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茅ヶ崎市美術館[2026年02月18日(Wed)]

◆さて茅ヶ崎市美術館に向かって林の中を、めぐるようにしながら上っていくわけだが、途中に八木重吉「蟲」を刻んだ詩碑があることは2年前に取り上げたことがある。

★2024年2月12日の記事【八木重吉の詩碑】
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/2952

その詩碑のすぐそばに、井戸枠が遺っている。

IMG_20260215_121648.jpg

美術館一帯はかつてオッペケペー節で知られる川上音二郎とその妻・貞奴が明治30年代に住んでいた、井戸枠はその名残りである。その後、大正8(1919)年には、実業家・原安三郎氏の別荘となったとのことだ。

***

そこからもう一息で茅ヶ崎美術館に到着だ。

存分に日の光を浴びて梅がほころんでいた。

IMG_20260215_121538.jpg





平塚らいてうの碑[2026年02月17日(Tue)]

◆茅ヶ崎・松籟庵のある一帯は高砂(たかすな)緑地公園として整備されているが、庵の南側出口のすぐ前に平塚らいてう(雷鳥)の碑がある。

平塚雷鳥「」元始女性は」碑A IMG_20260215_122118.jpg


かの有名な「元始、女性は太陽であつた/真正の人であつた」である。
雑誌『青踏』創刊号(1911年)の巻頭言として有名だ。

手前に碑誌があり、次のように刻まれていた。


平塚らいてう(一八八六〜一九七一)

 東京に生まれ 日本女子大学に学ぶ
一九一一年の『青鞜』創刊の辞「元始、女性は太陽であった」は
日本女性初の人間宣言として 後世につたわる
 大正期に新婦人協会をおこし 女性に禁じられていた
政治への一歩をひらく
第二次大戦後も女性解放 世界平和の初心を貫く
 生涯の伴侶奥村博史と南湖の地でめぐりあい
茅ヶ崎を「愛のふるさと」と偲んだらいてうを想い
この碑を建立す
               一九九八年五月二三日


らいてう=平塚明(はる)のパートナーである画家の奥村博史が茅ヶ崎・南湖院に結核で療養中であった。
らいてうや伊藤野枝など青鞜社をめぐる人々を青春群像として芝居にした永井愛は、『私たちは何も知らない』(2020年)の中で茅ヶ崎海岸の風景を真っ白な長いスロープによって表していた。印象的なシーンだった。




茅ヶ崎・松籟庵[2026年02月16日(Mon)]

◆茅ヶ崎市立図書館の南に接して松籟庵という庭園や茶室がある。
ちょうどオープンされていたので、立ち寄った。

IMG_20260215_122415.jpg

庭園としては比較的こぢんまりした空間に、さまざまなしかけが配されている。

上の写真は、谷川の風情を演出する岩と水の流れ。
みなもとへとたどって行くと、小さな滝にたどり着く。

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庭をめぐると、右手の高いところに色鮮やかな三重塔が建っていた。

IMG_20260215_122202.jpg

水煙も含めておよそ3メートル余りあるだろうか。
奈良・薬師寺の三重塔を忠実にリサイズしたものという。

松籟庵は茶室として利用されているようで、新しそうだが落ち着いたたたずまいの平屋の書院と躙(にじ)り口を備えた茶室が建っていた。

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サザンと若大将だけではない茅ヶ崎に出会った気分。


茅ヶ崎「春の調べ」像[2026年02月15日(Sun)]

◆久しぶりの陽気に誘われて、自転車で遠出した。
往復およそ25km、茅ヶ崎まで。


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MKホール前の像。〈井山一 「春の調べ」〉とある。

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カラスの寒垢離?[2026年02月15日(Sun)]

◆カラスが水浴びしていた。

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立春過ぎたから寒垢離(かんごり)とは呼べないにしても、殊勝な精進潔斎の姿に見える。
”カラスの行水”などと冷やかすのは失礼だ。

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熱を上げ、一心不乱に打ち込む姿を見るうちに、こちらの方は芯から冷えてくる。

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石原吉郎「前提」[2026年02月13日(Fri)]


前提   石原吉郎


瞬時にそのざまとなったのでない
すくなくとも引返しのきかぬ
前提があり さらにその前提があり
前提においてわれわれのひとりずつがあり
そのうえで言逃れのきかぬ大前提が
すっくと立ちあがるのだ


  現代詩文庫『続・石原吉郎詩集』(思潮社、1994年)より


「引返しのきかぬ」――まさに今がその時なのだろう。
まだ、そうじゃない、と言う人も多いが、それはジワジワ熱を加えられて未だ脳が茹で上がっていないからに過ぎまい。




石原吉郎「事実」[2026年02月12日(Thu)]

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アオサギが凝然と佇む。その前でそれぞれに過ごす水鳥たち。不思議な階調が支配している。

*******


事実    石原吉郎

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ
けたたましく
コップを踏みつぶし
ドアをおしあけては
足ばやに消えて行く 無数の
屈辱の背なかのうえへ
ぴったりおかれた
厚い手のひら
どこへ逃げて行くのだ
やつらが ひとりのこらず
消えてなくなっても
そこにある
そこにそうしてある
罰を忘れられた罪人のように
見ろ
足がある
手がある
そうしてうすらわらいまでしている


  『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、2005年)より

◆各紙、改憲支持率の極めて高いことを報じ始めた。
選挙期間中、タカイチ自民が隠蔽した本当の争点を追及せず、このタイミングで高い数字を並べて改憲に加担する。戦前もそうだったのだと、思い起こさせる。

引き返せない地点はもう過ぎた。
未だだ、未だ未だ、と思いたい気持ちは常にある。
だが、前に進むことが出来ない。ただただ踏ん張るのみ。多くは後じさりして姿を消す。
この詩にあるように「うすわらいさえして」

退却せず踏ん張っている者は、いつの間にか最前線にいる。
皇軍来たらず――満州しかり、比島しかり、沖縄しかり。

怒れる民草はどこまでも踏ん張る。
死してなお、立ち姿のまま踏ん張る。




石原吉郎「背後」[2026年02月12日(Thu)]


背後  石原吉郎


きみの右手が
おれのひだりを打つとき
おれの右手は
きみのひだり手をつかむ
打つものと
打たれるものが向きあうとき
左右は明確に
逆転する
わかったな それが
敵であるための必要にして
十分な条件だ
そのことを確認して
きみは
ふりむいて きみの
背後を打て


  『新選 石原吉郎詩集』(思潮社、1979年)より


◆難しい詩だ。
「打つもの」と「打たれるもの」が正面から向き合い、次いでそれぞれの右手がそれぞれの意志もしくは本能の発動に従って取る動きが、格闘の範を示しながら解説するようにして語られる。
一方は「打つ」という攻撃を行い、他方は相手の用いざるもう一方の手を「つかむ」かたちで防御しているのだろうか?
ふつう「防御」とは、攻めてくる相手の右手の動きを、その手に正対する位置にあるこちらの左手でくい止めようとすることだろう。まう左の手のひらであいての拳を受けとめる、もしくは相手の右手を払いのけるかたちで我が頰を攻撃から守る。(以上は、どちらもに右利きの場合だ。)

それと比較するならば、上の詩の「おれの右手は/君のひだり手をつかむ」という動き方は全く防御とは言えない。とすれば、この「おれ」の動きは何のためなのか?――「きみ」がきみの左手を繰り出すのを止めるため?それとも、相手のひだり手をつかんで、「打つ」ことなどよりもよっぽど強力な反撃を加えるため?もしくは相手の予測を裏切る動きを敢えてすることで、その虚を衝き、つかんだ手を支ねじ上げるか、ねじ伏せて完全な制圧にもって行くため?

◆「左右は明確に/逆転する」――これも難しい。ここまでの一連の動きを、「きみ」の打つ行為とそれをこちらが受けるふるまいとして表しているのだとみなすならば、「逆転」は、この後に続いて「おれ」が「君」のそこまでの動きを正確になぞるように行うことを意味するだろう。

そうではない、別の読み方を試みるなら、同じ「右手」の動きでも、「きみ」は「打つ」動きを、「俺」は(君のひだり手を)「つかむ」動きを、というように違う動きをする。そのことを「逆転」と表現したのだろうか?

どちらにせよ、ここまで前提となっているのは、一連の相互の動きが終わると今度は主体を入れ替えて繰り返されるということだ。そうしてそれが可能であるのは「おれ」と「きみ」とが対等の関係にある場合だ。もしくは、対等の関係にある場合「だけ」だ。

◆逆に言えば、「対等でない関係」の者同士が向き合ったところで、そこに「敵」という概念は成立しない。(目の前にいるのは「敵」なんかじゃない、とも皮肉交じりに言うことも出来ようか――強大な力をもって一方的に加害する者と、痛めつけられるだけの弱者。つまり、非対称的と言われる関係)。

◆では、「そのことを確認して」「きみ」が「ふりむいて きみの/背後を打て」という時、きみの背後にいるのは誰なのか?――これが最後に残った難問――そこまで「俺」と「きみ」が向き合っていた以上、そこにいるのは「俺」や「きみ」でない誰かだ、と考えて悪かろう筈はない。
二人が「敵」として対峙し合っていたあいだじゅう、ずっとそこにいた、「敵」同士でない者……
一般には第三者あるいは傍観者と呼ぶ彼、もしくは彼ら。
見物人として安全圏にいた彼、もしくは彼らを「打て」、と「俺」が命令口調で言えるのは「俺」と「きみ」との関係が単に「敵」であるのじゃない、別の関係が生まれ始めているからではないのか?命令形ではあっても、傍観者に対して二人はもはやある種の連帯を築き始めていると言ってもいいような……。

ところが、ここに至って詩は最後の最後で難問を突きつける。
(1)「俺」と向き合っていたきみが「ふりむいて」背後を打つとき、君の右手はそのまま背後の誰かを「打つ」のだとするなら、その行為は何を意味するのか?
(2)さらにもう一つ、ふりむく動きに伴って(わずかな向きの変化ではあるが)「きみ」の背後に位置することになる「俺」を打て、と「俺」自身が言ったのではないか?

(1)は闘うことを見世物にされている者の、見物や傍観者への反逆と解しうる。
(2)は、「敵」であるための必要十分な条件に完全に違背した行為に及べ、と既存のルールを完全否定するようそそのかしたと読める。興行主への反乱を含む、搾取する者とそのおこぼれに預かる者たちへの宣戦布告、と読むことができる。

***

◆詩は「手」を武器に「打つ」と表現したが、「手」を剣や弓矢、銃やミサイルに置き換えたらどうだろう?
あるいは「右」や「ひだり」を人が世に処すときの政治的信条を象徴させていると読むなら?
あるいは「位置」*とは、相対する者どうしにとっては相対的なものに過ぎないのを、当事者は絶対的不変のものと思い込んでいるだけなのかもしれない、という含意もこの詩にはあるのじゃないか?

*石原吉郎には「位置」と題する有名な一篇がある(第一詩集『サンチョパンサの帰郷』所収)。
「背後」よりさらに短いわずか13行の詩篇だが、そこにも「右」「ひだり」という語が使われ、「君」に命令形で呼びかけている点も共通する。

(参考)
★拙ブログ 2020年08月10日
石原吉郎「審判」と「位置」
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1673







石原吉郎「悪意」[2026年02月11日(Wed)]


悪意  石原吉郎
 異教徒の祈りから

主よ あなたは悪意を
お持ちです
そして 主よ私も
悪意を持っております
人間であることが
そのままに私の悪意です
神であることが
ついにあなたの悪意で
あるように
あなたと私の悪意の他に
もう信ずるものがなくなった
この秩序のなかで
申しぶんのない
善意の嘔吐のなかで
では 永遠にふたつの悪意を
向きあわせて
しまいましょう
あなたがあなたであるために
私があなたに
まぎれないために
あなたの悪意からついに
目をそらさぬために
悪意がいっそう深い
問いであるために
そして またこれらの
たしかな不和のあいだで
やがて灼熱してゆく
星雲のように
さらにたしかな悪意と
恐怖の可能性がありますなら
主よ それを
信仰とお呼び下さい



 『新選 石原吉郎詩集』(思潮社、1979年)より

◆皮肉や冗談めいたことばに哀切とさえ呼びたいほどの苦悩が張りついたことばだ。
それは「あなた」と呼ぶ主に対して語られる。

求めても表面的な善意や、「秩序」の側に立つ者たちの軽侮しか感じられないとき、彼らの偽善の言葉は汚穢や吐瀉物のように感じられるだろう。
それらについて語ることはもはや無意味だ。
だから、彼らの偽計に無意味な時を空費するよりも、彼らを全く排して、直に「主」と相対すること、秩序や謀りに遮られて「主」を見失うことなく、「私」への「主」の眼差しに怯むこともなく信じることは殆どその「悪意」に翻弄されるように思える時すらある。

だが、それでもなお信じることを捨てるわけにはいかない。
「あなたがあなたであるために/私があなたに/まぎれないために」とは、疑いや信の揺らぎの最中にあって相手を見失うまいとして語られた、苦悶にまみれながらの祈りのことばだ。



雪後寸景[2026年02月10日(Tue)]

◆朝、水道が凍結していて弱った。寒冷地と違って、凍結を防ぐ止水栓などない。雪に気を取られてうかつだった。

昨夜、まさかに備えて風呂を抜かずに置いたのを思い出した。凍りやすいところは水道のメーターがあるところかも知れないと思ってバケツに残り湯を2、3杯かけて様子をみてみた。

しばらくして蛇口をひねる……
……チョロチョロと出始めた。
やれやれ。

***

DSCN4153.JPG

日の当たるところは早々と融けた。


DSCN4154.JPG

カモたちの水に映る姿を見るだに寒さが身にしみる。


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手前はオオバン。
波紋がなかなか冬らしい。





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