涙の別れ、ノーマン・ボーログ博士の辞任 [2008年12月15日(Mon)]
![]() ボーログ博士と再会 「涙の別れ、ノーマン・ボーログ博士の辞任」 ノーマン・ボーログ博士は「笹川アフリカ協会」の会長を正式に辞任された。 94歳である。 ノーマン・ボーログ博士については、2006年11月7日、2007月7日30日、2008年8月13日のブログで掲載の通り、世界の偉人である。 アメリカではノーベル平和賞、大統領自由勲章、議会メダル保持者を三冠王といい、今までの三冠王はマーチン・ルーサー・キング、マザー・テレサ、ネルソン・マンデラ、エリー・ウィーゼル、ノーマン・ボーログと5人しかいない。 博士は2007年に「癌」が発見されたにもかかわらず、病身をおして、アフリカのマリ共和国・バマコで開催された「笹川アフリカ協会20周年」にして出席してくれた。2007年12月22日には「今日が最後」と、集中治療室入院中のボーローグ博士を診察した医師は家族に通告したが、奇跡的に回復した。 放射線治療を3、4種類やっており、免疫力もなく血液の異常もある。毎週のように輸血をするが、放射線治療は体に大きなダメージを与える。最後通告を受けながらこれだけの容体で生きているのは驚異的だ。側に付き添う笹川アフリカ協会のクリス・ダズウェルは「まさにフェニックスだね」と言いながら「信じられないと」いうように首を振る。 今回、ダラスの自宅にボーログ博士を見舞った。博士の子供は二人。 ![]() 「娘さんと息子さんがダラスに住んでいるということで、1985年に奥さんがダラスのこの簡素な家を買い入れたんだ。65年の結婚生活で一緒にいた時間はたったの15年だよ。娘さんがこの半年間がお父さんと一番話をしているって。父が病気になってよかったことは、ほぼ65年間離れていた家族がようやくゆっくりと話ができたこと。神さまの最大のお恵みだと言うんだ」とクリス・ダズウェルは涙ぐむ。 アフリカの貧困解決と飢餓の撲滅には貧しい農民に対する食糧増産指導しかない。「魚を与えるより魚の釣り方を教える」と、85才の笹川良一にうながされ、引退後の生活を楽しみにしていたボーログ博士を強引に引っ張り出した。 そしてカーター大統領の協力を得て開始したササカワ・グローバル2000計画は、1986年にガーナ、スーダン、1987年にはザンビア、1988年にタンザニア、1989年にベナン、1990年にトーゴと、活動は拡大していった。 最大14ヶ国まで拡大した事業は「原点に戻り、アフリカで学問的にも評価されるようなしっかりした成功のモデルを作ろう」と、エチオピア、マリ、ウガンダ、ナイジェリアにしぼった途端、ビル・ゲーツ財団、ロックフェラー財団等が「アフリカに緑の革命を」と、協力を申し出てくれた。 ボーログ博士を中心にした我々の戦いは、決して平坦な道のりではなかった。世界銀行の無理解、西側環境NGOからの化学肥料の使用に対する攻撃。何よりもアフリカ諸国の国家指導者の農業への無理解は、我々の活動の大きな制約となった。 アフリカ統一機構(AU)への陳情、アメリカ議会への陳情は「アフリカは選挙区ではないからね」の一言で厄介払いされたこともある。 しかし我々の執拗な努力は、今年6月、横浜で開催された第4回東京アフリカ開発会議で民間人の私に異例のスピーチの機会を与えてくれた。笹川アフリカ協会の宮本正顕常務理事、伊藤道夫氏の外務省、JICAへの地道な働きかけと実績が認められた結果である。 22年間にわたる我々の闘いは若手女流ジャーナリスト・大高未貴さんの「アフリカに緑の革命を!」(徳間書店)に詳しい。 この夜、アフリカから参加した現地スタッフ幹部と笹川アフリカ協会の理事であるソグロ・ベナン共和国元大統領、ビクトリア元ウガンダ副大統領、カーターセンターのハードマン専務理事をはじめ、ノーマン・ボーログ博士、そのご家族が一同に会しての夕食会となった。私はボーログ博士とその家族への感謝の言葉とノーマン・ボーログ精神をアフリカで引き続き堅持拡大することを誓った。 「本来ハッピー・リタイアメントで家族と共に過ごせたはずの大切な時間を、強引に、無理矢理アフリカに引っ張り出した。しかし、博士のお蔭で何百万人の貧しい農民に夢と希望を与えることができた。この事をもって家族の皆様にお許しをいただき、お詫びを申し上げたい。22年間にわたる笹川アフリカ協会・ノーマン・ボーログ博士の会長辞任を正式に決定しました。今日、ただ今、博士を正式にご家族にお返し申し上げる。」 私は涙もろい人間ではあるが、父母の死の時でさえ人前では泣かなかった。しかしこの日の夕食会では、数々の出来事が走馬燈のように脳裏をかけめぐり、最初から最後まで、落涙と嗚咽のスピーチとなってしまった。 ![]() 自分自身にとって初めての経験であり、恥ずかしいことになってしまった。同行の富永夏子より「家族の方も遠路アフリカから来た人も泣いていました。会長の誠意は十分ご家族の皆さんの理解を得られたと思います」と慰められ、通訳の平野加奈江さんからは「私まで泣かさないでください」とお叱り? を受けた。 翌朝、鏡に向かったところ、まだ両まぶたが腫れていた。帰国後、「ボーログ博士は突然元気が出て車イスを降りて歩き出した」との報告をいただいた。2007年、医者からの最後通告時に宮本正顕さんが用意してくれた弔辞の下書きは、静かに破いてしまった。 何としても来年3月25日、95才の誕生日を共に祝いたいからだ。 22年続いた「笹川アフリカ協会」は「ササカワ・ボーログ・カーター・アフリカ協会」と名称変更する予定である。 |