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「アフリカ問題とTICAD」その2 [2008年08月13日(Wed)]

「アフリカ問題とTICAD」その2


世界から飢餓がなくなる日まで
NGOの22年におよぶ軌跡を追う
アフリカの食糧問題の根本的な解決を目指して、1986年に設立された笹川アフリカ協会(SAA)。ガーナとスーダンで始めた笹川グローバル2000(SG2000)は、これまでに14の国で実施され、従来の2〜3倍の穀物増産に成功している。現在活動中の4カ国のうち、ウガンダとエチオピアを訪れ、農民たちの声と、農業普及員の農業にかける思いを聞いた。


食糧問題の根本的な解決を目指して 
骨が浮き出るほどガリガリにやせた手足と膨れた腹、うつろな瞳でこちらを見つめる子供たちー1983年から84年にかけてサハラ砂漠以南のアフリカ諸国を襲った大規模な旱ばつは、人々を食糧不足の危機に陥れた。この悲惨な光景をテレビなどで見て、覚えている読者もいることだろう。

このときの国連総会では「アフリカの危機的な経済情勢に関する宣言」が全会一致で採択され、「大規模な緊急援助」と「持続的な経済・社会開発」が急務とされた。また、アイルランドのミュージシャンであるボブ・ゲルドフの呼び掛けで集まったイギリスのロックミュージシャンらによるチャリティレコードが記録的にヒットし、そのニュースは瞬く間に広まった。

財団法人日本船舶振興会(通称:日本財団)初代会長の笹川良一氏(当時)もテレビでその様子を見ていた。それまで世界各地で災害援助を実施してきた同会は、イギリスの大手マスコミであるミラー・グループが組織したエチオピアン・アピール・ファンドから飢餓救済のための資金援助の要請を受け、10万ポンドを拠出。それは、援助物資へと姿を変えてエチオピアに運ばれ、多くの命が救われた。

しかし、食糧生産が向上しない限り、旱ばつなどに襲われる度に食糧が不足し、飢餓は再発する。そして、そのとき諸外国が援助する保証はどこにもないのではないかーそう考えた笹川氏ら日本財団幹部は、飢餓の問題を根本的に解決するため、アフリカの生業である農業の生産性向上を目的とした、アフリカ農民の自助努力を促す形での協力をしようと動き出した。

当時のアフリカは、増え続ける人口と劣化していく土壌のため、旧来の農業生産システムでは到底食糧の供給が間に合わないことは明白だった。そこで、インドとパキスタンで米生産の劇的な増産に成功した「緑の革命」の功績でノーベル平和賞を受賞したノーマン・ボーローグ博士に相談。

当時既に70歳だったボーローグ博士は、高齢のために引退を考えていたが、86歳だった笹川氏の熱烈なプロポーズを受け、協力を決めたという。また、カーターセンターの代表としてアフリカで公衆衛生事業を展開していたアメリカの元大統領ジミー・カーター氏からも、積極的な賛意が寄せられた。ここに笹川の強い決意と資金力、ボーローグの技術力、カーターの政治力が結集したのだ。

そして、農業開発の専門家と議論を交わした結果、アフリカの土地と気候に合った新たな農耕法を根付かせる必要があるとの結論に至り、その方法として、農民と密着した長期的な努力が肝要と判断。専従の専門スタッフからなる組織の立ち上げが不可欠とされ、86年に笹川アフリカ協会(SAA)を設立し、笹川グローバル2000(SG2000)が開始された。

ガーナとスーダンで始まったSG2000は、これまでにタンザニア、ベナン、トーゴ、ナイジェリア、エチオピア、モザンビーク、ウガンダ、エリトリア、ブルキナファソ、マリ、ギニア、マラウイの14カ国で実施されてきた。プロジェクトを始めるにあたり、対象国には必要条件が設けられた。それは第1に、零細農民の生産性を向上させるために必要な技術と情報が存在していること。次に、食糧生産性が低いこと、第3に、人口の大部分が貧困ラインにあること。そして第4に対象国の政府が小農の生産性向上のために農業普及部門を改善させる意欲があること。

SAAの活動の詳細が書かれた『サブサハラ・アフリカにおける飢餓根絶を目指して』を執筆したSAAの伊藤道夫氏によれば、「実は、当時のアフリカにはすでに農業の近代化を進めるのに十分な研究成果が備わっていたが、問題はその技術が普及していなかったことだ」と指摘する。例えば、国際農業研究協議グループ(CGIAR)傘下の農業研究センターでは、アフリカの環境に合った品種の開発と改良を進めていたが、研究の成果が生産現場である農村へ行き渡っていないことが問題であった。

そこでSG2000は、普及部門に光を当てることに重点を置いた。その手法は、少量の化学肥料と優良な種子の利用を含む新しい農耕法を、現地の農民と同じ目線に立って指導するというもの。農業普及員との農民の努力によって、現在では多くに農民が従来の主要穀物収穫の2〜3倍を手に入れたという報告は、ほぼすべてのプロジェクト実施対象地域において実証済みだ。

ウガンダ
従来の方式に代わるアイデアと他機関とのつながり

では具体的にSG2000の手法とその特徴とはどのような点にあるのか。また一定の食糧増産を達成し、次に取り組んでいる試みは何か。ウガンダの事例をもとに見てみる。

ウガンダでのプロジェクトは、97年に正式に始まった。同国はほかのサブサハラ・アフリカ諸国と比較して、気候・環境とも農業をするには恵まれた位置にあるが、「最初から試行錯誤の連続だった」と振り返るのは、97年にカントリーディレクターとしてウガンダに移り住んだアブ=マイケル・フォスターさんだ。

穀物生理学者の彼は、それまでSG2000のスタッフとして、ガーナやナイジェリア、タンザニアなどでプロジェクトに参加し、SG2000の手法を取り入れた農民が収穫量を上げるのを見てきた。だが「ウガンダでは、従来のSG2000方式が通用しなかった」という。従来の方式とは、農業普及員がプロジェクトの参加農民に種子や肥料を有償で提供し、技術を農民自身の土地で試すことができるようにすること。

農民たちは、農業普及員の指導のもと、改良品種を1農家あたり各1エーカー(0.4ヘクタール)に植え、隣の耕地では従来と同じ農法で耕作を進める。この手法によりこれまでの育て方とSG2000との収穫量の違いをはっきり目にした農民たちは、栽培方法を変えることによってより多く収穫できることを体感して自信をつけ、近隣の住民に伝えるなどして広がっていった。

だがウガンダでは、農業普及員が種子や肥料を配ったり費用の回収に携わることが法律で禁止されていた。「農業普及員は技術指導などの普及活動にのみ専念すべき」という当時世界銀行が設けた原則に従わなければならなかったのである。

そこで、フォスターさんらは、民間の小売業者が零細農民に直接生産財を販売するシステムを考案。ウガンダに限らず、種子や肥料を扱う業者は購買力の低い零細農民が相手では商売にならないと、農村での販売網を持たないことが多いが、業者の参入を促すためSG2000では小売業者の仕入れ値を保証する「生産財保証制度」を編み出したのだ。

これは、小売業者がSG2000から生産財を仕入れる際に、仕入れ値の30%を頭金として現金で支払い、15日後にはさらに20%、残りは30日以内に完済するというシステム。この制度に後押しされ、96年〜97年には、65人の小売業者が参加農民に計10トンの生産財のパッケージを販売。2000年には192人の業者が参加して、トウモロコシや豆類、ミレット、ソルガム、キャッサバの種子と肥料を4000人以上の農民に販売した。

この方法が確立したことで、農村への生産財供給効率は格段に上がった。こうして従来の方法に代わるアイデアとその実践によって農民の収穫が増え、この成功は、世界銀行の融資にもつながったほか、米国国際開発庁(USAID)やNGOと連携して支援を行うきっかけになった。

また、ウガンダでは、地方分権化が進んでおり、政府農業省が果たす役割により、地方自治体が地域農民と接触する機会のほうが多い。そこで、SG2000では、農民の組織化と発言権の強化を目指して広い地域をカバーする組合を設立し、農民自身が運営できるように支援してきた。この取り組みはワンストップセンターアソシエーション(OSCA=農業共同組合)と呼ばれ、現在十数か所で活動が進められている。

ここのOSCAは、日本の一村一品運動のように、重点的な「生産―加工―販売」
のための作物を決め、植え付けから市場への販売まで、つながりのある環を築くことを目標としている。

広がる米栽培
そうした経緯を経て、SG2000が現在ウガンダで特に力を入れているのが、米の普及だ。成長著しい都市部では、これまでぜいたく品だった米の消費が急増しているが、現状では、消費量の約4割を輸入に頼る状態だ。そこで、高収量のアジア稲と病気や雑草に強いアフリカ稲を交配することによって生まれたネリカ(New Rice For Africa:NERICA)が注目を集めている。大規模な灌漑設備や肥料の大量投入をしなくても栽培でき、ほかの穀物に比べて高く売れるため、食糧不足の緩和と農民の生活向上に役立つと期待されている。

ウガンダの首都カンパラ郊外にある国立作物資源研究所(通称ナムロンゲ農業試験場)を拠点に、東・南部アフリカ諸国で活動する。ネリカ普及の第一人者、坪井達史さんと会うことができた。国際協力機構(JICA)の個別専門家として、SAAと協力して米の普及に取り組み、現在、4人の現地研究者とともに、品種試験、除草試験、テラス栽培試験などを行っている。


「約3年半前、ウガンダに赴任したとき、米の研究者は皆無、農民たちも皆、米栽培に消極的だった」と振り返る坪井さん。だが、米に関する豊富な知識・経験と米普及への情熱、そして、その実直な人柄で研究者や農民の米栽培への意欲を引き出し、多くの農家の収入向上に貢献している。02年から本格的にネリカ生産・普及に力を入れ始めた政府の政策ともあいまって、近年のアフリカの米需要は6%も増えている。

ネリカ栽培に取り組む農民たちに話を聞いた。昨年12月からネリカ栽培を始めたワキシ県ファトゥマアリカバ村のナカバゴ・シナムさんと妻のアリコバ・ファトゥマさんは、それまでトマトやメイズ、白コショウなどを育てながら、ほぼ自給自足の生活をしていた。だが、SAAの農業普及員に教わりながら、今回初めて1エーカーの農地で米づくりに挑戦。収穫期には、予想以上の収穫を上げ現金収入を得ることもできた。5人の子どもを持つ2人は、「今後耕地を広げ、より多くの収入を得て、子どもの教育費に当てたい」と話している。

現在、1キロ焼く1,000ウガンダシリング(約67円)で売れるネリカは、この国の農家の平均的な陸稲栽培面積(約0.3ヘクタール)で作っても、順調に育てば一度に在来種の約3倍(=850キロ前後)が収穫できる。一年に2度雨期がある同国で、生育日数が90日前後と短いネリカは年に2度収穫でき、貧しい自給農民にとって現金収入を得られるカギとなりつつある。

また、昨年SAAが初めて受け入れた青年海外協力隊員も、坪井さんの指導のもとでネリカ普及に当たっている。短期ボランティアとして首都カンパラから車で約2時間のところにあるワイサガ村で活動する花田博之さんは、土地の高さやテラスの幅、水量などの違いによる稲の成長度を見るため、村の耕地の一角を借りて照らす栽培を行っているほか、ストライガーと呼ばれる寄生植物を使った実験などを行っている。実家が米農家だという花田さんは、「他地域とは土壌が異なるここでの栽培はまだ実験段階。農家の人たちの米の収穫量を増やす手助けになれば」と坪井さんに報告している。

協力隊の村落開発普及員として、ジロベに派遣されている中路潤子さんの活動の一つは、ライスミルと呼ばれる移動精米所の運営だ。米の収穫の時期になると、機械オペレーターら4人と泊りがけで各地を回り、農民の米の脱穀・精米を支援している。「米を見ると、日本人の血が騒ぐんでしょう。隊員のなかには、初めて畑に入る人もいるが、みんな真剣に取り組んでいる」と期待する坪井さん。今後、JICAと話し合い、協力隊の人数を倍増する予定だ。JICAが日本のNGOに隊員を派遣するのは初めてのことだが、JICAウガンダ事務所でもさらなる連携の可能性を期待している。

エチオピア
政府との強力なパートナーシップ

ウガンダから飛行機で約2時間、次に向かった先は、アフリカ連合(AU)の本部に置かれていることでも知られるエチオピア。同国は91年まで台頭した独裁者メンギスツの社会主義政権の失政と内線で崩壊状態にあったが、近年の経済成長は目覚ましく、過去5年間GDP成長率は毎年10%前後の伸び率を記録している。町を歩くと、きれいに舗装された道路と建設中のビルや大型スーパーマーケットが立ち並び、その発展ぶりを垣間見ることができた。

93年に同国で始まったSG2000の活動の特徴は、政府との強力な連携のもとで進められていることだ。独裁政権を相手にゲリラ闘争を指揮し、暫定政府の首班となったメレス・ゼナウィ現首相は、94年9月、農業を基盤とした工業化の踏み台として小規模農業の発展を目指す政策「農業開発主導の工業化」を打ち出し、その具体的戦略を探っているところだった。

メレス氏は自らプロット(圃場)を視察し、身分を隠して農民と語ったり、農業に詳しい専門家を招集してSG2000にかかわる農村で聞き取り調査をさせるなど、1ヵ月にわたって綿密な調査を行った。その結果、SG2000を高く評価し、「SG2000の方法を使った生産試験を政府の資金で行いたいので、普及局の計画作りを手助けてほしい」と申し入れたという。

そして95年に政府独自の資金と人員を導入して全国に3万5,000ヵ所の技術展示圃場を展開。そして、96年の穀物収穫量は1,200万トンを越える大豊作となり、翌97年には余剰穀物を近隣諸国に輸出できるまでになった。同国には、まだ旱ばつの被害に合う地域もあるが、政府主導のプロジェクトは年々広がっている。

増えた穀物をムダにしないために
零細農民への穀物増産技術移転そのものはエチオピア政府の手に委ね、SG2000は現在、テフ、QPM(高たんぱく質トウモロコシ)の技術指導など、乾期の作物栽培の面で協力を行っている。また、穀物の増産が実現しても貯蔵設備がしっかりしていなければ、腐らせてしまったり虫害で損失を出してしまうため、食品加工技術の普及にも力を入れている。

アフリカの農村では、収穫量の20〜40%が収穫後に失われているほか、収穫期には作物がいっせいに市場に出回るため価格が大幅に下落し、農民の収入が少なくなる。そこでSAAは、貯蔵施設の改善と作物を販売用に加工することを目指して食品加工機械を開発し、現地で製造して安く供給できる体制を整えている。人力の機械は農家単位で購入し、エンジン駆動の機械は村落単位や小規模な商業農家が購入できるようにしている。

エチオピア事務所唯一の日本人、間遠登志郎さんに案内されて、脱穀機の製造・販売を行っているセラム職業訓練校を訪れた。同校は、86年にスイス人の夫婦が飢饉やエイズなどで親をなくした子どもたちのために孤児院として始めた施設で、今や職員数200人、生徒数450人の大きな学校へと成長を遂げた。機械づくりだけでなく、牛ふんを使ったバイオガス発電や養蜂、野菜栽培、農村女性グループの生活改善活動の支援などを行っている。SAAは同校に対し、技術指導のほか、職員の給料補てんと作業コストの一部を負担している。

「最近、脱穀機の販売台数が増えている」と嬉しそうに話す間遠さん。その理由は、脱穀機づくりを手掛ける青年の言葉にヒントがあった。「間遠さんの製品管理に関する指導は厳しく、こんなもんでいいだろうという妥協が通用しない。機械を買って利用する農民のことを考えながら作ることを学んでいる」。一つひとつの製品にかける想いと技術が、利用者の信頼を得て、販売数の伸びにつながっているのだ。

また、卒業生も同校で学んだ技術を生かして活躍している。05年からアディスアベバでインターネットショップを経営しているベカビル・チャリティさんは、5歳で母親に捨てられ孤児院などを転々とした後、12歳のときにセラムにやってきて、製図の基礎を学んだ。それまでの苦労ははかりしれないが、「セラムでは、良い教員や友人に恵まれ、人としてのモラルや、努力次第で自分にも何かできるだろうという自信をもらった」とさわやかな笑顔を見せる。店が軌道に乗り始めた今、チャリティさんは、2人の孤児に奨学金を与え、学校に行かせているという。

次に、同校の生徒が生活改善活動などの形でかかわっている、オロミア州トゥルボロの農村女性グループを訪れた。ベチョという村の女性48人が集まるこのグループは、大麦や小麦、豆、野菜などを加工して販売するビジネスを始めている。農産物の加工技術や販売・流通のノウハウを教わったテナン・ラガサさんは、「SG2000に参加して農産物の加工方法や保存・パッケージの仕方、販売に必要な会計の知識などを学び、現金収入にもつながった。最初は反対していた夫も理解してくれるようになった」と嬉しそうに話す。農村では、女性が家の外で働くことを好まない地域も多く、彼女のように夫に反対されて外出しづらい状況にある女性も少なくない。だが、女性が自分達の手で農産物加工の技術を身に付け、ビジネスを始めたことは、その家族や他地域の農村にも影響を与えている。

農村女性に技術指導を行うアイェレッチ・ラマさん(46)は、05年にSAAの生活改良普及員となった。それまでの22年間、農業省の職員として働いていたが、農村女性の事情に精通し生活改善のための具体的なアイデアをたくさん持っていることが評価され、SAAにスカウトされた。「SAAと出会って本当に良かった。フィールドで農家の人たちと一緒に活動し、彼らの成長を見るのが楽しくてしょうがない」というアイェレッチさん。一見、物静かで穏やかだが、これからも農民とともに活動を続け、アフリカの食糧増産に貢献したいと燃えている。

押し寄せる批判と現場の現実
SG2000を始めてから今年で22年。エチオピアで立ち寄った小さなコーヒーショップの店主が「ササカワ知ってるよ」と言うほど、アフリカで最も有名なNGOの一つとなり、日本や各国の援助機関やNGOなどがそのノウハウを吸収しようと現場を訪れるようになった。だがここまでの道のりは決して平たんなものではない。

批判も多い。SG2000は、収穫量の増大を現実的に見据えて少量の化学肥料を使っているが、先進国の環境保護団体や学者などが、化学肥料を「悪魔の塩」と呼んで攻撃してくることもあったという。だが実際には、アフリカで使用している化学肥料は先進国の10分の1以下。

先進国でブームとなっている有機農法をアフリカでも採用すべきだという意見もあるが、現地の農業普及員たちに言わせれば、「実際に自ら貧しい農村地帯に足を運んで現状を見れば、そういった傲慢な押し付けはできなくなるはず。農村の手元にあるごく限られた植物の残りかすは、有機肥料としてではなく動物の肥料として使われ、また、牛フンは燃料として利用される。こうした中で作物の生育に必要な栄養分が十分にとれず生産が伸びないばかりか、土壌も劣化していく」と訴える。

SAAは、現場主導のやり方を貫いてきた。プロジェクト全体を運営し方針を決定するのはSAA理事会の役目だが、穀物増産の実証とその全国的な拡大はすべて現場にまかされている。農業は生き物であり、気候は刻々と変わる。一つひとつの活動が迅速でなければならないことは言うまでもない。また国によって組織・担当者に特徴があるし、どこをどう押したら何が動くのかを一番よく知っているのは、その国で働く人々だ。本部首脳はこの考え方を基本に、めったなことでは現場のやり方に口を挟まない。この現場主導の形が成功を生み出してきたことは間違いない。

帰国前夜に聞いたマドお産の言葉が印象的だった。「アフリカにはたくさんの問題があって、その膨大さに比べたら私たちの支援はわずかかもしれません。支援が届かない地域もたくさんあります。でも、小さなことでも積み重ねていけば、状況は必ず変わっていきます」。長年、アフリカの人々とともに歩んできた当事者のせりふは、確信に満ちた重い言葉だった。

ここ22年、世界銀行やその他多くの支援団体が農業改良技術支援から距離を置く中、SG2000は常にその重要性を直視してきた。その成果がようやく現れ始めている。

(本誌編集部 新海美保)

ここに注目!SAFEプログラム
SG2000の手法を確実に農村へ根付かせるための最も重要なポイントは、現場で農民と一緒に働き、農民を取り巻く週刊や文化を理解し、さらに十分な専門知識をもって指導にあたる優秀な人材の確保だ。

SAAでは、このような人材を育成するため、1993年からSAFEプログラムを開始した。これは、9カ国10大学に農業普及学科を開設し、そこで農業普及員が学ぶための奨学金制度を運営するもの。これまでに1,400人の農業普及員がこのプログラムによって専門教育を受け、学位を取得し、現場に戻って活躍している。このように、優れた技術の伝達と、それを支える人材育成の両面の支援を行うことで、これまで成功を収めてきた。
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