座禅体験に行ってきました! [2013年08月29日(Thu)]
静謐な境内に本堂が佇んでいる。達筆すぎて読めない文字が書かれた板がそこかしこにある。合宿中という子供たちの遊ぶ声だけがこだまする中、私たちは靴を脱ぎ、畳敷きの間へ。
気持ちが何となく張り詰める。自分は今、緊張していると思った。座禅で緊張はよくない、と考えるのだけれど、どうしようもない。 住職の佐藤さんは穏やかな方で、座禅の作法を私たちにわかりやすく教えてくれた。結跏趺坐という胡坐に似た座り方をするらしく、実際にその座り方を試してみると、足がガッチリ固定され足裏が宙を向く形となり、普段座っているときに感じる感覚がひとつ消えた。 座禅中のことはここに書かない。「無我」でいることが求められる座禅は本来、やっている最中のことを意識しない行為のため、自分の心がどこにあるのかよくわからなくなる。時間の経過も判然とせず、ただじっと目の前にある木目を見つめる。木目がだんだんどうでもよくなり、これはゲシュタルト崩壊というやつだな、と思った。 1回目の座禅ののち講話があり、再び座禅を行う。2回目は1回目より長い時間をとったらしいが、無心に座っているとそれがわからない。ただ、結跏趺坐の足の組み方が徐々にキツくなってきて、痺れてきた。背筋も伸びていたはずだが、よくわからない。周囲の音と人の気配だけが濃密に感じられる。唐突に終わりの時間が来て、その後住職さんから般若心経の解説を聴き、本日の座禅体験はつつがなく終了した。 以上、似非小説風に書いてみました。 講話について。仏教の専門用語が多くて、正直よくわからない部分がたくさんあったのですが、住職の佐藤さんがドーナツの穴という非常に身近なたとえで説明してくれたので、なんとなくだけど感覚的に理解できたように思います。 生まれてきた人間は生きたいという欲求をもっている。生きていくうちに、ドーナツの本体――私が自分の言葉で書くなら玉ねぎの皮――を自分で作り上げ、そのイメージに翻弄され、抜け出せなくなり、グルグルと迷走して、ドーナツや玉ねぎは毛糸玉のようにこんがらがって身動きが取れなくなり、苦しむ。ものごとに執着しだしたらきりがなくなるので、一度「なににもとらわれない状態」になる必要がある。そのためには「私」を意識せずに、それが空っぽで、言ってしまえばイリュージョンのようなものだと知る。それが「無我」であり、悟りである。みたいな感じに私は受け取りました。 皆さんそれぞれ、住職さんのお話を聴いて思うところがあったでしょう。 おまけ。もし「無我」を体験できたとしたらの話。悟ったのちも世俗的な日常は続くわけで、今の世界で悟り状態を維持できるかは疑問が残ります。悲しいことに、貨幣経済、資本主義とは相いれないと私は思うのです。 それでも、幸福と不幸、善と悪、生と死。それら2項対立を超えた視点を獲得したいものです。それができたら意義深い人生になるはずなのですが、難しいですね。 ……なんだかとりとめもなく長々と書いてしまいました。今日の体験はそれだけ考えさせられました。 西明寺の住職である佐藤道春さんに、この場を借りて改めてお礼申し上げます。 日常では体験できないことを体験させていただき、ありがとうございました。 合掌。 |