「東京大空襲と太平洋戦争」
―再 録―
毎年3月10日は私にとって特別な日である。昭和20年3月10日、当時6才の私は東京大空襲から運よく生き延びた。以来76年間、病気もせずに元気に働かせてもらっている。感謝!!感謝!!である。その原点を記した二本のブログを再掲します。
平和な時代に育った若者たちに歴史の一部を知ってもらい、今を「生きる」ことに何かヒントになればとの思いからです。
****************
昭和20年3月10日、深夜零時8分、B29(第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期の米国の主力戦略爆撃機)約300機によって東京大空襲は始まった。
強風にあおられた猛火は激しい勢いで広がり、阿鼻叫喚のなか夜明け前の東京の下町は、完全に焦土と化した。
死者83,793人、重軽傷者110,000人、全焼家屋260,000戸。
これほどの被害を出したのは、後の広島、長崎の原爆被害の他にない。
(世界日報・2月26日)
以下は、昭和57年11月16日、慶應義塾幼稚舎発行の「仔馬」に掲載された、私のエッセーである。
「吾子(あこ)らへ」
夏休みが終わった。子供たちは陽焼けして、一段と少年らしくなった。
先日、私の兄から古ぼけた一枚の写真が届いた。兄はそこに写っている幼い頃の私が子供たちにそっくりであるという。
私はふと幼い頃の、あの時のことを思い出した。私は昭和十四年生まれ、戦争を記憶している最後の年代である。
昭和二十年三月九日、東京大空襲の夜のことであった。二人の兄は学童疎開で仙台に行き、お手伝いさんもすでに帰郷。浅草寿町の家には母と私の二人だけが住んでいた。その日、母は四十度近い熱で寝込んでいた。
空襲が激しくなり深夜、母は防空頭巾を被った私に、一升ほどの米を入れた袋をタスキ掛けに背負わせた。自分は毛布を頭から被り、私の手を引いてよろけるように家を出た。
空はすでに赤々と燃え上がり、まるで昼間のようであった。避難場所は浅草郵便局である。続々と町内の人達が駆け込んでくる。一時間もたった頃だろうか。火の手は早く、ここも危険な状態となった。
郵便局内は騒然となり、「松屋デパートへ行こう」とか「隅田川がいい」とか激しくやりとりしている。大部分の人は隅田川に逃げることになった。しかし、子供の私は泳げなかったせいか、川に行くのは絶対イヤだと渋った。
近所の人達は、この母子のやりとりを気遣った。「かならず町に帰ってこいよ」という声を背に、母の手を引っぱるように二人だけで火の粉の海を、郵便局から上野の方向へ逃げた。路の両側は、火焔に包まれ、恐しい響きとともに焼夷弾がどんどん落ちてくる。
炎と煙りでむせ返った病人の母は、何度も路上に立ち止まった。その都度、私は引っ張るように母の手を引いて、ただ先へ先へと無我夢中で逃げた。母は私の手を強く握り、頭からすっぽり被った毛布の中から「もし一人になっても、我慢して、強く生きて・・・・・」と言った。
あの時の母の顔は生涯忘れられない。菊屋橋近くの神社のところで母は激しく咳込み、石段の上に座り込んでしまった。私の喉は熱気でカラカラだった。水が飲みたかった。
すわり込んだ母の側に立ちすくんでいると、目の前をリヤカーに家財道具を積んで逃げていく人、わめきながら三、四人で手をつないで逃げていく人、多勢の人々が思い思いの方向に逃げまどう様子は、子供心にも恐ろしい光景であった。
まもなく神社にも火の手が迫った。母は「上野の山に行きましょう」と言った。しかし、前方にも激しく火の手が上がっており、とても歩けそうにない。仕方なく菊屋橋の先を右に折れた。
力尽きた母はとうとう店先にうずくまってしまった。さいわい、家の中から声がして、小母さんが中に入れてくれた。そこは自転車屋だった。母が悪寒で震えている側で、私はまんじりともしなかった。
長い一夜が明けた。幸運にもこの一画だけが焼け残った。私たち母子は奇跡的に助かった。見渡す限りの焼け野原、あちこちに煙が立ちこめる中を家に戻った。玄関先の桐の木が黒く焼け爛れて立っているほか、何もなかった。
焼け跡から熱で二つくっついている茶碗を掘り出した。近くの本願寺には無数の遺体が運び込まれ、広い境内はいっぱいだった。遺体確認の作業がはじまり、私もだれか知っている人はいないかと、たくさんの遺体の顔を見て歩いた。
名前は忘れたが、私の家から五、六軒先に住んでいたおばあさんが、孫を抱きかかえるようにして死んでいた。その遺体には私が名札をつけた。あの二人の姿は今も私の脳裏に強烈に焼きついている。
郵便局で別れた町内の人達のほとんどは死んでしまった。隅田川に避難した人達である。焼夷弾の油が川面に流れ、火の川となったためだという。松屋デパートでもたくさんの人が死んだ。
その日、東京では十万人が死に、二十八万戸近くが焼失したことを知ったのは、ずっと後になってからである。その母は八年前に逝った。いま、当時の母の年齢に妻がなり、私の年にこの夏六才を迎えた三男がなっている―。
(注)記事中、3月9日とあるのは10日の誤まり。死者100,000人、全焼家屋280,000戸は、世界日報の数字と若干異なる。
****************
「母の教え」
雑誌「財界」
春季特大号2019
笹川 陽平
父・笹川良一と母・喜代子の3男として、東京で生まれました。妾の子だったので、16歳まで父のことは知らず、長兄・勝正、次兄・堯、そして母の4人で浅草で暮らしていました。
母は百姓の娘で学問があったわけでもありません。家事に専念し、子どもをしっかり躾ける、ごく普通の母親でした。
洋服は継ぎ接ぎだらけでも、洗濯をして清潔なものを着る。自分のオシャレのためではなく、「他人様に不愉快な気持ちを与えないため」ということです。
また、朝は「おはようございます」と挨拶し、ごはんは「いただきます」、「ごちそうさまでした。おいしかったです」といただく。他人様には礼儀正しく接し、子ども同士仲良くする。
「人に迷惑をかけてはいけない」、「恥ずかしいことをしてはいけない」と、まず公共性を身に付けさせたのが、当時の母親たちでした。いたずらをすると、お仕置きに灸(ヤイト)をすえられる、「お天道様が見ていらっしゃる」としつけられた時代です。
わたしは4歳の頃、疫痢にかかって病院に担ぎこまれ、1週間程入院したことがあります。
母は毎日、お見舞いに来てくれました。退院の日はきれいな下着を持ってきて、着替えをさせてくれ、手をつないで帰ったのがとても嬉しかった。
帰り道、浅草寺に寄ると、母は「この子が今後、病気にならず、元気に長生きしますように」と私の身代わりとして亀を買ってくれ、わたしはその亀を浅草寺の池に放しました。これが、物心ついてから一番最初の母との思い出です。
戦争が始まると、2人の兄は疎開先で生活、5歳のわたしは浅草で母と2人暮らしをしていました。そして、6歳の頃、東京大空襲が起きました。
病弱な母は、その日、高熱にうなされていました。ラジオで空襲警報を聞き、わたしは米を一升詰めた風呂敷をたすき掛けにして担ぎ、頭から毛布を被った母と避難所の郵便局に逃げました。ところが、郵便局は人であふれ、ここも危険が迫り、第二避難所が墨田川だったので、町内会長の団長さんに「一緒に行こう」と説得されましたが、水が苦手なわたしは「川には行かない」と泣きわめき、最後は「また元気で会いましょう」と別れ、わたしと母は郵便局に残りました。
しかし、郵便局にも火の手が回り、子どもながらに「ここも危ない」と、母を連れて別の場所へ逃げることにしました。
以前、軍事訓練中の兵隊さんの後について、浅草から上野の山まで行ったことがあったので、そこを目指そうと考えました。
ところが、道中には焼夷弾に直撃されて死ぬ人々、火災による強風が吹き荒れ、母の毛布にもあちこち火が点き、この世のものとは思えない情景。熱にうなされていた母は、神社の石段に座りこみ、とうとう動けなくなってしまいました。「ここに留まるから、あなたは1人強く生きて」と言う母の手を、わたしは何度も強く引っ張り、よろよろと母は歩き始めました。
しばらく行くと、一カ所だけ燃えていない場所がありました。ガラス張りの自転車屋さんで、中に人がいるのが見えたので、ガラスを叩いて「水を1杯下さい」とお願いすると、家主がすぐに水を持ってきて、休ませてくれました。こうして、わたしと母は九死に一生を得ました。
戦後は、大阪にある父の遠い親戚の家でお世話になりましたが、食べるものがなく、栄養失調で全身におできができたり、水ばかり飲んでいたので、走ると胃の中で水がチャポンチャポンと動く感覚を未だに覚えています。
生活が苦しいのはわかっていたので、ものを欲しいと言ったことはありません。7、8歳の頃、母にデパートに連れて行ってもらい「何か買ってあげる」と言われたときも「欲しいものはないよ」と答えていました。
母は、つらい、貧しいといった愚痴を1回も言わなかったし、わたしも聞かなかった。16歳まで父のことを知らなかったのも、そのためです。ただ、母からは「あなたのお父さんは立派な人だから」とだけ聞いていました。
貧しい生活でしたが、小学生の頃は生徒会長を務め、成績もトップ、運動会でも1等賞だったので、母にとって、わたしは自慢の子どもだったようです。
16歳から父の家で暮らし始めました。朝は飯炊き、仏様のお世話、来客者の靴磨き、そして父の車の掃除。「笹川ホテル」と言われるほどたくさんの人が泊まりにくる家だったので、夕方16時に学校から帰宅すると、来客者の服の洗濯、風呂沸かし、晩飯の用意、片付けと、寝るのは12時を過ぎていました。
大阪での生活同様、丁稚のような生活だったので、高校にも友だちもいなかった。いつも孤独でした。でも、だからこそ精神的に強くなれたのだと思います。
父はすべてにおいてスケールが大き過ぎたので、一般の人には理解困難な人だったと思います。父もそれを理解していて「みんなが良いと言うことは大したことじゃない。常に世の中を改革するのは少数意見だ」と言っていました。わたしも「変人でなければ世の中は変えられない」と思っています。
“変人”とは良い意味で“先覚者”であるからです。ただ、良識的な生活をする人からは反発を受けます。でも、わたしはそれでも良いと思っています。会社や社会で良く思われたいと思うから、みんなが良い子になり、社会制度を変えたり、人間の心を変えられなくなっている。
わたしは、人に褒められる人になりたいとは思っていません。それよりも、言うべきことを言って、批判される人でいたい。
要は、自分の人生をどう生きるか。人に良く思われたいと思わないので、日本財団に来てからは人付き合いもないに等しい。
わたしも常に少数意見の立場ですが、溢れる情熱、どんな困難も乗り切る忍耐力、成果が出るまでやり続ける継続力。この3つを哲学に生きてきました。
母は66歳のとき、すい臓がんで亡くなりました。わたしは最期まで一緒に暮らし、きちんと看取ったので、母も喜んでくれたのではないかと思います。
病弱な母でしたが、ある時、腰の痛みを訴えて聖路加国際病院へ連れて行くと、すい臓がんと診断されました。本人には告知せず、日野原重明先生に付いていただき、開腹手術をしましたが、手遅れでした。日野原先生は、手術室の外で待っているわたしに「手術をすれば生存率10%、手術をしなければ1年もちます。どちらを取りますか」と。わたしは「1年残して下さい」と答えました。そして手術をしたふりをして縫合し、母は家に戻りました。
その後、2人の兄も含めて、みんなが大事にするので、母は「わたし、死ぬのかしら」などと冗談交じりに言っていました。伯父の葬儀で大阪に行ったときには、兄弟の家族たちも交えて旅行にも行きました。
けれども1年後、母は痛みを訴えるようになり、近くに住む医者に自宅に来てもらい、鎮痛剤を打つようになりました。正月にはお神酒を飲んで過ごせたものの、3が日を過ぎると、また痛みが出て、医者が不在の夜中、「痛い、痛い」と言うので、わたしは母の隣に添い寝して、腰のあたりをさすっていると、痛みが和らいだのか静かに寝入りました。ところが早朝になると痛みが激しくなり、山王病院に入院。それから数日後の1974年1月10日、母は亡くなりました。
1日ちょっと痛い思いをさせてしまいましたが、つらい思いをさせたのはその時ぐらいでした。わたしは、死とは“作るもの”だと思っています。どのように送り出してあげるのか、家族がしっかり考えてあげなくてはいけないと思っています。
わたしは世界の僻地でハンセン病と闘っています。おそらくベッドの上では死ねないでしょう。「世界のどこかで野垂れ死にしたときは、そこで焼いて、骨の一片だけ持って帰って来い。家族が現地まで来る必要はない」と書いています。命あるもの、死は当然のこと。特別なことでも何でもないのです。
おそらく母はこの連載の中で最も平凡な母親だと思います。しかし、世界にたくさん女性がいても、産んでくれた母は、母1人しかいない。そのことに今もありがたみを感じています。