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教育『教え育てるではなく育むことを教える』1989年6月号 [2006年02月19日(Sun)]
教育『教え育てるではなく育むことを教える』

 どうした風の吹きまわしか、最近人前で話す機会が多いのです。教育委員会の主催する講習会や地域のグループ等々です。話しをさせてもらうだけでもありがたいことなので、時間のあるかぎりうかがいます。話しをするということは、考えをまとめるのにとても役にたちます。今までボーとしていたことが少しはっきりしてきました。そんな中からひとつ思っていることを書きましょう。

◆『教育って?』

 教育って何なのでしょう。学校教育・社会教育・家庭教育。色々な場面で色々な教育があります。学校教育は、理科や社会、算数に国語などを教えます。なるほど学校での教育は、『教え育てる』ものなのかもしれません。

 社会教育や家庭教育はどうでしょう。何を教えるのでしょうか。よく社会教育で見かける言葉を紹介しましょう。『よりよい人格の育成』どうですか。そうなんです。なぜなら、知識ではなく、育てる方が主になるんです。なぜなら、知識ではなくて、心の問題に取りくまなくてはいけないのですから、そうするとこちらの教育は『育てることを教える』となります。ちょっとよくわからないですね。読み方をかえてみましょう。『育む(はぐくむ)ことを教える』。いかがですか。『育む』と言う言葉はこんなふうに使います。
 ・愛を育む・友情を育む・心を育む・命を育む
 今、世の中で欠落しそうな単語が前につきますね。

◆生と死

 『育む』と言う言葉についてお話ししてきました。これを伝えていく方法は唯一、実際に命を育んでみるしかないのではないでしょうか。それは裏をかえすと、命の誕生と成長、そして死をみつめることになります。植物でも、動物でも、みな同じです。

 ところが現実は道路ではねとばされた犬や猫。彼らは次々にひかれ、消えていくのです。命あるものがこんな死に方をするのは少し悲しくありませんか。あってはいけないことなのです。その犬や猫をはねた人は、ひきにげをしているのです。そして、その死骸を見ても車を止め、なんとかしてあげられない自分にもはらがたつのです。

 世の中が、人間以外の命をこんな風に軽んじはじめたのはいつからなのでしょうか。最近のニュースにありました。うさぎを生き埋めにした先生。うさぎやにわとりを、なぶりごろしにした少年達。他にもたくさんあります。今、子供達は、そんな命の軽視の中でそだっています。

 『育む』ことを軽視する社会。そんな社会に少しさからってみたいとおもいます。子供といっしょに育むことを考え実践できる教育を身につけたいと思っています。ご意見下さい。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1989年6月号】
『原子力より原始力』1989年4月号 [2006年02月19日(Sun)]
原子力より原始力

 国際自然大学校にはダイナミックチャレンジというプログラムがあります。小学生の三十キロから大人の百キロまで、夜を徹して歩くのです。これは国際自然大学校の名物プログラムとも言えるかもしれません。

 さてこのプログラムで子供といっしょに三十キロを歩いている時のことです。途中の道路わきに、自動車会社ンショールームがいくつもあります。
 私はひとりの子供に、『何で夜も電気つけておくのかな』と質問されました。
 私はとっさに答えをさがしながらも『どうしかネ』と返答をせずにいました。

 私は答えを持っていました。
 どろぼうが入りにくいように。夜でも少しでも多くの人に見てもらえるように。そんなふたつの答えです。しかし同時に、そんなことまでしなくちゃいけないのかなと思ってしまいました。子供の質問は私の中に新しい疑問を持たせてくれました。

 だいぶ前のことになりますが、テレビでかちどき橋をライトアップすると言うものがありました。ライトアップを企画した人が『一時間たった七百円の電気代で、美しいかちどき橋を多くの人に見てもらえるなら・・・』と言っていました。その時もそんなことまでしなくっちゃいけないのかなと思いました。

 それよりも美しい河や海をとりもどし、昔のように漁船のゆきかうかちどき橋の方が、自然で美しいと思ったのです。このようなことは、ずい所でよく見られる気がします。雑木林をきりひらき、しばを植えどこからか持ってきた木を再び植えて公園をつくる。自分達でこわしてしまったものを再び求め、人工的に文明の力でつくりだすのが現代です。
 つくり出せるうちは良いかもしれません。最近はつくり出せないものまでこわしにかかっている様な気がします。オゾンやすんだ空気もそのひとつでしょう。フロンガスが問題になると、それんに代るガスをつくり出そうとしています。これもまた、そんなことまでしなくちゃいけないのかな?なのです。

 話しは少しちがいますが・・原子力発電所の安全性がクローズアップされ、各地で建設反対運動が起きています。しかしこのまま電力消費が増え続ければいつかは原子力発電所が必要になるでしょう。本当に原子力発電があぶないと思うなら原子力が不要になるよう、電力消費をへらすことは考えられないのでしょうか。

 自動車会社のショーウインドウのライト。かちどき橋のライトアップ。一時間七百円と言う電力は普通の家庭の九日分に相当します。各家庭でもずい分ありませんか。そんなことまでしなくちゃいけないのかな?というようなこと。

 もうぼちぼち、そんなことまでしなくていいよと言ってみようではありませんか。
 これからは原子力にたよらず原始力にたよってみてはどうでしょうか。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1989年4月号】
『桜井義維英 初めてディズニーランドへ行く』1989年2月 [2006年02月19日(Sun)]
桜井義維英 初めてディズニーランドへ行く

ディズニーランドの話をしょう。

 僕は一月二十日、初めてディズニーランドへ行った。
行くまでの僕は、ディズニーランドなんて、たかが遊園地と思っていた。ところがところがである。

 朝、一歩ディズニーランドへふみこんだとき僕の顔は知らずにほほえんでいた。入り口の広場ではディズニーのキャラクターたちが、僕達を出迎えてくれている。彼らは、僕達と肩をくみポーズをとって写真におさまってくれる。そうかと思えば、小さな子供とおいかけっこをしている。こちらでは、二〜三人のキャラクターがパントマイムをみせてくれる。これがほほえまずにいられようか。

 中に入ってまたまた感激したことがある。ジャングルクルーズという船で川をくだるアトラクション。それには、船をあやつる船長がいる。川をくだってゆく中で次々にあらわれる動物達のくり広げるアトラクシデントを本当のように演出してくれる。ゾウの水しぶきをかわし、カバのじゅうげきをピストルでふせぎ、たのしいことこの上ない。

 シンデレラ城のミステリーツアーも案内人がすごいのなんのって。この人達に僕は感激しないわけにはいかない。感激はまだつづく、パレードがあった。その中でおどっているダンサー、キャラクター、バンド。すべての人達が僕達が声をかけると必ず答えてくれるのだ。そればかりでなく、近づいてきて、あく手までしてくれる。なんとステキな所なんだろう。

 ところがだ。この感激に水をさすことがあった。船長さんや、案内人の大熱演をたのしむ人達はいても、いっしょにジャングルクルーズをしたり、ミステリーツアーをしている人は僕達以外にはいないのだ。すなわち、船長さんが『ゾウの水しぶきをよけろー!』とさけんで身を伏せてもその姿をテレビをみるように見てわらう人ばかり。自分の身を伏せる人はいないのだ。

 僕は思った。ディズニーランドは、ディズニーランドにいるキャラクターやクルーの人達と僕達とがいっしょにつくってゆく国だと。どう思いますかみなさん。

 もしかすると、ディズニーランドを本当にたのしめる人は、日本の国での生活も本当にたのしめる人かもしれないな。などとも思いました。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1989年2月】
『待つこと』2005年8月23日 [2006年01月15日(Sun)]
待つこと

 エキスパートコース(国際自然大学校の一年間をかけたプログラム)の研究活動で、今までとは一風変わったものがあります。大変興味深いので紹介しますね。

 『便利になったことで短縮された時間のゆくえ』というもので・・・・。

 今の世の中、電子レンジでなんでもできちゃう。昨今では、レンジに入れるとカレーライスのできあがりなんてものまであるそうで・・・・。いったいだれがつくったカレーで、だれがたいたごはんだか知りませんが、おいしいのでしょうかネー?レンジでてまをはぶいた分カレーを作る時間を何に使っているのでしょうか。洗濯機は全自動になってそのあまった時間は?

 コンピューターの導入によって短縮された時間は?

 どうもみんな行方不明になってしまったようでして、その行方不明になっている時間が実際には何に使っているのか見つけだそうというわけです。おもしろい研究だと思いませんか。

 さて、この話を聞いて私はひとつ思ったことがあります。人間はもしかして短気になりはじめてるのではないか?ということです。なんでもすぐできてあたりまえの社会なんです。ファーストフードに宅配ピザ、写真のプリントなんて、二、三十分なんてのもあります。お金さえはらえば、何でもすぐやってくれる世の中なんです。そこで生き物までお金をかけてやればなんとかすぐ育つんじゃないかなんて思っちゃうわけです。中でもこまっちゃうのが人間。お金かけて塾っていう電子レンジに子供を入れたら次に出てくる時は完成品になってると思っちゃってる。カレーはだれかがちゃんと準備してできあがったものに、加えて加工して電子レンジに入れるとできあがるわけで、決して、材料を入れてカレーになるわけじゃないのにネ。電子レンジのカレーだって、下ごしらえに、ジャガイモの皮むくのは、やっぱり、おばちゃんたちが手でむいてんのサ。

 下ごしらえにはそれなりにたくさんの人達の時間がかかっているんだ。

 子供達は下ごしらえされずに入れられて、出てきた時は、親が思ってるかたちではでてこないわけ。すると親は子供のせいにするんだ。子供だって、ちゃんと時間かけてつくっていかなくっちゃネ。短気はそんき。待つからカレーはおいしいのさ。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1988年12月号】
『歩道について』2005年8月22日 [2006年01月15日(Sun)]
歩道について

 先号で学生のオートバイ使用について、批判をした。学生から、もっと激しい反論があるかと思ったが、残念ながら手ごたえはあまりなかった。
 しかし私も言ったからにはと、車の故障も幸いして、自転車通勤に切りかえた。するとどうだろう、今まで気がつかなかった問題をさっそく目の前に発見した。
 自転車は歩道を走らなければいけない。しかし実際には走れたものではない。

◆車用の標識なぜ歩道に

 私の通勤路に使っている道路にはおおむね歩道が備わっている。
 この歩道は、人が二人おしゃべりをしていればいっぱいの巾。うしろから自転車で追い越すにはベルを鳴らす。お互いに気まずい思い。ましてや、電柱、お店のかんばん、消火栓の標識などの邪魔者達。中でも腹立たしいのが、違法駐車に車のための標識、車道の工事のための資材。何故こんなに歩道が迫害されなければいけないんだ!車優先の、早くて強いもののために、遅くて弱いものがしいたげられている。

◆車のスロープ

 なぜ車のために歩道の巾いっぱいにスロープをつけなければいけないのか?車があがれないのか?ならば上がれるだけのスロープを道路側につくれ。車いすの人などは、あのスロープは、おそろしい傾きだろう。

 ブラジルでは信号の手前にかまぼこの様に土もりをしてある。スピードを出しすぎてつっこむとバウンドしてえらい目にあうわけだ。

 この車優先スロープでもうひとつ。工事で道路を掘り返すため、歩道との段差がいっそうひどくなる。車のために、アスファルトでスロープはつくられている。しかし歩道側にはつくられない。歩く人はいいかもしれない。それも健常者にかぎって。少し足の不自由な人、車イス、自転車はとても通れない。

◆自転車も危険

 歩行者にとっては、自転車だってあぶないだろう。動く速度が違う上に、金属のかたまりであることは、バイクと変わりはない。中国では、車道と自転車道と歩道があった。もう少し、人間の生活するための速度で物を見た生活環境づくりを考えたいものだ。
 皆さんはどう思いますか。ご意見ください。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1988年10月号】
『時間の使い方』2005年8月18日 [2006年01月13日(Fri)]
時間の使い方

◆入院 その一

 NOTSに来ている学生がオートバイに乗っていて事故にあった。状況を聞いてみて、彼はそれほど無某な運転をしていたわけではないようだ。が、しかし、相手の方も大変ないたでをこうむったことも事実だろう。また、地方にいらっしゃるご両親は何度も東京に足を運ばなくてはならない。大変なことだと思った。

◆入院 その二

 私の恩師が病気で入院された。先日お見舞いにうかがった。さぞかしたいくつしていらっしゃるんだろうと、予想して行った。ところが、先生は入院生活を大変楽しんでいらした。多くの人の行動をゆっくり、じっくり観察できるからなんだそうだ。看護婦さん達はすぐれたカウンセラーだともおっしゃっていた。

 ふたつの入院で感じたことがある。

 学生達にはきびしいかもしれないが、学生はオートバイや車に乗るべきではないということ。

 自分で生活力を持たない学生が、便利のためだけに車に乗って良いだろうか。仮にアルバイトをして得たお金で乗っていたならば、そのアルバイトをする前にしなくてはならないことがあるはずだ。
 そんなことを言うと学生の反論が聞こえてくるようだ。『電車だととても時間がかかる』『電車賃よりオートバイのガソリン代の方が安い』と・・・・・。

 電車賃とガソリン代のちがいははたしてどれぐらいだろうか。何とか節約してそのお金はねん出できないだろうか、また、ご両親の援助にたよれないだろうか。なぜなら、我が子が交通事故を起こすかもしれないと思いわずらうことを考えれば安いものかもしれない。

 車やオートバイに乗るなと言う訳はもうひとつある。もっともっと自分の足を使って行動すべきだ。
 恩師の先生が多くの人々を観察するのは多くの人々との出会いといえるのではないだろうか。学生こそ、その多くの人に出会うべきだ。そのためには人の動く速度で行動する。

 そして目を開き、心のまなこも開いておく。行動には好奇心を持つ。いつも歩いている道をちょっと横にそれてみる。立ち止まって観察してみる。そしてそこにいあわせた人と出会う。語らう。そんな体験が将来の糧となるのではないだろうか。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1988年8月号】
『がんばれ受験生』1988年4月号 [2006年01月12日(Thu)]
がんばれ受験生
−中・高生の活動本格化−

 サンケイリビング新聞社主催のよるスキー教室の指導に行った。春休みのことである。中学生が十人弱参加していた。
 何日かおいて、千代田区子ども体験教室の中学生有志が、東海自然歩道踏破を目指して歩いた。もちろん私もつきあった。
 同じく千代田区の子供で高校生になった子がいる。この活動を続けたいと国際自然大学校によく顔を出す。
 多摩市子供体験教室でも、高校生が生れた。先日挨拶をかねて国際自然大学校の事務局を訪ねてくれた。

 国際自然大学校開設五年にしていよいよ受験戦争にまっこうから立ち向かう世代が生まれてきた。
 高校受験、大学受験という大きな流れに逆らうこの活動。はたしてどれだけ立ち向かえるのだろうか。またどのようにしてこの中学、高校生を導いていったら良いのだろうか。最近は寝ても覚めてもそのことが頭を離れない。

◆オーストラリアの英才教育

 そんな時NHKの特集番組で、『ティンバートップ分校の一年』というのを見た。ある有名な私立中学校が三年生の生徒を一年、山のなかの分校で勉強させるのだ。NHKでは『英才教育』と副題をつけていたその活動はまさに、国際自然大学校の活動そのものだった。その学校はなんと百年あまりの歴史をもつという。

◆今こそ人格育成の教育を

 ながい歴史の中で普遍的なものがあるなら、それは知識ではなく、通気や情熱や友情、といったことではないだろうか。そしてこの言葉は現代社会ではちょっと使いにくくなってしまった。しかしこれらの言葉に代表される、若さのようなものは、必ず通過し、獲得しなくてはいけないものだと思う。人生の厚みを増すために。

 この経験を、受験というものによっておしのけられてしまった若者は、人生に厚みを失う。そして将来に問題を抱えることになる。それはたぶん、両親が亡くなったあとの事だろう。本人の能力ではなく、社会人としての資質の問題として。今迄の日本の社会では、歳とともに養われると思われていたものだ。しかしそれは、地域や家庭にその教育をする力があった時代の話だ。

 現代社会に教育力はない。放っておけば教育されずに育つ。ぜひご理解ください。お父さん、お母さん。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1988年4月号】
『去っていった友へ』1988年2月号 [2006年01月10日(Tue)]
去っていった友へ

 いよいよ1987年度もおしつまってきた。国際自然大学校の各コースも終了式を前にいよいよおおづめのプログラムが展開され、参加者は一年間のしめくくりをする。

 その中でも大人のコースは次から次へと心身共に過酷きわまりないプログラムを提供しそれを乗り越える事を要求してきた。参加者もよくがんばってきた。中でもエキスパートコースは第1期のコースでありサバイバルコースからの継続でもあり、我々も注目をし、かつ力をいれてきた。すなわち、このコースは現在のノッツにおける最高峰のコースなのである。

 当初サバイバルコースの卒業生11人で始められた。我々は年頭に参加者に言った。1名の落伍者なく1年を終えてほしいと。しかし1年間の道乗りは長い。夏のエクスペディションを終えたころからメンバーの中に微妙な意見のくいちがいが見受けられはじめた。同時に仲間の1人が欠席しはじめた。他の1−人は話し合った。彼女のために悩んだ。そして、語りかけた。しかし彼女は音もなく去っていった。
 音もなく。
 残された仲間は多くの涙を彼女のために流し鳴咽した。

 1月も終りをつげようとするころ、もう1人の仲間が、私にエキスパートコースを去ることを告げてきた。学校のクラブ活動に精進したいためだった。彼の去ったことを他の仲間につげたとき、彼らはしんと静まりかえっていた。涙するものもいたが、その涙は静かに流れた、彼らの静けさに私はただならぬ深い悲しみを感じた。

 このコースはそれだけ持続がむずかしいのかもしれない。なぜなら自己の問題意識に基づいて行動することが基調となるコースだから、中途半端な意識では途中で疲れてしまう。

 しかし私は残った仲間に切に願わずにはいられない。去っていった仲間こそ大切にしてほしいと。今残っている仲間のきずなはいやがうえにも深まり、同期生としての意識も手伝って一生の友となるであろう。だが、去っていった友は、身近かにいないだけに忘れ去ってしまう。人の輪というものは切るのは簡単だ。しかしふたたび築には予想だにつかない時間を必要とするものだ。仲間が立往生した時に共に悩み共に苦しみ涙することのできるエキスパートコースの面々を私は大いにほこりに思う。そして去っていった二人の友への永遠の友情を信じたい。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1988年2月号】
『若者は大人の鏡』1987年12月号 [2006年01月10日(Tue)]
若者は大人の鏡(2005年8月10日)

高速道路のサービスエリアでのことです。私の車の横に、学生と思われるグループの車が止まっていました。学生は車に乗り込むとき、煙草を路上に投げ捨てました。私は思わず『煙草は吸殻入れに捨てなさい』といいました。学生はさも不服そうにしながらもうなずきました。
しかし、今捨てた煙草は拾おうとはしません。私は『今捨てた煙草を拾え』と怒鳴りました。学生はしぶしぶ拾いました。

この話を皆さんはどう思われますか。『学生はしょうがない。』ですか。それとも、『そんなことで何も怒鳴らなくても』ですか?私はこの学生にいきどおりを感じます。しかし、それ以上に我々大人、特に若者に対して批判的な大人にもっといきどおりを感じるのです。

こんな事がよくあります。山に入る時など私達は車をしばしば使います。そんな時、物の分別もあり地位もあると思われる人が、車から平気で煙草を投げ捨てる。ひどいときはジュースの空き缶を放り投げる。

そんな大人が子供を育てるわけですから物の分別のある若者が育つわけはありません。私は思慮分別のあるように見える大人に言いたい。本当に思慮分別があれば日本の自然はこんなに破壊されなかった。汚染されなかった。

アメリカで巨木の森を保護するために隣接する村をそっくり移転するといった話を読みました。スイスのある町ではその地域の景観を守るために、家を建てるとき壁の色まで指定されると聞きました。イギリスの山を登っているとき牧草地のなかを道が通っていた。牛や羊が逃げないようにゲートがついています。そのゲートを通った人は必ず閉めます。

お互いが信用しあって、またその信頼を裏切らないからやっていけるのだと思います。同時に、自分の利益ばかりを追及せずに、ともに生きるということを習慣として身につけているのです。日本の経済摩擦や、地価高騰などはこの習慣のない日本人が世界に飛び出したり、お金を手に入れたから起きているのではないのでしょうか。
少々過激な意見かもしれませんが、私は煙草の投げ捨ての問題も、経済摩擦の問題も同じに見えてしょうがないのです。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1987年12月号】
『日本語について その2』 1987年8・10合併号 [2005年10月28日(Fri)]
日本語について その2

 先号に続けてもう少し日本語のことを考えてみたいと思います。ただ今回は言葉としての日本語ではなく物語としての日本語を考えてみましょう。

 今年の夏のキャンプで我々は星空のもと、新しい試みをしました。まだいい名前はついていないのですが、とりあえず『ナイトシアター』と呼んでいます。木々の間にはったスクリーンにスライドで絵をうつしながら物語をしました。スクリーンは風にゆらぎ、絵もゆらぐ。そんな中での物語はなかなか好評でした。

 こんなことを考えたわけはこうです。『今の若者、子供は言葉の聞けない世代である。』と聞いたことがありました。みょうに頭にこびりつくひとことでした。そして学生さんと話していて気付きました。話が会話として成立していないのです。

たとえば・・・

A子『ねえねえ、きのうのテレビ○○○見たあ』
B子『うん。きのうパーマかけたの、変かなァ。』

 こんな具合です。そして話している当人達はこれで何の異和感も持っていないのです。ではどのようにしたら聞いてくれるでしょう。聞くことが楽しい、ステキだという体験をさせてあげればいい。なら物語を聞かせよう。

 ただ聞かせるのでは今の子はきっとあきてしまう。かといって映画やマンガのようにしてしまってはいけない。なぜなら、物語は聞いたことを自分で空想するところがいいのだから。そこで中をとって生まれたのが現代版紙しばい、スライドだったのです。そして実際行って思いました。決してこんな大げさなしかけをしなくても子供は聞いてくれると。小さい時は、みんな絵本をお父さんお母さんに読んでもらいます。もう少し大きくなると・・・現代はファミコンで大冒険をします。

 ・・・お父さんにお願いします。ファミコンの冒険よりもワクワクするような、お父さんの体験談をお子さんに話してあげてください。少しくらい大げさでもいいじゃないですか。30センチのへびが3メートルの大蛇になったって。そんな話が子供の創造力をかきたて、となり町への大冒険・ワンパクを育て、夢のあるイキイキした人間を育てることになるように思います。もちろん日本語のすばらしさを知った・・・。

桜井 義維英(さくらい よしいえ)
【出典:NPO法人国際自然大学校 機関誌「OUTFITTER」1987年8・10合併号】
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