「陽明学は死んだのか」 [2013年10月11日(Fri)]
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「陽明学は死んだのか」 中国の明の時代に王陽明がおこした陽明学は、「人が人としてどう生きていくべきかを探究する学問」であり、本家の中国よりも日本に伝来した江戸時代以降に日本で広まったといっても過言ではない。 その基本は「知行合一」である。「知」をもって行うことを旨とし、「知」と「行」とは不可分であると説いている。 江戸時代の代表的な陽明学者は中江藤樹とその弟子である熊沢蕃山で、特に幕末の志士に大きく影響を与えたのは佐藤一斎の「言志四録」であった。陽明学に影響を受けたのは吉田松陰、杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山など歴史上の人物が多く存在し、大塩平八郎のように革命運動に身を投じた者も多かった。 影響を受けた明治の実業家には三菱財閥の創設者・岩崎弥太郎や大実業家・渋澤栄一などもいる。渋澤栄一は今から100年以上前に「実業家は会社経営に最高の倫理観を持つべし」と説いている。最近、何かといえば会社経営に「コンプライアンス(法令遵守)」が叫ばれているが、泉下の渋澤は、近代の経営者は志も倫理観もなく金儲け一辺倒で、下品になったものだと笑っていることだろう。 明治の脱亜入欧の思想が盛んになる中で、ともすれば日本の道徳倫理や武士道精神が退廃にさらされていると考えられ、それらを陽明学で蘇らせようという風潮があり、これが明治時代における陽明学熱の背景にあったと識者は指摘する。三島由起夫も影響を受けた一人で、読んではいないが、「革命哲学としての陽明学」があるそうだ。 戦後最大の陽明学者は安岡正篤先生である。歴代の首相の施政方針演説に筆を入れ、政治家や経営者の多くが門前市をなしたという。吉田茂、池田勇人、佐藤榮作、福田赳夫、大平正芳各首相しかりである。元号「平成」も先生の作であるといわれている。 拙宅(小石川林町)の近くにお住まいで、父・良一と仲が良く、おいでになったり参上したことも度々で、飄々とした人柄とお見受けしたが、私は当時高校生だったため直接ご指導を受けたことはなかった。ある時、当方の縁戚が高野山の管長に就任することになり、父が読み上げる挨拶文を書いて戴いた。目を通した父は私に対し、この挨拶文を何千人も聴衆がいると思って読めと、しゃべりながらの聴衆への目配りの仕方、声の出し方など教えてくれた。内容は記憶にないが、最後の「敬白」を「ケイハク」と読むと、この場合は「ケイビャク」だと言われたことだけが記憶に残っている。 当時は先生を師と仰いで門下生になることが一種のステータスであり、政治家も財界人も垂涎(すいぜん)の的で、勉強会に参加していることを自慢話として私に語った人も多くいた。 しかし「細木数子」事件で、門下生のレベルは私の知るところとなった。要するに、高名な先生のクローズドの勉強会に入ったステータスに満足しただけで、先生の教えを実践しようとは考えてもいなかったのである。 経緯はこうである。 1983年、先生は当時銀座のバーのマダムであった細木数子女史(その後テレビで占い師として有名になる)と結婚した。当時先生は85歳で真偽のほどは定かではないが、認知症の症状があったといわれ、細木女史が無理やり結婚誓約書に署名させたと噂になり、高弟を自称する財界人は、先生の晩年を傷つけまいと鳩首協議を重ね、極秘のうちに連れ出し、実兄のいる高野山にひそかに隠したのである。 しかし、細木数子女史は高弟を自称する財界人よりもはるかに度量が大きく肝(きも)がすわっていた。女史は先生が行方不明になると警察に捜索願を提出した。作戦を実行した財界人は、下手をすると刑事罪に問われかねない事態に狼狽し、簡単に居所を明らかにして一件落着となった。 かつて、蘭学者・高野長英の逃亡を、全国の陽明学を学んだ人々が連携して命懸けで助けた。高野長英の逃亡に関与すれば、死罪もしくは永久牢の時代である。それに比べ、先生の高弟といわれる人々の勇気のなさに愕然としたことを記憶している。 その後細木女史は、財産目当ての結婚とは思われたくない、先生から頂いた書以外は全て返却すると、東京地裁の調停に応じた。 先生の死後、追悼集が出版された。師と仰ぐ弟子たちの美辞麗句が並ぶ追悼文の中で、唯一父・良一は、「安岡さんは謹厳実直な学者であった。晩年の恋愛事件がなければ淋しい人生であったに相違ない」との異色の一文を掲載した。 今日、正にグローバリゼーションの時代。新自由主義の経済とやらで弱肉強食、金、金、金の時代になってしまった。外務省が大使を民間人からも登用したいと発表した時、有力財界人の一人は「安月給で責任の重い大使などを希望する人はいない」と公言した。 父は「このままでは日本は経済で栄え精神で滅ぶ」と、40年前に喝破した。 日本人の道徳倫理あるいは武士道精神再興のため、陽明学の役割は今こそ大切だと思うのだが、安岡正篤と共に陽明学も滅んでしまったのであろうか。 |






