に荷物を積んで逃げまどう人でごった返しており、そこに焼夷弾が落ちてきました。焼夷弾が落ちて跳ね返ると油が飛び散り、逃げまどう人の体に飛び火して、悲鳴をあげて生きたまま焼け死んでいきました。まさに生き地獄でした。悲鳴というか、耳を塞ぎたくなるような声でした。私は子供なので道の真ん中を歩いていれば跳ね飛ばされてしまうので、歩道の隅を母親の手を引いて逃げました。しかし母も歩けなくなり「あなた一人逃げて、強く生きてください」と言われ困ってしまいました。強風の中、火は迫り、手を引かなければ母も焼け死んでしまうので、何とか歩かせて、偶然燃えていない一角があり、ガラス窓の中に人がいるのが分かり助けを求めたら、入れてくれ水を飲ませてくれ、そこで休ませてもらい助かりました。

あくる朝自分の家に戻りましたが、何も残っていませんでした。道には多くの焼死体が転がっていました。たった2時間半の空襲で10万8000人が殺され、数十万戸の家が焼かれたとあとで知りました。逃げる時に背負ったお米一升がありましたが、母親の知り合いの家に歩いて行き、お米でご飯を作ってもらおうと差し出したところ、驚いたことにご飯が出てこず、スープみたいなものを飲まされ、渡したお米は返ってきませんでした。ずいぶんひどいことをする親戚もあると子ども心にも思ったものです。その後大阪の遠い親戚の家に預けられ、8畳一間で母、兄2人、私と4人で生活をしました。その家は大きな家でしたが、我々にはお風呂も使わせてくれませんでした。食事をする道具も使わせてくれません。外で食事を作りなさいということで、木を新聞紙の上において火を起こして七輪で食事を作りました。兄二人が東京に行った後は、母は体が弱いのであまり食事を作ることもできず、私は自分でご飯を作って学校に行くこともありました。

ここまで、父親の話は出てきませんね。実は私の生活に父親はいませんでした。初めて会ったのは16歳の時です。我々は正式な奥さんの子供ではなかったからです。16歳になった時に父から連絡があり「東京に出てこい、俺が教育してやる」とのことでしたが、病気の母をおいて東京に行くのはどうかと考えました。母は「あなたのために東京に行きなさい」と言いましたが、今まで父親に会ったこともなかったので悩んでいましたが、最終的に東京に出てきました。それからも大変でした。皆さんのようにしっかり勉強しようというのは素晴らしいことですが、父は「勉強は俺が教えてやるから家のことを手伝え」とのことでした。

私の学生時代は、お客さんの食事の下膳と皿洗いが終わる頃には0時過ぎになりますが、自分の部屋には父が引き取ってきた、町で自殺未遂をした子と一緒に住んでいました。父はその子には「勉強ができるから勉強しろ」と言い、私には「家事を手伝え」と言っていました。またある時父に「スケートに行きたい」といったところ、「そんな寒いところで滑ってどうする。うちの廊下は寒いから雑巾ですべって掃除すれば廊下も綺麗になる」とのことでした。話し相手がいなかったので寂しかったですね。

戦争で多くの人が亡くなり、傷ついて、皆さん職もありませんから、父親のところに相談に来るのです。そして泊まる場所もないので、父親の家に泊まるのです。その為朝早くに起きて食事を手伝い、学校からは午後4時までに帰ってこなければなりませんでした。泊っている人の服の洗濯、アイロン、お客さんの食事を作ると同時に布団を敷くことも必要でした。多い時は30人が1ヶ月宿泊したこともありました。靴を磨き、ワイシャツをプレスし、洗濯物を届けていました。ワイシャツはカラーのところにきちんとプレスするのには技術が必要で、私は高校を卒業したら洗濯屋になろうと思っていました。ですから、学校には友達は一人もおらず、日曜日も仕事があるので外に出れませんでした。父親に東京に呼ばれましたが、実際は下男の仕事でした。

16歳まで父親を知らず病気の母と一緒でしたが、このような生活が私の人生に大きな影響を与えました。それは「あの時の苦しさを思えば今は大したことない」という強い気持ちが生まれたことです。大学に入ったら皆さんには心友を作ってほしいと思っています。日本財団の職員にも話していますが、心友は3人で十分です。これがまた難しいのです。私の大学生の時分はスマホはありませんから、相談した人しか私のことは分かりませんでした。しかし今やスマホで情報がどんどん漏れてしまうので、なかなか心友を見つけて相談するのは難しいですね。相談事があれば私にも相談してください。良い答えを返せると思います。

我々日本財団は単に皆さんに奨学金を差し上げるのではなく、一生涯家族のようにお付き合いしていきたいというのが我々の考えです。皆さんは一人ではありませんよ。ともすれば一人で淋しいと思ってしまうことがありますが、その時はメンターの先生に連絡してください。何かありましたら手紙を書いていただき、手紙に連絡先を書いて下されば返事をいたします。皆さんはどんな時も一人ではありません。日本財団がついています。私も相談に乗ります。

人生というのは、辛いことが多いですが、いいこともあります。ですから、私一人が寂しい思いをしている、辛い思いをしている、と思わないでください。みんな苦しみ悩んでいます。人生とはそういうものです。しかし、人生は前を向いて歩いていると何とかなるものです。必ず何とかなります。皆さんは今から大学に入り希望に満ちて目標に向かって進んでいるのは素晴らしいことですが、場合によってはうまくいかないこともあります。しかし、くじけず「笹川さんは何とかなると言ってたな」と思い出してください。どんな長いトンネルでも出口はあります。どんな闇夜でも夜明けは来ます。何とかなるので、楽観的に人生を歩んだ方がいいと思います。必ず何とかなります。メンターの先生も、日本財団もついていますから、何かありましたら相談してください。そういうことが出来る組織なので、一人で悩まないでください。今日はおめでとうございました。(了)

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