「日本人としての誇り」その1―講演― [2014年02月24日(Mon)]
「日本人としての誇り」その1 ―講 演― 「第6回B&G全国サミット」 於:笹川記念会館・国際会議場 B&G(ブルーシー・アンド・グリーンランド)財団の第6回サミットが1月30日、東京・三田の笹川記念会館に、財団の支援で体育館やプールなど「海洋センター」を持つ全国390自治体から首長や教育長ら650人が出席して開かれた。冒頭、「日本人の誇り」と題して講演の機会を得た。 以下、2回に分け、講演要旨を掲載させていただく。 ご批判、ご意見をいただければ幸いです。 ********************* 昨日までインドネシアでハンセン病の制圧活動をしておりました。主にパプア島での活動でしたが、島の半分は独立国のパプアニューギニアで、あとの半分がインドネシア領になっています。特にビアク島やその周辺は激しい戦闘で2万人近くの日本兵がほとんど全滅したところです。洞窟に入ってみますと、秋田県とか岡山県から、出征の時に奥さんが身ごもっておられたのでしょうか。そういう人のお嬢さんが成人して、見たこともない父親のために自分や家族の写真を慰霊塔に供えられており、涙なしに見ることはできませんでした。戦争に対する評価はさまざまですが、日本自身がもっときちんと見直していく必要があるのではないか。 海外を回っていますと、自然と日本に思いをいたすわけですが、素晴らしい国に生を受けているにも関わらず、それがどのぐらいすごいか、日本人自身はほとんど知らないわけです。とりわけ青少年が知らないことに対し、後期高齢者の1人として重い責任を感じます。 先般、小野田寛郎さんが91歳で亡くなりました。未来を担う子どもたちのために余生を過ごしたいとのことで、日本財団もお手伝いをさせていただき、B&G財団の子供たちのためにも多大なご協力をいただきました。日本人としての誇りを持ち、この国を世界の中で十分な役割を果たす国家にしていかなければならないと最期まで働かれました。 歴史が断絶した国は世界で日本しかありません。歴史というものは、良いにつけ悪いにつけ、語り継がれなければならないわけですが、戦後の民主主義教育の中では「戦前は悪、戦後は善」、「江戸時代は封建時代」としか教えませんでした。誤った考えや行動は、世界のどの国にもあり、日本だけの問題ではありません。なのに日本は戦後長くGHQの指導の下、自虐史観、自らを貶める考えを徹底的に受けてきたわけです。メディアの韓国、中国報道などを見ると、その残滓が今も続いているのがお分かりいただけると思います。 そういう中で台湾やフィリピン、マレーシア、インドネシア、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、インドといった国々は、ことのほか親日的です。日本の敗戦という厳粛な事実の中でアジアがどのように蘇ったか、ある意味でそれは二百数十万に上る日本兵の犠牲によって達成されたわけです。 第2次世界大戦の正式な名称は大東亜戦争です。福沢諭吉の脱亜入欧、率先してヨーロッパの知識・制度を取り入れて日本を近代化し、これを基に遅れているアジアを引き上げていく壮大な構想でした。しかし大東亜戦争の名称はGHQの厳しい検閲で消され、幼稚園の遊戯大会で飾られた万国旗の中の日本の旗も黒く塗りつぶされる有様でした。 GHQに厳しく検閲された当時の日本の新聞は、アメリカのメリーランド大学のブランゲコレクションに保存されています。日本財団はこれをマイクロフィルム化してきましたが、メディアに対する弾圧は半端ではありませんでした。当時は新聞をはじめとしたメディアが使用する紙はGHQの割り当てだったので、逆らうような批判的な記事は書けなかったのです。 日本は石油の80%以上を海外から輸入しなければやっていけませんでした。ところがアメリカは、日本に石油を輸出してはいけないというルールを作って日本を締め上げ、排日移民法で日本人移民を苦しめ、学校にも行かせない、土地も買わせない。日本が生きるためにはやむにやまれぬ戦争だったのです。戦争が悪であるのは間違いありませんが、GHQの最高司令官だったマッカーサー元帥も帰国後、アメリカの議会で「日本は自衛のために戦いをせざるを得なかった」と証言しています。 大東亜戦争前のアジアの国々はどうだったか。フィリピンはアメリカ、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、インドはイギリス、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランス、インドネシアはオランダの植民地でした。これらの国々は大東亜戦争の後、独立を勝ち取りました。その多くに日本軍人の協力がありました。 先般、安倍総理がインドに行かれました。インドと日本は100年の長きにわたる幅広い交流があります。皆さんがよく召し上がるカレーライスは、ビバリーボースというインドの革命家が日本に亡命して新宿にある中村屋という果物屋さんに匿われ、そこのお嬢さんと結婚して、日本人にカレーはどうかということで日本風のカレーが始まったわけです。 インド独立には、日本人が重要な役割を果たしています。日本が大東亜戦争でシンガポールまで攻め落とした時、英国側で働いていたというか徴用されていたインド人5万人が捕虜になりました。彼らに食料を与え、面倒を見たのが若干32歳の藤原岩市という日本兵でした。インテリジェンス活動が主だった人物ですが、5万人の捕虜をスタジアムに集め「あなたたちはこれからインド解放のために戦わなければならない」と大演説を行いました。そして、ドイツにいたインド独立運動の指導者チャンドラ・ボースを潜水艦でシンガポールに移し、彼を長に5万人のインド独立軍ができたわけです。それが今のインド国軍です。 チャンドラ・ボースは「インド解放のために無駄な死に方をしてはいけない」という日本軍の反対を押し切ってインパール作戦にも参加しました。日本は負け、参加したインド兵はニューデリーやカルカッタで英国の軍事裁判にかけられるわけです。しかしネルーやマハトマ・ガンジーが「裁判は不当」と立ち上がり、彼らを釈放させるとともにイギリスを撤退させ、独立を勝ち取るわけです。藤原岩市なければインド独立はなかったと言っても過言ではありません。 インドネシアはどうでしょうか。日本がオランダを追い出し、負けたところに再びオランダが進軍してきた時、日本軍人や民間人約250人が祖国に帰らずスカルノを助け、インドネシアの独立が実現したわけです。 今、私が政府代表として武装勢力と政府側の交渉の一助をしておりますミャンマーの建国の父と言われ、アウンサン・スー・チー女史の父親であるアウンサン将軍も、当時ビルマといったミャンマーの独立のために日本の訓練を受けています。日本敗戦後、南機関と言われる約30人の将兵がミャンマー人の若き兵士を教育してイギリスとの戦争を戦い抜き、独立を勝ち取ったわけです。ミャンマーの陸軍士官学校では今も30を越える日本の軍歌がミャンマー語で歌われ、軍艦マーチは現在も彼らの最も得意とする音楽の一つ、「匍匐前進」(ほふくぜんしん)などの言葉も残っています。 先ほど申し上げたパプアニューギニア。これはオーストラリアが占領していたわけですが、日本の敗戦後、柴田さんという日本軍の中尉が、パプアニューギニアの国父と言われているマイケル・ソマレ首相の右腕としてオーストラリアと戦いました。その後、国が独立、初の選挙にマイケル・ソマレが立候補した時に助けたのがB&G財団生みの親である笹川良一です。ソマレは伝記の中で「良一は自分の親父みたいな人だった」、「この名誉ある名前をいただいて、息子にマイケル・ソマレ・リョウイチの名を付けた」と書いています。 台湾の蒋介石は「恨みに対し恩を持って報いたい」と日本兵を無傷で返してくれました。台湾に移動する時、軍を強化しないと共産主義に負ける、ということで日本に協力要請があり、岡村寧次大将を中心に使節団が入りました。メンバーの一人で私のはるか先輩でもあった富田大佐は「共産党の赤に対して白で対峙する」と言って「パイ」という名前で現地に入り、現在の台湾軍を創設した人として大きな足跡を残しています。 それでは中国大陸はどうだったか。「国父」とまで言われる孫文の日本、ハワイ、香港での亡命生活の面倒をみた人に梅屋庄吉がいます。香港で写真屋から活動写真、映画館の経営で億の金を残し、孫文の活動を全面的に支え、仲人もしました。日中国交40周年事業として上海で梅屋庄吉展をやる計画になっていたのですが、現下の状況で中止になったのは残念です。 昭和24年か25年のことですが、毛沢東から日本の旧陸軍の人たちに「われわれが作った共産中国が本当に機能しているか見学して助言がほしい」という声が掛かり、一行25、6人が、香港まではパスポート、さらに密入国同然で大陸に入り、毛沢東が手配した飛行機1機に乗って1カ月間にわたって中国全土を視察したことがあります。一行は視察後、毛沢東の自宅に招待を受けました。横には周恩来も彭徳懐元師もいました。最年少者は陸軍士官学校を出る前に終戦になった当時29歳、現在は89歳の清水さんという方で、この時の資料が私どもの手元にあります。 それによると、視察団の団長はこの席で「とんでもない国になってしまった。毛沢東さん、あんた悪い。共産主義では、これからの中国はあり得ない。私はあなたのやり方に大反対だ」と言ったんですね。これに対し毛沢東は「ありがとう、ありがとう」と言いながら笑顔で話を聞いた。中国人もこれくらい腹は太かったんですね。それに比べ昨今の状況は少し情けない気もします。 「歴史にifはない」と言いますが、大東亜戦争という日本の戦いがなければ、アジアの国すべてが独立を達成するということはあり得なかったと思います。いまだにインドネシアはオランダ領、フィリピンはアメリカの植民地、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランス領、インド、ミャンマーは英国領だったかもしれません。 アジアは今や、世界で最も発展する可能性のある地域として注目されていますが、国づくりを初歩から助け、十数年前、アメリカの投資家ジョージ・ソロスが仕掛けたタイのバーツ売りでアジアの通貨が大混乱してすべて下落する中、買い支えをやったのも日本です。これによって、今日のアジアの経済発展があるのです。 皆さんは佐藤栄作元首相は沖縄返還でノーベル平和賞を受けたと信じておられると思います。それも一部ではありますが、アジアの平和と安定のために貢献したというのが一番の趣旨です。 私の話を聞いていただいて、日ごろの新聞報道などと相当違った感想をお持ちになったと思いますが、今、アジアの国の多くは「日本よ、今一度われわれの兄貴分として、世界のために、アジアの代表として存在感を示してほしい」と願っています。 (次回に続く) |