「フジモリ元大統領」―彼との思い出 その1― [2024年09月27日(Fri)]
「フジモリ元大統領」 ―彼との思い出 その1― アルベルト・フジモリ・ペルー元大統領が9月11日、86歳で逝去されたと長女のケイコ氏がX(旧Twitter)で明らかにしたと、各メディアは大きく報道した。残念至極だがご冥福を祈るばかりです。 ペルーではフジモリ大統領就任前は左翼ゲリラが跋扈(ばっこ)し、無差別テロが頻繁に発生、約2万5000人が犠牲になったとも言われていた。その上物価上昇も激しく、経済の立て直し、学校や道路などの社会資本を整備する必要が急務と言われる中での大統領就任であった。彼は24時間体制で、時には強権を発動し、短期間にこれら難問のほとんどを解決し、落ち着いた社会を実現した。 大学学長を勤めた経験もあり、教育の重要性をよく認識されており「ササカワさん、学校建設に協力してほしい」との要望もあり、1993年から5年間で50校(総額17億円)の建設に協力した。ペルーを訪れた折には「ササカワさん、学校を見てください」と護衛もなしにベンツの助手席に私を載せて自ら運転して、リマ市内の貧困地域に建設した学校を見せてくれた。「この地域は全く危険な場所でしたが、今は安全です。過激ゲリラでも学校だけは襲わないものですね」と話されたのが印象的であった。ある時は、ヘリコプターでアンデス山中の貧村を廻り、長い列をなした農民一人一人に古着を配布する活動に参加したことも、あの風景と共に懐かしい出となった。 2000年11月のことであった。ブルネイでの国際会議出席後、日本に立ち寄るのでホテル・オータニで夕食をしたいと、珍しく突然場所と時刻を指定する連絡が入った。大統領の来日で夕食に何人出席されるかわからないので、オータニの庭の見える1階の少し広い部屋を予約、当方は曾野綾子会長と尾形常務理事(当時)、それに私の3人でお待ちしていたところ、15分程遅れて大統領が入ってこられた。大統領と駐日ペルー大使のアリトミ氏の二人で、ボディーガードがおらず、いつも陽気でニコニコ笑顔の大統領は口数も少なく、食事がはじまると庭の見えるカーテンを閉めてくれとのことで、何かおかしいなとは感じたが、会話の少ない食後、「ササカワさん一人で私の部屋に来てください」と私の手を引くように13階の少し広目の部屋に案内された。大統領、アリトミ大使と私の三人がソファに座った。少しの沈黙の後、大統領は私の目を見ながら沈痛な面持ちで「ササカワさん、私、日本に長くいたいのです」と切り出した。 「大統領、それは日本に亡命するということですか」と尋ねたところ、大統領は「亡命」という意味が分からず、アリトミ大使の説明で理解したうえで頷き、「お金もないのでこのホテルから早く出たいのです」とこぼした。私は「このホテルは保安上も安全なのでしばらく滞在してください。私は明日から三日間カンボジアに出張ですので、帰国次第対策を考えましょう。私の留守中何かありましたら、曾野綾子会長に連絡して下さい。明朝出張に行く前に参ります」とお伝えしたところ、不安そうな二人に送られて退室した。 翌朝6時、田園調布の曾野邸にはいり、事情説明の上、ご理解を得て、ホテル・オータニへ。大統領の部屋に入ると隅にアリトミ大使がしょぼんと座っており、二人の朝食となったが、大統領はオレンジジュースを飲んだだけで、オムレツもパンも食べなかった。「大統領、ここは安全ですから私が帰国するまで動かないでください。私の留守中に何かありましたら曾野会長に連絡して下さい。ここに来る前に曾野会長の了解を得てきましたので、万一の場合はここに電話してください」と電話番号を渡した。安心してカンボジアに出発、二日目にジャングルの中で電話が鳴り、曾野邸に移動したと本人からの報告があった。 話は変わるが、フジモリ大統領の亡命には心ある方々からの協力があった。末次一郎氏からは3ヶ月のハイヤー提供、石原慎太郎氏からは事務所の提供があり、後日談だが「陽平さん、久しぶりに事務所に行ったら、フジモリさん、まるで自分の事務所のように振舞っていたよ。ラテンは明るくていいね」と半ば呆れたように笑われた。ある有名な料亭の女主人は面識もないのに正月の「おせち」料理を届けてくれた。 3ヶ月半の曾野邸の居候からマンションの提供者が現れ、そちらに移られたが、生活費に困っている実情を知った心ある人から1千万円のご寄付があった。「ササカワさん、これで当分生活の心配がなくなった。日本人はやさしい方々が多いですね。でも僕には銀行口座がないので預かってください」と札束を渡された。私も保管場所に困るので銀行の貸金庫を借りたところ、多い時には月に3度は銀行の貸金庫にお連れしなければならなかった。ペルーでは、フジモリ氏が大金をスイスに預金しており、不正の金だとメディアは連日大騒ぎであったが、私の知るところ、清廉潔白であることは成田への家族の出迎えに電車で行っていたことからもわかる。 そのうち「ササカワさん、僕結婚したいのでどなたか紹介してほしい」と予想外の要望で「どんな方がご所望ですか」と聞いたところ「英語が出来て若い人がいい」とおっしゃった。還暦を超えてもやはり若い女性がいいとは、いずこの男性も同じだなぁと思ったものである。友人、知人に連絡し、どうにか5通ほどの釣書が集まり、1人の方と私の自宅でお見合いとなり、大統領はあれこれ饒舌でしたが、彼女は物静かであり会話にならず、お見合いは不成立に終わった。 以下次号。 |