「ヨルダンに集まる難民」
6月10日、ヨルダン国ハッサン王子と日本財団の共催による第5回WANA(西アジア・北アフリカ)フォーラムの国際会議は、モロッコ、リビア、南スーダン、バングラデシュ、マレーシア、日本など、30ヶ国86人が参加し、「UPROOTED」(強制的に排除されて人々)をテーマに活発な議論が展開された。
WANAフォーラム会場では活発な議論が
2日半のアンマン滞在中、90分ほど砂漠地帯を走り、シリアから流出した難民のためにシリアとの国境付近に設置されたザータリ難民キャンプを視察した。
プレハブ住宅とテントが整然と並ぶザータリ難民キャンプ
テントと仮設住宅の難民キャンプは現在12万人が収容され、毎日増加し続けているが、思った以上に整然としていて、その一区画は日本の民間団体であるJEN(Japan Emergency NGO)が活躍しており、特にキャンプで暮らす避難生活に重要な衛生的で安全な水衛生環境の保全に懸命の努力をされていた。毎日、キャンプに搬入される水量は大型給水車500台。住人による水衛生委員会が設立され、彼らを通じて衛生知識の普及、女性が衛生的かつ安心して洗濯ができる設備の設置も行っており、そのせいか、あちこちのテントを支えるロープや仮設住宅は洗濯物で満艦飾であった。
キャンプを視察(筆者)
ある老夫婦の仮設住宅の中は砂漠の民であるベトウィン族のテント内のようで、20uほどの居間にはテーブルも椅子もなく、敷物と低い布袋の背もたれがあるだけだった。老夫が何かを取りに炊事場の方に行き、大事そうに財布のような物を開きながら持ってきた。中から3cm×4cmほどの若者の小さな写真を取り出し、じっと見つめながら「内戦で死んだ息子だ」という。そして、2人息子の兄は弟の敵討にキャンプを出て行って帰ってこないと、老妻の顔を見てぼそっと呟いた。
老夫婦に室内へ案内され・・・
キャンプ内のメイン通りはパリの「シャンゼリゼ」の名前がついており、難民キャンプでありながらも両側には数百の店が並び、果物、雑貨、食料品、大工道具、外国製タバコ、扇風機まで何でも売っており、品物の豊富さと雑踏には少々驚かされた。
「シャンゼリゼ通り」を行き交う人々
多くの若者は4〜5人、6〜7人と所在なさそうにたむろして話し込んでいたが、多分、話題は内戦の戦況についてであろう。その中には先ほどの老夫婦のように兄弟が闘いに参加している者もいるに違いない。毎日、どこかのテントや仮設住宅の中では悲報に泣き明かしている家族がいるのだろう。遠い日本でシリアの内戦の報道に触れ、早く終結すればいいのにと、ただ漫然と思うのと現場の臨場感は違う。
昭和20年3月9日深夜、東京大空襲で下町を中心に10万8,000人が死亡、数十万人が負傷し、数十万戸の家屋が焼失した。当時7才で生き残った私は、恐怖におののきながらキャンプに到着した難民の気持ちが痛いほどわかり、彼らの苦痛に同情を禁じ得なかった。
ヨルダンには、古くはイスラエルを追われたパレスチナ人やイラク戦争からの脱出難民が今もキャンプ生活を強いられ、その数約70万人。国内にあるキャンプの外で生活しているパレスチナ難民を加えると、ヨルダンの人口約620万人のうち約198万人(2010年)の難民が祖国を追われ、ヨルダンで厳しい生活を強いられている。
東日本大震災における原発事故から6ヶ月の2010年9月。日本財団が福島で開催した世界一流の放射線学者による「放射線と健康」についての国際会議で、ある学者は「事故による最大の悲劇は慣れ親しんだ故郷を離れることだ。このような悲劇が起こらないよう、皆で努力しよう」と訴えていた。
いつ彼らは故郷に帰れるのだろうか。
砂漠地帯の難民キャンプを後に、この言葉をかみしめていた。
まさにヨルダンは世界一の難民受け入れ国である。