「人生とは何ぞや?」―ノーパンである― [2013年06月03日(Mon)]
「人生とは何ぞや?」 ―ノーパンである― 親鸞の歎異抄(たんにしょう)、道元の正法眼蔵(しょうほうげんぞう)、デカルト、ヴォルテール、ヘーゲル、ヤスパース、カント等々は、全て難解で、読んだというより単に目を通しただけである。既に老化のために委縮・硬直した脳味噌は、その働きを停止している。しかし、一つ理解できることは、全ての哲人達が「人生とは何ぞや」と苦悩し続けてきたということである。 橋本 冶の名著「双調平家物語」(中央公論新社)は、その冒頭で「祇園精舎の鐘の声は諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色は盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」という。このことを全15巻を費やして説明している。 老境の私も死を意識せざるを得ない時期が到来し、真面目に考えてみようとするが、学問の蓄積のない我が身では、何ともならない。 先般、在日のインド大使を訪ねた折、千鳥が淵のお堀端に咲く満開の桜を眺めながら、西行の「願わくば花の下にて春死なん その如月(きさらぎ)の望月のころ」を思い出しながら突如閃いた。 人生とは「ノーパンである」、その心は「儚(はかない)いこと」であると、なんとも簡単なことではなかったか。人生は「儚い」のである。 しからばどのように残された人生を歩むのか? これは私にとってわりとはっきりしている。 出典は定かではないが、「この生を無駄にしないで『私は自分の出来ることをやった』と自ら言うことができるような人生を歩みたい。それが、私のわずかばかりの幸福(精神的)をもたらしてくれる唯一の方法です」 「キュリー夫人」 ハンセン病の世界制圧と彼らに対する差別撤廃と人権回復。 60年以上も闘い続けてきたミャンマー政府と少数民族武装勢力との和解の実現。 これこそいずれ死を迎える私の目指すわずかばかりの幸福なのです。 現在74才にして精神的には青春真っ盛り。 毎日、夜明けが待ち遠しく、感謝、感謝の毎日です。 |