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【私の毎日】7月8日(木) [2021年07月08日(Thu)]

7月8日(木)

6:48 財団着

9:00 大野修一 社会変革推進財団理事長

9:40 池内賢二 日本吟剣詩舞振興会専務理事

13:30 曽根健孝 外務省国際文化交流審議官

16:00 「フィリピン義肢装具士養成学校引渡式典」挨拶ビデオ撮影

17:00 日・露2国間会議(ウェブ開催)
    (笹川平和財団、ヴァルダイ・クラブ共催)

「チェルノブイリから福島へ」その3―我々の追憶― [2021年07月08日(Thu)]

「チェルノブイリから福島へ」その3
―我々の追憶―


福島原発事故後の住民の健康被害とその対策について、日本で唯一、長年困難な環境のチェルノブイリの現場で10年にわたり活動され、インターネットのない時代に長崎と被災地域をつなぎ、先駆的な遠隔による診療も行ってきた山下俊一先生は、福島での住民の健康、特に被害が予測された甲状腺がんの予防検診についても、チェルノブイリでの貴重な経験をもとに寝食を忘れて活動されたが、当初、知識のない報道関係者や一言いいたい学者から心ない激しい批判を受けられた。

私は心配の余り先生に電話や面談で「頑張り通してください。放射線被害者に長期間にわたり寄り添い現場で活動されたのは山下先生だけですからと」激励し続けた。先生はその度に「私はWHO(世界保健機関)でも働き、国際社会の中で揉まれてきました。批判・中傷には慣れています。私の主張が正しいことはいずれ関係者に分かることです。心配しないでください)と、逆に私の活動を激励してくださった。

当時の状況を考えると、山下先生が福島入らなければ、船乗りの経験のない「船頭多くして船山に登る」状況になっていたのではないかと、私見ながら回顧している。

こども.png
男児の甲状腺を触診する若き日の山下教授


以下、山下俊一先生の文章です。

***************

福島県立医科大学 副学長(国際交流センター長)
長崎大学名誉教授 山下 俊一

1986年4月26日、東西冷戦構造の最中に起きたチェルノブイリ原発事故。それは国境を越えて広範囲な地域を放射能汚染させ、大地を毀損した人類史上最悪の人災事故であり、ソ連時代の赤い壁(共産主義と情報封鎖)に囲まれた恐るべき響きを醸し出していました。約30年前に開始されたチェルノブイリ笹川医療協力プロジェクトの詳細は他に譲るとしても、どうしても紹介しておかなければならないことがあります。それは、本プロジェクトが人道支援を第一に考え、現場中心の科学的アプローチを基本とした幅広い民間外交の推進により、国際社会における多くの友情と信頼関係を構築してきた「一本の道」で、福島と繋がっているということです。偶然や想定外ではなく、現代科学技術社会における様々なリスクに囲まれた世界を回遊する中で、まさに必然の道のりだと言えます。

チェルノブイリ笹川医療協力プロジェクトは、ソ連崩壊前後にウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3カ国5カ所の活動拠点を中心とし、各国保健省や州保健局、各研究機関や地方の診療所などでの困難な共同事業を通じて、10年間で20万人を超す被災地の子供達の巡回検診を行うことができました。当初、日本人専門家らのソ連訪問では、キエフやミンスク、モスクワの大都会ではKGBに守られ、具体的な検診活動では、コルホーズやソホーズの大農場や村々の学校、公民館、そして診療所などを巡回拠点としました。酷寒の冬は、それぞれ指定センターの暖房ガレージで検診活動を継続しました。毎年(1)甲状腺検査、(2)血液検査、(3)ホールボディカウンター(WBC)の現地担当者を一堂に集めて、教育研修と成果報告会を現地で開催し、日本語とロシア語併記での年報も出版しました。その結果、ソ連崩壊後も支援対象3カ国では、標準化された診断制度とデータ管理が維持され、事業開始5年目にはキエフ市で国際会議を開催し、第一期5年間の事業全体のとりまとめをCHERNOBYL:A DECADE として公表することができました。実はこの支援期間中、別途5センターに導入した甲状腺超音波ガイド下での穿刺吸引針細胞診の確立により、正確な甲状腺がんの診断が可能となり、血液スメア標本と血清の長期保存などと合わせて、現在まで続く国際甲状腺共同研究、特にChernobyl Tissue Bankの礎となっています。

当時の最大の懸案事項は、広大な土地の汚染に伴う食の安全と体内被ばく問題でした。私たちが現地を訪問し村々を巡回したのは、すでに事故から5年経過していましたが、WBC検査の結果、明らかにセシウム137に汚染された食品が地産地消により経口摂取され、常にあるレベルの体内被ばく線量が事故後10年経過しても被災地の子供達に観察され続けていました。幸いにそのレベルは健康影響を及ぼすものではなく、機会を見つけては現地住民やメディアへの情報発信に努めました。次に、子供たちの甲状腺がんの増加が注目され、その原因として事故直後に大量放出された短半減期の放射性ヨウ素が疑われていました。人道支援の根幹を成す科学的アプローチについて本事業の成果は、何と言っても指定された5センターの人材育成を重視し、技術移転を精力的に推進したことです。日本人専門家が不定期に、それも短期間の現地指導を繰り返すだけでは限界もありました。現場でのルーチン業務が滞りなく、そして間違いなく進められるためには、それぞれの専門分野での知識と技術、さらにデータの収集と分析、そして最終報告ができる現地の人材が不可欠となります。幸いにも長崎には県と市が予算を拠出し、旧ソ連圏を中心とする医師等を夏休み期間中に長崎大学等へ招聘する短期研修プログラムが整備され、長崎ヒバクシャ国際協力会(NASHIM)として1992年以降毎年チェルノブイリからの人材育成が財団の本事業と平行して進められました。特に、ベラルーシのゴメリ州では小児甲状腺がんが多く発見されていましたので、事故の前後に生まれた約3万人の比較対照の学術的調査研究が、財団独自のプロジェクトとして実施されました。その結果、ベラルーシ共和国ゴメリ州の小児患者では、事故直後の汚染されたミルクなど短半減期の放射性ヨウ素の経口摂取歴の違いだけが、甲状腺がん発症に寄与していると示唆されたのでした。この間、1999年2月にはチェルノブイリと日本を結ぶ遠隔画像診断支援が、インマルサッド衛星通信の現地導入を介して開始され、当時の通信事情からすれば画期的なTelemedicine の先駆けとなり、世界保健機関WHOでも継続して取り上げられました。これら事業の後半5年間の成果は、Chernobyl: Message for the 21st Century としても公表されています。

以上の活動実績と成果は、Chernobyl Tissue Bank の設立に寄与しただけではなく、フランス・リヨンの国際がん研究機関IARC との国際共同研究所へと繋がり、第二期チェルノブイリ笹川医療協力プロジェクトにおける科学的知見として、276例の小児甲状腺がんと、同じ対象地域の非がん患者1300例の比較対照調査研究へと展開されました。現地での長年にわたる信頼関係構築の成果として、被ばく線量推計の困難な国際学術共同研究ではありましたが、放射性ヨウ素に汚染されたミルクなどの経口摂取を原因とする線量依存性の小児甲状腺がん発症リスク(甲状腺内部被ばくによる)の増加が、世界で初めて正確に分析評価されたのでした。

一方、チェルノブイリ原発事故後、国際原子力委員会IAEA やWHOでは、国際的な緊急被ばく医療ネットワークを構築し、次の原発事故等に備えた準備や訓練を行ってきました。事実、2011年2月には日本で第13回WHO緊急被ばく医療ネットワークREMPAN 国際会議が開催されています。財団のチェルノブイリ事業の成果は、これら国連機関だけではなく、国連原子力科学委員会UNSCEAR の報告書でも生かされています。

2011年3月11日、晴天の霹靂であった東日本大震災、そして福島原発事故という未曾有の複合災害。まさに第二のチェルノブイリと喧伝され、政府による避難指示が拡大する中で、混乱と混迷を深めていきました。日本財団、そして笹川記念保健協力財団(現笹川保健財団)は、チェルノブイリ事業の経験と知見を生かして、迅速な支援活動を開始しました。情報封鎖のチェルノブイリ事故の時代とは異なり、逆に自由民主主義社会での情報氾濫の中で、科学技術先進国日本での原発事故対応ではありましたが、4月初めにまず正確な情報発信と、メディア関係者への正しい理解促進に向けた取り組みが試みられました。そして、チェルノブイリ笹川医療協力プロジェクトで培われた国際人脈と専門知がいち早く功を奏したのです。それは、日本財団会長笹川陽平氏のイニシアチブによりますが、事故から半年後の9月11日、12日に、福島県立医科大学大講堂において、国際専門家会議「放射線と健康リスク〜世界の英知を結集して福島を考える」が主催され、世界14カ国、国際機関やチェルノブイリから31名の専門家を招聘することができました。国内の研究者やメディア関係者など約400名が一堂に会し、事故後短期間のうちに、福島の現状や低線量被ばくによる健康影響、放射線安全と健康リスク、チェルノブイリ原発事故の教訓等について活発な意見交換と情報発信を行いました。同会議では、開始直後の県民健康調査事業について活発な意見交換と情報発信を行いました。同会議では、開始直後の県民健康調査事業についての取組みとその骨子が初めて発表され、その重要性と妥当性が海外からの専門家らに評価され、現在の県民健康調査事業に繋がっています。財団が支援した福島国際専門家会議では、2014年9月の第3回会議において、避難住民の自主的な判断を尊重しつつ、帰還の意思の如何にかかわらずその支援を行う必要性とともに、低線量放射線の環境下で生活する人々に対して放射線量の意味を正しく理解してもらうための包括的な復興支援が提言として取りまとめられ、当時の安倍晋三首相に手交されています。さらに2016年9月の第5回の国際専門家会議では、甲状腺や治療、その予後や将来リスク等も含めて、何故検査が行われているかについての明確なコミュニケーションを行うことが、検診を受ける対象者とその家族には不可欠であるとの貴重な提言が取りまとめられ、内堀雅雄福島県知事に手交されました。その後、LARCは環境省の委託を受けて、2018年に「原発事故後の甲状腺モニタリングのあり方について」の専門家報告書を取りまとめ、本課題の解決に向けた国内外の関係学会の動きも活発になっています。

09.11 全員で記念撮影.jpg
全員で記念撮影


以上、チェルノブイリ笹川医療協力プロジェクトの実績と成果は、福島原発事故の国際専門家会議に継承され、現在も進行中の被災者支援活動を健康面から支える福島県の県民健康調査事業の国際的にも高い評価に繋がっています。さらに、国際放射線防護委員会ICRPが福島の被災市町村で展開しているダイアローグセミナーも支援してきました。これらは、日本財団の活動理念である「一つの地球に生きる、一つの家族として。人の痛みや苦しみを誰もが共にし、みんなが、みんなを支える社会」を人道と医療・医学の両面から継続支援してきたものであり、「チェルノブイリから福島への道」に他なりません。この間、ソ連という国の崩壊を目の当たりにし、福島原発事故後の被災者の不安や不信、怒り、そして放射能恐怖症と社会混乱の状況の中で、人心の荒廃と原発周辺の地域コミュニティの崩壊が危惧されました。「チェルノブイリから福島への道」は、核(放射性降下物)に汚染された大地で、国境を超えて苦楽を共にし、人間の尊厳と健康見守りの人道支援を基軸とし、負の遺産からの回復と復興を目指すことであり、グローバル社会の危機管理のあり方、そして公衆被ばくの中での共存共栄に向けた新たな社会システムづくりの道に通じています。さらに「継続は力なり」として、組織力と個人の力量がレジリエンスの源として根付くことがこの道の未来に期待されています。
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