「異文化交流の戸惑い」
1月7日のブログに世界一『施し』をする国民はミャンマー人だと書いた。ミャンマーは東南アジアの中で最も貧しい人たちにも関わらずである。自分が生かされているのは仏さまのご慈悲と考えているからであろう。
金色に輝くパゴダ(仏塔)はミャンマー中のどこにでも存在するが、最大のパゴダはヤンゴンにあるシュエダゴン・パゴダである。タン・シェ軍事政権下、新都市ネピドーにも巨大なパゴダが建設された。しかし、シュエダゴン・パゴダと規模は同程度に見えるが、専門家にいわせると、シュエダゴン・パゴダの権威を失墜しないように数10センチ、高さが低くなっているそうだ。
金色に輝くシュエダゴン・パゴダ
この最高権威を誇るシュエダゴン・パゴダの一部が改装されているという。ミャンマー協会の渡邉祐介氏によると、純金の薄板に寄進者の名前を入れて奉納することが流行っており、日本円で一枚、何と!300万もするのに、大勢が列を作って順番を待っているのに驚いたとのことである。
ミャンマー人は信心深く親切である。以前、工業団地の視察の折に車が故障してしまった。途方にくれていたところ、見知らぬ青年が、逆の方向にも関わらず我々を乗せて小1時間もかけてホテルまで送ってくれたことがある。ガソリン代の謝礼も拒否し、笑顔で立ち去った。さわやかな青年であった。
でも、私はミャンマーで『有難う』という感謝の言葉をあまり聞いたことがない。勿論、感謝されたいと思って活動しているわけではないので、多少、不思議だなと思う程度である。
少数民族地域で活躍する森祐次所長は人道活動に汗をかいているが、たまには『有難う』の一言ぐらい言ったらどうだとの『愚痴』がこぼれる時もある。でも、日本財団の大野修一常務理事に言わせると、「ミャンマーには『有難う』という言葉もあり、私はよく言われます」とのことで、私や森祐次には人徳がないからかも知れない。
国によって伝統や習慣の異なることは異文化交流の「いろは」である。かつて、天安門事件で混乱のさ中に招待して来日した中国の医学生は、皆貧しかった。受け入れてくれた教授や教授夫人は衣類や生活用品をプレゼントし、こまやかな心配りをしてくださったが、ある日「喜んでいるかどうかわからない」との問い合わせがあった。
調べてみると、中国ではお礼を言うのは物品を頂戴した時だけで、日本のように贈られた時、帰宅して実物を見た時、着用や使用した後と、何回も礼を言う習慣はないという。何回も礼を言うと、もっと欲しいと解釈されるからだという。
毎年100名の医学生に対して全国の大学は受け入れに協力的で、今日まで25年続いているが、一度も断られたことがない。この奨学生は、今や、中国医学界の中心的役割を担っている人も多い。
インドでは物乞いも職業の一つで、かつては労働組合もあったと聞いたことがある。金持ちが天国に行くためには『施し』が必要であり、そのため物乞いは「我々(物乞い)が金をもらってやらないと、彼等(金持ち)は天国に行けないんだよ」と説明する。
ササカワ・インド・ハンセン病財団では、ハンセン病回復者の生活向上のため、マイクロクレジット(少額融資)で羊を繁殖する事業を支援したことがある。文字も読めない、仕事をしたこともない人々に、小規模とはいえ商売を教えることは至難なことである。
ある日、専門家が経過の調査に行ったところ、二頭足りない。なぜかと質問したところ「村祭りの晩に皆で食べてしまった」とのことである。その弁解として「専門の物乞いなら失敗しないのだがなぁ!!」と長老が答えたという。
そういう国でハンセン病回復者の物乞いをゼロしようと汗をかいているのである。
ミャンマーから話が脱線してしまった。多分、「人のために働き、援助・協力することは『施し』の一つで、あなた自身が天国に行くための準備なのですよ」ということになるのであろう。インドの物乞いの話しではないが、『施し』を受ける人がいることを感謝しなければならないのである。
私自身は天国に行きたいとは思わない。なぜなら、先に死んだ友人は、多分、天国にはいないだろうから。しかし、自分自身の人生を豊かにすることだけはその通りである。
外国での活動には情熱と忍耐、何よりもあきらめない継続性が大切なことを、ここでも思い知らされた。