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「ちょっといい話」その125―二話― [2020年02月18日(Tue)]
「ちょっといい話」その125
―二話―


この空の下.jpg


上記記事は東京新聞
2月9日・11日の記事です。


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コメント
安倍総理の国賓としての習近平主席の招待は、中国の故事にある楚と秦の戦に似ている。
日本人と同様の楚人は海千山千の北方人たちの「理屈」には対抗できなかつた。
理屈の裏の陰謀まで読みとることなど、とてもできる性分ではない。やがて懐王(安倍総理)その人が、秦の政客張儀の弁舌に幻惑せられ、ついには大国(日本)が、うたかたのごとく消え去ってしまうのである。
「植物社会」の人間のものさを、まざまざと示した話である。まさに「蛇を描いて足を添う」故事のごとくである。

「秦の楚をはばかるゆえんは、われ斉と組しをもつてなり、商於の地、いまだ得べからざるに、斉との交わり先ず絶ゆれば、楚は孤(みな子)とならん。それ秦は、なんぞ孤国をはばからん」
屈原は楚を孤立させては危ないと、しかし懐王はきかなかつた。秦は約束した領土をなにやかや理屈をつけて渡そうとしない。
怒った懐王は張儀をとらえた、まあ現代中国の諜報謀略活動と同じく、秦が楚にしかけた謀略は「女」と「金」をもっての謀略である。
そこで張儀は、ひそかに懐王のお気に入りの男と愛妃の鄭袖に手を回した。
「秦では張儀を救出するため、六県と美女とを楚に届ける手配をしております。秦の女は美しいゆえ、懐王はそれに目がくらんで、やがてはあなた様を疎外なさいます。早く張儀を釈放して、そんな事態となることをくい止めることですな」
こういう女性は、恩寵を失うことが、何よりもこわいとみえる。鄭袖の口ぞえで、張儀はまもなく獄から出てきた。張儀はたくさんのワイロを重臣どもにばらまいて、さっさと秦に戻っていった。
 一足ちがいで、斉に使いしていた屈原が戻ってきた。屈原は色をなして懐王を諌めた。「二度まで、張儀のワナにかかるとは」と必死にくどかれて、懐王は張儀のあとを追わせたが、すでに風を食らって消えたあとであった。
 紀元前二九九年、懐王は三たび秦にだまされて、国境の武漢に出むいたところ、街道を固めていた秦の伏兵に捕らえられて、三年後に敵国で客死した。なんとも哀れな話である。

  新型コロナウィルスが日本に侵入している。しかし日本国は中国との交通を遮断しない。
つまりは日本でも感染拡大が起る可能性がかなり高い。現状においても日本の医療機関においてもマスク不足や盗まれたりしている。
感染防止のマスクが日本でも手に入らない状況にいたっている。
国家の安全保障の観点からすれば、当然として人の往来を遮断することである。
そして国内でのマスクや医者等の防護服が充分に貯蔵されていることである。
しかし東京都は都民の税金で都民の安全確保のための防護服を小池は中国へ十万着ほど支援している。
マイクにしても国内不足であるのに、中国を支援している。
日本人は韓国に対してもお人好し、お馬鹿さんをずっとやって来た、慰安婦・徴用工を捏造されてる懲りないのです。
これは「反日種族主義」という実証的・学問的にも、日本の政・官・財のおばかさん、おひとよしが証明されてのです。
長野朗氏が戦前の中国人に関して書き残した文献をみても、かれらは日本人の恩を仇で返しているのです。
まあ日本人のこのお馬鹿さん、おひとよしには呆れるところです。

 歴史的にもれば楚人のおひとよしのおばかさんが、楚を滅ぼしたのです。
今の日本には屈原のような国士はいないのです。安倍は習近平国賓招待すれば、安倍一族は河野一族と同様に、未来永劫汚名を背負って生きることとなるのでしょう。況や世界の謀略戦に敗北した日本人は、周に敗れた商の如く、頑民として下等民としてネツテルをはられることでしょう。
 それにくらべてベキラの川に身を投げた屈原は、「端午の節句」の流しびなの風習として、末永く敬愛されることでしょう。
Posted by: 高橋秀夫  at 2020年02月19日(Wed) 13:36

歴史の真贋について

ニーチェの言葉「神は死せり」は日本人にとつて何を意味するか、今まで語る日本人はいなかった、と西尾幹事先生はいう。
これでは駄目で、日本人はキリスト教徒ではないからである。ある意味では神は最初から死んでいるのです。
文明のオリジンを持たない日本人というのは、日本語は歴史の開闢から神の不在、実在の欠落という宗教的現実をずっと生きて、それを良しとして肯定してきた。キリスト教的な神は最初から無かった。
ニーチェの問いの中に真実と虚偽という言葉が出て来るが、これが日本語では真贋なのです。

1973年、ニーチェが「道徳外の意味に於ける真理と虚偽について」という論文を書いているのです。
 「無数の太陽系をなしてきらきらと振り撒かれている大宇宙の、どこか遠くかけはなれた片隅に、かつて一つの天体が存在した。
その天体の上で、怜悧な動物たちが認識というものを発明したのである。
そのときこそ、「世界史」の、最も誇り高い、また最も欺瞞に満ちた一瞬であった。が、これもほんの一瞬のことにすぎない。
ほんのしばらく自然が呼吸していたかと思うと、もうその天体は凍結してしまつた。
かくして怜悧な動物たちも、死滅せざるを得なかったのだ。
ーこんな風に誰かが、一つの寓話を創作することができるるかもしれない。
しかし、これでもまだ、自然の内部における人間の知性が、いかに惨めで、影のように不確かで、束の間のう儚いものにみえるか、そしていかに無目的で、身勝手なものにみえるかを、心ゆくまで説明したことにはならないであろう。
人間知性の与らなかった数々の永遠が存在したのだ。
再び人間知性が過ぎ去ってしまえば、何事も起こらなかったと同じことになるであろう。
人間知性にとつては、およそ人間の生命を超えて、そこから先へ導くような使命などは存在しないからである。
知性は人間臭いものである。世界の軸が人間知性を中心に回転しているかのようにじつに悲壮に知性を受け止めているのは、ひとりその知性の所有者と産出者だけなのである。
が、もしも蚊と話が通じうるなら、蚊もまた同じ悲壮さをいだいて空中を浮遊し、自分の内部にこの世界の空飛ぶ中心を感じているのを、われわれは聞き取ることになるであろう。(西尾幹事訳)」

 本居宣長の
「今だ天も地もなき以前は、いずくもみな虚しき大虚空なりき、虚空を天とするは漢籍の定なり、天は虚空をいうに非ず、なお天と虚空とは別なること、(古事記伝の一節)」・・同じことを言っているのです。

 近代の日本人はこんなことを断言できていないのです。
近代になつてキリスト教の神を知ってから何か自分を失って、近代の不安と称せられるものは皆、本当に日本人は虚であると、大虚空を生きているのだと、そしてそれを誤魔化さないで生きていて、実在の不在を肯定して生きているのだと、欠落を承知で生きてきたのだと。ところがキリスト教の神が入って来て困って、返ってそこで転倒が起ったり欺瞞が起ったり、すり替えが起ったりして価値の欺瞞が始まる。宣長に言わせれば、知性のさかしらさがそういうことをさせるのだという。

 道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」は、般若心経の解説である。白隠禅師にも『毒語心経』という解説本がある。
全ては現象である。一つも確かなものはない。命も知識も肉体もみんな現象だと、でも現象が「こころ」を持っていると、ニーチェはこういう表現をしたのかと驚くのです。時間というものを映像化している。
 そして『般若心経』ですが、サンスクリット原典からの現代語訳ですが、
全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
シャーリプトラよ、
 この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質現象で(あり得るので)ある。
実体がないといつても、それは物質現象を離れてはいない。また、物質現象は、実体がないことを離れて物質現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質現象なのである。
 これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということでもなく、増すということでもない。
それゆえに、シャーリプトラよ、
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。
眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。
知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
 過去、現在、未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真言であると。
その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテ― ガテ― パーラガテ―がテー  パーラサンがテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
ここに、智慧の完成の心を終る。(紀野一義訳)

飯田蛇笏の晩年の句は、
  われ泣くもいとしむことも寒の闇
である。蛇笏は「老境」につしてこう言った。
 さうだ、老境は自然にくるものだね。それも若い時、壮年の時代を通じて、ものの本質を見究めつつ本当に生きぬいたものが、いつか入っている境地だと思う。心敬とか俊成とか世阿弥や芭蕉のように懸命にその時々を生きつづけるものに来るんだね。
誰にでも来るというものではないよ。
 蛇笏は昭和37年10月3日、77歳で死んだ。
   誰彼もあらず一天自尊の秋

蛇笏は老残も見せず、老境の尊厳と美を人々の眼に焼きつけて死んだ。老も死もなく、老と死の尽くるところもなし。
蛇笏の見た寒の闇は、壮大な無明の闇とひとつであった。しかも彼はその闇の向うに永久に帰ってこない息子たちの靴音をひっそりと聞いていたのであつた。生きるということは、華麗であり、壮大であり、そして、かぎりなくかなしいことであった。
そこには、智というものが入りこんでくる余地がない。
何かを得たということもない。まことに、「人生山脈、ただ茫茫」というのみである。所詮人間は何かを得たとしても、それは「空」を得たというのみである。何十年かの生涯を、ただ生かして頂いたというだけのことである。
日本人の心の中に培ってきた永遠なるものへの随順帰依の情念、それは私の中にもある、あなたの中にもある。その情念を生かさなくては、この世の中に生まれて来た甲斐がないではないか。

 最近の日本は異邦人の国のようであり、経済だけでなく精神もやせ細っているではないか。
若者が使う日常会話は200語程度だという。
政治は異邦人が異邦人のための政治をしているようにもうかがえる。
安倍という異邦人が習近平という全体主義者を異邦人の国賓として招くというから、天皇も異邦人なのでしょう。
自由民主党という異邦人の集団が何やら喚き散らしている。
これぞ安倍という異邦人が完成した国、戦後レジュームの完成した異邦人の国家なのでしょう。
三島由紀夫の予言どうりの国を安倍は完成させたのです。

Posted by: 高橋秀夫  at 2020年02月18日(Tue) 11:08