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「アウン・サン・スー・チーのお宝」―日本刀― [2020年02月26日(Wed)]
「アウン・サン・スー・チーのお宝」
―日本刀―


近年は「刀剣ブーム」だそうで、刀剣の産地である岡山県瀬戸内市は、戦国武将・上杉謙信の国宝「太刀 無銘一文字(山鳥毛:さんちょうもう」を所有者から5億円で購入するため「ふるさと納税」などで寄付を募ったところ、約8億4000万円も集まり、無事購入と展示の整備費にも使用するという。

個人が所有する文化財も、「ふるさと納税」の新しい利用法でゆかりのある地方自治体が管理できるようになったことは大いに評価すべきことで、瀬戸内市の努力に敬意をはらいたいと思う。
(以上、2月18日付、毎日新聞を参考にしました。)

ところで、ミャンマー国家最高顧問のアウン・サン・スー・チー女史から日本財団に、日本刀を保有しているが錆(さび)が出ているので修復して欲しいとの依頼を受けた。多少刀剣に知識のある日本財団ミャンマー事務所長兼務の森祐次常務理事が調べたところ、この刀にはストーリーがあり、以下のことが判明した。

朝日新聞社社長・村山長挙(ながたか)が、1941年、飯田祥二郎・陸軍中将が第15軍(ビルマ方面担当)司令官として就任する際に祝品として提供したもので、作者は後に刀匠として初めて人間国宝になり、皇太子明仁親王ご成婚に際しては、皇太子妃美智子様の守り刀も鍛えておられている、号は龍王子源貞次、本名・高橋貞次氏の作である。

この飯田中将の後任が、有名な悲劇の死の行軍となったインパ−ル作戦を指揮した牟田口康也中将である。

この刀が飯田祥二郎中将よりスー・チー女史の父・アウンサン将軍に渡された経過は不明だが、飯田中将は後にミャンマー独立のために活躍した南機関の鈴木大佐の理解者でもあったので、アウンサン将軍にミャンマー独立のために働けと激励の上、自らの由緒ある名刀を寄贈したのではないかと推察される。

日本財団は、ミャンマー国軍にシビリアンコントロールの大切さを理解してもらうため、毎年、幹部を日本に招聘しているが、彼等は必ず浜松にある鈴木大佐(死後少将に昇任)の墓参に行かれており、ミャンマー国軍には今でも53もの日本軍歌が歌われているというアジア最高の親日国でもある。

刀を砥ぎ、美しい名刀として再度、スー・チー家の宝として保存されるように協力するつもりである。

刀剣.jpg
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(2)
 他の国にも有ると思います。アルジェリア生まれの実存主義のフランス人(サルトルと喧嘩別れした)アルベール・カミュ〔仏・作家〕で、早めにノーベルを受賞しが事故死した。
彼は言う「哲学の重要な課題はたった一つ自殺の問題である」と、反対に言うと「自分の生が、生きることが生きるに値しなければ、人間は自分から死ぬしか無い」のだと、そういう事を堂々と云って除けている。
人間に意識という物が産まれた塗炭に、自分の生を見るもう一人の自分の意識、これがどうも生きるに値しないとなったら、詰まり哲学の大問題は自殺しかないのだと。
此れは自殺しろと言っているのではなく、逆に言うとガリレオは本当は地動説を唱えていたのに、カソリックから睨まれて「判りました」天動説にしますと言ったのですが其れを肯定してかかる。
恐らくガリレオは天文学者としての自分の生は、もっともつと宇宙の秘密を解き明かしたい、自分の生に意味があると思ったから、其処で生き延びるべく嘘を付いてこれで良いのだと。

 要するに自分の生に自分で意味を見出せるかどうか、その事は決定的に大事なのだと、外国でも広色々と言っていますし、又昔でも沢山あります。日本人は決して特殊でも何でもなくて、哀れを知る特殊な民族というのじゃなくて、だって世界には色々有るのです。
アメリカ・ネイティブ・インディアンの『ミネトンカの湖畔にて』は、スー族で歌い継がれてきたものでスー族のロミオとジュリエットです。
スー族の内部のある部族と部族が敵対していて、こちらのプリンスと彼方のプリンセスが恋愛関係となるがそれは禁じられている。
それで最後に二人でミネトンカ湖に投身自殺する、これをアメリカ・インディアンの活字もない連中達は、歌でその恋愛の悲劇を語る。
それは恐らく紀元前数千年前の話でしょうけれども、そういう事は人類に普遍的にあるのだと思うのです。

 それを踏まえて宣長のことを一寸やると、宣長にはもう一つ「賢しら」批判というのが有り、人間は弱く愚かであり、それを何か自己弁護や自己正当化するのは「賢しら」であると、説明主義じゃ駄目だよと、じゃあどうすれば良いのかと、ここから不思議なことにニヒリズムと実存の問題を抱えた宣長が明るくなるのです。それでどうなるかというと、神々の計らいに素直に従いなさいとなる。
小林秀雄が大東亜戦争の後の知識人の反省会で、一言バーンと言ったのは、「僕は無知だから反省などしない、頭の良い奴はトンと反省すればいいじゃないか」と、戦後知識人による大東亜戦争の反省を批判した。
戦争が終わって知識人が集まって知識人の反省会、「何故こんな大東亜戦争のような無謀な事をやったか」と、つい昨日まで「日本軍頑張れ」八紘一宇とか言っていた知識人がである。

 だから小林秀雄の話もそうですが、僕たちは人生を生きている限り、勝ち続ける事ってまず無いのです。
それを政治の現場に置きすれば、政治というのは結局は敵と味方になり、こちら側が主張を通す、あちら側が主張を通すのだと。
結局これも思うようにいかない、実は私達はだから政治的な事ばかりにある種目が行きがちだし(一方で目が行くことは大切ですが)、だけれどもそれに先んじて、もっと言うと政治には還元できない物をどっかしら必ず持っていると。
此れが何と言うか、合理的な或いは政治的な物に先んじた場所としての、共感とか或いは感情、同情であり、結局それは政治に先んじて何故か気持ちが通じてしまう共同体が有るという事です。此れが有れば先程の「本居宣長は明るくなった」と、これは大切なことです。
やはり人生に負けると、政治に負けると、普通はニヒリズムになります、だけれどもそこの共感さえあれば、人は明るく生きれるのだというのが良い話です。

 深いニヒリズムに陥った宣長が、思想家ですからどうやってニヒリズムを克服するか、という風に考えたと思います。
それで「賢しら批判」というのが出て来ました、「賢しら批判」を通じて何をしたかというと、神道ですから不可思議なものを受け取る感性をドライにしちゃ駄目なのだと、ドライにしないためには歌を詠むことだと宣長はいうのです。
其処からドライから抜け出すと、それによっておおらかな神を讃えたり、それを不思議がる心、それが大切だと。
先の歌を見て分るように、あまり暗くない。
「人の哀れなる事をみては、自分も哀れと思う」と、共感の事を書いています。
「人のよろこぶをききて共によろこぶ」、よろこぶという言葉が出て来る、ニヒリズムに陥った人の書く言葉ではないのです。
「是すなわち人情であって、物の哀れなのだ」と、こういう事で一つのニヒリズムをどう克服するかというのは(今でも解けない問題ですが)、宣長はある種の一つの道筋を、近世の時代に我が国の思想家が打出したというのは、私は相当の事だと思うのです。

 喜怒哀楽と簡単に言うでしょう、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、勿論この四つ共大切ですが、その中で何が最も重いか根源的かと言うと、やはり三番目の哀、哀しみである。結論しか言わないが、怒りは一瞬の怒りで、喜びも楽しみも長くは続かない、喜びだって、お爺ちゃんの喜んだ気持ちなんて、孫は聞きたくないし、楽しんだ事も聞きたくない。
でもお爺ちゃんが或る時、どんなに哀しかったかという話は孫もじっと耳を傾けるのです。
人情と簡単に言うのですが、【情】りっしんべんだから心でしょう、青というのは新鮮という意味で、心の最も新鮮な状態を情というのです。
だから中国の漢語も中々の物であって、そういう事がこの短い文章の中に、しかも【哀】=口+衣という字は、能々見ればなべぶただけれども口に衣がくっ付いており、口が衣を着ている訳です。
恐らく口から色んな楽しみも喜びも色々出て来るけれとも、最も立派な衣を着た口というのは、やはり哀じゃないのかなと思うのです。
漢人はこういう事が分っていてこういう漢字を作ったのならば、凄い奴等だという事です。

 この話から思いだすのは、私が第二次世界大戦に目を向け始めたのは、祖父の体験を語ってくれたことで、最後に死ぬ分かった時に縁側で語ってくれた事から矢張り、じゃあそれは何だったのだろうというのは、歴史感覚がまず其処に出ます。
要するに人は勝ち続ける事は出来ないし必ず死ぬ、それじゃ私は何処から来たのかという、その感覚と繋がって来るのです。
ですから「哀れ」は共感であり社会性を生む、自分でしみじみと思うだけじゃなくて、誰かと繋がっているという共感なのです。
それが歴史と繋がって行く、死者と繋がって行く、自分でない色々な物と繋がって、それが社会性を生むと、それがわりと日本人の凄く良い所だと思うので、海外の人は学んで欲しく、テロなどやっている場合じゃないぞと、殺した人間にはどんなに哀しむのか、よく考えて見ろと言いたいです。

 日本人は一つの日本列島という、お蔭で太平洋もあるし日本海も結構広いですから、色々な物が流れ込んで来たのだけれども、直接流れ込んで来ないでしょう。日本列島というのは海外の影響もあるけれども、一つの自律したコスモスというか宇宙といえば言い過ぎですが、ある程度autonomous自律した世界をつくっていたから、その中で色んな思考だけでなく行動の実行というか、ああもやるこうもやる、これとあれがぶつかればこうなる、という事を試してきたそういう民族です。
ですから別に、日本人は優れているとか何かじゃなくて、色んな立地条件の有利さも有ったのでしょうが、非常にautonomous自律的な精神の運動で、ありうべき可能性を実験的に示して、その内の一つがこういう平家物語や源氏物語の解釈という形で出ている。
思想家で何が良いかなと、勿論知的な面は重要だと思いますが、それと同時に行間で大体判るのですが、情と情が温かく触れあっている事が重要であると、これが行間に出ているのでそういう人に何となく惹かれます。
それが小林秀雄であり、福田恆存であり、唐木順三もそうだし、大体保守的な人なのです。知的な物以外に、ロジカルな物以外に、情が凄く大事だという事を織り込んで、物を書いたり社会や歴史を見たりするのが大切なのです。

 其処で物とは何ぞやという事に戻るのですが、全ての物は物なのだけれども、やはり結局のところ物とされてしまった物、俺は平家で、お前は源氏だとか、お前は総理大臣で、俺はドン百姓とか、何かそういう宿命・運命という物(そういう物から逃れようと努力するけれども)、結局そういう物として、しかも有限の50年だ、70年だの人生で死んで行くのです。
1000年の寿命があれば物は無限に変化しますが、やはり人間の生涯という生があって死があるという、有限の時間の中で、やはり物としてしか始まろう得ないし、物としてしか終わらざろう得ないという、そういう運命という物を感じる力、これは日本人だけではないけども、この自律したコスモスの中で随分と鍛錬されたのですが、然るにグローバリズムのせいで皆な忘れてしまったという所です。
Posted by: 高橋秀夫  at 2020年03月01日(Sun) 15:53

敗北の美学「平家物語」と本居宣長「もののあはれ」 ―グローバリズムによって日本人が忘れてしまったもの(1)

何かあると日本人は皆な同じ方向に走り出す。
戦争が終わり皆がアメリカ様詰まり強い力の方向に走り出す。
待てよ、待てよと、其れまで日本人が持っていた価値観はどうしたのですか?
大蔵省は日本政府とGHQとの間の全ての連絡調整を通じて莫大な利益を手に入れる。メディアはGHQの宣伝機関として情報伝達の権限を手に入れる。文部省は戦争前の強力で崇高な価値を抹殺するためにGHQの手先となって、日本の骨格となつていた人材や書物を抹殺し、占領政策遂行に役立つ人材の登用と育成で厖大な権益を獲得する。
内務省を潰し、その代わりをしたのが大蔵省である。
つまり今の日本はGHQの占領政策で植え付けられた価値観から一歩も出る事が出来ていない。
 
 平家の没落をあれほど美しく書いた日本人が、なぜ?大東亜戦争について、書かないのか、書けないのか。
無常観によって滅びを捉えた「平家物語」を読み直し、動かし難い宿命的なものに翻弄された日本人たちが生きた時代を顧みる。
個人の力では抗いようのない「運命」「有為転変」「大自然」「恋」といった「もののあはれ」をめぐり、本居宣長が抱えていたニヒリズムや実存の問題について、どのように乗り超えてきたか議論する。

平家物語は平安の末期平家の没落、それで鎌倉時代が始まるのですが、それから源氏物語は十一世紀平安の中期で、只源氏物語に付いて論じられたのはその後なのです。ここで取上げているのは論としての日本人論で、その中で最も感動したのは平家物語で自分一人で朗々と何十ページも朗読できるし暗唱もできて素晴らしい。
 日本在住のロマノ・ヴルピッタ[外交官・学者]は言う、「平家の没落に付いてあれだけ今の美しい物語を書くことが出来た日本人が、何で今度の大東亜戦争の敗北について、美しい物語を書く事が出来ないのか、しないのか」、何か異様な精神の屈折なり腐敗なりがこの度起こったのか。この度たって70数年前に起ったのではないかと、ヴルピッタ氏の事を出さなくても、本当に日本人はそういう没落し行くものの哀れ、これは単に哀しみではないのです。昔は生きざまなんて事は殆ど無くて、死にざまですけれども、彼等の死にざまにみられる人間性の本質のような物に付いて、非常に深く洞察する力が日本人にはあった。
しかも此れは琵琶法師が琵琶を奏でながら、その辺りの街角でやっているのです。

 本当に私も平家物語を最初に読んだ時に感動し、それで何処に感動したかというと、何故戦うかという理念がないのです。
普通やはり「戦い物」というのは戦う訳ですから、自由民主主義、革命のため、労働者を解放するために戦うとか、それが全く無くて「動かし難い運命に翻弄される『もののあはれ』という」(戦後日本における解釈)ものに重点を置いた、此処に感動したと思います。
 それで戦後に何故大東亜戦争の敗北からして、文芸が生まれないのかというのは、結局「あはれ」というのは、戦後の人というのは何だか分からなかったと思います。小林秀雄が現代人は昔の生女房ほど「無常」が分からないのだと、それと同じようにやはり「あはれ」は分からなくなったというのが戦後の事情で、だから故に「あはれ」の文学として平家物語を読み直して行って、日本人がどうやってその無常観によって、滅びを捉えたかというのを、今一回学び直すというか、捉え直す方が大事と考え、其処から始めなきゃいけない感じがします。

 戦後の日本人というのは敗戦を経て、結構道徳的な感情に囚われた。
詰まり、平和にならなきゃいけないとか、アメリカに追いつかなきゃいけないとか、個人主義をもっとこう徹底しなきゃいけないとか、これにならなければならない、だからべき論です。
べき論というのは、「もののあはれ」を語った本居宣長によれば、「あはれ」から無限に遠くそれを”からごころ”と言った訳です。
だから宣長の道徳観は凄く不思議で、善悪の道徳性より手前で自然に思うことを良しとし、自然に思えない物、無理矢理に思うこと悪し、というのかそこに善悪の基準を置くのです。
そう思うと先程の平家物語というのは、政治的な闘争、それは政治ですから、矢張り前に向かって進む訳ですから、こう成りたいとかそういう物が有るでしょう。でもそれが通して70年間の、大体平家の栄枯盛衰を書くのですが、その中で”べき論”では絶対捉えられないような「哀しみや運命」それが描かれた時に、自然とこちらに当に「あはれ」だと、ああはれなんだという感覚が出て来るのです。

今回は「もののあはれ」がキーワードだと思うので、
宣長云く
人の哀れなる事を
みては哀れと思い
人のよろこぶをききて
共によろこぶ。
是すなわち
人情にかなう也
物の哀れを知る也。
これは何も宣長の発言では無くて昔から有った。

 新古今の歌人の藤原俊成の歌の中も当に「物の哀れ」という言葉が有るのですが、ちょいと「物の哀れ」とは何ぞや?という所ですが、ポイントは〔もの〕であって、〔もの〕というのは結局色々な解釈があるのですが、自分というか個人の力ではどうすることもできないもの、でも歴然とあるもの、運命とか、人生における有為転変とか、大自然、恋もある訳です。
自分から生じるけれども自分ではどうする事も出来ないから、だから〔もの〕なのです。それを凄く〔あわれ〕に思う、〔あわれ〕とは哀れの事で、人間感情の深い所からしみじみと湧き上がってくるという事ですが、自分の力ではどうする事も出来ない物、それが平家物語にも其れをしみじみと感じるという所が流れている。

 平家で言えば、平 知盛の最後死ぬ時の有名な台詞がある。
源平最後の決戦場・壇ノ浦の合戦で活躍した平 知盛、「見るべき程の事は全て見つ。今はただ自害せん」、平家に生まれたら平家の総大将になるしかない訳で、そういう物で宿命てす。それで攻め昇ってくる現実と戦って敗れて行く、その時に「見るべき程の事は全て見つ・・」と。
〔もののあはれ〕を言う人というのは、現在的な言い方をすれば、深いニヒリズムを持っていると思う、もっと別な言い方をすれば実存の問題、恐らく本居宣長も深刻なニヒリズムと実存の問題を抱えていた。
要するに彼は人生の中でどうしょうもない物に直面したのだと思うのです。其処で人間は無力であると深い諦観を持った。其処から思想が動き出して「もののあはれ論」が出て来るのですが、自分の力ではどうしょうもない物に直面するというのは、結局は自分は弱いという事、或は自分は愚かであると(親鸞も自分は愚かであると言う)気付く。
弱さや愚かさを知って、其処からしみじみとした感情が出て来る、それは世界的にどうでしょうか?
Posted by: 高橋秀夫  at 2020年03月01日(Sun) 15:52

(4)
第3回目の危機
Henry Stimson国務長官
満州事変、日米開戦
英・蘭・豪と共同して南方から日本を包囲

 この危機というのはアメリカの立場からいっている。アメリカが何とかして東アジアを侵略しようとした、それが巧く行かなくなって来て、壁にぶつかったという意味での「危機」というのです。
だから東アジアからすれば危機でも何でもない助かったという話で、アメリカが危機を乗り越えるという事は、侵略がドンドン進んでいるという事です。

 アメリカがフィリピンまで出て来た結果、アメリカがその後どういう風な展開をしたかというと、一つは、フィリピンを支配する迄は武力に物を言わせてガンガンやったアメリカが、中国大陸をいよいよ目前にして或るためらいというか、方針転換を余儀なくされる。
主に、ロシアとイギリスが西の方から来て中国大陸では分割が始まっている事から、もうアメリカが武力を用いるのには有効な時期を逸していたという事が一つ有ります。
 しかし、有効な時期を逸していただけでは無くて、アメリカは自分の軍事力という物をジッと見ている訳である。自分の軍事力が十分でないと、策略を企てる、そこは強かな計略を持っていると言わざるを得ない。
 アメリカはどういうルートから大陸に迫ったかというと、三つのルートをいうと、北方ルートというのが最初の計略で、アリューシャン、シベリアから満州へ、2番目は、支那大陸中心部(上海)へ文化介入して行く、3番目が最後で、英・蘭・豪と共同して南方から一機に入って来る、これは我が国と戦争になった事態であります。
 この3つの段階はアメリカの考えたアメリカの戦略である、このアメリカの戦略は、最初にはアメリカが自分の力を順番に見て行く訳ですから、まだ中々力が巧く行かないという事があった。

 ジョン・ヘイが提唱した、支那に対する領土保全、門戸開放及び機会均等主義の主張は、一見すると、シュワードの侵略的帝国主義から、ウェブスターの最恵国待遇、機会均等の原則に逆転したかの様に見えるが断じてそうではない。
詰まり、一見綺麗ごとである、皆んな門戸開放しようと、支那の領土は皆んなでお互いに侵略を辞めようと、それから機会均等というのはどこかの国が、イギリスやロシアがドンドン進出して利益を得るというのはやめようと、当時はどういう事かというと、支那に鉄道を引いて、その鉄道に投資をして、そして上がったお金を巻き上げるという事が行われて、一番良い所はイギリスが取った。
その次はロシアがドンドン進出して来て、日本もそれに参加して来るという、そういう状況が当時あった訳である。
その大陸に対して、機会均等というのはチャンスを皆んな平等にしようと、アメリカが後から来た者ですから機会均等といったのです。
 だから如何にも侵略的原則を止めて、何か如何にも開明主義的な支那を尊重するかの如き様に見えるけれども、決してそうではない。

 19世紀末から20世紀初頭に掛けて、窮迫の感を呈した支那の分割の脅威は、実に米国の対東亜政策に取って最初の然も最も恐るべき危機であった。ここでアメリカは困ったのです。
全部支那は他の国々が分割し、アメリカが入り込む余地が無かった事が一つ、さりとて直ぐに武力でイギリスやロシアと戦争する力はアメリカには無い。アメリカは陸軍が弱いのでどうしょうもない。
この時に当たったアメリカは従来内容的に堅持して来った支那全体を米国の文化的、政治的、経済的勢力の下に置かんとする制覇政策を依然として維持すべきか、はたまた列強に伍して、支那の分割に参加すべきかの岐路に立たされたのである。
 詰まりドンドン自分も参加するか、少し止めて様子を見て文化的、経済的な侵略を行うか、侵略を文化的、経済的なやり方をするか、それとも自分で領土を取るという、そういう軍略的、政治的な事をするか、イギリスやロシアの真似をするか、どちらにするかアメリカはここで迷ったという訳である。
 この時に当たって米国は、従来内容的に堅持し来たった支那全体を米国の政治的、文化的、経済的勢力の元に置かんとする制覇政策を依然として支持すべきか、はたまた列強に伍して支那の分割に参加すべきかの岐路に立たされたのである。

 米国内部の意見も二派に分かれ、海軍派の如きは明らかに支那の米国の基地並びに勢力範囲を獲得すべき事、勢力範囲を獲得策を取らんとすれば支那に於いて列強に立ち遅れ、大陸に一つの軍事基地を持っても居ない米国としては全く列国の後塵を拝するより外はなかった。もうアメリカが入って来た時には間に合わなかったという事である。
 だから列強のオコボレを頂戴して満足せん依りは、むしろ列強の分割政策に真向より反対し、領土保全、門戸開放の美名を掲げて、列強の勢力範囲の獲得、拡張を妨害し他日、支那全土に対する米国の覇権を確立するの素地を作るに如かずと、米国当局は賢明にも判断したのである。
この通りである、やはり凄いですねちゃんと戦前の日本人は見抜いていましたね、(それにしても今の日本は閉ざされた言語空間に生きて居て文明が退化し、己の立ち位置が見えていませんね)。今でも、アメリカがやって来た事はずう〜とそうじやないですか。
 これが米国が支那の領土的、行政的保全を強調し、支那全土に亘る門戸開放、機会主義を主張した真意で有ったのである。
だから、所謂ヘイ・ドクトリンは、これは外見が示す如き、単なる最恵国待遇、機会均等の原則を意味する(今で言えば平和主義)のでは無く、まず支那全土の領土保全、門戸開放を実現し(まず、支那全土の平和主義を実現し)、やがてアメリカの絶大なる経済力を以って支那全土を搾取し、次いで米国の絶大なる政治力・軍事力を以って支那全土を支配し、かくして支那全土を米国の覇権の元に置かんとする政策の1丁目しかならなかったのだ。
ヘイ・ドクトリンはいわばその時の情勢、米国の実力等に鑑み最も巧妙にSeward政策を、支那に適用した傑作に外ならないと言えよう。

 米・英両国はロシアの支那侵略を最も憂いはしたが、両国とも大陸軍国たるロシアに対して、アジアにおいて戦うべき何等の実力をも持っていなかった。アメリカが盛んに(ジョン・ヘイの)言った事は、ロシアが満州に入って来るという事に対する牽制でも有った。
詰まりアメリカとしてみれば、北方から入りたいアリューシャン、シベリヤ、そこから計略して黒竜江と、アメリカはそういう経路を考えていた事から、ロシアを抑えようとしていた。
所が、東亜に於いて強大国ロシアと戦いうるだけの海軍力、陸軍力を要して居るのは、東亜唯一の強国たる日本以外には全く無かったのである。
鋭敏なるイギリス政治家はつとにこの真相を看破し、1902年1月30日日英同盟を締結し、日本を以ってロシアの南下を防止する為の番兵たらしめんと図った。
かくて米英両国は、日露戦争に於ける日本の大勝利のお蔭を以って、ロシアの南下を阻止し、自己の権益、地位を擁護するに成功したのである。ああ、日露戦争というのは米英の代理戦争であったという事である、これは歴史の真実である。
しかも日露の講和に斡旋の労を取ったアメリカ政府は、日露戦後日本がロシアに代わって満州に勢力を樹立せんとするのを見て、今度は日本を以って自己の東亜政策の私敵で有ると見なすに至った。
各て米国内ではカリフォルニア州に於いて、日本人排斥問題が台頭し、東亜に於いては満州を巡って日米の角逐が開始され、セオドア・ルーズベルト政権下に置いて強大なる海軍建設に乗り出したるアメリカは、1908年アメリカ大艦隊をして世界周航の拠に出で占めその威容を太平洋に誇示して日本を牽制したのである。

 これはホワイト・フリート(白船)事件という出来事で、1908年大艦隊を日本に振り向けて、それでもその時、日本は戦争なんかする訳にはいかないので、大歓迎をすると、皆んなが恭順の意を表してアメリカと仲良くすると、米海軍の兵隊さんを日本全国で歓迎して友愛国家である事を示して、日米は対立して居ないと世界に示したという経緯があった。
詰まりここで大切な事は、アメリカは奇麗事を言って(ジョン・ヘイは平和主義を唱えた)、アメリカは元々領土を狙って居ない、仮想労働力が充分に有るから植民地主義を取らない、直接的搾取というのを言わない、これが西洋各国とは違ったやり方をアメリカがし始める訳です。いきなり良い子ぶる、一種の明るいアメリカニズムの旗を振る、こういうやり方は、これに依って植民地を狙っている西洋各国を弱くする事に非常に成功したというやり方でもあった訳です。
Posted by: 高橋秀夫  at 2020年02月28日(Fri) 11:29

(3)
しかし南北戦争は、戦後目覚ましいアメリカ資本主義の躍進をもたらして、産業開発や鉄道敷設、工業の発達がドンドン進んで、同時に当然として海外膨張が始まるかと思ったら、国内の産業や、国内の活躍という物が非常に盛んになった為に、海外への拡大は一休みしたそれが中だるみである。
 そして密かにアラスカ、アリューシャン、シベリアを経由して満州を狙うという方策が打ち立てられるが、やがてそれが19世紀の末になって、国内の工業力や産業力が南北戦争の後、段々と強くなってアメリカは自信を得て来て、暫らく海外への進出を手控えていたが、19世紀末、1880年代の終りから90年代に掛けて、力を得て海外への植民地帝国主義として歩み出たという事が言える。

 1894年にはアメリカはその工業生産額から見て、既にイギリス、ドイツ等の先進国を凌駕して、世界第1位に躍進していたのである。
南北戦争(1861〜1865)それから30年位の間、アメリカは国内的に大きくなる訳で、ここでアメリカの基礎が一番作られた。
ですから、1894年にはイギリスもドイツも追い抜いていた、更に6年経た1900年(明治33年)には、アメリカは銑鉄及び鋼鉄の生産に於いてイギリスの2倍以上に達し、石炭の採掘量に於いてもイギリスを凌駕した。
かくてアメリカの帝国主義政策の基礎、背景は二十世紀に完備した訳で、19世紀の末年よりマッキンリー、セオドア・ルーズベルト、ビバリッヂ、ジョンヘイ等により盛んに侵略的、帝国主義的活躍が言われる様になった訳である。
そして承知のように、1898年にはスペインと戦争してスペインからキューバとプエリトリコを奪い、無くても良いフィリピンを手に入れる事に依って、アメリカは一躍太平洋がアメリカの海となった。これが日米戦争の起点で、日米戦争が不可避になったのは、ここに依るのです。
日本が戦争を引き起こした等と馬鹿な事を言っているのは、21世紀懇、害務省、安倍総理を含めて余程の馬鹿者である。

 ハワイ群島の併合は事実上『米国の歴史上における転換点』となった。しかしその意味は米国が初めてアメリカ大陸外にある遠方の領土を獲得したからでは無く、またハワイが当時、西海岸に於ける米国領土の第一線地帯以上の物となり、太平洋上の領土の一環となったという意味でもなく、実にそれはアメリカ帝国主義がハワイ群島において太平洋上の、従ってまた第一に、来るべき支那の争覇戦に於いての、重要なる拠点を獲得し、この争覇戦が早晩引き起こすところの『太平洋戦争の重大なる根拠地を得たからだ』ったと、或る歴史家が論題しているが、実に驚くべき予言的卓見といわざるを得ない。これは昭和18年のこの時点で予言されていたような事だったと言っている訳である。
 真珠湾が今日、太平洋に於ける米国の最大の海軍根拠地となり、東亜に於ける米国制覇政策の最大の要因となった事は、既に歴史上の事実となっている。
兎に角、アメリカとスペインの戦争、米西戦争はアメリカ帝国主義の最も顕著な発現で有ったと同時に、また米帝国主義を躍進せしめしめた一大契機となったものである。
この戦争は米帝国主義の指導者、セオドア・ルーズベルト、ヘンリー・カボット・ロッヂ、マハン少将、ビーヴァリッヂ等により陰謀せられ推進されたものであった事は、今日では世界周知の事実だ。

 米西戦争は、当時宣伝された様にキューバの開放や独立ために戦われたのではなく、全くアメリカがスペイン遺産の全部を横領する為に戦われたものである事は、戦争の結果が明々白々である(フィリピンまで奪う)。
開戦早々、米国艦隊は戦略上何の必要もないフィリピンを攻撃しこれを占領した。そしてパリ講和会議によりキューバの保護権、プエルトリコの割譲の他に太平洋に於いて全フィリピン群島及びグァム島を割取したのである。
戦争中、アメリカ国軍は独立援助を約してフィリピン独立運動の指揮者アギナルドの協力を得、それによってスペイン軍を破る事が出来たのであるが、勝利を得るや忽ちフィリピン独立志士を裏切り、反対に惨憺たる弾圧戦を展開し、2年に亘るフィリピン人の大虐殺を続行した事は、歴史が明瞭に物語っている。
 その時の総大将が、マッカーサー元帥の父親アーサー・マッカーサーであります。まあ詰まりフィリビンは、インディアンが襲撃された様にやられた訳です。アメリカ人から見て、日本人は全く同じ扱いに見なされていた訳ですが、おっとどっこい日本はそうは簡単にいかなかったという事であります。

アメリカの東アジア進出外交三回の危機
第1回目の危機
John Hay 国務長官
門戸開放宣言(1899)
アリューシャン、シベリアから満州へ

第2回目の危機
Evans Hughes国務長官
 第一次世界大戦後、支那大陸中心部(上海)へ文化介入

Posted by: 高橋秀夫  at 2020年02月28日(Fri) 11:28

(2)
 彼は後に至って太平洋に対する米国経綸のプログラムを述べたが、その内に於いて米国は太平洋上に島嶼を領有すべきことを主張し、米国は須らく、その発明と企業を、日本、支那、豪州及びインドに拡張し、これ等の地域に米国の文明と勢力とを、樹立せるべき事を説いている。尚、彼は南北戦争中の苦しき経験に基づき、大西洋上に海軍基地を有する事は、如何に米国に取って肝要なるか、つまり南北戦争(大変な戦争であった)は北軍が勝利したが、その戦争から戦争の方法を学び、それを今度は太平洋の島々や日本に向けて行こうという事であった。
 この南北戦争というのは、凄さましい殲滅戦争でこれを研究する必要がある。南北戦争とは何だったのかと、これが即アジア侵略に向かって来る、彼等の戦争の哲学と戦争の方法論の全てが南北戦争に有った。
だから逆に言えば、アメリカの立場からすれば南北戦争中の苦き経験に基づき、大西洋上に海軍基地を有する事は、如何に米国に取って肝要なるかを痛感し、その在職中、サン・ドミンゴ湾買収条約、デンマークよりヴァージン諸島を買収する条約及びパナマ海峡支配条約の3条約を調印したのであったが、いずれも上院により否決されてしまった。
これは、Sewardのやろうとした事が巧く行かなかった、アメリカ近代の帝国主義者として世人はシオドール・ルーズベルト、マハン少将、並びにアルバート・ビリヴァリッヂを並称するのを常とするが、米国の近代に於ける最初の、且つ最も傑出する帝国主義者は、実にこのSewardその人だったのである。
Sewardの東亜アジア政策は、その後のアメリカ政策の基礎となり目標となって、絶えずSewardに戻れという不抜の影響を及ぼして居る。

 その後の歴代政府の対アジア政策は、その実体に於いては全てSewardの政策を地盤とした物で、ただその時の実情に応じ単にその外形を粉飾したに過ぎない。アメリカのアメリカ大陸に対する政策、所謂モンロー主義として性格付けられているのと同様に、米国の東亜及び太平洋に対する政策が、少なくともSeward以来帝国主義政策として、性格付けられる事は思惟下の殆ど一致する所である。
米国の帝国主義政策は、普通マッキンリー及びセオドア・ルーズベルトの時代から露骨となった感が有る為、世人の内にはアメリカの帝国主義が19世紀の末年に至って、初めて起こった様に思っている者も少なくないが、それは誤謬も甚だしい。
 マッキンリーとセオドア・ルーズベルトというのは19世紀末に在任した大統領、アメリカ帝国主義というのは、そうでは無くて19世紀の中期に於いて既にアジア侵略への萌芽を見る、それにSewardは大西洋の覇権という事も言っている、詰まりアメリカが世界を抑えるよと。
 これはアメリカの世界を一極支配構造で統治するという観念は、日本人もヨーロッパ人も米ソ冷戦のお蔭で近年、第二次世界大戦以降は、そんな物はアメリカに無くてソ連に対する対抗の影に隠れてしまって見えていなかったけれども、冷戦が終わって23年経ってもアメリカは自分の露骨な地球制服、一極支配構造ヘゲモニー覇権、この思想という物を変えていないどころか、益々それを強めて来たというのが、この10年、15年位の大きな流れであることは承知の通りである。

 ところが段々とアメリカは経済的破局失敗から、壁に打つかって居るというのが今の状況である。
しかしこのアメリカの覇権意志は、最近日本や世界中で分かつて来た、ああソ連に対する対抗では無かったのだと、これは何処が原点かと言えば「米英の東亜制覇政策」、詰まり日米戦争の真っただ中に於いて、日本人は見抜いていたという事である(安倍総理はメタフィジカルな価値認識しか持たない、野蛮でエイヒストリカル(無歴史的)なゴタムの賢人でしか無いのである。
安倍総理によるの70年談話こそは知性の片鱗も残っていない、バンダリズムの野蛮をさらけ出している。独立心なき従属変数に過ぎない我らの悲しき拝米指導者の姿である)。
Sewardを多くの人は知らないけれども、リンカーンとジョンソン大統領の国務長官であった、ですからマッキンリー、セオドア・ルーズベルトという次の大統領が、強い大きな野望を持って出て来る訳であるが、その前の段階で、詰まり1861〜1869年というのは明治維新を挟んでいる、だから日本がやっと産声を上げて世界の中に躍り出て行こうとした時には、実はこういう人物が中心的になっていた。

 しかし未だアメリカは力が無かった、力が無かったから足踏みをしていて、維新政府に接近して来たのはイギリスとフランスであった。
アメリカは暫らく手をこまねいている、ペリーが来航したのが53、54年、そしてそれから今言った様な時代に成るが、その間、アメリカは少し退いているしかなかった、それが南北戦争だった訳である。
Posted by: 高橋秀夫  at 2020年02月28日(Fri) 11:27

(2)
 彼は後に至って太平洋に対する米国経綸のプログラムを述べたが、その内に於いて米国は太平洋上に島嶼を領有すべきことを主張し、米国は須らく、その発明と企業を、日本、支那、豪州及びインドに拡張し、これ等の地域に米国の文明と勢力とを、樹立せるべき事を説いている。尚、彼は南北戦争中の苦しき経験に基づき、大西洋上に海軍基地を有する事は、如何に米国に取って肝要なるか、つまり南北戦争(大変な戦争であった)は北軍が勝利したが、その戦争から戦争の方法を学び、それを今度は太平洋の島々や日本に向けて行こうという事であった。
 この南北戦争というのは、凄さましい殲滅戦争でこれを研究する必要がある。南北戦争とは何だったのかと、これが即アジア侵略に向かって来る、彼等の戦争の哲学と戦争の方法論の全てが南北戦争に有った。
だから逆に言えば、アメリカの立場からすれば南北戦争中の苦き経験に基づき、大西洋上に海軍基地を有する事は、如何に米国に取って肝要なるかを痛感し、その在職中、サン・ドミンゴ湾買収条約、デンマークよりヴァージン諸島を買収する条約及びパナマ海峡支配条約の3条約を調印したのであったが、いずれも上院により否決されてしまった。
これは、Sewardのやろうとした事が巧く行かなかった、アメリカ近代の帝国主義者として世人はシオドール・ルーズベルト、マハン少将、並びにアルバート・ビリヴァリッヂを並称するのを常とするが、米国の近代に於ける最初の、且つ最も傑出する帝国主義者は、実にこのSewardその人だったのである。
Sewardの東亜アジア政策は、その後のアメリカ政策の基礎となり目標となって、絶えずSewardに戻れという不抜の影響を及ぼして居る。

 その後の歴代政府の対アジア政策は、その実体に於いては全てSewardの政策を地盤とした物で、ただその時の実情に応じ単にその外形を粉飾したに過ぎない。アメリカのアメリカ大陸に対する政策、所謂モンロー主義として性格付けられているのと同様に、米国の東亜及び太平洋に対する政策が、少なくともSeward以来帝国主義政策として、性格付けられる事は思惟下の殆ど一致する所である。
米国の帝国主義政策は、普通マッキンリー及びセオドア・ルーズベルトの時代から露骨となった感が有る為、世人の内にはアメリカの帝国主義が19世紀の末年に至って、初めて起こった様に思っている者も少なくないが、それは誤謬も甚だしい。
 マッキンリーとセオドア・ルーズベルトというのは19世紀末に在任した大統領、アメリカ帝国主義というのは、そうでは無くて19世紀の中期に於いて既にアジア侵略への萌芽を見る、それにSewardは大西洋の覇権という事も言っている、詰まりアメリカが世界を抑えるよと。
 これはアメリカの世界を一極支配構造で統治するという観念は、日本人もヨーロッパ人も米ソ冷戦のお蔭で近年、第二次世界大戦以降は、そんな物はアメリカに無くてソ連に対する対抗の影に隠れてしまって見えていなかったけれども、冷戦が終わって23年経ってもアメリカは自分の露骨な地球制服、一極支配構造ヘゲモニー覇権、この思想という物を変えていないどころか、益々それを強めて来たというのが、この10年、15年位の大きな流れであることは承知の通りである。

 ところが段々とアメリカは経済的破局失敗から、壁に打つかって居るというのが今の状況である。
しかしこのアメリカの覇権意志は、最近日本や世界中で分かつて来た、ああソ連に対する対抗では無かったのだと、これは何処が原点かと言えば「米英の東亜制覇政策」、詰まり日米戦争の真っただ中に於いて、日本人は見抜いていたという事である(安倍総理はメタフィジカルな価値認識しか持たない、野蛮でエイヒストリカル(無歴史的)なゴタムの賢人でしか無いのである。
安倍総理によるの70年談話こそは知性の片鱗も残っていない、バンダリズムの野蛮をさらけ出している。独立心なき従属変数に過ぎない我らの悲しき拝米指導者の姿である)。
Sewardを多くの人は知らないけれども、リンカーンとジョンソン大統領の国務長官であった、ですからマッキンリー、セオドア・ルーズベルトという次の大統領が、強い大きな野望を持って出て来る訳であるが、その前の段階で、詰まり1861〜1869年というのは明治維新を挟んでいる、だから日本がやっと産声を上げて世界の中に躍り出て行こうとした時には、実はこういう人物が中心的になっていた。

 しかし未だアメリカは力が無かった、力が無かったから足踏みをしていて、維新政府に接近して来たのはイギリスとフランスであった。
アメリカは暫らく手をこまねいている、ペリーが来航したのが53、54年、そしてそれから今言った様な時代に成るが、その間、アメリカは少し退いているしかなかった、それが南北戦争だった訳である。
しかし南北戦争は、戦後目覚ましいアメリカ資本主義の躍進をもたらして、産業開発や鉄道敷設、工業の発達がドンドン進んで、同時に当然として海外膨張が始まるかと思ったら、国内の産業や、国内の活躍という物が非常に盛んになった為に、海外への拡大は一休みしたそれが中だるみである。
 そして密かにアラスカ、アリューシャン、シベリアを経由して満州を狙うという方策が打ち立てられるが、やがてそれが19世紀の末になって、国内の工業力や産業力が南北戦争の後、段々と強くなってアメリカは自信を得て来て、暫らく海外への進出を手控えていたが、19世紀末、1880年代の終りから90年代に掛けて、力を得て海外への植民地帝国主義として歩み出たという事が言える。

 1894年にはアメリカはその工業生産額から見て、既にイギリス、ドイツ等の先進国を凌駕して、世界第1位に躍進していたのである。
南北戦争(1861〜1865)それから30年位の間、アメリカは国内的に大きくなる訳で、ここでアメリカの基礎が一番作られた。
ですから、1894年にはイギリスもドイツも追い抜いていた、更に6年経た1900年(明治33年)には、アメリカは銑鉄及び鋼鉄の生産に於いてイギリスの2倍以上に達し、石炭の採掘量に於いてもイギリスを凌駕した。
かくてアメリカの帝国主義政策の基礎、背景は二十世紀に完備した訳で、19世紀の末年よりマッキンリー、セオドア・ルーズベルト、ビバリッヂ、ジョンヘイ等により盛んに侵略的、帝国主義的活躍が言われる様になった訳である。
そして承知のように、1898年にはスペインと戦争してスペインからキューバとプエリトリコを奪い、無くても良いフィリピンを手に入れる事に依って、アメリカは一躍太平洋がアメリカの海となった。これが日米戦争の起点で、日米戦争が不可避になったのは、ここに依るのです。
日本が戦争を引き起こした等と馬鹿な事を言っているのは、21世紀懇、害務省、安倍総理を含めて余程の馬鹿者である。

 ハワイ群島の併合は事実上『米国の歴史上における転換点』となった。しかしその意味は米国が初めてアメリカ大陸外にある遠方の領土を獲得したからでは無く、またハワイが当時、西海岸に於ける米国領土の第一線地帯以上の物となり、太平洋上の領土の一環となったという意味でもなく、実にそれはアメリカ帝国主義がハワイ群島において太平洋上の、従ってまた第一に、来るべき支那の争覇戦に於いての、重要なる拠点を獲得し、この争覇戦が早晩引き起こすところの『太平洋戦争の重大なる根拠地を得たからだ』ったと、或る歴史家が論題しているが、実に驚くべき予言的卓見といわざるを得ない。これは昭和18年のこの時点で予言されていたような事だったと言っている訳である。
 真珠湾が今日、太平洋に於ける米国の最大の海軍根拠地となり、東亜に於ける米国制覇政策の最大の要因となった事は、既に歴史上の事実となっている。
兎に角、アメリカとスペインの戦争、米西戦争はアメリカ帝国主義の最も顕著な発現で有ったと同時に、また米帝国主義を躍進せしめしめた一大契機となったものである。
Posted by: 高橋秀夫  at 2020年02月28日(Fri) 11:27

アメリカによるアジア侵略の野望を隠すGHQ焚書

 昭和21年3月17日にGHQが最初に、タイプ打ちのメモを日本帝国政府に届けた、そこに10冊の本を掲げて、これを代表と掲げて没収して初弾するという宣言の文章である。
この10冊のうち9冊は出版社不明で、これが毎日新聞社刊である事が分っていて、毎日新聞社刊がまっ先に没収された訳である。

 その中の「米英挑戦の真相」(有田八郎)1943年10月、「米英の東亜攪乱」1943年12月、「米英の世界戦略」(正しくは「米国の」)、「大東亜の建設」1944年11月、今あげた10冊の内の4冊は西尾幹事氏が所蔵している。
 これはGHQが没収を考えた時に、兎に角真っ先に取り上げた本だという事で、大東亜戦争調査会が主となって書かれ、昭和18年前後に出版されている。
極めて緻密で冷静な内容で、しかも書いた人はトップレベルの知性の人達であった。
ですから、今に伝わる非常に重要な文章で読みやすい、しかも内容豊かで、当時日本人が世界をどう見ていたか、それからアメリカとの戦争をどう考えているか、或はアメリカはどの様な歴史を経過して来たのか、という事まで色々と考えている。
当時の最も代表的な知識人が分析した日米関係であり、対米戦争への物の考え方が掲載されている。

 叙述が全体の流れとして巧く書かれているのが、「米英の東亜制覇政策」(大東亜戦争調査会編)で、西尾氏はこれをベースに話しを進めるという。
(大東亜調査会委員というのは徳富猪一郎の様な大変な人ばかりで、ライターはもう少し若い人の様である)
当時の日本の、可成りの高いレベルの人達が、冷静にしてどの様にあの戦争を考えたか、驚いた事は、アメリカの歴史、イギリスの歴史を良く勉強して居るという事である。
日本人は兎に角勉強家です、ですから何でも分かつていたのです、之とは別ですが例えばブロック経済の事なども可成りしっかりした研究書が出ていたりして、日本は世界の事を良く勉強していた。
ですから、分けも分らないで戦争に突入したのでは全くない、良く知っていた、更に背景も知っていた、しかし、襲って来た物はどうしょうもなかったというのが実体だと言えよう、これ等の本を読んでも良く分る訳である。

 特に、私達は今まで同じ歴史を見ていても、この時代に於いて、何か日本が受身で、日本に愚かな面が有った為にこんな事に成ったという書き方だったり、アメリカやイギリスを見ていてもその見方が、アメリカ・イギリスが正しいのであって、日本は一歩遅れているのだ、閉ざしているのだと、そういう見方で戦後は書かれている、何かトバリが掛っていた様に、あの時日本人が何を考えていて世界はどうだったのかが分らないで居た訳である。
 ところが、「米英の東亜制覇政策」を読むと、何故アメリカ或はイギリスは日本を敵にしたのか、どういう動機を持って歴史をアメリカやイギリスは展開して来たのか、という様な事も含めて我々は彼等の好戦性の、彼等の東アジアへの進出或は侵略の動機、それが正確に展開し書かれている。
 
 時代が大きく変わり、アメリカという国は一体何だろうか、戦後の長い間と違った認識を、段々多くの人が持つように成って来たと思われる。
アメリカ軍が西ヨーロッパ、ペルシャ湾岸地域、東アジアに駐留していた理由はソ連に対する脅威だと我々は思い込まされて来たが、冷戦が終わってもアメリカは一向に撤兵しない、世界中の基地を維持し続けている。
日本などは、本土の基地は殆ど兵力は空っぽなのに返還に応じようとしない、西ヨーロッパではソ連が崩壊してもNATOは崩壊せず、東欧や中東に自由マーケットを拡大させるという表向きの理由で、アメリカの軍事コミットメントは継続された。
 大戦と冷戦の両方が終わった、実は大戦が終わって67年、冷戦が終わって23年ですから、後3〜4年すると、大戦が終わって70年冷戦が終わって25年という大きな節目を迎える。
一極構造の硬直した、アメリカの覇権意志を示し続けた国はナチスでもソ連でもなくアメリカで有った事がハッキリして来た。
そのアメリカの明るさと、公開制の裏に隠された一方的な独善性は、次第に世界を疲れさせ、厭きさせて来た。アメリカの或る面での良さや強さや正しさは、これからも幾らも思い入れに値しようが、世界政府を自認した瞬間にあらゆる国は壁にぶつかるのである。
有難うアメリカ、さようならアメリカと・・・。

 このアメリカの覇権意志という物が、20年前30年前の戦後の時代で言っても中々分らなかった、しかしこれは我々の戦争の歴史を書いた全ての本がそういう事が分っていない。 
アメリカが覇権意志を持っていたから、しかもこれも何時から持つていたか、非常に早くから持つていたから日本は殆ど抵抗する意志も、考える意志もなくやられてしまった訳である。
そういう事を念頭に置いて、「米英の東亜制覇政策」を読んでみると、大変面白いと思う所である。

米国の5人の国務長官
Daniel Webster(1782〜1852) タイラー1841〜1843、フィルモア 1850〜1852大統領在任期間
William Seward(1801〜1872) リンカーン、ジョンソン1861〜1869最初の帝国主義者、対メキシコ戦争、南北戦争
John Hay(1838〜1905)マッキンリー、セオドア・ルーズベルト1898〜1905、門戸開放、機会均等、領土保全
Evans Hughes (1862〜1948) ハーディング、クーリッジ1921〜1925 ワシントン会議
Henry Stimson (1867〜1950) フーバー1929〜1933、 フランクリン・ルーズベルト(陸軍長官を務める)1940〜、 満州事変・日米開戦

 こういう5人の国務長官が当時の日本にとって、問題とすべき帝国主義者だ、東アジアを侵略しようとする帝国主義者だと、こういう観点で国務長官を並べて行くというのは、良く調査する事によりたどり着いた面白い見方だな感心する所である。
Daniel Websterは、19世紀の前半のアメリカ政治家を代表する一人であったが、18世紀、1700年代の末にアジアの侵略が開始されている。
しかし当時のアメリカはまだ力が無くて、太平洋にドンドン船が出掛けて行って居るけれども、そこを米領土にしょうとしても、アメリカ本土がそんなに力が無いのでやめようという訳で議会が認めない。
遠い土地を占領する力が当時無かった、しかし太平洋ではイギリス、フランス、スペイン、オランダ、ポルトガル等々が既に活動を始めていた事に、アメリカは焦りを感じていた、その時代の大統領がDaniel Websterであった。そして捕鯨が始まり、ハワイに着目するという事、その頃19世紀の前半に太平洋で起こった有名な出来事はアヘン戦争である。

 1842年のアヘン戦争で中国が屈辱の南京条約を結ばされた訳であるが、アメリカは大変あの時は狡賢い行動を取りました。
詰まり強力な軍事力を持つ大国イギリスに出来るだけくっ付いて共同で戦争をして居て、イギリスの得た権益を手に入れる為に、巧い事して便乗外交を行った。実にアメリカの外交は一発の砲火も持たず、放たず、専ら外国の侵略を利用して、自己の欲望する全ての物を勝ち得たので有った。
アメリカはそういう時代があり、これはアヘン戦争の後の事である。
だから日本にだんたん近づいて来る時も、最初の内はそういう空気もあった、イギリスの横暴と我がままに対して、アメリカは日本に対して一番最初の頃は、日本を守ろうとする様な姿勢も有ったのです。
 この時以来、アメリカの役割は支那に於いてイギリスの機微に伏し、自ら戦争に加わらずして戦争に追随し、イギリス軍隊の勝利を手伝う事であった。これは不名誉で有ったが、アメリカ自身にとってはこの方が有利であった訳で、何か強かで狡い。

 しかし周知の様にペリーが出て来て、それから10年後には日本にやって来る、そして2度目の来航で日本の門戸開放を要求する。
ペリーは砲艦外交といって、ガンガン思い切った事をしたから、これが軍事的な対日侵略であった事は間違いない。
2番目の国務長官William Seward、この人を日本人は忘れているし知らないのです。リンカーンの名前を知らない人は居ないけれども、その時の国務長官である。そしてこれがいわば最初の帝国主義者で、アジア、東アジアを制覇する政策を非常に強力に推し進めた人物であった。
1850〜60年の間、アメリカはメキシコに対する謀略的な戦争を仕掛けて、そしてメキシコから多くの領土を奪って太平洋へ進出した事は、比較的多く知られている歴史的事実である。
同時にこの時代は、パナマ運河への改作、大陸横断鉄道の建設開始、太平洋航路の開拓とかそういう事が盛んに為されたし言われた時代であった。また西部に向けて膨張が始まっていると、同時に支那を狙って産業が拡大し、太平洋への貿易が盛んになる時代である。

 Sewardは1852年(ペリー初来日の1年前の年)に、「国家は諸海洋の帝国を支配せねばならぬ、かかる国家のみが真実の帝国たり得るのだ」と、これは当に帝国主義の思想である。
「太平洋その沿岸、島嶼及び彼岸(日本や中国の事)の広大な地域が、世界の偉大なる将来に於いて、主たる活舞台と成るであろう場合には、アメリカの大西洋に関する利害は比較的に低下するであろう」と。
ですから、太平洋及びその地域からヨーロッパ各国の列強の勢力をも追い払って、これをアメリカ文明と権力の元に置くのが正しいのだと、そういう使命を認識し確認した最初の人間がSewardという人物である。
 この彼の原点、その後のアメリカの政策は、Sewardの唱えた一番最初の原理を忠実に実行しようとする動きであったという事をまず確認する。その様な意欲を持った、そして展望を抱いたSewardは、しかしそれらの計画を実行せんとするや、アメリカに南北戦争が起こって5年に亘って彼の手足が縛られてしまう。

 もし彼が、内戦に煩わされる事が無かったら、太平洋及びアジアに対して大胆な侵略的政策に出た事は、疑いを入れないのです。
それでも彼はその中でも、外交官でアンソン・バーリンゲームを送り込んだり様々な事をやって、それなりに計略は目覚ましい物があった。
アメリカの威信を清朝の国民の間に植え付けるのに苦労・工夫し、日本にはロバート・プラインを派遣して積極的な武断政策を展開し、1860年代の始め(明治維新の直前)、日本や朝鮮が他のヨーロッパ諸国に依って分割される様な場合には、アメリカもそれに参加すると宣言し、ロシアと談判して1867年(明治維新3年後)にアラスカを買収し、アラスカ、アリューシャン群島を経てアジアの黒竜江に至る、電信戦の架設を計画した。
 アメリカは土地が多くて困っていた、しかも南北戦争で財政が苦しく領土買収には国を上げて反対が起こった。
しかし、Sewardという人物はある意味ではアメリカに取って先見の明が有った、アメリカに取ってはこの帝国主義者の引いた理念だけではなく打った手は、太平洋に対するアメリカの『前進海軍基地』を獲得するという事で、アラスカ及びアリューシャン諸島を以ってアジアに対する前進基地と断じたのであった。そしてハワイに目を付けた、これがSewardの業績であった。

Posted by: 高橋秀夫  at 2020年02月28日(Fri) 11:26

毎回、面白い話が続くので、興味をもって読ませていただいてますが、もう少し大きな字だと、もっといいと思いました。
Posted by: 星野 崇  at 2020年02月27日(Thu) 11:11