CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«3月24日(火) | Main | 3月25日(水)»
leprosy.jp
resize.png日本財団はハンセン病の差別撤廃を訴える応援メッセージサイト「THINK NOW ハンセン病」を開設。皆様からのメッセージを随時募集・配信しています。
Google
<< 2021年11月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
プロフィール

笹川 陽平さんの画像
笹川 陽平
プロフィール
ブログ
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
リンク集
https://blog.canpan.info/sasakawa/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/sasakawa/index2_0.xml

「ハンセン病制圧活動記」その24―コロンビア訪問記― [2015年03月25日(Wed)]

「ハンセン病制圧活動記」その24
―コロンビア訪問記―


私のハンセン病制圧活動記は全国13カ所のハンセン病療養所の機関誌に掲載しております。したがって、療養所の事情で今回のように掲載が大幅に遅れることもあります。読者の皆様にはご迷惑をおかけ致しますがご寛恕下さい。

松丘保養園機関誌『甲田の裾』
2015年月号


少し時はさかのぼるが、2013年12月22日から24日まで、コロンビア共和国を初めて訪れた。南米大陸の最北西端に位置し、パナマ、ベネズエラ、ブラジル、ペルー及びエクアドルと国境を接し、北はカリブ海、西は太平洋に面する。人口4,600万人、国土面積は日本の約3倍の114万平方キロメートル、公用語はスペイン語で主な宗教はカトリック、主要産業は言わずと知れたコーヒーをはじめとする農業と、世界の産出量の90%を占めるエメラルドほか、鉱物資源の埋蔵量も豊富である。赤道地帯にあり四季はないが、アンデス山脈が国をまたぎ、気候は高度や地形によって大きく異なり、高湿の密林や熱帯性平野から高地の万年雪まで幅広い。

かつてこの国でもハンセン病患者が強制隔離されていたが、その地域が1963年に一つの自治体として独立し、過去の記憶を失わせることなく発展の道を模索している。アグア・デ・ディオスである。ハンセン病が不治の病であった時代、特に19世紀後半から20世紀初頭にかけて、隔離を目的とした病院や療養所などの施設が日本をはじめ世界各地に作られた。しかし研究が進みハンセン病が治る病になったため、近年これらの施設が転換・閉鎖の傾向にあり、貴重な歴史的建造物が失われようとしている。また、そこで暮らした人々は高齢化が進み、口述記録の保存も最終段階に来ている。ハンセン病の歴史から学び、同じ過ちを二度と繰り返さないようにしなければならない。2012年には笹川記念保健協力財団により、日本の国立ハンセン病資料館で同じ意識を共有するフィリピン、マレーシア、ブラジル、台湾の当事者が集まる国際ワークショップも開催された。アグア・デ・ディオスも回復者やその家族が、様々な方法で歴史保存に取り組んでいた。

首都ボゴタは高度2,600メートル、平均気温16度。涼しく過ごしやすいが、酸素濃度は東京の4分の3程度である。翌朝、ホテルのロビーに一人の回復者男性が私を迎えにきてくれた。ハイメ・モリーナ・ギャルソンさん、67歳。2010年、インドのプネでハンセン病の国際会議で出会って以来である。アグア・デ・ディオスで「コルソハンセン」というハンセン病回復者の尊厳回復、啓発活動、収入向上活動などに取り組むNGOを運営している。しばし再会を喜び合った後、さっそく車に乗り込んで、アグア・デ・ディオス向けて出発した。クリスマスを前にどこか浮かれて行き交う人々の横で、警官が目を光らせ、鉄格子で守られた商店が並んでいるのを見ると、治安の悪さを実感する。海抜400メートルのアグア・デ・ディオスに向けて、霧濃い道を下り続ける。霧が晴れると、そこは一面に牧草地が広がっていた。国土の半分が密林、3分の1が牧草地、残りは農地が占め、人が住む村落・市街地は全体の1%以下であり、総じて緑豊かな国だと言える。ボゴタを発って約2時間半、「アグア・デ・ディオス」の看板が見え、そこから15分ほどでかつてハンセン病患者が隔離されていた施設のある町の中心部に辿り着いた。

コロンビアに現存するハンセン病療養所は二ヶ所。一つはコントラタシオン、一つはここアグア・デ・ディオスである。1864年、各県にハンセン病療養所を作ることを決定する法令が出された。アグア・デ・ディオスもその場所の一つとして選ばれ、1870年頃、最初に約40人の患者達が送り込まれた。当時そこは荒地で人の住むような環境ではなく、患者達は自分達の力で小屋を建てて、何とか生活を始めたという。最初の病院であるサン・ラファエロ病院が建てられたのは、1880年ごろ、入植から10年以上が経ってからだった。アグア・デ・ディオスに入るには首都ボゴタから流れ落ちる急流の川を渡らなければならない。1872年この川に、現在コロンビアの国家遺産になっている「嘆きの橋」が作られた。名前の由来は、ハンセン病患者がここで家族に最後の別れを告げ、アグア・デ・ディオスに向かっていったからである。この橋が出来るまでは、7~8人を籠に乗せて、両岸に吊るされたロープでまるでやっかいものの荷物のように運んでいたというのだから言葉がない。

ハイメさんとこの橋を渡った。橋は老朽化しており、昨年新しく現代的な橋が数十メートル先に完成しているのが望める。足下に流れる水はボゴタからの生活用水が流れており真っ黒で、「コロンビアで一番汚い川ですよ」とハイメさんが苦笑する。1961年、ハンセン病隔離法が廃止されるまでに、約6,000人から7,000人がここを渡ってアグア・デ・ディオスにやってきたと言う。中にはベネズエラなど、他の国から来た人もいるらしい。ひとたびアグア・デ・ディオスに来ると、国民に与えられる身分証明書は剥奪され、ここでしか通用しない身分証が割り当てられた。ハンセン病療養所域内通貨も存在していた。域内通貨はハンセン病患者が触れたお金を他の人に触らせないことと、住民の自由な移動を制限する目的があった。アグア・デ・ディオスが隔離療養所であった時代は、4メートルの鉄条網で囲われ、常に脱走者防止のため見張りが国から派遣されていたという。

Aハイメ氏(中央)とご家族と橋を渡る.JPG
ハイメ氏(中央)、そのご家族と橋を渡る


アグア・デ・ディオスの現在の人口は約13,000人。うち、85%がハンセン病回復者とその家族である。街にハンセン病関係の資料館が4ヶ所あり、1つ目は、ハイメさんが運営する、コルソハンセンの事務所に併設された資料館。隔離時代の写真や当時の資料が展示されていたほか、当時10歳のエマさんという女の子の古く黄ばんだ身分証があったが、彼女は今も元気で、10歳当時の写真の面影をもって私を出迎えてくれた。娘のアナさんはコルソハンセンのスタッフとして働いていた。2つ目の資料館は、作曲家ルイス・カルボ(1882〜1945)の遺品を集めたもの。彼は34歳でハンセン病に罹患し、アグア・デ・ディオスに移り住んで、一心不乱に作曲活動を行ったその姿は「楽譜の労働者」と称されており、コロンビアでは有名な音楽家である。3つ目の資料館は、イタリア人のルイス・バリエラ神父(1875-1923)記念館で、ハンセン病の回復者のシスターが暮らす(現在は7名)、世界にも例を見ない修道院の中にある。バリエラ神父は1894年、19歳でアグア・デ・ディオスに到着。ハンセン病の子ども達の教育のために尽力し、子供の患者たちと共用した金管楽器や、施設を作るために「コロンビア国民につき1セント」の寄付を求めた手紙などが残されていた。4つ目の資料館は、国立療養所が運営する資料館で、コロンビアにおけるハンセン病の歴史を人類学的視点から見学者に伝えることを目的とし、病気に関する正しい知識の提供に取り組んでいる。倉庫には大量の医療カルテが保管されており、最古のものは1903年。カルテには逃亡記録も残されており、労働、罰金、収監の刑があったという。かつての刑務所は残されているが取り壊すべきという話があり、資料館のスタッフは貴重な歴史的施設を残すために努力中とのことであったが、未整理の資料は多く、劣化が進んでおり、貴重な資料は消滅する可能性すらあった。4つのどの資料館も、アグア・デ・ディオスの歴史を失わせず、どのように後世に伝えて行くか、関係者の努力と資金不足の現状に複雑な思いの見学であった。
市内にある療養所では、回復者全員に挨拶をして回った。暮らしているのはみな高齢者で、さながら老人ホームのよう。サン・ビセンテ女性療養所では、入所者が手工芸品を作ったり、テレビを見たり、訪問してくる家族としゃべったりしながら過ごしており、ボヤカ男性療養所では、入所者が集会所でチェスなどのテーブルゲームに興じていた。自分で作ったという詩を情感たっぷり読み上げてくれた人、手作りの可愛らしいキリンの置物をプレゼントしてくれた人、自分で手入れしているという盆栽のような植物を自慢げに披露してくれた人など趣味の世界で充実した日々を過している回復者に出会った。世界のハンセン病患者や回復者、その子孫の中には、素晴らしい才能を持った人が多くいるが、ルイス・カルボや北条民雄のように世に知られている例は稀で、作者不明だったり、倉庫のような場所に眠っていたり、日の目を見ない作品も多い。ロシアのハンセン病病院にも、回復者が描いた素晴らしい絵があった。このような貴重な作品は、捨てられることなく保存されてほしいと願う。

@コルソハンセンの事務所の資料館.JPG
コルソハンセンの事務所の資料館

Bエマさん(身分証を手に).JPG
エマさん(身分証を手に)


面会したホルヘ・ベタンクール市長は両親が回復者で、40歳前後と非常に若い。「ハンセン病の歴史は人類の汚点であり、アグア・デ・ディオスが絶望の街から希望の街に変わったことはコロンビアが誇れる歴史であり、是非とも世界に情報発信していってほしい、貴重な財産である関係資料を保存してほしい」とお願いした。

実際には今なお、アグア・デ・ディオス出身というだけで差別されたり、経済発展も他の街より遅れていたりするなど、難しい現実もある。歴史を残し、それを街の発展にどのようにつなげていけるか、希望の街としてのアグア・デ・ディオスがどのように今後存在していくのか、全てはこの街の住民の肩にかかっている。
コメントする
コメント
いつも拝読しております。
今回の南米のハンセン病のことにつては、チェ・ゲバラの医学生時代の若き日に彼が友人と二人でオートバイで南米チリを旅した時のことを描いた映画「モーターサイクルダイアリー」で描かれていました。チェが、ハンセン病患者を隔離する島まで、夜泳いで行くシーンを思い出しました。
そのシーンは彼の精神的自立をシンボリックに描いたものと、私自身は解釈していたことを思い出し、ブログを読みながら、しばし灌漑に身を委ねました。
誠に僭越ながら、会長のご活動に敬意を表します。
Posted by: 今井  at 2015年03月25日(Wed) 15:07