「私の写真館」その1―金日成― [2019年01月17日(Thu)]
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「私の写真館」その1 ―金日成― 一枚の写真は10万語にも優る説得力があるという。 私は今年の1月8日、満八十歳になった。未来志向であまり過去を振り返らずに生きてきたが、世界を歩いて出会った人たちのことを記録に残すことは私の務めではないかと思うようになった。思い出に残る人物写真と共に、出会いのエピソードなどを順次掲載してまいります。 *************** シンガポール会談以後、トランプ大統領と金正恩主席との二回目の会談実現に向けて、水面下では激しい交渉が行われていることであろう。 金正恩の祖父である金日成は、北朝鮮人民共和国の国父である。 1992年、私は初めて北朝鮮を訪問した。目的は金日成主席との面会ではなく、私とほぼ同世代の金正日書記(当時)の実像をこの目で確かめたかったからである。 面談の事前了解を得て1992年3月17日夕刻、朝鮮民航で北京を発ち、ピョンヤンのモランボン迎賓館に入ったのは夜8時30分。そこで「金正日は北部地域を視察中で不在ですので、代わって金日成主席が会見します」との連絡を受ける。私は即座に「約束が違うのでこのまま帰ります」と言ったところ、驚いた相手側は、「日本で皇太子の代わりに天皇が会われる場合、断りますか?」と反論。妙な理屈と思いつつも会見相手は一国のトップ。そんなことで金日成主席との会談が実現したわけである。 会見は3月20日午前10時から、昼食をはさんで3時間半に及んだ。場所はピョンヤンから車で1時間半ほどの温泉地で、地味な雰囲気の接見所だったが、玄関というところまで出迎えてくれた金日成主席は堂々たる風貌で、開口一番「日朝交渉は間違いだった」と発言。「金丸訪朝団は日本の与党・自民党と最大野党の社会党が朝鮮労働党との会談で合意済みであり、実現は時間の問題と考えていた。日本の政治決定過程に無知で外交的知識が不足していた」と、若干反省を込めて語った。党独裁の北朝鮮の主席には、日本の支配政党合意が実行されないことは理解できないことだったようだ。 もう一つの金主席のミスは、「軍拡に走る米国は債務国になり、日本は世界一の経済大国として独自外交を展開できる」と考えていたらしい。私は日米安全保障条約で結ばれた両国の強さを伝え、米国抜きの日朝関係正常化実現の困難なことを説明した。 私が金主席と会見した1992年3月は、北朝鮮の核疑惑にアメリカが最も神経を尖らせていた時期で、核施設へのピンポイント爆撃を真剣に考えているといわれており、米韓合同演習チームスピリッツの不当性を強調するなど、米国の軍事圧力に相当閉口している様子だった。そこで私が、米国要人を招待するのが有益ではと助言。旧知のカーター元大統領の名前を出し、これが94年のカーター訪朝につながった。 帰国後、私は隠密裏に折衝を開始。93年1月、クリントン大統領就任式参加の折、カーター元大統領と在韓米軍撤退問題を議論としないことを唯一の条件に、最終的に快諾してくれた。しかし、かつてカーター元大統領の部下であったクリストファー国務長官を始めホワイトハウスは訪朝に反対で、最終的には元大統領ではなく個人の資格でならとの条件で94年6月15日朝、カーター元大統領は韓国から休戦ラインを徒歩で越え、北朝鮮に入った。 16日朝、クリントン大統領はホワイトハウスのキャビネット・ルームに国家安全保障会議を招集し、北朝鮮への制裁強化を指示。このあと韓国への戦闘機の配備、空母を含む機動部隊の増強、韓国駐留米軍の1万人増員などの検討に入った。出席者は副大統領、統幕議長、防衛長官、安保担当補佐官、国連大使等々。米朝開戦前夜の空気がみなぎっていた。 その時ピョンヤンよりカーター元大統領から電話が入り、金日成が核開発プログラムの凍結とIAEAの査察官の残留を認めたとの内容で、安保会議は中断され、再開された安保会議は「我々は同意し、受け入れる。もしあなたが我々の『凍結』の解釈を容認するなら」との返事を作成。カーター元大統領を通じて北朝鮮に伝えた。後日、「米朝戦争の瀬戸際で新しい展開が作れたのは奇跡」とカーター元大統領は述懐していた。 これは元ワシントンポストの外交記者、ドン・オーバードーファが書いた「ひとつの時代史、二つの朝鮮」を一部引用しました。 ともあれ、歴史に“if”を認めてくれたら、私と金日成との会見、その後カーター元大統領を説得し、ホワイトハススの反対を押し切って個人の資格であれ訪朝していなかったなら・・・。 |






