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2014年11月02日

私たちは森とどのように付き合うべきか〜セミナー終了

 11月1日(土)に、島根県民開会で開催、6名の参加で濃密な会となりました。
 レジュメをあげておきます。3日以内でまとめをあげるぞ(自分に対する〆切宣言)。

3. 意見交換〜『木材と文明』を読みながら〜

@ 国・自治体が管理することで森林は守られるのか?
A 木質バイオマス発電に対して、私たちはどのような態度を取るべきか?
B スギ・ヒノキの木材生産林は、どこまで本当に悪なのか?
C 木材・森林との関わりが薄くなり、私たちは何を失ったのか?

私たちはどのように森と付き合っていくべきか?

いくつかの論点 〜ラートカウ『木材と文明』から〜

○ なぜ「木材」なのか?
「木材という製品製造原料の影響力が社会史や働くものの自意識の中にまで広がっている(p17)」「近代以前の時代には、木材の消費者は森を直接目の前にしていました。彼らは森に権利をもち、森の中で目的に合った樹木を選び出し、そして森をどのような状態にするかを決めるすべを知っていました。今日、木材消費者と森との関係は再構築されねばなりません。(p30)」

 木材は、昔から生業に様々な形で用いられ、暮らしに密接に関わってきた。かつての生業が衰退した近年では、新たな木質系工業原料として、また、温暖化防止の方策等としても期待され、経済に影響力を持つ原材料としての存在感を持ち続けている。

○ 誰が森林を管理すべきか?
 「長期的視野に立った森の生業は、農民の相続権や森の使用収益権が保障されていることを前提としています。しかし、昔からその二つは常時与えられていたのではありません。」(p67)

 ドイツでは、16世紀頃から統治者によって森林に関する法令が出されるようになり、森林が支配下に置かれるようになった。従来の林業史では、こうした法令に記載されるように、“森林は過剰利用により荒廃し、統治者はその利用を制限することで森林を保護しようとしていた”とする。しかし、ラートカウは、持続的に経営されていたのは、統治者が管理する大面積の森林ではなく、むしろ農民が管理する小面積の森林であった、とする。フォルスト条例の内容は、伐区を定めての皆伐といった、伐採の規則を定めたものであり、森林の再造成について書かれたものはほとんどなかったようである。
むしろ、フォルスト条例などにより、農民の「使用収益権」が否認されると、「自分の権利を誇示するために、毎年毎年できるだけ多くの木を伐採し、これを消費する」方向に動いていったとする。
日本においては、明治になって行われた森林の官民有区分により、多くの共有地が官有林に編入され、大きな反発を招いた。
 また、ドイツの林学者コッタは、「国家こそ長い生長期間にふさわしい経営者だ」と宣言したのに対し、イギリスではむしろ逆で、「政治家は任期中の事だけしか考えないという考えを持っていた」という。

○ 日本ではどうか?
 日本の歴史において大面積に山地の森を伐採した時代もあった。森林の造成は早くから植栽によって行われたところもあった。森林破壊の問題の核心は、為政者の許可のない違法伐採ではなく、為政者の行う伐採にあった。

○ 昔の人は森を持続的に扱って来たのか?
「自然が生活の基盤であり、人間の文化は自然資源と交わることによって創り出されてきた」「先史時代を見ると、人は必ずしも自然と調和して生きていたわけではなく、「窮乏の経験を通じて、そしてまた定住化が進行する中で、自然資源をどちらかといえば持続的に扱うまでになりました。(p19)」

 農業のための開墾、建築のための木材伐採など、人は、必ずしも持続的に森林を維持してきたわけではない。では、どのような場合に、人は森林を持続的に利用し続けてこられたのか?
生活に近いところで生産が行われる場合に、木材の利用には森林を持続的に利用するということが内在している。だからこそ、領主・国が行う「森林管理」は森林資源に対して収奪的に働き、農民が行う小さな森林の経営は(所有・相続が担保される限りにおいて)持続的である。
 「使用価値と交換価値」という問題もある。お金に交換できる木材としての価値以外に、かつての農民は薪や豚の放牧等での使用価値を森に見出しており、だからこそ森を持続的に管理するインセンティブが働いていた。(p35)しかし、統治者が交換価値のみを認め、使用価値を認めなくなると、「自分の権利を誇示するために、毎年毎年できるだけ多くの木を伐採し、これを消費することに頼らざるを得なかった」。
今日では、森林の水源涵養機能、温暖化防止機能等のお金にならない価値が見出されている。エネルギー消費等の利用が進むことで、こうした「使用価値」がないがしろにされる危険はないのか?

○ 「木材生産林は美しい森でもある」とは?
 高名な林業地帯では、適度な密度に管理されたスギ・ヒノキの下に広葉樹が混交し、灌木・下草が茂る「美しい」森林経営が行われている。木材生産の機能を高度に発揮させるには、樹木の生育に適するように、また、病虫害の発生が少なくなるように、枝打・間伐などの管理が行われる。その結果、林内には目的とするスギ・ヒノキなどの植栽木だけでなく、様々な植物が生え、種の多様性が高まる。木材生産、生態系、水源涵養、保健休養等の様々な機能を同時に発揮していくことが可能となる。
 問題なのは、スギ・ヒノキに植え替えたあと、薪・山菜採取等の利用の関心を失い、森林に足も目も向かなくなったことであり、手入れがなされていないことであり、人工林そのものが悪なのではないのではないか。

○ 木材・森林と人の暮らしとの関わりの希薄化
 私たちの暮らしと森との関わりはだんだんと遠くなり、顧みられなくなった森林の荒廃が進んでいる。木材から工業製品へと材料が代替されていくにつれ、職人の手作業に求められる質が下がり、労働者は代替可能なものとなっていった。

 森は誰のものなのか。森は誰が管理すべきなのか。私たちは森とどのように付き合うべきか?


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