イスラム圏のハンセン病病院 [2007年12月19日(Wed)]
![]() ムンバキ・サナトリウム(アゼルバイジャン)で入所者の女性と 「イスラム圏のハンセン病病院」 世界各地のハンセン病病院とハンセン病回復者の施設を訪問している私にとっても、イスラム圏のトルコやアゼルバイジャンの施設の訪問は初めてであった。 笹川記念保健協力財団の山口和子女史は、世界のハンセン病の歴史と現況についての世界的な権威者である。彼女の案内で、トルコのイスタンブール郊外にある『トルコ・ハンセン病病院』と、アゼルバイジャンの『ムンバキ・サナトリウム』を訪問した。 トルコ・ハンセン病病院創設者のサイラン先生は既に隠退されているが、私の訪問を知ると、わざわざ病院まで来てくださった。 ![]() この日のために会いに来てくれた創設者のサイラン先生 トルコ人を父に、スイス人を母に持つサイラン先生は、1958年、医学生の時、ハンセン病患者が家畜小屋同然の施設で不当な扱いを受けているのに憤りを感じ、正義感から彼らのために働きたいと決意したという。 当時は、医師も患者に対し差別思想があり、不妊治療もあったという。しかし「イスラム教の中では『患者からは遠ざかれ、ライオンのごとく早く逃げろ』と、伝染を恐れた言葉はあるが、差別思想はなく、相互扶助を勧めている」と説明してくれた。 先生は、早くからハンセン病の医療的治療だけでなく、社会的差別にも着目。患者が、家族は勿論のこと地域社会でも受け入れられるよう啓蒙活動にも努力された、先見性のある活動家であった。 今は後継者が病院を預り、数十人が後遺症の治療のために入院していたが、故郷での生活に支障はないという。トルコでのサイラン先生のご努力は確実に実っていることが実感できた。 アゼルバイジャンのムンバキ・サナトリウムは、バクーからカスピ海を左に見て舗装道路を南下すること40km。ムンバキ(バクーの母の意)の道路標識をみて右折。 ゴビスタン砂漠ならぬ土漠地帯の悪路に入る。全身マッサージを受けているようなガタガタ道を走ること約1時間。突然遠方に小じんまりとした木々に覆われたオアシスのような集落が見えた。 やっと着いたと安堵したところ、同乗の山口女史より「あの集落にはサナトリウムはありません。少し離れたところに孤立してあります」との説明。しばらく行くと黒い屋根のムンバキ・サナトリウムが現われた。 ![]() みすぼらしい格好の医院長らしい男と、体格の良い2〜3人の看護婦さんが出迎えてくれた。 50年間も改装なしで使用された部屋は、窓は壊れ天井には小鳥の巣がある全くの廃墟であった。幸い、バクーのNGO(非政府組織)の協力でリニューアルされた棟には、小奇麗に飾った部屋に老婆が生活しており、暖かく迎い入れてくれた。 入所者は老齢者が多く、グルジア、アルメニア、ロシア、アゼルバイジャンの人達で、現在30名がここで安らぎを得ている。1960年代には170〜250人の収容者がいたという。 院長に「このサナトリウムは重監房(群馬県草津・栗生楽生園のような)はなかったのですか」と不躾な質問をしてみた。「ありません。アストラハン(カザフスタン)か黒海のソチ近くのSTAVKOVOLにありました」と率直に答えてくれた。初めて聞いた話であった。 現在のサナトリウムは数百本の柿、ザクロの果樹園の中にひっそりと佇んでいるが、「昔は毒蛇の生息地で真夏の温度は50度を超え、訪ねてくる人もいなかった」と、年老いた回復者は山口女史の持参したケーキを口に入れながら語ってくれた。 院長は入所者の撮影は禁止と、当初は東洋からの珍客に固い表情であったが、入所者の暖かい歓迎振りに撮影もOKとなった。 施設の改装、洪水で破壊された塀の改修をはじめ、いくつかの要望が院長から出されたので「よくわかりました。保健大臣に伝えましょう」と返答した途端、 懇願するような表情で「それはやめてくれ、私があとで責められるから」と一旦は断わられたが、 「『サナトリウムの運営は大変うまくいっているのには感心したが、更に良くするには部屋の改装や塀の修理も必要かも知れない』と面子を傷つけないように話してくれ」と再度要望された。 この国の体質の一部がわかったような気がした。 |