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「ハンセン病制圧活動記」その51―フィリピンでのハンセン病制圧活動記― [2019年12月11日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その51
―フィリピンでのハンセン病制圧活動記―

栗生楽泉園機関誌『高原』
2019年9・10月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2019年9月8日から11日の4日間でフィリピンの首都マニラを訪問した。今回の訪問目的は、日本財団と笹川保健財団で共同開催したハンセン病回復者組織世界会議および3年に一度開催される第20回国際ハンセン病学会への出席、それにアテネオ大学名誉博士号の授与式に出席することであった。

フィリピンは東南アジアに位置し大小7,000以上の島々から構成される島国であり、日本から飛行機に乗れば約4時間で到着できる国である。我々日本人の先祖はシベリア半島から北海道に上陸した人々、朝鮮半島を通じて移動した人々、そしてフィリピンから海を渡った人々がルーツであると言われている。それほど身近な国でありながら、ハンセン病に目を向けると状況は全く異なる。2018年の報告では新規患者数2,176人に上り、東南アジアではインドネシアに次ぎ患者数が2番目に多い国となっている。

世界には、フィリピンをはじめハンセン病回復者によって設立された回復者組織がある。ハンセン病を克服した人々が集まり、当事者自らの力でハンセン病に関する問題解決を目的とし結成している。当事者の意見を政策に反映させる社会活動やハンセン病の正しい知識を知ってもらう啓発活動、回復者の生活向上のための就労支援や患者の早期発見活動も実施している。日本財団と笹川保健財団は約25年前からこのような世界中の回復者組織の支援を継続しており、回復者組織がハンセン病の制圧活動において重要な役割の一角を担うようになっている中で、今回の回復者組織世界会議を開催するに至ったのである。

1世界ハンセン病回復者会議の出席者全員との記念写真!.JPG
世界中から集まった回復者の代表者たちと


9月7日から10日まで4日間開催されたハンセン病回復者組織世界会議には23か国から回復者団体代表が集まり、総参加者数は80人を超えた。これほど大規模な回復者会議は珍しく、通訳が必要なため私はゆっくりと代表者たちにむかって「人間1人1人は弱いかもしれない。しかし、1本の糸は弱いが、糸が10本になり、100本になり、1,000本になることで強いロープとなり、大きな力を生み出すことができる。ここに集まる代表者が各国で弱い糸を集め、ロープを作り出した結果、こうして世界中から代表者が集まることができた」と語りかけた。

午前中の会議を終えて、フランシスコ・デュケ保健大臣との面談のために保健省へ移動した。保健大臣に会うのは3回目である。世界会議を開催していることを説明するとともに、フィリピンには深刻な病気が多数ある中、比較的患者数の少ないハンセン病対策を継続して行っていることに感謝した。その他、国民皆保険制度についてなど様々な健康に関する話題について意見を交わした。

2デュケ保健大臣.JPG
デュケ保健大臣


夜は回復者組織世界会議の夕食会に参加した。そこでは、フィリピンのハンセン病回復者組織より嬉しいサプライズが待っていた。回復者の1人であるアルバート・ロペス氏が私の肖像画を描いてプレゼントしてくれ、さらに、彼が作詞作曲したハンセン病の歌のプレゼントも頂いた。多彩な才能を持ち、たくましく生きる彼のように、回復者は社会を変える力がある。私はロペス氏に感謝を述べ、会場にいる回復者の皆さんに「回復者の方々はお医者さんなのです。社会にあるスティグマや差別を治療するために闘いましょう」と激励すると、会場全員が高々と拳を上げ一体となった。そして、「私も闘いの仲間に入れてもらえますか」と問うと会場全員から拍手を頂けたのである。彼らと一緒に仕事ができることが大きな誇りであり、ハンセン病によるスティグマや差別の無い世界を達成するための仲間がいることに感謝しながら会場を後にした。

翌日はマニラ市内のアテネオ・デ・マニラ大学を訪問した。フィリピンにおけるハンセン病制圧と差別撤廃活動への貢献が評価されて、名誉博士号が授与されることになったからである。アテネオ大学は2007年にハンセン病のスティグマと差別撤廃を訴えるイベントに協力してくれた縁があり、その時にハンセン病から回復した11歳の少女が「差別は決して正当化されない」と力強く声を上げてくれたことを鮮明に覚えている。大学が制作した私の紹介ビデオの中で、フィリピンのハンセン病専門のクナナン医師とWHO西太平洋事務局の葛西健事務局長から応援と感謝の言葉をいただけたことは光栄であった。ハンセン病に馴染みのない出席者に興味を持ってもらうことは難しいことだが、大学が工夫してビデオを作成してくれたことで、多くの出席者がハンセン病について理解するきっかけとなっていれば嬉しい。

3ヴィラリン学長から学位を受け取る.JPG
学長から名誉博士号が授与される


最終日には世界中のハンセン病関係者が一堂に会する第20回国際ハンセン病学会に出席した。基調講演の時間をいただき、ハンセン病を顧みられない熱帯病と呼んでいることへの反対の意見を表明し、世界中のハンセン病回復者組織が、ハンセン病の無い世界を達成するための重要な役割を担っていることを強調した。ハンセン病は顧みられない熱帯病の一つとしてWHOに登録されているが、 “顧みられない”を英語に訳すと“ネグレクト”である。日本では子供に対して愛情を注がず、食事を与えないなどの虐待を“ネグレクト”と表現する。これは無関心・無視という意味で使用されている。ハンセン病は無関心でも、無視されている病気でもない。政府や医療関係者、研究者をはじめとして多くの人が関心を持ち続けており、撲滅に向けて協働している病気の一つである。そのように力を尽くし努力されている方々がいる中で“ネグレクト”を使用することは大変失礼なことであり、私はこれをやめるべきだと表明したのである。ハンセン病は“ネグレクト”される病気の一つではなく、この病気を通して人権について学び、人とは何かを考えることができる唯一無二の病気であると私は思っている。

4第20回国際ハンセン病学会で基調講演.JPG
第20回国際ハンセン病学会で基調講演


そして、私はあらゆる病気の中で回復者がこれほど活躍している病気はないと考えている。前述もしたが、世界各地の回復者組織が重要な役割を達成するために日々活動をしていることを称賛したい。その活動は各国に残る差別法の撤廃など社会的制約の解消、回復者の生活レベルの向上、ハンセン病が治る病気で無料の薬があるといった社会へ訴える啓発活動である。ハンセン病を経験した回復者ゆえの視点を持ち、ハンセン病を取り巻く社会の問題点に対し努力を惜しまず活動を継続できたこその賜物である。学会に参加するハンセン病の専門家や研究者だけでなく、世界中の人々が回復者の声に耳を傾け、ハンセン病とその差別のない世界“ゼロ・レプロシー”実現のために更なる協力を推し進めていくことを期待したい。

今回フィリピンでハンセン病回復者組織の代表が一堂に会する会議を開催できたことは、1本の糸が大きく太いロープへと成長していることを肌で感じることができ、心の底から嬉しく思った。この会議を通してそのロープが繋がり、強力なネットワークが形成され、世界からハンセン病のスティグマと差別を無くすための活動が拡大されると信じている。そのために回復者組織の支援を継続していきたいと考えている。ハンセン病とその差別のない世界“ゼロ・レプロシー”が達成されるまで私と回復者の闘いは終わらない。



「ハンセン病制圧活動記」その51―ブラジル訪問記 最後の未制圧国を訪問して見えた課題と展望― [2019年11月29日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その51
―ブラジル訪問記 最後の未制圧国を訪問して見えた課題と展望―


長島愛生園機関誌『愛生』
2019年9・10月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2019年6月29日から7月12日までの14日間、ハンセン病制圧活動のためにブラジルを訪問した。蔓延地の状況と取り組みを視察するとともに、政府高官からハンセン病をなくすための政治的コミットメントを得るためである。この国を最後に訪れたのは2015年、4年ぶりの訪問であった。

ブラジルは豊富な食料、資源、エネルギー、工業力を背景にロシア、インド、中華人民共和国、南アフリカと並んで「BRICS」と呼ばれる新興経済国になるまで成長し、ラテンアメリカ最大の経済規模を誇る。ただし貧富の格差の大きさ、公共サービスの質の低さや地域差など改善すべき課題が多く残されている。

ハンセン病に関しては、ブラジルは世界保健機関(WHO)が定める公衆衛生としての制圧(人口1万人あたり1人未満)を達成していない唯一の国である。患者数が世界で2番目に多く、毎年約25,000人の患者が発見される。患者は経済的に貧しく医療へのアクセスが厳しい中西部や北東部に集中している。またブラジルは政府が元患者に対する強制隔離について過ちを認め、当事者に賠償金を支払っている国でもある。一方で州や自治体レベルではハンセン病に対する差別的な制度や条例が未だに存在しており、医療従事者や教育関係者の患者や家族に対する偏見や差別の強さが報告されている。

最初の訪問地である首都ブラジリアでは、ルイス・エンリケ・マンデッタ保健大臣と面談した。大臣はハンセン病患者が多いマットグロッソ・ド・スル州の出身で、整形外科医としてハンセン病患者・回復者の治療を行っていたという経歴を持つ。今年1月にボルソナーロ新政権となり、保健省内部の改革が行われ、ハンセン病対策の部署が一層強化されたことを大臣から聞いた。私は、現場での経験に加え、熱意を持つ大臣がトップに立ったことで、保健省全体の士気が上がり、ブラジルにおいて制圧に向けた動きが加速されることが期待できると感じた。その日は保健大臣の他に、世界保健機関ブラジル代表やブラジル司教協会事務総長と面談し、夕方には慌しく次の目的地であるパラ州ベレンに向かった。

写真1マンデッタ保健大臣と.JPG
マンデッタ保健大臣と面談


北部に位置するパラ州はブラジルで2番目に広大な州である。緑豊かなアマゾン熱帯雨林の広大な地帯を有するこの州は洪水になると遠隔地までの交通手段が閉ざされることもしばしば起こるという。地理的要因や経済格差が原因でパラ州は新規患者数が年間2,678人と多く、ブラジルで5番目の蔓延州である。私がこの地を訪れるのは2度目であった。

ベレンではマルセロ・カンディア病院をブラジルハンセン病協会会長のクラウティオ氏の案内で見学した。1930年代に設立されたハンセン病療養所が現在ではリハビリ施設や特別な履物を作る施設を備えた州最大のセンターとして活用されている。他の自治体の診察所で対応できない重度の障害を持つ患者・回復者や深刻ならい反応がある患者が来院するそうだ。

写真2マルセロ・カンディア病院でお会いしたハンセン病回復者の方々と.JPG
マルセロ・カンディア病院でお会いしたハンセン病回復者の方々と


その後、パラ州のバラバロ知事と面談し、パラ州でハンセン病をなくすためにこれからも共に歩みたいこと、子どもの障害をなくすために家庭の中でスキンチェックを習慣にして欲しいことを伝え、次の訪問地であるパラ州マラバに向かった。

マラバはベレンから500kmほど南下したところにある第3の都市だ。同じ州内であっても飛行機を使って移動しなければならない。マラバもベレン同様にハンセン病患者が多い地域だが、設備が整った医療施設がないため、重度の障害がある患者は何時間もかけてベレンのセンターに通わなくてはならないという。

マラバではミランダ市長のイニシアティブのもと、ハンセン病の患者が途中で治療をやめてしまわないように来院した患者に対して食料を支援するという条例が策定され、私はこの条例成立の記念式典に招待された。市長、市会議、医療・保健従事者、メディア関係者など約100人集まった式典で、私は「ハンセン病はかかりにくい病気だが、栄養状態が悪い人に多いことは事実。また自宅から診療所まで遠くて通うことが困難な人もいる。これらの人たちが治療を終えることができるようなこの条例は人道的で愛情に満ちている」と挨拶した。その後、テレビ・ラジオ番組の収録を終え、次の目的地であるマラニョン州サンルイスに移動した。

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テレビ番組「 personality 」の収録


北東部に位置するマラニョン州の新規患者数は年間3,436人。ブラジルで3番目の蔓延州である。その要因のひとつが約50年間続いた独裁政権期間中に社会保障政策がほとんど実施されなかったためと言われている。

サンルイスに到着したその夜にフラビオ州知事から夕食会に招待された。知事は代議士時代にハンセン病の集落を訪問し、患者や家族と交流したことがあったそうだ。その時、自分が知事になったらこの必ず問題を解決すると誓ったことを語ってくれた。実際、マラニョン州では現知事が就任してから州が取り組むべき課題にハンセン病が挙げられ、患者の発見活動や障害の予防が積極的に行われるようになった。私は知事の熱意を聞き、「マラニョン州がハンセン病制圧に成功すればブラジルのモデルになる。知事や保健局長が本気で取り組めば患者数を9割減らすことができる。そのためにはできる限り協力したい」と伝え、知事と固い約束を交わした。

翌日はマラニョン州の蔓延地区から280人の医療・保健従事者や社会福祉関係者が一堂に会したハンセン病会議が開催された。会議では保健局長、公共政策局長、公共弁務局主任がそれぞれの立場からマラニョン州のハンセン病の状況と取り組みを説明した。私は参加者に対して「皆さんが力を出してくれればマラニョン州からハンセン病をなくすことは不可能ではない。皆さんは愛に満ちた崇高な仕事をしている。正しい知識を広めてくれることを期待している」と激励した。その後、診療所の見学やテレビ・ラジオ番組の収録を終え、再びブラジリアに戻った。

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ハンセン病会議で挨拶


ブラジリアでは、ジャイル・メシアス・ボルソナーロ大統領と面談した。大統領は陸軍軍人、リオデジャネイロ市議会議員、連邦下院議員という経歴を経て、2019年1月にブラジル連邦共和国の大統領に就任した。保健大臣、女性・家族・人権大臣、外務大臣らの閣僚と共に颯爽と登場した大統領には、ブラジルという大国の将来を背負っているという自信と緊張感が漲っていたが、大統領が元軍人ということで私が敬礼をすると、すかさず答礼をしてくださるという大変気さくな方であった。

まず大統領が「ハンセン病を制圧することはブラジルにとって大きな課題である。患者が多いことは事実であり、隠すべきではない」と発言されたとき、私はこの国が本気でハンセン病の制圧に取り組んでいること、そして今がその絶好の機会であると感じた。私の方からブラジルは世界で2番目に患者が多く、WHOの定める公衆衛生としての制圧を達成していない国であるため、大統領の熱意と指導力で政府を動かし、ひとりでも多くの患者を減らし、差別のない社会を作って欲しいとお願いした。その後、大統領と共にブラジルからハンセン病をなくすためのメッセージを大統領のFacebookを通じて配信した。動画は73万回再生され、1万9千のコメントが寄せられた。

写真5ボルソナーロ大統領(左)が急遽Facebookのライブ配信を始めましたJPG.JPG
ボルソナーロ大統領(左)が急遽Facebookのライブ配信を始めた


今回の旅を通して最後のハンセン病未制圧国ブラジルの展望が開けてきたと感じた。中央政府はハンセン病対策に真剣に取り組む姿勢を見せており、マラニョン州のように知事が率先して全体の課題としてハンセン病をなくそうと積極的に活動を行っている州がある。今後一層ブラジルにおいてハンセン病制圧を推進するために政府関係者や医療従事者など一同に会する「ハンセン病全国大会」を開催し、具体的な方策を議論したい。世界で2番目にハンセン病患者が多いブラジルからハンセン病のないブラジルに転換するよう私は全力で支援することを誓った。


「ハンセン病制圧活動記」その50―インド訪問記 ガンジーと私の夢― [2019年08月09日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その50
―インド訪問記 ガンジーと私の夢―


多摩全生園機関誌『多摩』
2019年7月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


1月27日から2月4日までハンセン病制圧活動のためにインドを訪問した。今回で59回目となる。インドの新規患者数127,356人(2017年度)は世界の約6割を占める。2005年にWHO(世界保健機関)が定める、人口1万人に1人未満という制圧目標を達成したとはいえ、まだまだ医療面での課題が多く残る国である。また、未だにハンセン病患者と回復者に対する差別的な法律や慣習が残っており、この解決も大きな課題である。

最初の訪問地のデリーでは、日本財団が2006年から継続しているグローバル・アピール2019の会合に出席した。今年は世界のビジネス機構である国際商業会議所(世界で4500万社が加盟)から賛同を得て、ビジネス界を中心に社会に対してハンセン病患者、回復者、その家族に対する差別の撤廃を訴えた。式典には回復者の子供たちの歌やダンスがあり、にぎやかな雰囲気となった。賛同団体である国際商業会議所に加えて、インド工業連盟の代表も出席するなど、ハンセン病回復者や家族の雇用促進について積極的に取り組む姿勢を見せてくれた。

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歌などを披露してくれたハンセン病コロニーに住む子ども達と


式典翌日の1月31日、ダードラ・ナガル・ハヴェリー連邦直轄領に移動した。インド中西部マハラシュットラ州とグジャラート州の間に位置する人口39万人、面積491kuの小さな連邦政府直轄領である。かつてのポルトガル領で、インド人にもあまり知られていない地域である。保健局によると、この地では早期患者発見キャンペーンや家族に対する予防薬の配布が功を奏し、昨年は目に見える障害を持つ患者の数がゼロだったという。同行してくださった中央保健・家族福祉省のアニル・クマール氏によると、ダードラ・ナガル・ハヴェリー連邦直轄領はインドでは珍しくハンセン病のコロニーがなく、差別もない地域だそうだ。それでも、患者が1万人あたり6.7人いるという数字は、インド平均値の10倍も高い超蔓延地域である。その理由は翌日わかることになる。

翌日、直轄領で活躍する80人のASHAとの会合に出席した。ASHAとは蔓延地域の世帯を一軒一軒回り、皮膚などに症状が出ていないかを確認する女性の保健ワーカーのことである。実はこの地域で数字が高い理由は、彼女たちの活動成果なのである。彼女たちが一生懸命に患者を発見していることで、患者数は増えるが、早期発見で障害が出る前に治療ができる。このことはとても喜ばしいことで、患者数が多いからといって悲観する必要はないのである。私は彼女たちに「ハンセン病は早く発見されることで障害となる前に治る。あなたたちの仕事は患者の人生そのものを明るいものにする。誇りを持って取り組んでいって欲しい」と激励すると、赤とオレンジ色の美しいサリーを着たASHAたちの顔が誇らしげ輝いた。

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会合に出席したASHAたち


その後、空路で東海岸に位置するアンドラ・プラデッシュ州のヴィジャヤワーダに向かった。ここでは日本財団が10年以上支援を続けているAPAL(インドハンセン病回復者協会)と日本財団の姉妹財団であるSILF(笹川インドハンセン病財団)が回復者に対する支援活動をそれぞれ行っている。ヴィジャヤワーダの空港に夕刻到着するとAPALはじめ、州リーダーや回復者が大勢で出迎えてくれ、美しい南国の花束を渡してくれた。貧しい生活の回復者からこのような贈り物をもらうたびに、嬉しいような、少し申し訳ないような複雑な気持ちになる。

ヴィジャヤワーダでの活動の一番最初に、ナラ・チャンドラバブ・ナイドゥ州首相との面談が実現した。選挙前で忙しい時期にも関わらず、私やAPAL代表のナルサッパ氏との面談要請を受け入れてくれたのである。面談の目的はただ一つ、回復者への特別支援金の引き上げの要請である。面談が始まってすぐに私から支援金について陳情をしたところ、即座に月1500ルピーから4000ルピー(約6000円)に増額する、と約束してくれた。州首相の英断に関係者一同の喜びも大きく、その日の夕食は楽しい時間となった。

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ナイドゥ州首相との面談


翌日はSILF(笹川インドハンセン病財団)が回復者のための支援活動を行うブンニ・ナガール・ハンセン病コロニーを訪問。椰子の木が道沿いに並び、鮮やかな花々がいたるところに咲いている南インドらしい地域にある。住民140人のうち回復者が42人のコロニーは2009年に州政府の政策によって作られた。土地と住居は州政府から提供されており、ほとんどの回復者が障害者年金を受給しているため、乞食をしている人はいないという。私たちが調査したインド全国850のコロニーの中でも恵まれた環境であった。

SILFの自立支援プロジェクトの責任者であるラケシュ氏が受益者を紹介してくれた。ひとりは水牛を飼ってミルクを販売しており、1日約600円の収入を得ているそうだ。もうひとりは雑貨を売って生計を立てている男性であった。少額ながらも安定した収入を得て家族を養っているようだった。他にもヤギの飼育や、野菜を販売する受益者もいるという。そのような様子を見た後、集会所に集まったコロニーの人々に「皆さんが団結して、一所懸命生活を良くしようと努力した結果、このコロニーはとても良い環境になっている。SILFは皆さんが自立した生活を送ることができるよう、さまざまな仕事を提供するのでそのチャンスを掴んで欲しい」と伝えると、コロニーの人々の表情が一層明るくなった。私はコロニー全ての人々が自立した生活を送ることができることを願いながら帰路に着いた。

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水牛を買ってミルクを売って生活向上を目指す家族

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これからも笑顔が絶えない生活を送ってほしい


今年はマハトマ・ガンジー生誕150周年である。実はインドを出発する2日前、インド文化省から私が2018年の「ガンジー平和賞」受賞者に選ばれたという知らせが入った。これまで懸命に取り組んできたハンセン病制圧活動が評価された結果だという。これは、私だけではなく、共に活動をしてきた同志と共に受賞したと考えている。
ガンジーはハンセン病患者の境遇を変えるために国づくりのマニフェストにハンセン病の解決を取り上げた。ガンジーの夢である「ハンセン病とその差別のないインド」はガンジーが生きている間実現することはなかった。ガンジー平和賞の受賞が決まってから、私がこの夢を引き継ぎ実現しなければならないという思いはますます強くなった。
「ハンセン病制圧活動記」その49―インドネシア― [2019年02月14日(Thu)]
「ハンセン病制圧活動記」その49
―インドネシア―

星塚敬愛園機関誌『姶良野』
2019年1月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

昨年2017年11月11日から16日の6日間、インドネシアの首都ジャカルタと北東部のゴロンタロ州を訪問した。この半年で2回目の訪問である。インドネシアにおけるハンセン病の新規患者数は16,826人(2016年)で、この数はインド、ブラジルについで世界で3番目に多い。2000年にWHO(世界保健機関)の制圧目標(人口1万人に1人未満になること)は達成しているが、現在、州レベルでは全34州のうち12州がこの水準を満たしていない。今回は、未制圧州であるゴロンタロ州で、ハンセン病対策の視察を行うとともに、ジャカルタでは副大統領や州知事と面談してハンセン病対策の強化を要請した。

日本からジャカルタを経由し2日がかりでスラウェシ島にあるゴロンタロ州に到着した。活動初日は朝から地元のラジオ局でのトークショーに出演した。ガラス張りのスタジオには、司会者、保健局のアリフ医師、ハンセン病回復者団体「ペルマータ」のアル副代表、筆者が入った。司会者の軽快な声とともに番組がスタートし、アリフ医師がゴロンタロ州におけるハンセン病の現状を説明した。私からは、世界のハンセン病事情を紹介し、「みなさんが怖い病気だと思っているハンセン病は実はそれほど怖いものではありません。もし、皮膚に白い斑紋を見つけたらすぐに病院に行ってください。薬も無料で、障害が残らずに治りますよ。ラジオを聴いている皆さん、家族でチェックをしてください」と訴えた。アル副代表は6歳のときに発病したが恥ずかしくて病院に行かなかったため、手に障害が残ってしまった自らの経験を語り、早く病院に行くことの大切さを訴えた。つくづく当事者自身の話は、説得力があると感じる場面である。この番組の特徴はリスナーからの質問を受ける時間があることだ。質問の中には「患者と一緒に食事をすると感染するのか」といった誤解に基づく質問もあり、1つ1つ丁寧に答えた。これまで、外国のテレビやラジオのトークショーには何度も出演する機会を得ているが、地域住民の率直な疑問に答える番組は初めてで、画期的だと感じた。今後はこうした機会を増やしていきたい。

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ラジオ番組に出演。筆者隣がアル副代表

午後には、ハンセン病患者を診察する病院を訪れた。頭にはイスラム教特有の白い「ヒジャブ」という布を被り、清潔感のある白い制服の看護師達が迎えてくれた。雨季であるはずなのに太陽が肌を刺すように暑く、中庭にはサボテンが生い茂り、近くで咲く真っ赤なハイビスカスとのコントラストはまさに南国特有の原色の風景である。ここは1942年に旧日本軍が武器庫として建設した後、ハンセン病専門病院として使用され、現在では一般診療も行う地域の総合病院として年間17,000人の患者が訪れている。

病院の裏には回復者の住む黄色い壁の古い建物があった。私を迎えてくれた回復者1人1人を抱きしめ、挨拶を交わした。そばにいた地元のメディアに、「これまで数千人の人と握手し、抱擁を交わしたが、ハンセン病には罹らなかった」と語りかけ、ハンセン病がうつりにくい病気であることを説明した。次に花柄のヒジャブを被った年配の女性に、「お母さん、調子はいかがですか。私と握手したら、100歳まで生きられますよ」と冗談を言うと、素敵な笑顔を返してくれた。道を挟んだ向かい側には田んぼが広がり、草を食んでいる牛の傍には、藁葺き屋根の小屋が並んでいた。小屋はレンガ火鉢を作る工場として使われていた。火鉢を売ることで彼らは現金収入を得ているのだそうだ。

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病院の裏に住む人々と交流

夜はTVRIというテレビの生放送に出演することになった。地元保健局の担当者、回復者団体のアル副代表と私が参加し、午前中のラジオ同様に司会者の進行で視聴者の質問に答える形式の番組であった。まずハンセン病について保健局の担当者が説明し、続いて私は病気だけでなく差別の問題も同時に解決しなければいけないことを伝え、そのことを両輪がうまく回らないとバイクは動かない事を例えに、前輪を病気の問題、後輪を差別の問題として説明した。視聴者からは「ハンセン病になったらどうすればいいのか」や、「ハンセン病患者が妊娠したが生まれてくる子供に問題はないか?」などの質問が寄せられたことに対し、ハンセン病は遺伝する病気ではなく、簡単にはうつらないことを強調した。視聴者とのやり取りを通じて、病気に対する誤解がまだまだあることに愕然とした。

写真Cその場で質問を受けるテレビ生番組に出演.JPG
その場で質問を受けるテレビ生番組に出演

2日目、リンボト小学校で試験的に行われているハンセン病の啓発活動を視察した。幹線道路沿いにあるこぢんまりとした学校の校庭には、200人ほどの児童が目をキラキラさせて私たち一行を歓迎してくれた。私は、「両親からハンセン病は怖い病気と言われているかもしれないが、薬があるので治るようになったと家に帰って話して欲しい」とお願いすると、大きな声で「約束します」と答えてくれた。彼らが帰って家族に正しい知識を伝えてくれることを願い、学校を後にした。

写真B配布されたハンセン病に関するリーフレットを熱心に読む小学生たち.JPG
配布されたハンセン病に関するリーフレットを熱心に読む小学生たち

学校から車で10分ほどのところに回復者が住んでいるというので訪れた。火事で廃墟のようになったイスラム教寺院に住む一家で、夫と死別した母と子供3人が、1週間前に別の州から引っ越して来たばかりという。母親は病院に行くのが遅れたために、左手には障害が出ていた。2ヶ所目は、入り組んだ住宅街の奥に住む高齢の女性で、一度薬を飲んだが副作用が苦しくて途中でやめてしまったために、再発したという。女性のかたわらにいた「大工になるのが夢だ」と言う孫に、私からおばあさんがちゃんと薬を飲むように見ていて欲しいとお願いした。

3日目、出張の最終日は、ジャカルタで要人との面談で、最初にアニス州知事とお会いした。アメリカで教育を受けた若手気鋭の政治学者から政治家に転身し、次の大統領の有力候補とまで言われている。知事には、インドネシアでのハンセン病対策の強化を要請することに加え、ハンセン病回復者団体「ペルマータ」の認知度を上げることだった。そのため、「ペルマータ」のパウルス代表とアル副代表にも会談に同席してもらい、直接彼らの話を知事に聞いてもらった。会談のあと予想を超える数のテレビや新聞社がこのことを報道してくれたことも大きな収穫だった。ハンセン病対策はメディアの協力が欠かせない。我々の活動を報道してくれ有難いことであった。

ジュスフ・カラ副大統領との面談は、2005年にマラッカ・シンガポール海峡の安全確保とハンセン病対策への協力を要請した時以来となる。 副大統領は、海運会社のオーナーであり、ハンセン病蔓延地域のひとつマカッサル出身でもある。私は、「病気が治っても酷い差別が残っているインドネシアのハンセン病を根絶したい。そのため、最重要国として、できるだけ多く訪問したい」と強調した。副大統領は、「私の故郷もハンセン病が蔓延し、昔は多くの施設があった。あなたの活動に心から感謝する」と労ってくれた。

最後に、日本財団が10年に渡って支援している義手や義足を作る義肢装具士養成学校を訪れた。毎年15〜20人の義肢装具士を養成している。来年夏には支援を終え、インドネシア政府にすべての運営を引き継ぐことになっている。卒業生は東南アジア諸国をはじめ海外でも活躍している。私達の訪問を、全校生徒に加えて、卒業生までもが歓迎してくれた。印象的だったのは、「ペルマータ」のアル副代表が義足の製作過程や、リハビリの様子を熱心に見ていたことだった。ハンセン病患者・回復者の中には義足を必要とする人も多く、仲間のために学んで帰りたいという気持ちが痛いほど感じられた。彼は、今回の全行程に同行し、「ペルマータ」を全国組織にしていくことを目標にしたいと言ってくれた。

今回の訪問では、ラジオやテレビを通じて直接視聴者からの質問を受けることで、地元の住民がどんな疑問を持っているのかを知ることができ、対話の重要性を感じた。インドネシアは私の活動の重点国であり、2018年は6回訪問したいと計画している。
「ハンセン病制圧活動記」その48―モザンビークのおけるハンセン病制圧活動 [2019年01月25日(Fri)]
「ハンセン病制圧活動記」その48
―モザンビークのおけるハンセン病制圧活動
経済発展に取り残されたハンセン病―

菊池恵楓園機関誌『菊池野』
2019年1月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2018年7月25日から29日の5日間、アフリカ大陸の南東部に位置するモザンビーク共和国を訪問した。同国は2007年に世界保健機関(WHO)の定めたハンセン病の制圧基準(人口10,000人あたり1人未満)を達成したものの、再び患者が増えている。今回は、制圧後に患者が増えている地域を訪問することで現状を把握し、マラリアや結核などと比べると優先順位が下がりがちなハンセン病の対策を強化してもらうことが主な目的である。

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マプト市内
遠くにユニークな形の山々が見える


直前までハンセン病制圧活動で訪問していたコモロ連合を出発し、マダガスカル、ケニア、南アフリカ経由で22時間、モザンビークの首都マプトに到着した。南半球にあるマプトは季節が日本と間逆で7月は一年の中でも寒い時期で、夜は毛布が必要なほどであった。同国は17世紀から1975年までポルトガルの植民地であったことから、ラジオから流れる音楽も建物の壁の色も、どことなくポルトガルの影響が感じられる。

翌日活動を開始した。まずアブドラ保健大臣と面談。大臣は、「制圧は2007年に達成したが、現在は患者が増えてきている」と述べたのに対して、私は「いま患者が増えてきているのは恥ずべきことではなく一時的な現象だと考えている。これは患者発見活動が活発になっていることの表れ。早期に発見することで障害がなく治すことができ結果的に患者を減らすことに繋がる」と激励した。

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アブドラ保健大臣と


翌日、東北部のナンプーラ州へと向かった。首都マプトから飛行機で2時間半ほどの距離にある。南半球は北部の方が赤道に近くなるので暑くなる。朝は涼しいが昼間は30度を超える気候だ。まずナンプーラ州知事庁舎を訪問した。私はボルジェス州知事に対して「ハンセン病が治る病気で、早期発見・治療で障害は残らないということを、学校の先生などにも伝えて欲しい」とお願いしたところ、知事は「医療面、社会面、コミュニティー面など、多角的な視点からハンセン病と闘っていきたい」と述べた。

州知事庁舎を後にし、生活雑貨や中古のタイヤなどが並ぶ市場を通り抜け、真っ直ぐに続く道路を田舎に向かってひた走る。道路は綺麗に舗装されているが、道路脇には乾いた赤土に木々が生い茂り、藁のような自然の材料で作られた家々が見える。1時間ほど経つとナマイータ村が見えてきた。村の入り口には色鮮やかな民族衣装をまとった村人200人ほどが集まり、太鼓を鳴らし歌とダンスで出迎えてくれた。

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大勢の村人に出迎えられる


人だかりが出来ている広場の中央にステージがあり、コンサート会場のような雰囲気になっていた。ナマイータ村のハンセン病回復者代表から私の紹介があり、1人のハンセン病治療中の患者の女性と共にステージに上がった。私の言葉よりも、ハンセン病を経験した当事者である彼女が人の前に出ることは、村人が病気を正しく理解するために最も効果的だと思ったからだ。「日本という遠い国から来た。なぜそんな遠い国から来たかと言うと、皆さんの村にあるハンセン病を無くすためだ。ハンセン病は神様の罰、呪い、子供にうつるなど思っている人もいるかもしれないが、それは間違いだ。薬を飲めば治る」と挨拶すると、お祭り気分で盛り上がっていた村人が少し真剣な表情になった。私は自分の服を脱ぎ、裸の上半身を指差しながら、「帰って家族に体を見てもらって欲しい。白い斑紋があったらハンセン病の可能性がある。しっかり調べてくれると約束して欲しい」と言うと大きな拍手が起きた。村人がハンセン病に対して正しい知識を持ち、一刻でも早くハンセン病がなくなることを願うばかりである。

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治療中である女性と一緒にステージに上がる


ナンプーラ市内に戻りラジオ番組に出演した。イスラム教徒向けのラジオ局で、ここでもハンセン病は治るので恐れる必要はなく家族で肌を調べ斑紋があったら病院に行くことを強調した。多くの人が聞いているラジオでリスナーの率直な疑問に答えることは、病気の理解に繋がると信じている。
翌日、首都のマプトに戻って政府や国民全体に対してハンセン病の正しい知識を普及するためモザンビークテレビという全国放送に出演した。インタビュアーからの「今回の訪問はどうだったか」という問いに対し、「テレビを視聴している皆さんに知っていただきたいのは、治る病気で薬は無料であり、体の皮膚に白い斑紋が出ることが兆候である。各家庭で皮膚をチェックして欲しい」と答えた。

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ハンセン病についての正確な情報をテレビを通じて拡散


久しぶりに訪問したモザンビークは経済発展が進み高層ビルが立ち並ぶ国に変貌していた。しかし制圧して以来、ハンセン病対策は進展がなくナンプーラ市でのプログラムもさほど変わっていなかった。私の訪問によって政府、現場の保健従事者、住民がハンセン病に対して考え、やる気を出すきっかけとして欲しいと願っていたが、今回はその確証は得ることはできなかった。モザンビークの保健省、WHO、関係者たちが一層ハンセン病に対して力を入れ、一人でも多くの人に正しい知識を伝えて欲しいと願う。もし私が来ることで少しでも前進するのであれば、何度でもこの国を訪れる覚悟である。



「ハンセン病制圧活動記」その47―インドネシアのハンセン病対策 ― [2019年01月24日(Thu)]
「ハンセン病制圧活動記」その47
―インドネシアのハンセン病対策 省庁の垣根を越えて動き出す―

大島青松園機関誌『青松』
2018年11・12月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2018年10月1日から6日の5泊6日でインドネシアの首都ジャカルタと地方都市であるマルク州アンボン市を訪問した。本訪問直前の9月28日に同国中部のスラウェシ島にて地震と津波が発生し多くの方が犠牲となった。スラウェシ島は本年3月に今回同様ハンセン病制圧活動で訪れ、豊かな自然に囲まれた美しい都市が印象的であったが、報道を通じて大きな被害を受け変わり果てた姿を目の当たりにし、しばし言葉を失った。犠牲者並びにインドネシア国民の皆様に深い哀悼の意を表する。そして緊急事態の中ハンセン病制圧活動を重視し訪問を受入れて下さったインドネシア政府に改めて感謝申し上げたい。

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スラウェシ島での地震災害への募金活動を行う若者たち


インドネシアは東南アジア南部に位置する国家で、赤道をまたいで16,000を超える世界最多の島で構成される国家だ。人口は世界第4位の約2億5,000万人を有し、イスラム教徒が9割を占める。2000年にハンセン病の制圧を達成しているものの、2002年以降患者数が増加傾向にあり今尚17,000人ほどのハンセン病患者がいる。この患者数はインド、ブラジルに次いで世界で3番目に多い数字だ。今回の訪問では、どのように患者数を減らし、また、差別・スティグマを社会から取り除いていくにはどのような方策が効果的かについて中央政府・地方政府そして回復者組織であるPerMaTaと議論を重ね、メディアを通じて広くインドネシア国内へ周知するための活動も行った。

10月2日早朝、インドネシアのハンセン病回復者団体PerMaTaの代表パウルスさんと副代表のアルカドリさんが我々の宿泊するホテルまで会いに来てくれた。今までハンセン病制圧活動を共にしてきた仲間であり、今回の旅でも行動を共にする心強いパートナーだ。PerMaTaは現在インドネシア国内に4つの支部をもち、今回の旅中に訪れるマルク州アンボン市で5つ目の支部を開設する予定なのだ。ひとしきり再会の喜びを分かち合った後、国民福祉担当調整省でのハンセン病啓発会議に出席するため車でホテルを出発した。ホテルから国民福祉担当調整省までの距離は10キロにも満たないが、車で優に1時間以上もかかる。なぜならジャカルタは世界一とも言われる渋滞都市だからだ。通勤に向かう車、いたるところで乗客を拾うバス(インドネシアにはバス停がなくどこでも乗降可能)、そして道路を縦横無尽に疾走する大量のバイク。国の発展・活気を象徴するかのような熱気に満ちた交通事情を体験し、目的地である国民福祉担当調整省に到着した。

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渋滞が半端ないジャカルタ市内


因みに、調整省という名前は日本では聞きなれない名前だが、インドネシアの行政機構の特徴的な省なのだ。日本では各省庁は独立しており、所謂縦割り行政に陥りがちだが、ここインドネシアは複数の省を統括する調整省がある。国民福祉担当調整省は宗教省、保健省、社会省、文化・初中等教育省、研究開発・高等教育省、村落移民省などを管轄しており、関係省庁の連携が円滑になるよう、その名の通り「調整」している。ハンセン病についてはこの国民福祉担当調整省が主導権をもって、今回はじめての啓発会議を開催してくれた。

シギット国民福祉担当調整省次官は、5年間ハンセン病のクリニックで勤務した経験もあり、ハンセン病への造詣が大変深い。シギット次官から「クスタ(インドネシア語でハンセン病のこと)の問題は病気だけでなく、差別・スティグマが伴います。ですから、保健省だけでなく様々な省庁が協力して解決に当たらなければならない問題であり、調整省の責任者として関係省庁の担当者を集めた啓発会議を企画しました」と説明された。私は長年ハンセン病制圧活動に従事し各国の取組を見てきたが、中央政府の高官レベルで関係省庁が協力して啓発会議を開催した例はあまりなく、このような先進的な取組に興奮を覚え、期待に胸を膨らませて会議に臨んだ。

啓発会議には、国民福祉担当調整省とその管轄にある宗教省、保健省、社会省、文化・初中等教育省、村落移民省、そして別の調整省の管轄下にある内務省、通信・情報省、労働省からの担当官が30名ほど詰めかけていた。冒頭保健省よりインドネシアにおけるハンセン病の現状が説明された。ハンセン病の患者を少しでも多く見つけ治療することの必要性は理解しているものの、担当者にとって患者が増えることは職責から問題になることを恐れるケースもある。そして患者にもハンセン病と診断されることへの恐怖・恥という概念が根強く残っており、なかなか活動が上手くいかないといった現場の切実な本音が共有された。この様子をじっと聞いていたシギット次官は「私は、新しいクスタの患者を発見することに対して恥ではなく名誉を与えたいと思います。新しいクスタの患者を発見することは名誉と考えましょう」と提案した。私はシギット次官の考えに賛意を示し、患者を見つけることは不名誉でも恥でもなく、社会が持っている差別・スティグマという病気も啓蒙することが肝要であること、そして、このような省庁横断型で取組むことの重要性を改めて伝え、次回の会議にも必ず参加することを約束した。

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左からPerMaTaの代表パウルスさん、シギット次官、筆者、副代表のアルカドリさん


その日の夕刻、ジャカルタ・ポストの取材を受けた。記者のアリ・ヘルマワンさんは若くして編集幹事に抜擢された人物で、母親が元ハンセン病患者ということもあり、ハンセン病の正しい知識を広く社会に伝えていくことに大変意欲的な好青年だ。私からは、省庁横断型でハンセン病対策を進めようとしているシギット次官の取組を紹介し、ハンセン病の薬は無料で早期発見・早期治療で完治すること、従って差別をしてはならないと社会を啓蒙し、患者が自ら病院へ通うようになれば、患者をゼロにすることが出来ることを伝えた。アリさんは力強く頷き、引続きメディアの視点から啓発を進めていきたいと話してくれた。
翌日10月3日、ジャカルタから東に約2,500キロに位置するマルク州アンボン市に移動した。飛行機で約4時間かかる距離だ。アンボン市はインドネシア東部最大の都市で人口37万人を擁する。1999年にキリスト教徒とイスラム教徒による「マルク宗教抗争」のため多数の死者が発生し、現在でも対立が完全に収束したわけではないとのことだが、印象として治安はそこまで悪くはない。しかしこの町のハンセン病有病率は2017年の統計によれば1万人に2.49人であり、紛れもなくハンセン病対策が遅れてしまっている地域なのだ。ジャカルタに勝るとも劣らない雑然とした交通渋滞に巻き込まれながら空港からホテルへ移動し、その日は翌日からの活動に備えた。

10月4日早朝、マルク州知事主催の会議に参加するため知事庁舎へ向かった。庁舎に到着すると知事の姿はまだなく、しばらく会議場で待つことにした。少しすると州職員の様子が慌しくなり、程なくして多数の職員に随行されたマルク州知事のサイード・アサガフ氏が会場へと現われた。州職員が会議よりも知事への気遣いに追われている様子に、当地のハンセン病対策がどのようなものになっているのか一抹の不安を感じながら会議に臨んだ。

会議には州の保健局をはじめとする関係部局に加え軍・警察の担当者も合わせて3人ほど参加していたが、各人のテーブルには一枚の書類もなく、今日は何の会議なのか、何故自分たちが参加しているのか十分情報が共有されていない参加者も多数いるようだった。私の長年の経験で、全く形式的な会議であったが、これからも具体的成果が出るまで何遍でも訪問を続けるつもりだ。

午後は、インドネシア国営テレビに出演した。私はここ数年ハンセン病制圧活動で訪れた国では可能な限り現地のテレビ・ラジオ番組に出演することにしている。なぜなら、ハンセン病に関する正しい知識を多くの方に知って頂くには何より現地メディア、特にテレビ・ラジオは発展途上国の経済的に貧しい地方都市でも多くの家庭で所有しており啓蒙活動には有効な手段なのだ。

インドネシア国営テレビ局はアンボン市の小高い岡の上に位置している。局からは美しいバンダ海と雄大なアンボンの自然が調和したなんとも贅沢な景色が広がっていた。番組に出演するのはPerMaTaの代表であるパウルスさん、マルク州疫病対策部長のリタさん、私の3人だ。番組では私が発言している最中にイスラム教のお祈りの時間が始まったとのことで生放送ながら3分間中断が入るといったインドネシアならではの事情も体験しつつ、家族で互いに皮膚をチェックしハンセン病の早期発見・早期治療に務めることの重要さ、そしてハンセン病は神罰でも呪いでも遺伝でも、風邪のように強く伝染する病気でもなく、薬を飲めば治る病気で恐れるものではない、とのメッセージをパウルスさん、リタさんと一緒に伝えた。

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国営テレビの1時間番組に出演


翌10月5日はインドネシアの公共ラジオ放送の朝の番組への出演から始まった。このラジオ番組の特徴は、視聴者からの質問・相談を受け付けその場で答えることにある。我々が気付かないハンセン病に関する素朴な質問から、ハンセン病患者自身からの体調に関する相談まで、視聴者が日々の生活で疑問に思っていてもなかなか知る機会がない生の情報を伝えるからこそ番組への関心も高いようだ。今回の放送では短い時間ながら全部で6つも質問を頂戴した。中には「インドネシアのクスタ制圧にどのように日本が貢献していくのか」といった国際感覚に溢れた質問もあった。日本の活動がインドネシアの人々に期待されていると同時に、期待に応えるよう責任感を新たにした。

アンボン市長との面談と啓発会議については、事前に私の訪問と会議開催が決まっていたのに市長は不在であった。他に緊急の用件が発生したのかも知れないが、率直に言って落胆と同時にこの地域での取組みの不関心を感じた。市長不在の啓発会議が終わりに差しかかった頃、回復者団体PerMaTaの代表であるパウルスさんがおもむろに立ち上がり自己紹介をした上で、ハンセン病回復者は手を挙げて欲しいと会場を見渡した。不安な表情を浮かべつつも、10人程が手を挙げるとパウルスさんは「回復者団体PerMaTaがここアンボン市に支部を開設することについて皆さん賛成ですか」と質問した。挙手した回復者は戸惑うような素振りを見せたが、ハンセン病患者・回復者に対する差別・スティグマがない社会をつくっていくというPerMaTaの使命・役割を熱く語りかけた。初めは雲を掴むような様子で聞いていた回復者も、パウルスさんの真っ直ぐな志に突き動かされたのか、パウルスさんがもう一度PerMaTaのアンボン支部開設の是非を尋ねてみると、みな力強い声で賛成と答えた。パウルスさんは「私はPerMaTaの代表として、ここにPerMaTaのアンボン支部を正式に開設します」と高らかに宣言した。

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PerMaTaのアンボン支部に参加することを表明してくれた回復者の方々と


今回のインドネシア訪問では、省庁の垣根を越えてハンセン病の制圧活動に取組み始めたインドネシア政府、そしてその強力な支えになるであろう回復者組織PerMaTaの成長など多くの希望の萌芽を感じることが出来た。この希望の萌芽が花開くよう、これからもインドネシアを頻繁に訪問し、ハンセン病制圧活動に協力していきたい。

「ハンセン病活動の苦闘」―インドネシアの場合― [2018年11月07日(Wed)]
「ハンセン病活動の苦闘」
―インドネシアの場合―


40年間世界中を飛び回り、ハンセン病制圧活動に従事してきた。各国での活動の苦闘は枚挙にいとわないが、現在世界の患者の7割はインド、ブラジル、インドネシアに存在する。

インドの国父・マハトマ・ガンジーの夢であったハンセン病のないインドを築くため、来年1月はガンジーの生誕150年でもあり、モディ首相のリーダーシップもあって積極的に対応してくれている。

ブラジルは、オリンピック以降政変が続き、また大統領選挙目前でもあり、新政権の安定する来年5月までの活動は無理である。

問題はインドネシアである。13,000を越える世界最大の多島国家で、人口は約2億5000万人を擁する。地方分権が進んでおり、地理的条件もあって中央政府の政策が各州に正確に確実に浸透している状況にはない。そこで、ハンセ病対策のため直接各州を訪問し、州知事をはじめ各県知事にも直接この地域のハンセン病事情を説明し、協力を願う活動が必要となってくる。

今年の3月にはスラウェシ島で活動したが、9月に起きた大地震で、豊かな自然に囲まれた美しい島の広い地域で大きな被害を受け変わり果てた姿をメディアで目にし、犠牲者とインドネシア国民の皆様に深い哀悼の意を表したい。

今年10月1日〜6日まで、ジャカルタから東に約2500キロのマルク州アンボン市で活動を展開した。

マルク州知事主催のハンセン病制圧会議は、サイード・アサガフ知事の到着が大幅に遅れた上、州保健局をはじめ関係部局の他、何故か、軍、警察も出席し、計30名ほどであった。しかし、各人のテーブルには一枚の書類もなく、今日は何の会議なのか、何故自分達が参加しているのかも十分情報が共有されておらず、全く形式的な会議であったことは一目瞭然であった。アンボン市長とのハンセン病啓発会議も、事前に私の訪問と会議開催が決まっていたのに主役の市長は欠席であった。

何事も原因のない結果はない。マルク州にハンセン病患者が多いのは指導者の無関心によるものである。かつてアフリカのモザンビークもこのような状態にあったが、5年間に4回訪問し、結果的に大統領がハンセン病制圧の最高責任者となり制圧した経験がある。必ずや近い将来、無関心な彼らが積極的に活動するよう何回でも訪問するつもりである。

しかし、今回の訪問は悪いことばかりではなかった。

インドネシア政府には各省庁の縦割行政を排除するため、複数の省を統括する調整省がある。国民福祉担当調整省は宗教省、保健省、社会省、文化・初中等教育省、研究開発・高等教育省、村落移民省などを管轄しており、関係省庁の連携が円滑になるよう調整している。

この度、はじめてハンセン病についてこの国民福祉担当調整省が主導権をもってハンセン病啓発会議を開催してくれた。国民福祉担当調整省のシギット次官は5年間、ハンセン病クリニックで勤務した経験もあり、「ハンセン病は病気だけでなく差別・スティグマを伴う。だから様々な省庁が協力して解決する必要があり、単に保健省の問題だけではない」と強調され、私の考えを代弁してくれた。

このような関係省庁の合同会議は私の経験の中でもはじめてのことで、シギット調整省次官を説得・協力してもらうことがインドネシアでのハンセン病解決への中心人物になると直感した。少し明るい燭光に、筆者の期待は膨らんでいる。

もう一つの明るいニュースは、テレビやラジオに出演してハンセン病の正しい知識を説明して視聴者の質問に答える方法を、笹川記念保健協力財団の南里常務が考えてくれたことである。形式的な会議より、直接電波を通じて住民に説明することの方がはるかに効果の高いことは筆者が実感しているとこである。テレビ生出演中にイスラムのお祈りで3分間中断したことは、ご愛敬というより、インドネシアのイスラム信仰の強さを理解する場面でもあった。

インドネシアは勿論、西パプア、北マルク、パプア等、まだまだ現地活動の必要な地域は多くあるが、ハンセン病制圧には私の信条である「あふれる情熱、どんな困難にも耐える忍耐力、そして、成果が出るまで活動する継続性」こそ必要不可欠であることは言うまでもない。
「ハンセン病制圧活動記」その46―インド訪問記「写真を通じてハンセン病に対する理解を」― [2018年10月10日(Wed)]
「ハンセン病制圧活動記」その46
―インド訪問記「写真を通じてハンセン病に対する理解を」―


栗生楽泉園機関誌『高原』
2018年7・8月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平


今年4月、私はインドの首都デリーを訪問した。18日の夕方日本をたち、翌日朝からいくつかの用件を済ませ、そのまま深夜便で帰国するという1泊2日の慌ただしいインド往復であった。

到着日の19日午前中、インド保健家族福祉省でハンセン病担当官のアニル・クマール氏との面談で、インド政府が2年前から実施している「ハンセン病患者発見キャンペーン(LCDC)」により多くの患者が発見されていることに敬意を表した。制圧が達成された途端、患者が増えることを恐れて発見の活動を怠ることを私は「エリミネーション・トラウマ」と呼んでいるが、インドはこのトラウマにも負けず、一生懸命に患者を探し、ハンセン病のない国の実現に向けて本気で取り組んでいる。彼らの勇気と熱意に大いに期待したい。

その後、笹川インドハンセン病財団理事との打ち合わせや子どもの権利活動家として2014年にノーベル平和賞を受賞したカイラシュ・サティヤルティ氏と面談。

夕刻から今回の主な目的である富永夏子の写真展『OUR LIVES』のオープニングセレモニーに出席した。富永は私と共に世界中をまわり、ハンセン病の患者・回復者、その家族の写真を撮り続けている日本財団職員の写真家である。

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写真展会場の様子


写真展はデリー中心地にある格式高いインディア・インターナショナル・センターで4月20日から5月1日までの12日間開催された。インドおよび世界のハンセン病患者、回復者、家族の生活の様子が彼らの声と共に伝わるように100枚の写真が展示されていた。

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オープニングで挨拶をさせていただく


オープニングセレモニーにはインドでハンセン病問題に取り組んでいる政府、WHO、NGOなどの関係者、メディア、回復者の他、在インド日本大使館の全面的な協力を得て日系企業からも多数参加して下さった。私は今回の集まりをきっかけに日系企業の方々にインドの国民的課題であるハンセン病の実態と日本財団の取り組みを知っていただき、将来的には彼らの協力も得たいものと淡い期待もしている。

また、オープニングでは写真のモデルの一人であるマディア・プラデッシュ州のアニータさんが彼女のつらい人生経験を語ってくれた。

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写真展に駆けつけてくれたアニータさん(自身の写真の前で)


この写真展は多数のメディアが取り上げてくれ、多くの人にハンセン病の問題を伝えることができたのは望外のことで、世界の約20万人の新規患者のうち6割がインドで発見されていることを考えると、インドでのこの写真展は、一般の人々にハンセン病のことを知ってもらう機会を提供することができ、成功だったと思う。

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インド国内の多くの新聞に写真展について報道された(写真は富永夏子)


インド独立の父、マハトマ・ガンジーは当時社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えたいと願った。来年はそのガンジーの生誕150周年の年だ。それまでにインドのハンセン病問題の解決で画期的成果が出るようこれまで以上に、全力で活動に取り組んでいきたいと思う。

「インド訪問記」―写真を通じてハンセン病に対する理解を― [2018年05月18日(Fri)]
「インド訪問記」
―写真を通じてハンセン病に対する理解を―


今年4月、インドの首都デリーを訪問した。18日の夕方に日本を発ち、翌日朝からいくつかの用件を済ませ、そのまま深夜便で帰国するという1泊2日の慌ただしいインド往復であった。

到着日の19日午前中、インド保健家族福祉省でハンセン病担当官のアニル・クマール氏と面談。インド政府が2年前から実施している「ハンセン病患者発見キャンペーン(LCDC)」により多くの患者が発見されていることに敬意を表した。制圧が達成された途端、患者が増えることを恐れて発見の活動を怠ることを私は「エリミネーション・トラウマ」と呼んでいるが、インドはこのトラウマにも負けず、一生懸命患者を探し、ハンセン病のない国の実現に向けて本気で取り組んでいる。彼らの勇気と熱意に大いに期待したい。

その後、笹川インドハンセン病財団理事との打ち合わせや子どもの権利活動家として2014年にノーベル平和賞を受賞したカイラシュ・サティヤルティ氏と面談。

夕刻から今回の主な目的である富永夏子の写真展『OUR LIVES』のオープニングセレモニーに出席した。富永は私と共に世界中をまわり、ハンセン病の患者・回復者、その家族の写真を撮り続けている日本財団職員の写真家である。

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写真を通して多くのメッセージを受け取ってほしい


写真展はデリー中心地にある格式高いインディア・インターナショナル・センターで4月20日から5月1日までの12日間開催され、インド及び世界のハンセン病患者、回復者、家族の生活の様子が彼らの声と共に伝わるように100枚の写真が展示された。

オープニングセレモニーにはインドでハンセン病問題に取り組んでいる政府、WHO、NGOなどの関係者、メディア、回復者の他、在インド日本大使館の全面的な協力を得て日系企業からも多数参加して下さった。私は今回の集まりをきっかけに、日系企業の方々にインドの国民的課題であるハンセン病の実態と日本財団の取り組みを知っていただき、将来的には彼らの協力も得たいものと淡い期待をしている。

また、オープニングでは写真のモデルの一人であるマディア・プラデッシュ州のアニータさんが、彼女自身のつらい経験を語ってくれた。

この写真展は多数のメディアが取り上げてくれ、多くの人にハンセン病の問題を伝えることができたのは望外のことで、世界の約20万人の新規患者のうち6割がインドで発見されていることを考えると、インドでのこの写真展は、一般の人々にハンセン病のことを知ってもらう良い機会を提供することができ、成功だったと思う。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーは、当時、社会の最下層に置かれていたハンセン病の患者の境遇を変えたいと強く願っていた。来年はガンジーの生誕150周年の年で、それまでにインドのハンセン病問題の解決に向けて画期的成果が出るよう、これまで以上に全力で取り組んでいきたいと思う。

「ハンセン病制圧活動記」その45―アゼルバイジャン共和国のハンセン病療養所を10年ぶりに訪ねて― [2018年04月23日(Mon)]
「ハンセン病制圧活動記」その45
―アゼルバイジャン共和国のハンセン病療養所を10年ぶりに訪ねて―

多摩全生園機関誌『多摩』
2018年2月号

WHOハンセン病制圧特別大使
笹川陽平

2017年10月にアゼルバイジャン共和国(以下アゼルバイジャン)を10年ぶりに訪問する機会を得た。今回の同国訪問の目的は、@南コーカサス地域(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの3国)に唯一あるハンセン病療養所の再訪、A日本の図書100冊事業の寄贈式、B中央アジア奨学金事業のアゼルバイジャン奨学生の同窓会出席であった。後者2つの日本財団事業については割愛し、療養所訪問について詳しく記したいと思う。

アゼルバイジャンはロシア、ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接し、様々な言語・文化・宗教が複雑に入り混じる地域に位置する。面積は日本の約4分の1。人口は約1,000万人(2017年現在)で、90%以上がイスラム教徒である。近年カスピ海で新たな油田が発見され好景気に沸いたが、現地の人たちによると原油価格下落の煽りを受けて一時期の勢いは失われつつあるという。ただ、首都バクーの幹線道路沿いに鬱蒼と立ち並ぶ高層ビル群は10年前には存在していなかった。カスピ海の水辺に広がる高層ビル群と周辺の乾いた岩山のコントラストは、さながら現代のオアシスを思い起こさせる。街には高級車が行き交い、有名ブランド店が軒を連ねる目抜き通りを着飾った女性たちが歩く様子は、パリかロンドンと錯覚してしまうほどである。

こうして国が発展する中、10年前に訪れたウンバキ療養所の元患者たちはどうしているのだろうか。療養所には30人ほどが入所していて、中庭のようなところで大きなケーキをご馳走になったことを覚えている。10年経ったいまはどうなっているのだろうか。私は当時撮った写真を携え、首都バクーから南西約80キロ離れたゴビスタン砂漠の中にある療養所へ向かった。ビルや住宅が並ぶカスピ海沿いの幹線道路を離れると景色は一変した。樹木1本生えていない荒涼とした大地が地平線まで続いていた。道路は依然、舗装はされていないものの10年前の干上がった川底のようなデコボコの道ではなく、平らにならされていた。

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砂漠の中の一本道を走り続ける


砂埃をあげながら疾走する車の外に広がる青空の下の地平線を眺めながら、10年前にも感じていたことを思い出していた。世界中のハンセン病施設の多くが社会からの「排除」を目的としているため、人里離れたところに建てられている。この地も例外ではない。これから訪ねるウンバキ療養所は、もともと南コーカサス地域で唯一のハンセン病施設として1926年に首都バクー(当時はソビエト連邦)に開設され、その後数回場所を変えて1957年にこの砂漠の中に移された。当初は300人近い患者が入居していたという。(2時間近く)砂漠の中を移動すると見覚えのある鉄製の門が見えてきた。砂漠の中にぽつんと建てられた療養所の入り口である。幅4メートルほどの門は前回来た時は塗装が剥げていて何色かわからなかったが、いまは青色に塗り直されていた。

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ウンバキ療養所の門の前で
一歩出れば砂漠が拡がる


門を入ったところで車を降りると10年前と同じ顔が私を迎え入れてくれた。療養所のアリエヴ院長である。早速10年前の写真を見せて、この方々はいらっしゃいますか、会いにやってきましたと伝える。すると、アリエヴ院長は写真を全てめくり終えると「この中の多くの方が亡くなりました」と教えてくれた。前回私が訪問した時、30人だった入居者は15人(女10男5)となり、ほとんどの方が80歳〜90歳になっていた。10年という月日を感じられずにはいられなかった。しかし、写真の中の何人かの方々は今もいらっしゃると聞き、早速会いにいくことにした。
            
まず、サヤラさんの部屋を訪ねた。木造の部屋の壁は綺麗な青色で塗られていた。ふかふかの絨毯にベッドが2つ置かれ、暖房が入っていて部屋の中はほんのり暖かかった。10年前の写真に写るサヤラさんは白衣を着ていたので私は看護師だと思っていたが、改めて話を聞くとハンセン病になって1969年に入所し、病気が治ったあとは施設内で暮らしながら介護などの仕事をしているとのことだった。10年ぶりに写真を一緒に撮りましょうと言うと「インターネットに私の写真が出ると親戚に迷惑がかかるので、やめてほしい」と断られた。私は、今なお偏見や差別に怯えながら生きる元患者がいることを思い知らされ、やるせない気持ちになった。しかし、サヤラさんからは「日本から来訪者が来ると聞いて、あなたが来ると思っていました。10年ぶりに会えて懐かしい」とうれしい言葉をかけてもらい、逆に励まされてしまった。

次に、庭で寛ぐセードバーニュさんを訪ねた。手渡した10年前の写真を懐かしそうに眺めながらご自身の話を少しだけ聞かせてくれた。出身はイランに近いランカランという地域で、14歳の時に入所して以来ずっとここに住んでいるという。家族とは連絡をとり続けているという。なぜ家族の元に戻れないのか、理由が想像できるだけに聞くことはできなかった。

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懐かしそうに10年前の写真を眺めるセードバーニュさん


その他にも亡き妻を写真の中に見つけ、懐かしさで涙ぐむ男性や、「娘に孫が生まれて顔を見せに来てくれた」と顔をほころばせる女性にも会うことができた。私にはここに住む全ての方々が、残された時間を穏やかに過ごすことができるよう心から願うことしかできなかった。

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お孫さんが会いに来てくれたと、嬉しそうに話す女性


かつてはアルメニア、ジョージア、タジキスタンからの患者もいたが、90年以降に帰国したとのことである。ふと、2012年にロシアのアストラハン・ハンセン病療養所を訪問した時にアゼルバイジャンから来たという男性に会ったことを思い出した。男性は25年間そこに住んでいると話していたので、その前はもしかしたらこの療養所にいたこともあったのかもしれない。

入所者の方々との再会を果たして施設内を歩いているとアリエヴ院長が、生い茂る木々を指差しながら「周りは砂漠だが、入所者たちが土を集めて果実を植えたので、ここは緑豊かです。ここはオアシスなのです」と誇らしげに話していた。家族や社会から「隔離」された人々が肩を寄せ合うようにひっそりと暮らす砂漠の中の療養所。「オアシス」と呼ぶには、あまりにも寂しい場所ではないだろうか。

現在、アゼルバイジャンではハンセン病の新規患者はほとんどいない。ロシアや中央アジアの療養所もそうだが、入居者は徐々に減り、やがていなくなるのは時間の問題である。ここも10年後には閉鎖されているかもしれない。たとえそうなっても、差別と排除の中で生きてきた人々がいるということを我々は忘れてはならない、と強く感じた再訪であった。

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療養所の中には緑が茂る
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