ハベル大統領とアウンサン・スーチー女史 [2011年12月26日(Mon)]
ハベル元大統領の親書を手にするスーチー女史 ―ハベル大統領とアウンサン・スーチー女史― 「ミャンマー訪問」その1 12月18日のヤンゴン滞在中、眠りに入ろうとしたところ、同行の冨永夏子からハベル・チェコ元大統領の訃報を受けた。唖然・呆然の体(てい)でハベルとの16年間にわたる思い出が走馬灯のように駆け巡り、珍しく寝付かれなかった。 プラハにおいて二人で始めた国際会議「フォーラム2000」の今年のテーマは「民主主義と法」で、このことは既に11月21日ブログで披露済みだ。 思い起せば、第2回目の会議の直前、ハベルは重い病に倒れこれまでと観念したが、奇跡的に回復。その後、15回目の今年の会議まで毎年元気に出席された。 アメリカの9月11日同時多発テロ直後は、世界のすべての地域の国際会議が中止されたが、こういう時こそ開催の意義があると二人の意見が一致。開催したことも思い出の一つである。 クリントン大統領夫妻、ダライ・ラマ師、ワイツゼッカー独大統領、デスモント・ツツ大司教、デクラーク南アフリカ大統領、キッシンジャー等々、出席された多くの指導者の顔が浮かぶ。 毎回、この会議の出席者名簿にアウンサン・スーチー女史の名前があり、この10月、「出席の可能性のない彼女の名前を記載するのは如何なものか」との私の問いに、「彼女の存在を風化させないため、意識的に出席者名簿に記載している」との答えに、己の愚問にいささか恥ずかしい思いをした。 第1日目の会議の冒頭、サプライズとしてスーチー女史のビデオメッセージが披露された。会場ではどよめきが起こり、スピーチが終わると大きな拍手となった。前日の夜、クロスロード教会での開会式直前に二人で地酒「ヘベロスカ」を飲んだ時、「これは明日まで秘密ね」といたずらっぽく語り、グラスを口に運びながら嬉しそうに微笑んだ顔。会議終了後、ゾフィン宮殿の前で車に乗り込もうと2〜3人の関係者と話し合っている姿に「又、来年逢いましょう」と軽く手を挙げて別れたのが最後となってしまった。 スーチー女史のビデオメッセージを見つめるハベル元大統領 会議場に流れるスーチー女史のビデオメッセージ 今回、スーチー女史に面談を申し入れた理由の一つは、ハベルからの親書を手渡すことであった。女史にハベルの思い出を伝え、「この書簡は、多分、絶筆です。ハベル遺稿集作成の時は必要なので大切に保管してほしい」と伝えたところ「勿論ですとも。ハベル大統領は私の民主主義世界の心の友でした」としんみりと語り、「お悔やみ状を出してほしい」との依頼に、「当然です。確かに」と快諾された。 来年10月の「フォーラム2000」はハベル大統領を偲んで仮称「ハベル大統領の残したもの。そして、目指したもの」をテーマに、実現したいと考えている。そのころにはミャンマーの国政補欠選挙も終わり、めでたく国会議員に当選したスーチー女史が、こよなく女史を愛し続けたハベル大統領の遺影の前でどんな演説されるのか。是非、実現したいものである。 ハベルさん、ありがとう。 どうしても国葬に参加できず、唯一の心残りとなってしまった。 しかし、毎年15年間も続けて会った外国人は、多分私だけでしょう。 あなたからの書簡には、いつもサインのあとに赤色ペンでかわいいハートのマークがありました。 あなたから多くのことを学びました。 不撓不屈の精神力、ユーモア、そして地酒のベヘロフカ・・・。 謹んでご冥福をお祈りします。 |