「即興の挨拶二題」
―トルコと日本財団寄付者の皆さんへ―
即興の粗雑な挨拶ですが、私自身の記録のためにアップしました。読者の皆さんにはご迷惑のことで申し訳ありません。
*******************
トルコ国会議長を迎えてのシンポジウム
2月17日 笹川平和財団国際会議場
ご紹介賜りました笹川陽平です。この度はヌマン・クルトゥルムシュ・トルコ国会議長閣下はじめ、駐日大使、国会議員の有力な方々がご来日、ご参加下さりました。日本に対する深い思いに御礼申し上げます。
トルコと日本の関係は古いものがありますが、国民レベルでこうした良好な二国間関係が認識されている珍しい例ではないでしょうか。1890年のエルトゥールル号の海難事故の際、和歌山県の漁民たちが悪天候の中救助作業に当たったことは日本国民の知るところです。今も和歌山県串本町では慰霊祭が行われております。また、イラン・イラク戦争の際にはトルコの皆さんが飛行機を出し、我が国の国民215名を救出下さりました。海で受けた恩を空で返してくださったことは大きな感謝と共に日本国民の知るところとなりました。
素晴らしい二国間関係が100年続いているのは日本の外交史にとっても珍しく、価値ある関係であろうかと思います。先ほど議長閣下に申し上げましたが、トルコにおきましては、我々も様々な活動をさせていただいています。例えばアンカラ大学には37年前から修士・博士課程の優秀な学生を対象とした奨学金を提供しており、またチャナッカレ・オンセキズ・マルト大学にも日本語教育基金を設置しております。また、海洋が国際的に大きな問題になりつつある中、トルコの優秀な海事関係の学生にスウェーデンのマルメにある世界海事大学(WMU)に留学いただき、多くの方が活躍している例もあります。こうした人材育成を中心とした関係が構築出来ていることに感謝を申し上げます。
エルドアン大統領閣下の指導のもと、トルコの存在感が中東のみならず世界に素晴らしい影響力と発言力を持たれる時代になって参りました。我々の貴国との友好関係を通じ、ともすると困難を極める中東情勢について、どのように分析し行動するかは日本にとっても重要です。トルコと日本の友好関係は素晴らしい歴史の積み重ねです。しかし我々はこれを過去のものにせず、未来志向でトルコと日本の友好関係を更に拡大し、中東和平は勿論のこと、世界に対して発言と行動が出来る二国間関係を作りたいという願いがあります。
議長閣下、国会議員の皆さん。両国の関係が未来志向で信頼を拡大し深化していくことを願っています。
*******************
日本財団への寄付者への感謝の会
2月18日 日本財団ビル
ご紹介受けました笹川です。日頃皆さんからご寄付を頂戴しながら、皆さんとお顔合わせをするのが初めてというのは、長くご無礼をしてきました。皆さんのご支援によりまして、日本財団では特に若い人が活躍しています。私は今年86歳でありますが、体が不自由になったらやめるつもりであります。なぜなら「問題点と答えは現場にある」という信念があるからです。ともすれば、たまに日本財団にお越しの方は、日本財団の仕事は素晴らしい東京の一等地で書類を眺めていると錯覚される人も多いと思います。しかし私は朝6:30から皆さんから頂戴した寄付金への礼状を書くことから始めておりますし、年間20〜30回程度、アフリカの砂漠、インドの山奥、あるいはアマゾンの奥地まで現場に足を運んでおります。これは先に申し上げた通り「現場には問題点と答えがある」という信念からです。
私は今丸坊主に髭が生えた出で立ちでありますが、これにも理由があります。父の代から日本財団はハンセン病を世界からなくすために活動して参りました。近年新型コロナの影響もあり、特にアフリカにおいてハンセン病制圧活動が遅れてしまったこともあり、まずはアフリカでのハンセン病制圧活動の新たなキックオフのためにと、5,895メートルのキリマンジャロに登りました。もしかしたら登頂に失敗するかもしれないということで、先に頭を剃り、また片道6日間の行程でしたので髭を剃る暇もなく、このような様相になりました。
今年は昭和100年という年であります。かつて中村草田男氏が「明治は遠くなりにけり」という名句を書きましたが今や「昭和は遠くなりにけり」であり、平成生まれの人が30代後半になりました。私は6歳の時、すなわち1945年3月10日未明に東京大空襲を経験しました。あの日東京は火の海になりました。私は浅草の雷門の近くに住んでいました。母は39度の高熱を出しており震えが出るほどでした。第一の避難場所である菊谷橋の郵便局に集まっていましたが、危ないということで第二避難場所の墨田川に移動となりました。しかし私は水が怖いから絶対に行きたくないと地べたに座り込んだことを覚えています。町内会長がなだめましたが動かず、「では明日の朝元気に会いましょう」と皆さんが見送ってくれたことは瞼に焼き付いています。道路は逃げまどう人々が殺到しており、右往左往の中で焼夷弾が落ちてきました。焼夷弾が落ちてくると油が散り、それに火がついて、皆生きたまま叫びながら死ぬという生き地獄を体験しました。私は子供でしたので、往来に出たら跳ね飛ばされるので歩道の隅の方を歩いていたので助かりました。母親は途中で倒れ「あなただけ力強く生きてください、ここでお別れです」と言われましたが、無理やり母の手を引き、まだ焼けていない自転車屋に入れてもらい、生き延びました。先に別れた町内会の皆さんはほとんど亡くなりました。その後の食糧難で栄養失調も苦しかったものですが、生き延びました。その幼児体験もあり、いつかは社会のために働きたいと考えている中、笹川良一は日本復興のためには船を作る必要があるとボートレースを始めました。ここに私も参加し、今は日本財団という名前で仕事をしております。
御高承の通り社会は多様化の時代となりました。国や行政だけではできない様々な社会問題がでてきています。こうした社会問題をいち早く見つけて、手を差し伸べ成功例を作ることで、行政や国の政策に取り入れてもらうといった活動しております。海洋基本法、子ども家庭庁、子どもの第三の居場所、再犯防止活動など我々が意見書や素案を出し、また活動したことで今や政府が応援してくれています。このように行政や政策に反映されるようになってきましたが、それも皆さんの貴重なご寄付があるからです。そして皆さんからの寄付は間接経費には一切使わないというのが我々の基本方針で、全てのご寄付はご希望に沿ったところに使わせていただくという、透明性と説明責任が日本財団の柱であります。
日本には古くから商売をする方には「売り手によし、買い手によし、世間によし」という「三方よし」という素晴らしい言葉があると同時に、「利他の心」があります。社会生活は一人で出来るものではありませんから、寄付金の額はともかく、少しでも社会に恩返しをしたいという気持ちを持った方が日本には沢山います。この「利他の心」は日本独特で、脈々と続いています。先ほど能登地震の話が出ましたが、若い人を中心に、金額は1000円前後ではありますが、16万人の方がお金を届けてくださいました。日本には社会の一員として施しをするという気持ちが流れています。皆さんは日本財団にご関心を寄せて下さっており、本日のような集まりをもっと早くやるべきでした。お顔を合わせ、子どもたちを中心に日本という素晴らしい国を続けていかないといけないと我々が考え活動していることをお伝えしなければならなかったと反省しております。
先に申し上げた通り、今社会問題が山積しております。世界的に財団というのは職員の平均年齢が50歳代くらいのところが多い中、日本財団は約36歳で若い女性も多く、必ず現場に行き多くの人に接し、現場主義で仕事をしております。まだまだ我々の努力は足りませんが、日本国内は勿論のこと、例えば海洋問題については日本財団が世界のリーダーシップをとっていると自負しているところまで来ました。しかし資本主義が行きつくところまで来ており、GAFAの経営者の資産は主要先進国の国家の予算を超えております。もしかしたら彼らはあの世にもっていく方法をAIと編み出したのかもしれませんが、やはり現世で使わなければなりません(笑)いまは遺贈寄付も沢山頂くようになりました。遺言書を書きませんと、多くの場合当人が亡くなった時に遺影の写真をどれにするかから始まり騒動が起きることになります。健康な時も亡くなった後も家族が平穏に暮らせるよう遺言を書いていただく運動を展開しております。余裕があれば一部社会のために使っていただきたいと、日本財団も沢山遺贈寄付の書類をお預かりしております。寄付金をはじめ、皆さんからお預かりした大切なお金を、感謝と共に使わせていただいておりますが、本日のような場をこれまで設けておらず長い間ご無礼を致しておりました。これを機会により良い日本、未来を背負う子供たちが自己肯定感を持った人間に育ってほしいと日本財団として努力していること、そして、私の溢れる情熱を御汲み取り頂き、これからも日本財団と共に日本の社会を少しでも良くするためにご協力いただければ幸いです。本日は本当にありがとうございました。