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resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
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「ネパールでのハンセン病活動」―今年全国大会― [2025年01月17日(Fri)]

「ネパールでのハンセン病活動」
―今年全国大会―


コロナ禍の影響で世界的にハンセン病制圧活動が停滞しており、患者数も増加傾向にあると推察される。今一度、世界的にハンセン病制圧活動を活発化させたいと願っている。

今年はアフリカ54ヶ国によびかけてエチオピアの首都アディス・アベバでハンセン病制圧大会を開催することにしていますが、ネパールでも今年の秋には全国大会を開催すべく準備を進めています。

また、インド、スリランカ、インドネシアでの活動に加え、バングラデシュも政治が落ち着けば全国大会を行いたいと考えています。

以下は、昨年9月ネパール訪問での記録を多摩全生園の季刊誌「多摩」に投稿したものです。

*******************

ネパールでのハンセン病活動
―早期発見・治療はコミュニティレベルでの活動が鍵―


WHOハンセン病制圧大使・日本財団会長
笹川陽平


「ハンセン病を忘れないで」(“Don’t Forget Leprosy”)
ハンセン病は終わった病気ではない。今もなお世界中にこの病気による偏見や差別に苦しむ人々がいる。このことは国際的に人権問題として解決するべき問題であり私はWHO(世界保健機関)のハンセン病制圧大使としてできる限りの活動を続けている。偏見や差別に苦しむ人々と会って話を聞き、解決策を一緒に考えてきた。最近では「ハンセン病を忘れないで」というメッセージをローマ教皇や各国の首相など影響力のある方々と共に発信する啓発キャンペーンを実施している。2022年にはネパールの著名な登山家のミングマ・ギャブ・シェルパ氏がエベレストの頂上で「ハンセン病を忘れないで」のメッセージを掲げてくれた。私はそのことに感動して85歳の老体に鞭を打って2024年2月にアフリカの最高峰キリマンジャロ登山を決行し、5685mの頂上でメッセージを掲げてハンセン病への偏見や差別をなくすためにより一層の努力をすることを誓ったのである。

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ローマ教皇と共に

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シェルパ氏(エベレストの頂上で)

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筆者(キリマンジャロの山頂で)


根強い偏見と差別
2024年9月、私は10年ぶりにネパールを訪問した。首都のカトマンズでは首相や大統領とハンセン病についての問題点について議論をし、インドとの国境が近いハンセン病蔓延州ではハンセン病に苦しむ人々の現状やそれを解決するために奮闘する人々に会って話を聞くことができた。

ネパールは2010年にWHOが定めるハンセン病の制圧基準である人口1万人に一人未満をクリアしている。ただ、公表されている新規患者数は年間2500人だが、カトマンズ近郊にあるアナンダバン・ハンセン病病院のグルング事務局長によると、正確にはわからないと前置きしつつ、多くの患者が偏見や差別を恐れて隠れているのは間違いなく、新規患者数はおそらく年間3万人は下らないだろうと言う。また、ハンセン病患者を触りたがらない医者もまだ多いとのことだった。

政府の数字はどの国においても正確ではない。これは患者数が増加することは職務怠慢とみられるからで、数字は人為的な数字となっていることが多いと思われる。また、驚いたことにハンセン病患者に対する差別法、例えば妻がハンセン病に罹ったら離婚できるなどが30もあるというのである。これについてネパール法曹協会の幹部たちと協議したところ、法曹協会、国会議員やNGOなど5つの以上の組織が関わって撤廃に向けて活動しているという話ではあった。しかし法律上には差別が禁止されているものの現実は違っていて、ハンセン病患者が目の前に現れるとみな躊躇するという。雇用、結婚もそうであるため、人々のマインドを変えていくことが重要である、と力説していた。なお、ネパールを訪問した翌月にイギリスで国際法曹協会のティム事務局長に会い、ネパールに残るハンセン病患者に対する差別法について共有する機会を得た。ティム事務局長はこのことについてはもう少し早く取り組むべきだった、これから法律の撤廃へ向けて力を尽くす、と約束してくれた。

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アナンダバン・ハンセン病病院で治療を続けている女性と


ハンセン病蔓延州での取り組み
カトマンズでネパールのハンセン病に関する様々な情報を得たあと、私たちはネパール南東部に位置するタライ地方のマデシ州を訪問した。この州はネパールにあるハンセン病の蔓延州の一つでもある。州都のジャナクプールまではカトマンズから小型のプロペラ機で移動することになっている。カトマンズ発着便は必ず遅延すると聞いていた通り、予定より2時間半遅れてジャナクプールへ向けて出発した。飛行時間はわずか25分で、小さな空港に着陸。タラップを降りて徒歩で空港の建物まで歩いていく。まず驚いたことは、なんと暑いことか!カトマンズは気温30度を少し超えるほどだったが、40度は超える暑さと湿度の高さである。少し歩いただけで、じっとり汗がでてくる。カトマンズの人々がジャナクプルは暑いよ、と言っていたことに納得であった。空港からシン州首相との面談に向かい、ハンセン病活動のために同州を訪問したことを報告し、20時頃に宿泊先のホテルに到着した。遅い夕食を取るためにホテルのレストランに入ると、エアコンがほとんど効いてない。大きな扇風機が2台、音を立てて首を振っていた。レストランの中はそれでも蒸し暑い。ここで冷えたビールを飲んだらさぞ美味しいのはわかってはいるものの、ぐっと堪えて普段は飲まないコーラを頼む。実は、5月の連休中に1日10時間雑草取りに精を出した結果、腰の神経を痛めてしまい、なかなか治らないのである。少し治ってきたところでまた雑草取りをする、ということを繰り返しているうちに慢性的な痛みとなって歩行にも多少影響が出てきてしまった。痛めた神経にはアルコールはよろしくないだろうという自己診断のもと、この出張ではアルコールを我慢することに決めたのである。

翌日は、朝から1日かけてラルガー・ハンセン病病院や自助グループの活動を視察した。ラルガー病院に到着すると、院長のクリシュナ医師やスタッフから次々と首に花輪とカタと言われるスカーフをかけられて歓迎され、その後クリシュナ医師に病院内を案内される。カルテが保管されている部屋には4万人を超える患者のデータがぎっしりと並ぶ。クリシュナ医師は将来的にデジタル化して保管したいとのことであった。

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カルテが保管されている部屋

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ハンセン病の治療薬(MDT)を確認する


クリシュナ医師によると国境を接するインドからの患者が全体の2割を占めるとのことで、1日の新規患者は5〜6人。入院施設も完備されていて90ある病床はほぼ満室だった。病室を訪ねると、国境を接するインドのビハール州から治療に来ているスバヤダブさんという女性がいた。彼女は夫と兄妹からも見放されて一人でネパールの病院に治療に来たと、寂しそうに話してくれた。インドでも偏見や差別が根強いことは重々承知しているが実際に彼女のような人に会うと、より一層の努力が必要だと感じざるを得なかった。

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インドから治療に来ているスバヤダブさん


なお、我々を案内してくれたクリシュナ医師は祖父と母親がハンセン病に罹り、子どもの頃には同級生から辛いいじめを経験したと話してくれた。そして自分だけではなく祖父も母親も苦労しているのを見てきたからこそ自分が医師になって治療する立場になりたいとインドの医学部で勉強して医師となり、長くハンセン病の現場で活動している。

午後には、ラルガ病院が組織した自助グループをクリシュナ医師と共に訪問した。自助グループはマデシ州に150程度あり、回復者がメンバーとなってハンセン病の早期発見や啓発活動に加え、患者へリハビリを促すような活動をしている。自治体から交付金10万ルピー(約11万円)を受け取り、それを活用してラルガ病院での治療が可能になっているという。クリシュナ医師のようなハンセン病の患者に寄り添うことのできる人がいるからこそ、このような素晴らしい連携が行われているのである。

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自助グループメンバーたちの話を聞く


我々が訪問した自助グループのリーダーから詳しく話を聞くことができた。自助グループがない時は差別がひどく、就職や結婚はもとより患者を探すこともコミュニティの人たちと一緒に食事をすることも難しかったという。しかし自助グループを結成して啓発や早期発見活動を行い、一緒に食事をする機会を作るなどしているうちに徐々にコミュニティの人たちからの理解が得られるようになってきたと説明してくれた。

彼のようなリーダーだけではなく、ハンセン病の初期症状がどういうものかについてよくわかっているのは回復者である。私の前に座った少年がハンセン病の症状が顔に出ているようだったので、聞いてみると自助グループのメンバーに早めに見つけてもらったのでこのあとラルガ病院に行くことになっているという。このようにコミュニティレベルからハンセン病の早期発見が行われていけば、後遺症が残ることはない。そうすれば偏見や差別に苦しむ人も減ってくるであろう。蔓延地域でこのように成功している例を見ることができたことは、私にとってこの上ない喜びであり、彼らのような活動なくしてハンセン病の制圧はないと再認識したのである。

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ハンセン病の初期症状が顔に出ている少年


ハンセン病全国会議の開催
コミュニティーレベルでハンセン病制圧のために奮闘する人々に会い、改めてこの国の課題と解決策について考えるきっかけとなった。そこで私はまず「全国ハンセン病会議」を開催することを決めた。

この会議を開催することに関しては首都のカトマンズで直接オリ首相、ポーデル大統領、プラディープ保健大臣にもお会いして、賛同を得ることができた。ハンセン病の患者を早期に発見して病院との連携で早期の治療を可能にし、さらには啓発活動を行いながらコミュニティーレベルでハンセン病に対する偏見や差別をなくしているという自助グループの活躍についても報告した。オリ首相は、「会議で議論を深め、ハンセン病に対する偏見や差別の問題も含め解決していってほしい」と会議への期待を寄せられた。

今回の訪問は、私が常日頃大切にしている信念の一つ「課題と解決方法は現場にある」ということを改めて感じることのできる旅であり、早速来年度に開催するネパールハンセン病全国大会の準備に取りかかることになった。(了)

産経新聞【正論】真の独立国家たる覚悟と戦略を [2025年01月10日(Fri)]

―真の独立国家たる覚悟と戦略を―


産経新聞【正論】
2025年1月6日



「自主憲法制定」「国軍の創設」「スパイ防止法の制定」「サイバー対策の確立」「武器製造力の保持」―。過激な言葉を並べたが、これらの要件を備えるのが、あるべき独立国家の姿と考える。

<<ルールより力が支配>>
わが国は戦後80年間、同盟国・アメリカに頼ることで、豊かで平和な社会を築いてきた。しかし気付いてみれば、ロシアによるウクライナ侵攻やガザでの戦闘など、国際社会はルールより力が支配する世界に変わりつつある。

尹錫悦大統領の戒厳令宣布に端を発した韓国政界の混迷、シリアのアサド政権崩壊を見るまでもなく、世界は「一寸先は闇」の状態にある。国内も少子高齢化や巨額の財政赤字、次代を担う若者の内向き志向など山積する難題に身動きが取れない状況に陥っている。

英国の雑誌エコノミストが毎年発表する世界の民主主義指数によると、2024年、民主主義といわれる国は欧米、日本など24カ国。これに対し権威主義国家は2倍以上の59カ国に上る。

経済格差の拡大も急だ。国際的NGO「オックスファム」は19年、10億ドル(約1500億円)以上の資産を持つ世界の富裕層約2100人が、世界人口の約6割46億人分に相当する資産を保有している旨の報告を行った。

民主主義や資本主義は経済を発展させ、人々に幸せをもたらすと考えられてきた。多くの変化を前に、そうした神話の後退・行き詰まりを指摘する声も増えている。

そんな中、わが国の政治は「政治とカネ」、「103万円の壁」を巡る国会論議を見るまでもなく、内政課題に追われ激動する国際社会に対応できていない。

この間、覇権主義を強める中国は軍事大国化し、ロシアのウクライナ侵攻にはミサイル実験など挑発的行動を繰り返す北朝鮮も加わった。台湾海峡の緊張も一段と高まり、3国に囲まれた日本の安全保障環境は急速に厳しさを増している。

わが国は日米安全保障条約に基づき米国が日本を防衛し、わが国が米国に施設・区域を提供するのを安全保障の柱としている。これに対し、現実に有事が発生した場合、米国がどこまで対応するか、日本は受け身の立場でいいのか、多くの疑問が出されてきた。

昨年秋、日本財団が「国家安全保障」をテーマに全国の17〜19歳1000人を対象に行った調査で「他国から日本が攻撃・侵略された時に米軍が守ってくれる」と答えた若者は31%だった。

次代を担う若者の7割近くが不安を感じる、米国依存の安全保障態勢にはやはり問題がある。米国と日本では国益が違い、国民の考えにも差がある。

<<「世界で一番危ない国」>>
最近、海外に出張すると、知人から「平和日本こそ一番危険な環境にある」と指摘を受けるケースが増えた。外国の要人から「永遠の同盟も永遠の敵対もない。平和を維持していくためにも日本は核を装備すべきだ」との“助言”を受け、驚いた記憶もある。

イタリア・ルネサンス期の政治思想家マキャベリは「自らの安全を自らの力によって守る意思を持たない国は、独立と平和を期待することはできない」との言葉を残した。

今の社会にも通用する名言と思う。何の備えも必要のない平和な社会が、永遠の理想であるのは言うまでもない。しかし有史以来そのような時代はなかった。

戦争や紛争に巻き込まれるのを防ぐためにも、必要な備えは欠かせない。今のままでは、この国の将来は危ないー。日頃そんな不安を強めていたせいか、正月早々、思わぬ夢を見た。

夢では若者を中心とした国会包囲デモや世論の盛り上がりで憲法が改正され、自衛隊は国軍となり、外交もたくましく変身していた。デモのプラカードには「自主憲法と国軍の創設」、「真の独立国家」といった言葉が並び、「国の尊厳を守れ」といった檄文もあった。全学連が日米安全保障条約改定を巡り「安保反対」を叫んだ昭和35年当時とあまりに違う光景に興奮したせいか、目覚めたときには全身にびっしょりと汗をかいていた。

当時は、自衛も含め軍備を放棄し中立主義に立つ「非武装中立」も議論の一つになった。現実離れした空理空論がもてあそばれた時代でもあった。

<<戦後80年「平和の迷妄」>>
日米同盟がわが国の安全保障の要であるのは今後も変わらない。その一方で明確な国家戦略を持たないわが国の現状には、国の在り方として疑問が残る。真の独立国家には国民の総意に基づく国家戦略こそ欠かせない。

そのためにも政治家だけでなく、各界の指導者が覚悟と責任を持って「輿論」の先頭に立つ必要がある。それによって、わが国が戦後80年の「平和の迷妄」から目覚め、世界から尊敬される真の独立国家に生まれ変わる道も開ける。

(ささかわ ようへい)

「カーター元大統領逝去」―国葬への招待届く― [2025年01月08日(Wed)]

「カーター元大統領逝去」
―国葬への招待届く―


12月29日、ジミー・カーター元アメリカ合衆国大統領が100歳でご逝去された。1月9日にワシントンD.C.で国葬と近親者での偲ぶ会が開かれるが、夫婦での出席要請を頂いた。カーター元大統領とは40年以上の交流があり、カーター・金日成会談の仲介の労をはじめ、様々な思い出がありますが、それはまた別の機会に筆を執ることにします。まずは私の弔意とササカワ・アフリカ財団会長のアミット氏の弔電をアップしました(原文はいずれも英語です)。

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マリの農場にて、カーター元大統領ご夫妻とサングラスをかけた筆者


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ノーベル平和賞受賞者の両名(左:ノーマン・ボーローグ博士、中央:カーター元大統領)と筆者


(筆者からの弔電)
訃報に接しご遺族の皆様には心よりお悔やみを申し上げます。大統領閣下は難しい時代においてアメリカ国内のみならず、世界の平和と安寧に多大なる貢献をした偉大な人物でありました。特に40年近くにわたるササカワ・アフリカ財団を通じてのアフリカにおける大統領閣下の食料増産協力は数えきれない人々の命を救い未来を切り拓きました。閣下の灯したアフリカの希望という灯はこれからも消えることなく、アフリカを照らし続けることでしょう。ここに大統領閣下の生前の功績に敬意を表すると同時に深甚なる弔意を表します。

(アミット会長からの弔電)
ササカワ・アフリカ財団(SAA)は、共同創設者の一人であるジミー・カーター大統領のご逝去に際し、深い哀悼の意を表します。100歳という大往生を迎えたカーター大統領は、リーダーシップ、人類愛、飢餓の撲滅、人権擁護、世界平和の促進に尽くした卓越した生涯を残されました。

1985年、アフリカの角が深刻な飢餓危機に直面していた中、カーター大統領は笹川良一氏とノーマン・ボーローグ博士とともに「ササカワ・アフリカ・イニシアティブ」を立ち上げました。この先駆的な取り組みは、後にササカワ・グローバル2000(Sasakawa Global 2000)へと発展し、SAAの重要な活動基盤となりました。この取り組みは、カーター大統領の国際的な政治的影響力と国際協力を促進する能力、ボーローグ博士の革新的な農業知識、そして笹川氏が会長を務めた日本財団(当時は日本船舶振興会)を通じた財政的支援という三者の独自の強みを結集したものでした。

カーター大統領の貢献は、ハイレベルの外交にとどまりませんでした。農村を訪れ、農家に耳を傾け、支援する人々と直接つながりました。その謙虚さと、達成可能な目標を明確に理解する力により、大統領の関与は非常に意義深く、影響力のあるものでした。

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写真は、カーター大統領のSAAでの功績を象徴する一場面を捉えています。エチオピアを訪問した際、大統領はメレス・ゼナウィ首相にSAAのデモンストレーション圃場を紹介しました。これらの圃場は、改良農業技術がどのように農家を力づけ、生産性を向上させるかを示すものでした。このモデルに触発されたメレス首相は、デモンストレーション圃場をエチオピアの国家的な農業普及政策の柱として採用し、同国の食料安全保障と農業開発において顕著な進展を遂げました。

カーター大統領、笹川氏、ボーローグ博士の共有したビジョンと決意が、ササカワ・アフリカ財団を誕生させました。その努力は、アフリカの小規模農家を支援し、生計を向上させるという私たちの使命に今もなおインスピレーションを与えています。

カーター大統領の卓越した生涯と貢献を称え、私たちは彼の遺志とビジョンを引き継ぎ、アフリカにおけるより持続可能で回復力のある食料システムを実現するため、農家とともに歩み続けます。

ササカワ・アフリカ財団を代表して、カーター大統領のご家族と、大統領のリーダーシップに感銘を受けたすべての方々に、心よりお悔やみ申し上げます。

カーター大統領の偉大なる魂が安らかに眠られますように。

「昭和100年100人のリーダー」―笹川良一編― [2025年01月06日(Mon)]

「昭和100年100人のリーダー」
―笹川良一編―


今年は昭和100年になるそうで、かつて俳人 中村草田男は「明治は遠くなりにけり」と詠んだが、平成生まれが来年は36才となり「昭和も遠くなりにけり」です。

文芸春秋社では昭和100年を記念して、日本のリーダー100人を選抜して、一般社会に流布している人物像ではなく、近くにいた人間しか知らない政財界トップの本当の姿を書き記した完全保存版を出版された。

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完全保存版 リーダー編


昭和天皇はもとより20名を超える首相経験者のエピソードも盛りだくさんで一読に値する好企画です。若干手前味噌でありますが、笹川良一を愚息の拙文にて掲載いただきました。ご一読賜れば幸甚です。

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笹川良一 「冬場でもきまって水風呂」 

笹川陽平


"昭和政財界の大物”笹川良一(一八九九―一九九五)は、ハンセン病撲滅運動をはじめ、社会貢献活動に人生を捧げたことでも知られる。息子で日本財団会長の笹川陽平氏が、父の生きざまを語る。

父の衝撃的な映像があります。一九八三年にネパール山麓のコカナ療養所を訪ねた時のこと。最愛の母親や弟を亡くしても泣かなかった男が、重いハンセン病に苦しむ女性の手を握り、人目もはばからず泣きじゃくっている。父は弱者や困っている人に本当に優しい人でした。

生まれは大阪の豊川村(現箕面市)。小学校の同級生には文豪・川端康成もいた。二人の祖父が碁敵でよく一 緒に遊んだそうです。川端もハンセン病への理解があり、北条民雄が自身のハンセン病体験を綴った『いのちの初夜』(一九三六年)の「文學界」 掲載に尽力したそうです。

世のため人のために尽くした父でしたから、身内には厳しかった。水道の無駄遣いをするなと、お風呂は必ず二人一組で入る。父は冬場の風呂でもきまって水風呂に入るから、一緒に入る時はつらかった(笑)。

「現場に問題と解決がある」

私の哲学である現場主義は父の生き方そのものでした。

社会のために
父は二十代の頃、民本主義で有名 吉野作造にアポなしで面会。東京市長の後藤新平を紹介してほしいと 頼んだところ、吉野は「君ならば私の紹介なしで会えるよ」と、やんわり断りながらも、父に内緒で後藤に「見込みのある青年だから是非会ってやって欲しい」と手紙を書き、父の情熱を高く評価していました。

戦後は、ハンセン病患者の救済活動以外に、日本傷痍軍人会の会長として元兵士や戦争で夫を亡くした妻の支援に奔走。がん研究会の附属病院に行けば、病棟の最上階から全ての病室を回って末期がんの患者を元気づけ、なじみの料理屋の女中が入院すればすぐに病院へ駆けつけた。

彼の生き方を引き継いだ私は、ハンセン病制圧のためにこれまで世界 七十カ国を回りました。彼のことを思い返すたびに、社会のために生きるんだと、今も奮い立たされます。

「皆さん!!遺言書を書きましょう」―残された家族のために― [2024年12月27日(Fri)]

「皆さん!!遺言書を書きましょう」
―残された家族のために―


12月13日に日本財団で行われた遺言書作成のセミナーでの挨拶です。

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広島、長崎のご苦労なさった方がノーベル平和賞を受賞され、悲しい中にも素敵な活動が評価されたのが嬉しいことです。私も1945年3月、東京大空襲を経験致しました。当時はまだ東京に近代的建物はなく木造建築がほとんどでありましたから、油性爆弾である焼夷弾が投下されたことで2.5時間で東京中火の海になり、10万8,000人余の死者が出ました。私は浅草寺の寺町に住んでいましたが、夜の10時過ぎにサイレンが鳴りました。まずは指定の第一避難所に行きましたが、母親は高熱を出しており、毛布をかぶって逃げました。布団と一緒に水筒、米袋、避難用リュックをもって町にでたら、町は真っ赤に燃え上がり人々が右往左往して逃げまどっておりました。第一避難所である菊谷橋の郵便局に集まりましたが、そこも危ないということで、第二避難場所に行こうとなりました。第二避難場所は隅田川でした。ご存じの通り、本所深川は最もひどい被害を受けたところで、墨田川は油性爆弾のため火の海になりました。私は水が苦手で「川の方に行きたくない」と地べたに座り込み抵抗し、団長に怒られましたが「ではまた無事に会おう」とその場に置いて行ってもらいました。母親は毛布をかぶり動けなかったのですが、私は上野の山に行った記憶があったので、そちらに逃げようと思いました。荷車で逃げる人も沢山いましたが、容赦なく焼夷弾が落ちてきます。地面に落ちると油が飛び散り、火が人に移り生きたまま焼け死んでいく光景はまさに生き地獄でした。一晩明けた後に、死体収容所は死体であふれかえり、子供ながら素手で死体を触り、近所の人がいないか探しました。おばあさんが、孫を抱くように亡くなっていました。おばあさんの背中は焼け焦げていましたが、腕に抱かれていた赤ん坊に傷はありませんでした。しかし二人とも亡くなっていました。その後食糧難で道に生えている草を茹でて食べており、私は慢性的な栄養失調でした。もうじき86歳になりますが、元気に人道的な活動を日本財団でさせていただいているというのもこうした幼児体験からくるものであろうと思います。

私は若い時分から、財産家といわれる社会で経済的活動をしている方とのお付き合いが多くありました。そして、どの家庭も本人が亡くなると大騒動になるのを見てきました。本人が元気な時は穏やかで素晴らしい家庭だったのが、本人が亡くなるとあのように変わるのかという思いをしてきました。本人が亡くなると、感情的にも高ぶっているので、葬儀の遺影、飾る花の順番、など揉め事が始まります。こうしたのをたくさん見てきているので、何とか本人が亡くなった後も、本人が生きていたときと同じような家庭を続けてもらうためには遺言書が何より大切と考えております。イギリスにはそうした習慣がありますが、日本にはまだ十分醸成されていないので、遺言書の書き方の専門家でおられる佐山先生にお願いして、本人亡き後も穏やかな家庭生活を送ってもらうために遺言書を書く習慣を作ろうと活動しています。色々なご事情でお一人様になられた方やお子達に恵まれなかった方の遺産が国のお金になってしまうという事情もあります。社会で困っている人に使っていただくのが亡くなられた本人の遺志であることも多々あり、その場合は遺言書に「社会のために使ってほしい」と遺贈先を書くことで、そうした想いを実行に移すことができます。

能登の地震では日本財団は16万人から寄付を頂きました。私は、こうした寄付金の使途については、透明性と説明責任を果たす責務がありますから、礼状にメッセージを添えて返事を出しています。こうした活動の積み重ねにより、多くの方々の信頼を頂いたものと思います。中にはご家族への御遺言と一緒に、日本財団を通じて恵まれない子供たちに使ってほしいとお書き合わせ頂くケースも増えてきております。こうした想いに対して、我々は責任を果たしていかなければなりません。遺言書を書くのは確かに手間かもしれませんが、不思議なことに「いつ書こうか」と思っている方が心を決めてお書きになるとみな元気になります。人生の最後のことを書き終えたときに元気になった方が多くいらっしゃいます。長生きする健康法が遺言書を書くことがではないかと思うほどです。

先ほども申し上げましたが、我々は当人が亡くなった後も家庭生活が穏やかに続くよう遺言書を書くことを促進する活動をしています。確かに書きあげるまでに時間がかかりますが、書かれたあとはお元気になります。心の中で一番重いお仕事ですが、これをきっちり書いていこうということですから、本日お集まりの皆さんもそうした気持ちでお聞きに来られたと思います。日本財団にも専門家がおりますので、書き方の指導をさせていただいております。しっかり書かないといけません。いくら丁寧に書いても最後に判子を押すのを忘れれば無効になります。反対に、折り込み広告の裏に遺言書を書いた方がいますが、署名捺印があれば遺言書として有効だそうです。ちょっとした分かりにくいことでも電話いただければ、我々の専門家が対応致します。健康で素晴らしい家庭が続くよう遺言書を書きましょう。子供がいらっしゃらない方におかれては、今や100人に34人の子供が何らかの課題を抱えて生きています。食事でカレーを食べたことがない子、不登校の子、障害を持つ子、親の面倒見なければならない子など、日本は人口減少である中で、未来を担う子供たちに夢と希望をもって生きていただくことが重要と思います。どうぞ、くどいようですが、ご家庭の幸せのために遺言書を、年末や正月は一つのきっかけになろうかと思いますので、そのあたりを目指してお書きになるのもよいと思います。今日はありがとうございました。


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以下、「ゆいごん川柳」(日本財団遺贈寄付サポートセンター編集)より秀作をご紹介します。

・こう書けと妻に下書き渡される(カカア天下ですから)
・遺言を書くと不思議に長生きし(皆さんそう言われますね)
・あわてずにゆっくり来いと妻に宛(おおむね夫が先ですね)
・終活へはじめの一歩遺言書(終活の最後ですよ)
・達筆の遺言印を忘れてる(これは無効です)
・相続で困る田舎の古い家(壊すには金がかかるし)
・捨てられたチラシの裏の遺言書(でも押印あれば有効)
・かあさんを頼むと父の強い文字(口下手の父だった)
・遺言を書いた私が生き残り(遺言書は夫婦で書きましょう)
・今日は書く明日は書こうと遺言書(ボケない内にね)
・遺言でやっとあなたを理解した(遅いけどまあいいか)
・「愛してた」と遺書に最後の嘘を書き(天国に行けませんよ)
・遺言の締め切り何時と医者に聞く(遺言書はボケる前にね)
・松竹梅あれば棺桶梅でいい(焼くのも安い所と頼んであります)
・ゆいごんの前に断捨離すすめられ(写真の整理で一週間)
・いい人生だったと遺言を締めくくる(そうありたいものですね)

「クロネコヤマトのビッグなプレゼント」―日本財団 子ども第三の居場所へ― [2024年12月23日(Mon)]

「クロネコヤマトのビッグなプレゼント」
―日本財団 子ども第三の居場所へ―


子どもたちの多くは学校、学習塾と家庭の往復です。特に経済状況や家庭環境に課題を抱える子どもは学校と家庭、特に一人親家庭においては子どもたちはスマホだけの孤独な生活になりがちです。原因は子どもたちのコミュニティが崩壊したからです。

日本財団では、子どもたちが自由に集まれる第三の居場所づくりを全国に展開しており、現在236ヶ所が活動をしており、これらの場所では子どもたちの笑い声が絶えず、場所によってはおじいさんおばあさんとの世代間交流も活発で、予想以上の素晴らしい成果を上げています。

このたび「クロネコヤマト」さんからこれらの「子ども第三の居場所」にビッグなプレゼントを戴きました。1回きりのプレゼントではなく、継続的なプレゼントです。

私が説明するより12月11日付朝日新聞(デジタル)の記事の方が説得力がありますので、以下全文を借用しました。

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贈答品のお菓子に喜ぶ子どもたち=2024年11月18日午後4時1分、さいたま市、杜宇萱撮影


まもなくお歳暮シーズン。全国各地で年末のあいさつが交わされる陰で、品質に問題はないのに、箱のわずかなへこみや汚れを理由に捨てられる商品も。「もったいない」をなくすため、子どもたちに贈る動きも出ている。

「おやつを食べたい人は手を洗ってください。きょうは特別メニューです」

11月中旬の午後、NPO法人「さいたまユースサポートネット」(さいたま市見沼区)が拠点とする建物の一室で、プロジェクトマネジャーの武原忠志さん(69)が呼びかけた。

その場にいた小学生約20人に配られたのは、高級チョコレートブランドの焼き菓子。1年の男児(7)は「初めて食べた。もっと食べたい」。

高級焼き菓子、青森産果汁100%リンゴジュース…
同法人には今年度から週1回、こうしたお菓子などが届くようになった。どれも一流ホテルのプチケーキや果汁100%の青森県産リンゴジュースといった、高額なものばかり。代金は送料も含めて無料だ。

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贈答品のお菓子に喜ぶ子どもたち=2024年11月18日午後4時1分、さいたま市、杜宇萱撮影


武原さんは「子どもたちの舌が肥え過ぎるのも困る」と笑いつつ、「予算が限られる中、とてもありがたい」。スタッフの森本千世さん(42)は「(物流が増える)お中元の時は届く品がいつもより多かった。お歳暮シーズンも増えると思う」と言う。

同法人は2021年度から週3回、放課後の居場所に困った児童たちに遊び場を提供している。日本財団(東京都港区)が全国の子ども支援団体に助成し、それぞれの拠点などで展開する「子ども第三の居場所」事業の一環で始まったもので、このお菓子の「プレゼント」も財団のプロジェクトだ。

プロジェクトは運送大手のヤマト運輸(東京都中央区)と共同で実施。財団によると、今年5月から本格運用し、10月時点で「第三の居場所」など全国158施設に食料品や日用品を送り届けている。

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廃棄予定の食品や生活用品を子どもたちのもとへ


届けられるのは、運送の過程で外装に傷や汚れがつき、廃棄される予定だったもの。百貨店の贈答品なども含まれ、品質には問題がないため、「もったいない」として、子どもたちに寄贈することにしたという。

包装紙も含めて「ブランドイメージ」
なぜ品質に問題のない商品が、捨てられなければならないのか。

輸送業界団体である全日本トラック協会(東京都新宿区)の担当者は、「荷主によっては、荷物の包装紙も含めてブランドイメージと考え、外装の破損によって商品そのものの価値を損なったと損害賠償を求めてくることもある」と話す。

ただ、国土交通省が定めた標準約款によれば運送に適した荷造りをする責任は荷主にある、とされている。

それでも契約によっては、届けられなかった商品について運送業者が弁済費用などを負担しなければならない。ある百貨店大手では、破損した荷物のうち運送業者が費用を負担することになったものが昨年度1年間で約1600件に上ったという。

受け取り拒否の27.9%が「品質に異常なし」
破損があったとしても一定程度であれば、商品として許容できる、という契約の基準が荷主と運送業者の間で設けられていることもある。しかし、協会が10年前に実施した調査では、受け取りを断られた荷物の27・9%が、軽微な汚れや傷だけで品質に異常は認められなかった。

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運送の過程でついたとみられる洋菓子の箱のへこみ。これまでは中身ごと廃棄されていたが、子どもたちのもとへ届けられ、おやつとして配られた=2024年11月18日午後2時21分、さいたま市見沼区、中野浩至撮影


「送り先に受け取りを拒否されれば運送業者としては持ち帰らざるを得ない」と協会の担当者は話す。こうした荷物が転売されれば値崩れを起こすおそれもあるとして、運送事業者が損害賠償をしたにもかかわらず流通を防ぐ目的で廃棄を指示する荷主もいたという。

物流コンサルティングの船井総研ロジ(東京都中央区)の田代三紀子執行役員は、「荷物が人の手に触れる回数が多いほど破損のリスクが高い」と指摘する。運送大手では、複数の拠点を介して集荷と配達を繰り返すため、その分だけ荷物を落としたり、ぶつけたりする危険があるという。

「消費者も寛容な受け止めを」
破損防止に向けた様々な対策は取られているが、すべての荷物を無傷で届けることは難しい。

田代さんは消費者の意識改革も必要だと訴える。「日本の消費者は、お店に並んでいるような、きれいな状態で荷物が手元に届くことが当たり前だと思う傾向にある」と指摘。「人手不足にあえぐ運送業界にとっては、それが重くのしかかっているということを知ってほしい。持続可能な社会を維持するためには、消費者自らの行動を改めて見直すことも必要ではないか」
(中野浩至)

「洋上風力技能者養成」―年間1000人― [2024年12月20日(Fri)]

「洋上風力技能者養成」
―年間1000人―


クリーンエネルギーである洋上風力発電設置には、建設、メンテナンスに多くの技能者が必要です。

日本財団では多くの有能な技術者をスコットランドやノルウェーで養成してきましたが、この度国際基準をクリアしたトレーニング施設を長崎の伊王島に建設、年間1000人の技能者養成を目指すことになりました。以下は、11月10日付nippon.comの記事です。

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再生エネルギーの切り札として期待される洋上風力発電の作業に携わる人材を育てる「日本財団洋上風力人材育成センター」が長崎市伊王島町に完成、11日から訓練生の受け入れが始まる。

日本は風車を設置する遠浅の海が少なく、先行する欧州や中国に大きく後れを取ってきたが、風車を海に浮かべる「浮体式」の技術開発で巻き返しを図ろうとしている。政府は原発45基分に相当する45ギガワット規模の洋上風力開発を掲げる。同センターでは、建設や保守点検などに携わる年間1000人の技能者を育成し、人材面から脱炭素社会を支える。

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伊王島は長崎港から船で25分前後。橋で結ばれているため、市街から車でも約30分でアクセスできる


海洋開発事業に取り組む日本財団が事業費を支援し、県と市、地元企業や教育機関が連携して運営に当たる。大都市への人口流出が深刻な長崎市は、風力事業による雇用創出に期待。鈴木史朗市長は「漁業や造船業など海とともに発展してきた強みを生かし、産官学が連携して“オール長崎”で取り組む」と力を込める。

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完成した安全訓練棟。25年度には隣接地に技能訓練棟ができる


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屋内プールで落水時の安全行動などを訓練する


国際基準の訓練、外国人材も積極的に受け入れ
センターでは、高所作業や万が一落水した際の対処方法、陸上から離れた施設での作業に不可欠な防火や消火などを学ぶ。2階建ての安全訓練棟には、天井クレーンや水深3.5メートルのプールを備え、救命いかだの操作や負傷者救護など実践的な安全訓練ができる。国際基準の認証を取得できる3日間と5日間のコースプログラムを提供する。全コースの英語での受講も可能で、「人手不足が深刻な建設業と同様に、洋上風力でも外国人材が不可欠になる」(施設長・松尾博志氏)と、海外からの受講生も積極的に受け入れる方針だ。

2025年度には機械や電気、油圧作業などの訓練ができる技能訓練棟を開設。さらに、26年度には沖合に洋上タワーを整備し、実際の海域でのアクセス船から風車への移乗や物資搬入などを想定した訓練が可能になる。

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26年度完成予定の洋上タワー(高島近海)。世界に先駆けて実海域で移乗訓練を実施する 写真提供=日本財団


伊王島の南南西8キロの海上に浮かぶ端島(軍艦島)は2015年に国連教育機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ。炭鉱の島として栄え、日本の近代化に大きな役割を果たしたが、エネルギーの主力が石油・天然ガスへとシフトし、1974年に閉鎖した。

それから半世紀を経て誕生した洋上風力の人材育成拠点が、さらなるエネルギー新時代に向けて大きな役割を果たすようになることを期待したい。

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災害時の脱出訓練の実演


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負傷者を救急ヘリに乗せやすい高所につり上げる訓練

「船舶用水素エンジンの開発」―開発競争激化?― [2024年12月16日(Mon)]

「船舶用水素エンジンの開発」
―開発競争激化?―


日本財団では無人運航船の開発、ゼロエミッション船の開発、それに風力発電のための人材養成など海洋開発に注力している。ここでは船舶用の水素エンジンの開発についてお知らせします。以下は産経新聞の和田基宏氏の記事を紹介します。

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水素エンジンの世界初「ゼロエミッション船」
中韓と生き残りをかけた開発競争の舞台裏


脱炭素社会への鍵を握るビッグプロジェクトが広島で始動した。次世代エネルギーの一つとして注目される水素を燃料とした船舶用エンジンの研究開発拠点「水素エンジンR&Dセンター」が9月、広島県福山市の造船所内に開設された。2年後の令和8年までに水素エンジンを搭載した二酸化炭素(CO2)を排出しない世界初の「ゼロエミッション船」を建造し、実証実験を行う計画だ。かつて世界の海を席巻した国内の造船業は政府の支援で拡大する中国や韓国勢との競争で疲弊しており、運営会社は「復活への起爆剤になる」と期待を寄せる。

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造船所内に開設された「水素エンジンR&Dセンター」=広島県福山市


世界初の施設
センターは公益財団法人「日本財団」の「ゼロエミッション船プロジェクト」の一環として建設された。性能試験設備や制御分析室などを備え、水素エンジン開発から水素の貯蔵、船舶への充塡(じゅうてん)までを一気通貫で実施できる施設で、造船所の敷地内に建設されるのは世界初という。船舶用に特化した水素ステーションを海沿いの隣接地に令和7年1月までに完成させ、移動型浮体式水素ステーションも視野に入れる。

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制御分析室ではエンジンの運転状況がリアルタイムで表示される


運営するのは造船・海運業を中心に事業展開する常石グループと、ベルギーに本社を置く海運大手CMBの研究開発会社「CMBテック」が出資する合弁会社「ジャパンハイドロ」(福山市)。同社は世界初の軽油水素混焼高速エンジン搭載の旅客船「ハイドロびんご」の運航を実現し、30〜50%のCO2削減に成功。ゼロエミッション船の建造に向けて段階的な開発を進めている。

センターを水素エンジン開発を目指す研究機関や企業も活用可能なオープン型ラボとして開放することにより、国内における開発拠点化を狙う。船舶用のほか、大型トラックや重機、鉄道などへの活用も想定している。

時間切れ寸前
水素は燃焼時にCO2を出さないクリーンエネルギーとして知られる。風力や太陽光など再生可能エネルギーと違い、天候に左右されずにつくれる利点があるが、化石燃料に比べて製造コストが高い上、輸送や貯蔵には圧縮や液化をする設備が必要な場合もあり、普及の足かせとなっている。

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「水素エンジンR&Dセンター」の内覧会で説明するジャパンハイドロの青沼裕取締役社長執行役員

 
「水素は輸送より地産地消に適しているので、いずれは国内での生産が増え、調達コストも下がってくる」と指摘するのは、ジャパンハイドロの青沼裕(ゆう)取締役社長執行役員。「現実的な水素エンジンの普及を加速させたい。卵が先か、ニワトリが先かとの論法ではないが、水素エンジン船の普及によって水素燃料の需要増加への歯車が回り始めれば」と意欲を示す。

その一方で、青沼さんは「タイムスケジュールはタイトだ」と明かす。

政府は2050(令和32)年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする方針を掲げ、国際海事機関(IMO)も世界の貿易量の約9割を担う国際海運を巡り、同様の目標を打ち出している。

だが、船の使用期間は15〜30年と長い一方、1隻製造するのに数年かかり、年間で製造できる隻数も限られるため、水素エンジン船への置き換えには相当時間がかかる。国土交通省は「2030(令和12)年までにゼロエミッション船が建造できるようになっていなければ間に合わない」としており、「時間切れ寸前のところまできている」(青沼さん)状況だ。

次世代につなぐ
海運業界では脱炭素の取り組みが進み、水素への期待は高まる一方、中国や韓国などとのゼロエミッション船の開発競争も激しさを増している。

日本財団の海野光行常務理事は「異分野を巻き込み、開発を強力に推進したい」と強調。青沼さんも「大学などの学術機関、国内メーカーなどとの協業で、水素エンジンの開発、普及の加速を図る。海運業、造船業を次世代につないでいく」と“オールジャパン”の勝ち残りを図る考えだ。

水素関連特許の出願数は日本が世界トップ。ゼロエミッション船は日本の造船業復活の切り札となるか。海外のライバルだけでなく、時間との闘いも熾烈(しれつ)を極めそうだ。
(和田基宏)

「時価約4兆円の発見?」―日本財団と東京大学― [2024年12月13日(Fri)]

「時価約4兆円の発見?」
―日本財団と東京大学―


少し沈滞ムードの日本ですが、少し明るい話題を提供したい。既に新聞発表したように、日本財団と東京大学が南鳥島の深海底でマンガンノジュールを発見したことはご存知の方もおられると思う。このジェラード・カオンガ氏の記事の正確さは不明だが、景気のいい話ではないでしょうか。

実際のマンガンノジュールの引き上げは環境問題の配慮を第一番に考える必要もあり、多少時間のかかる話ではなりますが、発見しただけの地域で時価約4兆円とは明るい話題には間違いない。約4兆円の財産が日本の領海に眠っているのは素敵なことに違いありません。いつの日か正夢になりますように!!

以下ジェラード・カオンガ氏の記事です(原文英語)。

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日本において、約2億3,000万トンもの地球上で重要とされる遷移金属が発見され、同国の経済を大きく前進させると期待されています。

日本の科学者たちは、国を大幅に豊かにする可能性のある発見をしました。この発見により、少なくとも今後10年間は経済を支えることができると考えられており、大変価値のある発見といえます。

日本財団と東京大学が行った調査により、南鳥島周辺の海底で高密度のマンガンノジュールが発見されました。

これらのノジュールは水深5,700メートルの海底にあり、数百万トンのコバルトやニッケルを含んでいます。これらは、海洋を移動する金属が魚の骨に付着し、海底に固定されることで、何百万年もの間に形成されたと考えられています。

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(日本財団提供の海底マンガンノジュールの写真)


一見してこの発見がどれほど重要なのか想像がつきにくいかもしれません。宝石のような大きな価値をもつ発見を想像する方もいるかもしれませんが、コバルトとニッケルは遷移金属であり、電気自動車(EV)バッテリーの製造に不可欠な要素であるだけでなく、ジェットエンジン、ガスタービン、化学処理にも使用される重要な金属です。

この発見が日本の経済を10年間支えると言われる背景には、約61万トンのコバルトと74万トンのニッケルが含まれているという調査結果があります。これらは莫大な金額に相当します。

東京大学の資源地質学専門の加藤泰浩教授は、最新の調査結果を受け、採取作業は来年から開始され、年間300万トンの採取を計画していると述べました。

東京大学のプレスリリースでは、この発見と将来的な採取がもたらす可能性について触れています。

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(日本財団提供の銅を含む鉱床の写真)


リリースには次のように記されています。「最終的には、私たちの研究成果が『資源採取』から『製造』までの国内供給チェーンを確立し、日本を真の意味で科学技術・海洋国家として成長させる一助となることを期待しています。」

執筆時点では、コバルト1トンあたりの価格は24,300ドル、ニッケルは15,497ドルとされており、これを単純計算すると、61万トンのコバルトは約148億2,300万ドル(2兆2,827億円相当)、74万トンのニッケルは約114億6,778万ドル(1兆7,660億円相当)に相当します。合計すると、約262億9,078万ドル(4兆487億円相当)もの驚異的な金額となります。

市場価格は変動する可能性がありますが、それでもなお非常に収益性の高い発見と言えます。

さらに、この鉱床にはニッケルやコバルトだけでなく、銅といった他の貴重な金属も含まれています。

「安倍昭恵さん」―社会貢献支援財団会長― [2024年12月09日(Mon)]

「安倍昭恵さん」
―社会貢献支援財団会長―


安倍昭恵さんが会長をされている社会貢献支援財団が第62回の社会貢献者表彰式典を12月2日帝国ホテルで開催され、日本はもとより外国でも長年にわたり社会的弱者のために日夜活動されている30の個人、団体が表彰されました。

安倍会長は日本はもとより外国で活躍する皆さんの活動現場を訪問し、激励し汗を流す現場主義を実践されておられます。当日は高熱にもかかわらず平静を装い参加者を応援されておられました。聞くところによりますと、医者と薬は嫌いだそうで、病院に行ったことも薬を飲んだこともないとのことで、前日まで三日間寝込んでおられたそうです。

どういう理由かは聞き忘れましたが、隣りの席の作家の内館牧子さんが「あなた随分スマートになられたわね!!」と男では言えないことを率直に話されておられ、いつもながら表彰内容に感動し、和気藹々のランチを楽しんでの散会でした。

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安倍会長と受賞者の皆さん

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以下、私の挨拶です。

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ご紹介いただきました、日本財団会長の笹川です。月並みではありますが、表彰を受けました皆さん、おめでとうございます。安倍会長を先頭に評議員、理事の皆さん、多くの申請者の中から厳正に選考いただき本日を迎えることが出来ました。皆さんの表彰に改めて感謝と喜びを申し上げます。

皆さんご承知の通り、資本主義がいきつくところまで行きついたのではないでしょうか。アメリカの成功者の中には、既にフランスの年間予算を優に上回る時価総額を記録している人々もおります。一方で貧富の格差が天文学的数字になっています。それぞれの国において、貧困問題や障害者支援、といった社会課題に行政が尽力しておりますが、全てに手が及んでいるわけではありません。日本でもそうです。多様化する社会、そして経済的な格差の中で様々な困難、生活に悩む方が沢山おられます。

こうした人をどうやって支援していくかが課題ではありますが、先に申し上げた通り行政だけでは対応できません。ここにお集まりの心ある皆さんが、草の根から「何かしなければ」と立ち上がって下さり、実践活動をしてくださっています。年2回の式典にお邪魔すると毎回素晴らしい活動をされている方がたくさんいることを知ることが出来ます。伝統的な日本人の利他の心と申しましょうか「何が出来るのか」「何かしなければいけない」という気持ちが日本人には存在するのではないでしょうか。そしてここにお集まりの皆さんは、それを実践されているのだと思います。

私は日本人全てにこうした心があるのだと思います。本年1月には能登で地震があり水害もありました。テレビで状況を見て「何かしたい」という想いをもった人が日本財団に寄付を下さいました。その人数は16万人に上ります。金額の大小ではありません。宗教的に強制されるのではなく、自主的に「何か社会のために」という暖かい気持ちを持っていることが素晴らしいことではないでしょうか。識者は「日本に寄付文化がない」ともっともらしくおっしゃりますが、そんなことはありません。ただ、こうした素晴らしい日本の心が残っている中においても、格差社会や多様化する社会では対応できないこともあります。こうした社会課題に気づき、何かしないといけないという方が増えており日本社会のために貢献されているのだと思います。世界にはもっと大変なところも多々あります。海外でご活躍の皆さんの表彰もありました。こうした日本人の暖かい利他の心を広めることで、経済援助だけではない日本に対する理解が広まっていると思います。

これからも健康に留意され活躍を願うと同時に、安倍会長からも話がありましたが、表彰された方々のネットワークを是非作り強化していただき、互いに連絡を取り合い、互いに新しい仕事のアイデアを生み出していってほしいと思います。1本より10本、100本の糸の方が強いのです。この社会貢献支援財団で表彰された方々のネットワークを作っていただき、協働の基盤が生まれ、日本、世界に対して利他の心を発揮してください。貧しい人、障害を持った人など困難を抱えた人が多くいらっしゃるのはご承知の通りで、手の届く範囲、出来る範囲でやっていくことが大切ではないでしょうか。さらなる活躍を心から願い、本日の表彰に改めて衷心より崇高な精神と活動に感謝の誠をささげます。ありがとうございました。
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