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「笹川インドハンセン病財団」―10周年の小さな成果― [2017年02月22日(Wed)]

「笹川インドハンセン病財団」
―10周年の小さな成果―


昨年11月20日、インドのデリーで「笹川インドハンセン病財団」の10周年を祝う小規模な会があった。会には、同財団の設立当時から現在に至るまで尽力してくださった国会議員、企業の経営者、WHO、民間NGO、財団の理事や支援者の方々と共に、APAL(Association of People Affected by Leprosy :インド・ハンセン病回復者協会)などのハンセン病回復者の組織の代表者たちも駆けつけてくれた。

SILF10周年レセプション.JPG
「笹川インドハンセン病財団」の10周年に駆けつけてくれた人々


この財団は、2006年に私が呼びかけてインドの財団として立ち上げた民間財団である。その活動の主な目的は、ハンセン病の患者・回復者が物乞いをすることで生活の糧を得ることを止めさせることである。分かりやすくいえば、ハンセン病コロニーに疎外されて住む、仕事を持たない回復者やその家族に自立の道を教え、そのための小さな資金を供与し、成功した暁には資金をそのコロニーに返却して他の人々に新しい機会を提供するという仕組みで、発足から今までに18州、195のコロニーで、計238以上のビジネスが立ち上がり、その70%が成功を納めてきた。

そのビジネスは多岐にわたり、女性が中心になってグループを構成して、農業、酪農、小さな商店の経営、織物、手工業、リキシャの運行などに従事する。皆、それまでに銀行に口座を作ることも帳簿をつけることも知らず、商売や仕事にまったく経験のない人々を一からトレーニングして独り立ちさせるのであるから、財団の職員とそれを助けるメンターと呼ばれる開発NGOの職員の責任は重く、業務は通常の職業訓練ではなく、即実践である。しかし、生き生きとトレーニングを受けてビジネスに従事する回復者たちの顔は明るい。皆が働いて自立することによって、人間としての尊厳を取り戻したと自覚し、物乞いに戻ることがないことを願っている。

勿論ビジネスに失敗もつきものだが、やり直しはいつでも出来る。このような機会を提供することが、コロニーに住み、長年差別に苦しんできた人々が働く喜びを得ると同時に、人間としての尊厳を回復して自らの力でお金を得る方法をマスターしてくれることは、いつの日か、インドからハンセン病患者・回復者の物乞いゼロにする私の夢が、遅い歩みではあるが、着実に進んでいることを実感する。

ただ失敗例も数多くあり、根気よく指導して自ら生活費を稼ぐ喜びを自覚させることが大切だと、職員やメンターの更なる努力に期待しているところである。

失敗事例を一つ紹介したい。
あるコロニーで山羊(やぎ)の飼育で生計を立てる事業を支援したことがある。事業開始直後、担当者が状況調査に訪れたところ、山羊が二頭足りないことを発見した。グループの責任者に問い正したところ重い口を開き、「数日前の祭りに皆で食べてしまった」と白状した。担当者は優しく丁寧に「商品の山羊を食べたら子羊の生産量が減り、計画通りの稼ぎは得られないよ」と注意したところ、グループの責任者は、「祭りだから皆で山羊を腹いっぱい食べようとの声に同意せざるを得なかった」と説明し、「そんなに怒るのなら俺は物乞いをして稼いで来る。物乞いで失敗したことはない。山羊の飼育の方がはるかに難しい」と反論され困惑してしまったとの職員の苦労話もある。

笹川インドハンセン病財団では、この自主事業の他に教育事業も行っており、ハンセン病患者・回復者の子どもたちが差別を受けないように、専門知識を身につけるための職業訓練、看護師養成プログラムもあり、既に625名が支援を受け、その多くは自立の道を歩んでいる。又、数年前にはダライ・ラマ師が書籍出版の印税を寄付してくださり、大学教育の奨学金として30人が受給して勉学中である。

インド広しといえども、ハンセン病患者・回復者とその家族への支援を専門にしているのはこの財団が唯一である。試行錯誤の10年間ではあったが、財団活動の理解者も増えてきた。活動にさらなる弾みをつけたいものである。

インドでは、この財団とは別に850のコロニーが参加するハンセン病回復者協会(APAL)を結成し、現在も活動資金の全額を支援して活発に活動を行っている。コロニーの劣悪な環境改善のためのプロジェクト、電気、水の確保、汚水処理、不法占拠の土地問題、年金獲得問題等々、まだまだ問題山積みではあるが、行政も多少耳を傾けてくれるようになった。私は彼等の先頭に立ち、いくつかの州で300〜500ルピーであった年金を1800〜3000ルピーに増額することに成功したこともあり、今年も彼等と共に汗を流して環境や待遇改善に努力したい。今月もインドを訪問し、オリッサ州、マハラシュトラ州で年金増額について、彼等と共に行動する予定である。

今まで社会に向かって発言したり行動したりすることが新たな差別を生むと沈黙していたが、APALの結成によって、インドを訪問する度に彼らが逞しくなっていく姿を見ることは、私の何よりの喜びでもある。何とか私が元気な間に独立して活動できる体勢を作りたいものである。

「ハンセン病大国」―インド、ブラジル、インドネシア― [2017年02月10日(Fri)]

「ハンセン病大国」
―インド、ブラジル、インドネシア―


前回のブログで記した通り、上記3カ国は世界のハンセン病患者の約8割を占める。インドでは2005年に、国際社会からは奇跡といわれた人口1万人に1人以下の患者数になり、国家レベルでは制圧に成功。国父ガンジーの悲願が達成された。

しかし、国家レベルでは制圧されても州や県レベル、あるいは山岳部族などには未発見の患者が多いと想定されてはいたが、ここ10年ほどの患者数は横ばいが続いていた。

我々のささやかな活動が評価されたのか、ナッダ(J.P.Nadda)保健大臣の大号令のもと、ハンセン病蔓延地域を中心に、3億2000万人を対象にしたハンセン病発見大キャンペーンが行われた。

9月14日から10月4日まで、19の州149ディストリクトに対して約30万人のヘルスワーカーが投入された。対象となった地域では、隠れたハンセン病患者が多数発見された。最も多く発見されたのはビハール州で、4,400人にのぼった。この例からも、今後もハンセン病特有の隠れた患者を発見することの重要性を各地方政府に強調し続けていく必要がある。

モディ首相とは3回面談し、インドの宿痾(しゅくあ―長い間治らない病気)と呼ばれたハンセン病対策が又一段と強化されることになったことは嬉しいニュースで、私のインドでの活動も活発化され、数字で具体的な成果を実現したいものと、腕ならぬ足をさすって1月末からの出番を待っているところである。

面談.JPG
モディ首相からも力強い言葉をいただき・・・


インドネシアは人口3億人の多島国家で、2000年に制圧に成功したとはいえ、その後患者数は毎年16,000人〜19,000人の横ばい状態が続いている。その上、行政上の地方分権が進んだ為、中央政府保健省の指示が末端の行政単位まで徹底しない欠点がある。

昨年12月12日〜18日までインドネシアで活動したが、ハンセン病対策はほとんど前進しておらず、これでは駄目だと直感したので、「今年は貴国を6回訪問して各地方で徹底的に活動したいので、一年間の具体的計画を立案するように」と要請した。

保健省、WHO、日本財団、笹川記念保健協力財団が一体となって対策を立て、この一年精力的に活動して具体的な患者の減少が見られるか、保健省をその気にさせてモチベーションを上げてもらうにはどうしたら良いか、真剣に考慮しているところである。

世界唯一のハンセン病未制圧国はブラジルである。一昨年12月の訪問の折、「世界の貧困国でも制圧に成功しているのに、サッカーのワールドカップ、オリンピックが開催できる人材豊富なブラジルで、何故制圧達成できないのか」とある会合で話したところ、そのことが事前に保健大臣の耳に入り、不愉快な会談となったが、その直後、その大臣は退任された。

ルセフ大統領を中心にした大きな汚職問題から、ブラジル政府、特に保健省のハンセン病対策は機能不全に陥り、長年共に汗をかいてきた幹部は離職や転勤となり、打つ手なしの状況が続いている。

ジュネーブでWHOのマーガレット・チャン事務局長ともこの件について話し合ったが、有効な手段もなく、機会を見て私がブラジルに行くことにした。WHOとしては、天然痘撲滅に次ぐハンセン病の世界制圧は画期的な成果であり、チャン事務局長の退任(今年5月)の置き土産にしたいと心密かに努力してきたが、水泡になってしまった。

@チャンWHO事務局長と.JPG
チャンWHO事務局長とも話し合ったが・・・


「100里の道のりは99里をもって半ばとする」とは、困難な問題解決への私が常用する警句であるが、皮肉なことに、ブラジル1カ国の未制圧はまさにこの言葉通りになってしまった。しかし、残念至極の心境の中でも「困難な仕事を苦しみと考えず、詰め将棋のように、どのような手段・方法で解決するのかを楽しみとして考えよう」との持論を実践する大きな課題となってきた。

近頃、本番の将棋の試合でスマホを使った使わないの議論が話題となったが、私はアナログ人間でスマホも持たない。当方は一民間人、相手方ブラジル政府である。風車に立ち向かうドン・キホーテは槍を持っていたが、情熱と忍耐力と問題解決まで諦めない信念だけが私の唯一の武器である。

「世界のハンセン病の現状」 [2017年02月08日(Wed)]

「世界のハンセン病の現状」


世界からハンセン病を制圧する活動を始めて40年。ハンセン病制圧活動以外の数字も多く含まれるが、記録に残っている1982年から2016年末までの34年間に訪問した国・地域は119ヶ国、海外出張回数は466回、滞在日数は2954日、面談した国王・大統領・首相は181人を数える。

WHO(世界保健機関)では、公衆衛生上の問題として、ハンセン病の患者数が人口1万人に対して1人未満になることを「制圧」と定め、残すはブラジル1ヶ国となった。

これについては次回記したい。

WHOが数値目標を設定してハンセン病対策を行ったことで、各国政府も目標に向かって懸命に努力する方向性が共有できたことが成功した理由の一つである。勿論、日本財団の5年間の薬の無償配布及びWHOの継続的なハンセン病対策における日本財団の財政支援が可能にしたことは否めない。

私はこの数値目標である患者数を1万人に1人未満にすることがハンセン病を限りなくゼロに近づけるためのマイルストンと位置付け、制圧に成功した国に対しても手をゆるめないで活動を続けていく。

2015年のWHOの統計では、新規患者が1000人以上の国は下記の14ヶ国で、これらの国々の患者数を更に減らすため、日本財団は5年間に2000万ドル(1ドル100円として20億円)をWHOを通じて支援している。

無題.jpg


2015年度の新規患者数は210,758名で、上記14ヶ国の合計が199,992名であるから、世界のハンセン病患者の95%を上記14ヶ国が占めていることなる。私見ではあるが、未発見の患者はこの統計以外に相当数存在すると思われるので、更なる努力が私には必要だと自覚している。

表をご覧の通り、ハンセン病はインド、ブラジル、インドネシアの3ヶ国で世界の約8割を占めている。次回はこの3ヶ国の現状について記してみたい。

「ハンセン病に関する世界宣言」 [2016年01月29日(Fri)]

「ハンセン病に関する世界宣言」


日本財団主催によるハンセン病の患者・回復者の差別撤廃への取り組みの一つ、第11回「グローバル・アピール」式典は、国際青年会議所との共催で、新装なった虎ノ門の笹川平和財団ビルに各国・各界の指導者を含め、満員の250名の参加者と共に行われた。

天皇・皇后両陛下のフィリピンへのご旅行のお見送り、そして国会への出席と超多忙の中、安倍総理ご夫妻も寸暇を割いてご出席くださり、ご挨拶をいただいて盛会裏に終了した。

下記は総理挨拶と私の挨拶です。


THINK NOWハンセン病―グローバル・アピール2016
〜ハンセン病患者と回復者に対する社会的差別の撤廃に向けて〜


2016年1月26日
於:笹川平和財団ビル・国際会議場


★総理挨拶
世界各国から参加いただいた皆様、ようこそ日本へお越しくださいました。心から歓迎申し上げます。

私は、昨年に引き続き、本年もこの集いに駆けつけてまいりました。その理由は、ハンセン病患者の方々に対して行われた重大な人権侵害を決して忘れない。また、二度と起こしてはならないからです。

ハンセン病は、感染力が非常に弱く、治療法も確立され、適切な治療により後遺症なく治る病気です。しかし、我が国では、国の不適切な隔離政策により、ハンセン病患者・回復者の方々の人権に大きな制限・制約をもたらし、また、社会的偏見や差別を助長したという過去があります。我々は、その過去、歴史を反省し、回復者の方々におわびや補償を行い、その名誉の回復や社会復帰支援などの取組を行っています。最近は、回復者の方々の高齢化が進む中、療養所における医療・介護の確保、退所者やその御家族の生活の安定が重要となっています。医療や介護の確保や支援金の充実などに取り組み、安心して心豊かな生活が営めるよう努めています。

グローバル・アピールを主導してこられた笹川会長は、ハンセン病に対する偏見や差別の解消を目指し、自ら率先して世界に赴き、ハンセン病患者の手を握り、精力的な激励を続けられておられます。また、ハンセン病治療に必要な医薬品の無料配布に向けた取組は、世界のハンセン病の制圧に大きな力となっています。長年にわたる熱心な取組に、深く敬意を表する次第であります。

私の妻も、笹川会長のお考えに賛同し、以前より、ハンセン病の差別撤廃に向けた啓発普及活動のお手伝いをいたしております。 今年のグローバル・アピールは、各国の青年会議所の賛同を得て行われます。『若者の視点でハンセン病問題から学べるもの』と題するパネルディスカッションを行われると伺っております。

我が国でも、中学生・高校生によるシンポジウムを毎年開催するとともに、全ての中学生に啓発パンフレットを配布するなど、ハンセン病に関する歴史や正しい認識を、風化させることなく、確実に次の世代に引き継いでいくための取組を進めています。

今日のこの集いを機に、全世界の人々がハンセン病について正しく理解し、考え、そして行動することで、ハンセン病に対する偏見や差別が、大きく解消されていくことを期待し、私の挨拶といたします。

DSC_4171.JPG
全員で記念撮影


★私の挨拶
ハンセン病は、人類の長い歴史の中で、病気そのものだけでなく、それに伴う差別やスティグマが人々を苦しめ続けてきた病気です。
「ハンセン病は病気よりも差別のほうが辛い」
ハンセン病を患った多くの方々がこの言葉を口にされます。ハンセン病の病気と差別の問題は、今も現在進行形の問題として、多くの人々を悩ませています。

私たちがグローバル・アピールを始めたのは2006年のことでした。当時、多くの人たちがハンセン病について誤解をしていました。ハンセン病の患者やその家族など、当事者の方々ですら、「ハンセン病は治る病気である」「治療は無料で受けられる」ということを知りませんでした。そして、「ハンセン病は治らない。患ってしまったのだからもう差別をされても仕方がない」という理由で、家から追い出されたり、離婚されたり、職場を解雇されたりといった厳しい差別を受けてきました。このような状況を改善するために、まずは患者の方々に、「ハンセン病は治る病気である」「治療は無料で受けられる」ということを伝えなければならないと思いました。さらに、患者のみならず、回復者の方々や家族、周りの人たち、そして広く社会の人々に向けて「差別をすることは不当である」ということを伝えよう。そう考えて始めたのが、このグローバル・アピールです。

このメッセージを効果的に、多くの人たちに届けるために、毎年様々な専門家の皆さまと共同で世界に向けて発信してきました。ハンセン病の患者や回復者の方々と接する機会のある医療・看護関係者の皆さまとも是非一緒に取り組みたいと思い、ご協力をいただきました。また、世界には、ハンセン病に対する差別的な法律がまだ残っていることを法律家の皆さまに訴え、そのような法律の撤廃にご賛同いただきました。

このように、それぞれの分野の専門家の方々が強い関心と責任感をもって、私たちとメッセージを共同で発信してくださったことで、グローバル・アピールは広がりをみせてきました。

多くの皆さまからのご支持に後押しされ、7年の歳月をかけて働きかけてきた国連においても、2010年に「ハンセン病差別撤廃決議」が採択されました。これにより国際社会がハンセン病の差別の問題に取り組まなくてはならないという機運が高まったことは、ひとえにハンセン病の差別問題に強いコミットメントを示してくださった皆さまのおかげだと感謝しております。

昨年のグローバル・アピールでは、初めて、ここ日本からメッセージを発信しました。日本では現在、ハンセン病を患う人はいません。そのため、ほとんどの人は、日常生活においてハンセン病との接点がありません。過去に起こった厳しい差別についても知りませんし、未だに残る偏見のために、何十年も家族のもとへ帰ることができずにいる人の存在についても、全くといっていいほど知る機会がありません。そこで昨年は、グローバル・アピールに併せて、ハンセン病について知り、考える機会をつくるため、世界各国に残るハンセン病の療養所や回復者の方々の状況をおさめた写真展、ハンセン病の書籍の朗読会、講演会なども行いました。

このような機会を通じて、ハンセン病のことを知らなかった若い人たちからも、「ハンセン病についてもっと知りたい」「ハンセン病について知るべきだ」というような声が多数寄せられました。

一方、若いボランティアの中には、海外のハンセン病の患者や回復者の方々が暮らす集落を訪れ、彼らの生活を助ける活動をしている人たちもいます。このような若者たちの活動に加え、昨年のグローバル・アピールを通じて、ハンセン病について何も知らなかった若い人たちが関心を寄せてくれたことに勇気づけられ、私は引き続き、「若い人に訴えていきたい」という想いを強くしました。

今年は国際青年会議所の皆さまと共に、世界の若い世代の人々に向けてメッセージを発信することにしました。未来を担うビジネスリーダーである国際青年会議所の皆さまは、社会課題に対して熱心に取り組んでいらっしゃいます。皆さまがハンセン病の差別の問題に積極的に協力してくださったことに、あらためて心から感謝を申し上げます。この機会に、それぞれの国や地域で、ハンセン病の差別について考える機会が広がっていくことを期待しています。

国際青年会議所の皆さまに加え、これまでグローバル・アピールに協力してくださった方々が、継続してコミットメントを示してくださっていることも非常に心強いことです。

本日は世界医師会、国際看護師協会、国際法曹協会、国連人権理事会諮問委員会、そしてインドの国会議員の皆さまが、私たちの活動を応援するために駆けつけてくれました。その情熱にあらためて感謝すると共に、このように皆さまの輪が広がっていくこと。それが、ハンセン病の差別と向き合うための大きな力になると信じております。

そして、病気を克服し、不当な差別と闘っている回復者の皆さま。
差別に立ち向かう勇気、そして闘いを続ける不撓不屈の精神は、私たちに人間の持つ強さ、寛容さを教えてくれます。皆さまが力を尽くされている姿に心より敬意を表し、エールを送りたいと思います。

グローバル・アピール2016では、国内各地での写真展やシンポジウムなどを行います。また、海外では、国際青年会議所や回復者の方々とハンセン病について考える機会を計画しています。

この機会を通じて、一人でも多くの方にハンセン病について考え、向き合っていただきたいと思います。

皆さま。力を合わせ、ハンセン病の差別という大きな問題の解決に向けて、共に立ち向かっていこうではありませんか。

ありがとうございました。

*************


グローバル・アピール2016 宣言文
原文・英語


ハンセン病に対するスティグマ(社会的烙印)と差別をなくすために

ハンセン病は古くから身体に変形を起こす不治の病として世界中で恐れられ、神の罰とさえ考えられてきました。ハンセン病を患った人々は、長い間厳しい差別や不平等に苦しんできました。

有効な治療法が確立され、ハンセン病は今では完全に治る病気となりました。治療薬は世界中どこでも無料で手に入ります。早期発見と早期治療により、後遺症も防ぐことができます。

しかし、ハンセン病に対する差別やスティグマは根強く残っています。患者や既に治療を終えた回復者、そしてその家族でさえも、教育、就職、結婚など様々な社会参加の機会を制限され、不当な扱いを受けています。

迷信や誤解がこうしたスティグマを生んでいます。ハンセン病に対する誤解を解き、スティグマや差別をなくすためには、人々が病気に関する正しい知識を得ることが必要です。

国際青年会議所は、それぞれの地域が抱える課題への解決策を追求することによって、持続可能なインパクトを地域社会に生み出す若き能動的市民の主導的なグローバル・ネットワークです。

私たちは、国際青年会議所が擁する世界中のネットワークを通じ、ハンセン病を理由とする差別が不当であることを訴え、こうした差別と闘います。

次世代を担う子どもたちに正しい知識を伝え、差別を撤廃するための活動を支持します。

ハンセン病患者と回復者、そしてその家族が差別から解放され、彼らが内に秘めた可能性を発揮するこができるよう、他の人たちと同等の機会を得ることができる社会の実現を目指します。



「テレビ放映のご案内」〜ハンセン病のいま〜 [2015年12月10日(Thu)]

「テレビ放映のご案内」
〜ハンセン病のいま〜


12月13日(日)14:00〜14:55 フジテレビ 
「差別の病と生きて〜ハンセン病のいま〜」と題して、私の半生にわたるハンセン病との闘いの一部が放送されることになりましたので、ご案内申し上げます。

「ハンセン病と人権」その2―国連人権理事会で決議― [2015年08月24日(Mon)]

「ハンセン病と人権」その2
―国連人権理事会で決議―


7月2日、第29回国連人権理事会において、日本政府提出の「ハンセン病差別撤廃決議」が94カ国の共同提案国を集めて全会一致で採択されました。

ハンセン病に関する日本の人権外交の画期的成果が一つ増えたことになります。

本決議は、2010年の国連総会決議で各国政府等に十分な考慮を払うように求めていたハンセン病に関する差別等の問題を解決するための「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別を撤廃するための原則及びガイドライン」の実施状況に関する調査を、国連人権理事会の下部機関である諮問委員会に求め、2017年6月に開催予定の第35回国連人権理事会に「P&G」のより広範な普及とより効果的な実施のための実践的な提言を含んだ報告書の提出を要請する内容です。

日本財団は2000年代初頭から「ハンセン病は人権問題である」と国連人権高等弁務官事務所等に働きかけを続けてきており、日本政府が提出し全会一致で採択されたハンセン病に関する2008年、2009年、2010年の国連人権理事会決議や2010年の国連総会決議を全面的に協力してきました。

今回の国連人権理事会決議を歓迎し、今後も世界各国に未だに根強く残るハンセン病感者・回復者やその家族に対する偏見や差別の解消を目指し、残りわずかな人生を燃焼させていきたいと思います。

以下、多少専門的になりますが、ハンセン病と国連人権理事会との関係と日本財団の活動について羅列しました。

○より具体的には、諮問委員会は第35回国連人権理事会(2017年6月開催)に「原則とガイドライン」のより広範な普及とより効果的な実施のための実践的な提言を含んだ報告書の提出を求められている。

○この報告を受けて、国連人権理事会において、2017年6月の理事会会合において、この議題が討議されることとなる。

○この決議の重要な点は、そもそも2010年に採択された決議で各国の十分な配慮が求められた「原則とガイドライン」には、条約のように法的な拘束力がなく、そのままにしておくと形骸化してしまう恐れがあるところ、そうさせないために5年後の調査・レビューを諮問委員会が実施し、差別と各国における対応の現状を明らかにするところにある。そして、その調査結果をもとに、具体的・実効的な方策を検討し、人権理事会において継続的に審議をすることにより、拘束力のない「原則とガイドライン」を拘束力ある施策へと発展させるところにある。

○日本財団は、2010年の決議と「原則とガイドライン」を受けて、世界5大陸において、その社会的認知を高めるための国際シンポジウム「ハンセン病と人権」を政治リーダー、保健担当実務者、メディア、NGO、人権専門家、ハンセン病患者、回復者などの参加を得て実施してきた。また同時に、「原則とガイドライン」の実効的な運用をどのようにするのがよいかを検討する国際ワーキンググループを人権問題の専門家の協力を得て組織し、その活動を支援してきた。その活動の成果は、現状分析の報告書、モデル・アクション・プラン、現状把握のための質問書のひな形などとして結実し、2015年6月18日にジュネーブで行った国際シンポジウムにおいて発表した。これらの成果物は、今後の諮問委員会による調査および実効的施策の策定の参考となることを確信する。

○この決議の趣旨は、全世界でハンセン病に関連する差別問題に苦しむ人々の人権を守るため、人権理事会においてハンセン病差別問題を議論し、差別を撲滅するための実効的な方法などを検討することを目的としている。

○日本政府は、ハンセン病患者・回復者・その家族に対する偏見・差別の解消に向けて人権理事会において、2008年、2009年、2010年の3年連続で、差別撤廃決議案を提出し、いずれも全会一致で採択された。そして、人権理事会諮問委員会が作成した「ハンセン病差別撤廃に向けた原則とガイドライン」に「十分配慮」することを求める2010年の決議については、国連総会本会議で同年12月に全会一致で採択された。

○今回(2015年7月)の人権理事会において採択された新たな決議は、2010年の決議から5年が経過し、各国による「原則とガイドライン」の実施状況を確認・レビューすることが必要であるとの認識のもとで、ハンセン病の差別撤廃に向けた取り組みをさらに前進させるための仕組みづくりに関する検討を目指すものである。

○具体的には、2010年の国連総会決議で各国政府等に「十分な考慮」を払うよう求められていた「ハンセン病患者・回復者及びその家族に対する差別を撤廃するための原則及びガイドライン」の実施状況に関する調査を国連人権理事会の下部機関である諮問委員会に求めている。

「ハンセン病制圧活動記」その28―大国インドからハンセン病がなくなる日まで― [2015年08月12日(Wed)]

「ハンセン病制圧活動記」その28
―大国インドからハンセン病がなくなる日まで―


東北新生園機関誌『新生』
2015年6月


 時はさかのぼるが、2013年8月28日から30日の3日間、インドのニューデリーを訪れた。私が第2の故郷と呼ぶインドへは、今回の訪問で47回目を迎えた。2泊2日、48時間の短い滞在であった。

 今回の目的は、今後のハンセン病対策についてインド政府保健省の事務次官と面談、昨年10月に発足したハンセン病国会議員連盟の会合への出席、そしてハンセン病回復者の経済的自立に向けて活動を展開しているササカワ・インド・ハンセン病財団の理事会に出席することであった。

 初日、朝一番にWHO東南アジア地域事務局にて世界のハンセン病制圧活動の責任者であるサムリー事務局長と面談。前月7月24日からの3日間、バンコクで国際ハンセン病サミットがWHOと日本財団との共催で開催された。近年ハンセン病の患者数の減少が停滞している懸念から、年間1000人以上の新規患者数を持つ17ヶ国から政府代表が参加し、専門家、NGO、ハンセン病当事者などあらゆるステークホルダーとともに、ハンセン病対策に力を入れることへのコミットメントが表明された。本サミットの共同提案者であったサムリー事務局長にサミットが成功裏に終わったことへの謝礼と、特に患者数の多いインド、ブラジル、インドネシアの3ヶ国に重点を置き、各国においてバンコク宣言のフォローアップに力を入れていくことを再確認した。

 国際ハンセン病サミットにおいてただひとつ残念だったことは、世界最大の患者数を抱える大国インドから政府の代表が姿を見せなかったことである。そこでインド政府保健省の事務レベルのトップであるケシャブ・デシラジュ保健次官、アンシュ・プラカーシュ次官次席、国家地方保健計画を担当されているアヌラダ・グプタ局長、ハンセン病局長のC・M・アグラワール博士、局長代理のA. K. プリ博士と、保健省内の関係者と並んで面談。一方、WHO側からは世界ハンセン病プログラムのチームリーダーであるスマナ・バルア博士、コンサルタントのランガナサ・ラオ博士、東南アジア地域事務所のハンセン病プログラム担当アドバイザーであるジーザズ・パウロ・ルイ博士、そしてWHOインド事務所のナタ・メナブデ代表が同席。ハンセン病当事者、回復者の代表であるナショナル・フォーラム(現 インドハンセン病回復者協会)のナルサッパ会長もハイデラバードから駆けつけ、バンコク会議の報告とインドのこれからのハンセン病対策についてさらなる活動の強化を要望した。

 インドでは2010年より、年間新規患者数発見率が1万人に1人以上である209の県を定義し、重点的に新規患者を発見するための活動を行っている。2012年〜2013年の1年間で報告された13万人のうち、実に2万人もの方々は保健ワーカーやボランティアの家庭訪問で発見されている。結果的に患者数は昨年より5%上昇。表面上患者数が増えたことは危惧すべきサインではあるが、それまで診断がされていなかった隠れた患者が診断され、治療が行き届くようになったことは歓迎すべき流れともいえる。

 一方で、1軒1軒家を回るような新規患者発見のための活動は費用対効果が非常に低いことから、通常の一般統合医療の中で診断・治療を可能にしなければ、ハンセン病対策のサービスが持続的とはいえないと指摘する専門家の声もある。

 発展途上国のインドの国土は日本の9倍以上あり、ハンセン病対策のサービスを広い国土の隅々まで行き届かせることは容易なことではない。対策を講じるにもまずは現状を把握することが不可欠であり、現在のハンセン病患者数を正確に把握するためには、各州レベル、県レベルにおいて患者発見活動に力を入れていくことが第一歩となるだろう。患者数の多い蔓延州において州政府のコミットメントを促すためにも、これからもインド各州への訪問が欠かせない。

 日本財団では毎年世界ハンセン病デーに合わせてハンセン病回復者への差別撤廃に向けたグローバル・アピールを世界各界の著名人の協力を得て発表しているが、来年2014年は各国の国家人権委員会からの賛同をもらうべく準備を進めており、インドからも協力を得るため、インド国家人権委員会バラクリシュナン委員長を訪ねた。インド国家人権委員会はハンセン病の問題について深い関心を示してくださっており、2012年10月にインドにおいてハンセン病と人権国際シンポジウムのアジア大会を開催した際にも出席された。また同年には国家人権委員会が主催し、ハンセン病をテーマに各州の人権委員会代表を集めたワークショップも開催された。夏期と冬期、年2回の恒例となっている法律や人権を専攻する学生によるインターンシップにおいてハンセン病をテーマとしたセッションを設けたり、デリー首都圏内の中学校においてササカワ・インド・ハンセン病財団が差別撤廃の啓発のための授業を行う活動資金も提供されている。

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パラクリシュナン委員長(中央)とナルサッパ会長


 八木日本大使に表敬後、午後には再びWHOインド事務所にメナブデ代表を訪ね、インドのハンセン病の現況について詳細な説明を受けた。

 夕方は、デリー中心地にあるディネシュ・トリベディ国会議員の自宅へ。私の長年の夢であるインドにおいてハンセン病問題の啓発をはかるための国会議員連盟の集まりがあった。鉄道大臣と保健家族福祉副大臣を務められた経験のあるディネシュ・トリベディ議員が発起人となり、合同発起人であるマドゥ・ヤスキ議員を始め52名の国会議員が連盟に参加。今回の会合には国会会期中にもかかわらず16人の議員が参加し、ナショナル・フォーラムの代表のナルサッパ氏も同席した。トリベディ氏の挨拶に続き、40年来取り組んできたハンセン病との闘いについて話したところ、皆さん熱心に耳を傾けてくださった。

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トリベディ議員が中心となった会合


 議員連盟では、ハンセン病問題を優先課題として取り組むよう国会等で積極的に取り上げていくこと、一般に向けた医療面社会面両方の啓発活動、そして低所得者層に向けた政策や各国会議員が持つ地域開発基金をコロニーの環境改善のために役立てることなどを目標として取り組んでいくことが決定されており、ハンセン病患者、回復者の生活向上と差別撤廃に向けて大きな支援者を得たことになった。

 翌日、30日は、朝食後にまずハンセン病回復者の全国組織ナショナル・フォーラムのナルサッパ会長とヴェヌゴパールと会い、彼らの活動の現状についての報告を受けた。

 続いてはササカワ・インド・ハンセン病財団(通称SILF)の理事会。財団の理事会というと、議事次第通りに書類が回覧されて承認される風景を想像されるかもしないが、この財団の理事会は一味もふた味も異なる。まず議論される書類の量は実に88ページに渡る分厚い資料。事務局長からの報告に対して各理事が真摯に意見を出し合い、熱い議論が繰り広げられ、会議が予定時間を超過することも珍しくない。

 SILFは「インドのハンセン病コロニーから物乞いをなくす」という壮大な目標のもと、2006年の設立以来、ハンセン病回復者の経済的自立を最大の柱として活動を展開。民族服サリーの販売やリキシャ操業など、各コロニーの立地と回復者のスキルを生かしたビジネスを立ち上げるための資金を提供しており、現在ではインド国内16州において約150のビジネスが立ち上がっている。

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SILF理事会のメンバーと


 近年は第二世代であるハンセン病回復者の子どもたちの教育支援にも力を入れて取り組んでいる。教育支援プログラムは、女性を対象とした看護師養成奨学金と、男女両方を対象とした職業訓練プログラムの2種類。

まず看護師養成については、インドステート銀行とサー・ドラブジ・タタ基金からの寄付をいただき、2011年より35人の子どもたちに国の認定を受けた看護師養成コース4年間の受講を可能にしてきた。インドでは、女性にとって看護師は伝統的にとても人気の職業であることから、この奨学金は希望者が多い。応募資格の条件には合うものの資金が限られていることから断らざるを得ないケースが多いことは残念であり、なんとか一人でも多くの希望者に報いるため、インド企業の寄付協力先を増やさなければならない。

 職業訓練プログラムは、10年生までの教育を修了した人たちを対象に、さまざまな店の販売員やファストフードの配達など、雇用が足りていないサービス業に就職しやすくするための基礎的なトレーニングを行うもので、2012年よりそれまでに66人の若者たちが修了し職に就いていた。加えて、2013年新たに国立職業開発協会より新たに350人分のトレーニング費用の寄付が決定し、各州を回って希望者を募っていく予定となった。

 インドのハンセン病の社会面の問題においては、当事者の経済的自立をどう進めていくかという課題と並んで、第二世代である若者の社会参画をどう実現するかという課題がある。全体の数から見れば一部ではあるものの、ハンセン病コロニーの出身者であるというレッテルを外して、一般社会の競争の中で成功できる若者が出てきていることはとても明るい兆しであり、我々が設立した財団がその機会を提供できたことは非常に嬉しく思う。

 関係者の努力の甲斐あって、インドにおけるハンセン病とそれにまつわる差別をなくしていくための闘いは、国会議員や人権委員会など、さらに幅広い層を巻き込んで展開されている。しかし問題が解決したといえるようになるまでの道のりはまだまだ遠く、手綱を緩めることはできない。今年は特に各州への訪問に力を入れ、ハンセン病対策が隅々まで行き渡るようになるまで、またハンセン病回復者が尊厳をもって生きられる社会となるまで、引き続き関係者と手を携えて取り組んでいく覚悟である。

「国連でのロビー活動」その2―ハンセン病と障害― [2015年07月01日(Wed)]

「国連でのロビー活動」その2
―ハンセン病と障害―


ハンセン病の障害者は、エチオピアや日本財団が支援するインド、インドネシア、ブラジルを除くと世界的には未組織状態であり、日本財団と笹川記念保健協力財団は、一カ国でも多く組織化したいと努力をしているところである。

この度『障害者インターナショナル』のアビディ会長より、「ハンセン病の障害者も『障害者インターナショナル』に加盟しないか」との暖かい協力の申し出をいただいた。

第8回国連障害者権利条約締結国会議がニューヨークの国連本部で開催中に、ロビー活動を兼ね、初めての会議を開催した。

以下は私のスピーチです。

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第8回国連障害者権利条約締約国会議サイドイベント
「ハンセン病と障害〜Voices of People Affected by Leprosy」


2015年6月10日
於:ニューヨーク国連本部


本日は、ハンセン病と障害というテーマで初めてイベントを開催することができることを嬉しく思っております。

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約100人の方が出席してくださった


このサイドイベントを通じて、障害者とハンセン病患者・回復者それぞれの声を結集し、互いに連携を深める可能性を見出すための貴重な機会となることを願っています。

私が「障害者インターナショナル」(Disabled People’s International:DPI)のグローバルチェアのアビディさん(Mr. Javed Abidi)と出会ったのは3年前、私たちがハンセン病の人権に関するシンポジウムをインドで開催した際に、アビディさんが参加してくださったことがきっかけでした。

冒頭のビデオでもありました通り、ハンセン病は人類の歴史の中で最も過酷な差別を伴う病気として知られています。今は治療法も確立されており、確実に治る病気となりました。しかし、治療をせずに放っておくと症状が進行し、手足や顔などに障害を負うことがあります。このような障害が原因で、長い間、業病あるいは天刑病などと誤解され、人々に恐れられてきました。

ハンセン病回復者の中には、病気の後遺症として負った重い障害により、様々な場面で社会活動に参加できない人々がいます。また、十分な教育を受けられない人もいます。就職できない人も多く、なかには物乞いで生計を立てることを余儀なくされる人もいます。

私は世界保健機関(World Health Organization:WHO)からハンセン病制圧大使、日本政府からハンセン病人権啓発大使を拝命し、ハンセン病に伴う差別の撤廃やハンセン病患者・回復者の生活の向上のための活動に取り組んでいます。

インドでの会議はアビディさんが初めて参加したハンセン病の会議でした。彼は、その会議の場で、「原因は何であれ障害を負った者同士、共に何かできるのではないか」と、DPIとしてハンセン病患者・回復者と障害者との連携を強化することを強く提案してくださいました。

アビディさんからの提案は非常に心強く、たとえ状況は違っても、DPIが目指すものとハンセン病の問題について取り組む私たちが目指すものは非常に近いということを再認識することとなりました。

ハンセン病コミュニティも障害コミュニティも、誰も疎外されることのないインクルーシブな社会をつくっていくことを目標にしています。その目標に向かって、私たちは各国政府の政策改善や当事者の生活改善のための活動に取り組み、成果を上げてきました。

それぞれのグループの人権に対する活動に関していえば、障害者については、2006年に国連総会で「障害者権利条約」が採択され、ハンセン病については、2010年に国連総会で「ハンセン病差別撤廃決議」が採択されました。

こうした大きな前進を遂げて以来、障害者もハンセン病患者・回復者も、徐々に政策の改善が見られるようになりました。しかし、世界中の当事者の方々の生活に目を向けてみると、真にインクルーシブな社会を実現するためには、まだまだ長い道のりが続いています。

昨年、DPIと日本財団は、障害者とハンセン病患者・回復者との連携を強化する事業を新たに立ち上げました。詳しくは後ほどお話があると思いますが、例えばインドでは、アビディさんとインドのハンセン病当事者団体の創設者であるゴパールさんのイニシアティブのもと、互いの活動に協働して取り組む可能性を探りはじめています。インドの例のように、これまで別々に活動していた障害者とハンセン病患者・回復者が連携していくことを見据えて動きはじめた国もあれば、エチオピアのように、DPI加盟団体である障害者団体とハンセン病患者・回復者の団体の連携がすでに進んでいる国もあります。

一方、そもそも当事者団体がない国もあります。ハンセン病患者・回復者の声を社会に届けるためには、今後、当事者団体の設立が検討されるべきでしょう。


国によって状況は異なりますので、皆さまには、それぞれの国の状況にあった解決策を模索していただきたいと思います。その際、障害の原因を限定せず、障害当事者とハンセン病当事者が連携できれば、互いの人権についての主張をより大きなものにしていけるかもしれません。

このイベントが障害当事者とハンセン病当事者の協力関係構築のきっかけとなれば大変嬉しく思います。

最後に、このイベントの開催をサポートしてくださった国連の皆さま、エチオピア、日本、フィリピン政府代表部の皆さま、このようなすばらしい機会を用意してくださったDPI会長はじめスタッフの皆さま、会議期間のお忙しい中ご参加くださった会場の皆さまに心より感謝申し上げます。そして、この会場に足を運んでくださり、貴重な声をお聞かせくださるハンセン病回復者であり、私のよき友人でもあるラミレスさんとゴパールさんに厚く御礼を申し上げます。

「国連でのロビー活動」その1―障害者の参加拡大を― [2015年06月29日(Mon)]

「国連でのロビー活動」その1
―障害者の参加拡大を―


日本財団は、長く障害者の国際社会での発言強化は勿論のこと、世界各国で人材育成も行ってきた。また、今年3月に仙台で開催された第3回国連防災世界会議にあたっては、国連国際防災戦略事務局とも連携し、防災における障害者の位置付けについて、国連で再考するよう運動を進めてきた。

というのは、2005年の第2回国連防災国際会議で採択された兵庫行動枠組では、障害者に関する記述は一ヶ所に留まっていたのである。これは、1992年に国連環境開発会議のアジェンダ21で定義された、国連の定める「市民社会」の9つのグループ(女性、子供、農家、先住民、NGO、労働者・労働組合、地方自治体、科学技術者、企業・産業)に障害者が入っていないことに起因する。国連の様々な会合で、障害者は発言の機会を得ることすら難しい。

そこで日本財団が目指しているのは、この国連の市民社会の定義に、来年の障害者権利条約採択10周年に第10番目のカテゴリーとして障害者を加えることにある。

今回、国連においてロビー活動のためにサイドイベントを開催し、日本政府の国連代表部・吉川元偉大使も出席され、日本政府の意思を表明された。

以下はその時の私のスピーチです。

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第8回国連障害者権利条約締約国会議サイドイベント
「国際的な意思決定プロセスへの障害者参加拡大を」


障害者関連サイドイベント 開会挨拶1.JPG


日本財団は、インクルーシブな社会の実現を目指す非営利組織です。これまでリーダー育成の奨学金、当事者団体の育成や強化など、幅広い障害者支援を国内外で実施してきました。

ご存知の通り、2011年3月11日、巨大地震と津波が日本を襲いました。震災後の調査では、障害者の死亡率は全体の人口の2倍から4倍であったことが指摘されました。こうした残念な結果は、地域、国、そして国際レベルで、これまで防災計画の策定および実施に障害者が参加していなかったことが原因であることが明らかになりました。

そこで、日本財団は2012年以降、様々な団体と協力して「障害と防災」をテーマに世界各地で国際会議を開催し、国際社会に対して障害者インクルーシブな防災の重要性を訴えてきました。

その実績を踏まえ、日本政府、国連国際防災戦略事務局(The United Nations Office for Disaster Risk Reduction:UNISDR)、障害者団体と連携し、第3回国連防災世界会議を障害者にとってアクセシブルでインクルーシブな会議として開催することができました。その結果、障害者参加型の実り多き議論が展開され、新たに採択された防災枠組みには、障害者が防災における重要な役割を担うグループとして位置づけられました。

第3回国連防災世界会議がこのような成功をおさめることができたのは、関係者の皆さまの強いリーダーシップとコミットメントがあったからであると痛感しています。しかし、このような好ましい条件が揃っていたこの会議でさえ、公式な参加プロセスに障害者を含めようとした際には、国連の定めるメジャーグループという既存の枠組みが障壁になりました。

世界の障害者は全人口の15%を占めているといわれています。障害者が国際社会における貧困や健康などに関する重要な議論の場から除外されている限り、グローバルな課題についてのサステナブルな解決はできないと考えています。

2016年は障害者のインクルージョンを前進させていくうえで重要な年になります。ポスト2015年開発アジェンダに言及されている障害者に関する目標が確実に実践されるためには、開発アジェンダの実施過程に必ず障害者を含めていかなければなりません。

本日この会場には、ポスト2015年開発アジェンダを達成するために鋭意努力されている様々な関係者の方々が集まっています。

障害者関連サイドイベント 開会挨拶2.JPG


国連機関及び加盟国代表の皆さま、第3回国連防災世界会議に倣い、今後開催する全ての会議とそれに伴う意思決定過程(decision making process)が障害者にとって、インクルーシブでアクセスしやすいものになるよう、また、皆さまの計画や政策に「障害」と「インクルーシブな開発」を横断的なテーマとして取り入れていけるよう、互いに協力していきましょう。

障害者問題に取り組む市民社会を代表する皆さま、障害者のプレゼンスを国連の主要な会議、ひいては国連システム全体において高めていけるよう、引き続き、共に手を携えて取り組んでいきましょう。

「ハンセン病制圧活動記」その26―モロッコ訪問記 [2015年04月17日(Fri)]

「ハンセン病制圧活動記」その26
―モロッコ訪問記


星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2015年新春号


2014年10月27日から30日まで、北アフリカのモロッコを訪問した。モロッコと言えば皆さんは何を思い浮かべるだろうか。イスラム教国、サハラ砂漠、「カサブランカ」を始めとする数々の映画のロケ地…。どこかエキゾチックなイメージをお持ちの方が多いのではないか。そんな魅惑の地、モロッコに今回訪れた目的は2つ。1つ目は、中東地域を対象としたハンセン病と人権に関する国際シンポジウムを開催すること、2つ目はモロッコのハンセン病の実情を視察するためだった。

このシンポジウムは、2010年に国連総会でハンセン病患者・回復者およびその家族に対するスティグマと差別をなくすための決議が採択されたのを受け、その実行を各国に促すため、日本財団が世界5地域で開催しているものである。今回は2012年2月、南北アメリカ大陸を対象としたブラジルでのシンポジウムを皮切りに、インド(アジア地域)、エチオピア(アフリカ地域)と続き、今回で4回目になる。同時並行で具体的な行動計画を策定するワーキンググループが活動しており、最終的な行動指針は2015年、国際連合欧州本部のあるジュネーブのシンポジウムの場での発表を予定している。

モロッコの首都は、カサブランカから海沿いに2時間ほど車を走らせた、ラバトという場所である。10月の気温は25〜30度と、日本であれば初夏の陽気だが、砂漠らしい乾燥した空気と照りつける太陽に、こまめな水分補給が欠かせない。また、どうやらスモーカーにはかなり寛容な国らしく、ホテルや空港は煙と、臭い消しと思われる香水の臭いが混じり合ったものが充満していた。

モロッコでの最初のプログラムが前述のシンポジウムである。全世界の新規患者の8割近くを占めるアジア地域、唯一の未制圧国ブラジルを有するアメリカ地域、制圧後の患者数のコントロールが予断を許さないアフリカ地域に比べ、中東地域では、医療面から社会面−人権の回復や歴史保存−にハンセン病問題がシフトしている国が多い。かつて療養所を有した国も多くがその役目の終末期に入り、高齢の回復者がどうその余生を送るか、建物や病院をどのような形で残して行くのかが課題となっている。モロッコ国内やエジプトの他、アメリカ、エチオピア、ブラジルなどからも回復者や専門家が登壇し、闊達な議論が交わされた。

登壇した中に一人、30代後半の若い女性回復者がいた。カサブランカから来たナイマさんで、これほどの聴衆の前で話をするのは初めてなのだろう、緊張した面持ちでマイクを握り、自身の経験を語り始めた。1984年に9歳で発症し、6ヶ月間入院。その翌年両親を相次いで亡くしたという。5人姉妹の末っ子で、入院した後も、カサブランカの療養所に定期的に6年ほど通った。その後面倒を見てくれていた姉が結婚して家を出て行き、一人になったナイマさんは当時住居施設のあった療養所に住み、家政婦をして生計を立てつつ縫製の研修を受ける。ほどなくして結婚、一男一女に恵まれ、現在はハンセン病回復者が少額融資を受けて小物制作を行うNGOを立ち上げ、メンバー80人をまとめている。手に障害が残っているが、神様がいるから大丈夫です、初めて自分のことをこのような場で話せたことが嬉しいです、と笑顔を見せるその顔からは、当初の不安げな表情は徐々に消え、自信に満ちたものに変わっていき、観客からは惜しみない拍手が送られた。

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ナイマ氏と娘さん(カサブランカの病院にて)


シンポジウムの翌日、ナイマさんも入院していた、カサブランカの国立ハンセン病病院を尋ねた。この病院は1952年に設立され、ピーク時は200人を超える患者がいたが、現在の入院患者は常時8〜16名、通院患者・回復者は月30名程度。3名の医師(うちハンセン病専門医は1名)が、西サハラ地方で年間数名発見される新規患者の治療と、後遺症のケアを行っている。ハンセン病患者の減少に伴い、皮膚科一般の診療も行っている。病院がこの地に出来た理由は、フランス人のロリー医師というモロッコでのハンセン病治療のパイオニアが、かつて軍の施設だった建物を病院として、患者を診るようになったためとのこと。フランスの統治下であった1950年代まで、患者は3ヶ月間の入院が義務づけられていた。これは隔離のためというよりも確実に治療を完了させるための処置だったといい、入院中は絵画などの文化活動や教育の機会が提供されていた。家族に見放されていたり、自活する財力がなかったりするため、20年以上入院している人もいるという。

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入院されている方々と病院関係者


療養所は白を基調とした建物が並び、緑も多く環境の良い場所だった。迎えてくれたのは女性院長のアスマ医師。到着してすぐ、1952年設立以来の患者のカルテが保存されているという建物に案内された。黄ばんだカルテが引き出しにひとつひとつ丁寧に保存されていた。その後園内を歩き、草木の生い茂った向こうに覗く古びた建物を、これはかつてのアトリエ、これはかつてのモスク、これは以前使っていたキッチン、と案内してくれた。衣食住、祈りの場、文化活動の場と、昔多くの人がこの敷地内で生活のすべてを完結させていた様子が目に浮かんだ。これらの建物が使われなくなったというのは、医療技術の進歩や社会の病気に対する理解促進が進んだことの証であり、歓迎すべきことである一方、これらの建物を朽ち果てさせるだけではなく、ここで起こったことをどのように後世に残して行くかが世界中で問われていることを改めて実感した。

続いて、それぞれ10床ほどのベッドが並ぶ男性病棟と女性病棟へ順に案内された。男性病棟は幅広い年代の人が入院しており楽しそうにおしゃべりを楽しんでおり、カメラを向けると嬉しそうにポーズを決めてくれた。1940年生まれという男性は、16歳で発症、25歳で足を切断したが、膝の辺りの切断面に潰瘍が残ってしまい、当時の外科手術の技術が未発達であったことが窺えた。しかし痛々しい傷跡とは裏腹に当人は明るい表情で握手に応えてくれた。女性病棟では、26歳の若い患者が印象的だった。村で一人感染し、手も変形してしまったため、病気を他人には隠すようになったという。しかし、結婚して子どもも2人生まれ、今は幸せだとのことだった。

病院を統括するアスマ医師は、まだ40歳前後で、以前は皮膚科医として働いていたが3年前にこの病院にやってきた。この病院でもハンセン病は臨床上皮膚科の一部として統合されているが、実際のケアは一般の皮膚科と異なると言い切る。例えば障害による差別のため、心のケアが必要であること。ハンセン病に罹った事実を受け入れられない患者もいるという。また患者が貧困層に多いのが特徴的で、財政的な支援の必要性も感じているらしい。ハンセン病患者・回復者と直に接する経験から、単なる職務以上の思い入れがある様子で、彼女のような若く親身になってくれる医師の存在は貴重だと感じた。

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アスマ医師(中央)と病室を訪問


カサブランカを訪問した翌日、車に乗り込んで、海沿いに北へ出発した。この日の最終目的地は、アフリカ大陸とヨーロッパ大陸を隔てるジブラルタル海峡に面したタンジェという港町。その途中にハンセン病回復者が住む小さな村と病院があると聞き、尋ねてみることにした。モロッコと言えば砂漠の印象が強いかもしれないが、地中海に面する北部は温暖な地中海性気候で、4,000メートル級の山があるアトラス山脈には充分な降雨、積雪もある。最初に訪れたのはシャウエンという州にある、海抜700メートルの山岳地帯。右に左に大きく揺れながら山道を上がっていくと、小さな保健所に辿り着いた。迎えてくれたのは、ハンセン病専門看護師のラマダニさん。シャウエンを含むモロッコ北部地域のハンセン病対策活動に35年間関わっており、四輪駆動のない時代はロバで村々を回って、患者発見や回復者のケアに時に自腹で、熱心に回っていたという。現在この保健所は、48集落、31,000人を管轄し、一番遠い地域は30km離れており、さらに上った1,200メートルの高地から診療にやってくる人もいるという。母子保健やワクチン接種、外来診療も行っている。ハンセン病は、80年代に管轄下の住民を一斉に調査したところ、人口の4-5%にあたる2、30人が発見され、ホットスポットの1つであったが、ラマダニさんたちの苦労が功を奏し、過去10年間の新規患者数は12人に留まっている。

ラマダニさんは、ボウハル村というハンセン病回復者の家に案内してくれた。ボウハル村にはセウニ族という人々が住み、人口は232人。皆が親戚筋で、長老のディブさん(66歳)を筆頭に、オリーブ、ぶどう、イチジクなどの農作物や、ヤギ、鶏、羊などの家畜を育て、自給自足の生活をしている。通されたのは自分で建てたという、壁は石造り、屋根の部分に藁と土を使った、白を基調としたちょっとしゃれた家であった。日差しが強く外は暑かったが、中に入ると壁が土作りなのでひんやりと過ごしやすそうだった。三世代家族9人が出迎えてくれ、モロッコ伝統の甘いミントティーを振る舞ってくれた。

ディブさんは2011年、ハンセン病に罹ったが、ラバダニ看護師の診断により早期治療と障害予防ができたため、ラマダニさんを救世主のように思っており、村から80kmほども離れたラバダニさんの勤める病院にわざわざ会いに行くこともあるという。話を聞くと、この村には「ハンセン病」という言葉が存在せず「皮膚の病気」と呼ばれており、感染力の弱さも皆体験的に知っていて、もし周囲の人に症状が出れば医者に診てもらって治し、以前と同じ生活に戻れば良い、と当然のように考えているという。ハンセン病は正しい知識を持っていればなんら恐れる病気ではなく、差別は生まれようがないということを、このモロッコの都会から遠く離れた小さな村の住民たちが身をもって証明していた。

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ディフさん

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村に住む男性を診断するラバダニ看護師


村を後にし、再び車に揺られながら、さらに北を目指して出発する。目指したのは、テトゥアンという、モロッコの地中海側にあり、ジブラルタル海峡まで南に40kmの場所にある街。位置柄、二つの大陸の文化が混じりあう独特の街で、メディーナと呼ばれる旧市街地は、低層の白い家々が立ち並び職人らが多く住み、世界遺産に登録されている。1956年にモロッコが独立するまでテトゥアンを含むモロッコ北端部はスペイン領だった(南部の大部分はフランス領)ため、住民の多くはアラビア語とスペイン語を話す。

訪れた病院は、モロッコ北部地域のハンセン病の中心施設。入院設備はなく外来のみで、ハンセン病の疑いのある人が診断を受け、陽性であった場合は治療を開始すると同時に、自宅を訪問し、家族に感染がないかを確認するという。外壁、内壁ともに白で統一され、洒落た形の窓が並ぶ立派な病院で、私たちの訪問にあわせて7、8名の患者が集まってくれていた。一人、ハンセン病と診断されたばかりの30歳の若い女性がいた。港町タンジェから車で1時間ほどかけてやってきた患者で、7ヶ月前に初めて症状が現れて複数の医者に診てもらったが誰にも診断できず、この病院に辿り着いたという。おじの息子にハンセン病が見られたといいい、病院のレスニン皮膚科医は、これから家族7名を調査すると話した。イスラムの女性は人前で肌を見せることに抵抗を感じる傾向にあるため、初期症状が気付かれにくい場合もある。そのような中、ラマダニさん他の関係者は、地方当局とも連携を取りながら積極的に患者を探し、信頼関係を大切にしながら治療と感染防止にあたっている。その地道な取り組みが患者数の大幅な減少に貢献していることは間違いなく、心からの賞賛とともに、引き続き努力を続けてほしいと伝えた。

モロッコは患者数だけを見ると決してインドやブラジル、インドネシアのような「蔓延国」ではないが、残された数人、数十人の患者の発見活動や回復者の障害ケアを丁寧に行っており、いずれ徐々にその状況に近づいて行く他の国々にとっても大いに参考になる部分があるはずだ。その鍵となるのは、患者は少なくてもハンセン病に真摯に取り組む医療関係者や、自分と同じ症状が見られる人に早期治療を勧める回復者である。最後の一人の患者が病気とそれに伴う差別から解放されるまで、ハンセン病問題は解決したとは言えないことを、最終局面に差し掛かっているモロッコの地で改めて感じた。
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