• もっと見る
« 2025年10月 | Main | 2025年12月 »
<< 2025年11月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
日別アーカイブ
一泊二日ながら56年ぶりの入院[2025年11月20日(Thu)]

◆先般、腸の内視鏡検査およびポリープの処置(日帰り)で麻酔による「寝落ち」を初体験。
醒めた後の気分が実に爽快だった。

二度目、今度は一泊して、大きめのポリープ一つ切除してもらった。
今回の麻酔も、やはりいつの間にか眠って、夢などを見ることもなく目覚めたら手術は終わっていたのは前回同様。ただし今回は覚醒時の爽快感はあまりなく、やや期待外れではあった。
(二回とも医師、看護婦さんの奮闘は大変だったはずだが、それも記憶に残っていないので申し訳ないかぎり。それにしても一度目の目覚めの爽やかさは忘れがたい経験で、何人か知り合いに「クセになるかも」と吹聴したほどだった。)
二度目がさほど感動しなかったのは、体か脳の方で中毒するのを回避するように出来ているのだろうと解釈することにした。)

◆病院に一泊しての今回も、いくつか初体験はあった。
点滴する血管が上手く決まらず、3度めでどうにか適当な場所に挿入できたのと、夜の間点滴3本を受けたこと、あと、点滴を下げたスタンドを持ちながらトイレに行ったことなども初めての体験。人がそのようにしているのは何度も見てきたが、自分でするとなるとなにがしかの感慨がある。トイレの鏡で我が姿をつくづく眺めたことだった。

そもそも(わずか一泊にしろ)入院自体が56年ぶりだから、子どものころ虚弱だった割には結構息災に過ごした方だ。ふた親に感謝しなければならない。

◆病院に持参した本の一つ野坂昭如『アメリカひじき・火垂るの墓』(新潮文庫)、前日に本棚から半日かけてやっと発掘したのを病院のベッドで読んだ。
高市・トランプ会談を総括する参考に「アメリカひじき」を読み返したいと思ったからだが、ついでに『火垂るの墓』も読み返した。
清太節子のひもじさを思って涙するばかり。

おかげで、一日半絶食した後に出た朝食のありがたさが身にしみ、粥を一さじ口に運ぶたびに二礼三礼してゆっくりゆっくりいただいた。

入院から戻っても食事に手を合わせ拝むようになったのはわれながら不思議。
判で押したような日常が、なぜか貴重な一日一日に思えててくるのも不思議な感覚だ。

とはいえ、殊勝な気持ちがいつまで続くか、分かりゃしないけれど。







イチョウ:小林妙子「散る日」[2025年11月19日(Wed)]

◆さすがに日中も寒い。イチョウは見頃を迎えた。

IMG_20251119_110419.jpg

湘南台公園にて

***


散る日  小林妙子


さっき
降りてきた同じ坂道を
今度は上がる
持ち重りする袋をさげて

途中 ちょうど中ほど
坂と同じだけ傾斜のついた
一本の大樹がある

立ち止まれない私は
ふり返る

四方へ枝を出したまま
引っ込めることのできなくなった
樹のかたち

見ているあいだに
散りきってしまいそうな
銀杏黄葉のはなやかさ

 一瞬は速すぎず
 一瞬は遅すぎない

散る とは
大地への告白
――かもしれないな

重たい袋は
一方の手に持ち替えよう
坂の上はクリニックで突きあたり

もっと秋ならばいいのに
冬になる


 「詩と思想」編集委員会・編『詩と思想 詩人集2024』(土曜美術社出版販売、24年)より



◆伸ばした枝が、もう引っ込みの付かない樹、というのがおかしい。
それは見る者の愚直な生き方を思わせるようであり、坂道という最適とはいえない場所に根を生やした樹が、生き物を応援する姿のようでもある。



「戦争死者376万人余」の重み[2025年11月18日(Tue)]

◆11月17日の朝日新聞、先の戦争における日本の戦死者を376万人余りとする調査を報じた。国立社会保障・人口問題研究所の林玲子所長による研究だという。
これまで戦争による日本人の死亡数を310万として来た政府見解は大幅な修正が必要となる。
従来、根拠を確かめることもなく310万人としてきたが、壊滅的な敗亡や意図的な資料処分で生じた空白を埋める研究者の努力には頭が下がる。

◆一方、日本軍が侵略したアジア・太平洋各地における膨大な戦死者の実態は依然としてはっきりとしない。
国家の責務として真実に迫る努力を怠って来た日本の不作為を補ってきたのは研究者たちの地道な資料をコツコツ積み上げる研究だ。

今回の研究結果に基づいて、歴史教科書など、すみやかに修正がなされることを期待する。

2割もの誤差が生じた事情や背景を含めて子どもたちが学ぶならば、その発展として、自国民の犠牲だけでなくアジアにおける戦争被害の実相に関心を抱く持つ若い世代が育つはず。
さらに目を世界に及ぼせば、現在起きている各地の戦争被害にまで視野は広がり、何をすべきか自分事として考える人たちが多数を占めていくはずだ。
教育の力に期待することのひとつだ。

★【記事:朝日・Yahoo!ニュース】
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6559235


◆何編か読んできた長田弘の詩集『奇跡 ー ミラクル ー 』(みすず書房、2013年)から、以前にも紹介した「Home Sweet Home」を再掲しておく。


Home Sweet Home   長田弘


敵なしにはありえない戦争。
憎しみをもって打ち倒すまで敵と戦う戦争。
いつでも戦争は、そう考えられてきた。
違う、とわたしはわたしに言った。
敵を打ち倒すべき戦争によって
危うくされてきたのは、敵ではなくて、
いつでもHomeだったのだ
Homeというのは、人が
そこへ帰ってゆく場所のことだ。
わたしはわたしに言った。戦争くらい、
Homeというものをつよく、
するどく意識させるものはない。
戦争にいったものは、死んだ者も
生き残った者も、かならず、
Homeへ帰らなければならないからだ。
それが戦争だ、とわたしはわたしに言った。
Home Sweet Homeという
ことば、知ってる?
アメリカを激しく引き裂いた
南北戦争に至る時代が生んだ歌のことば。
暗殺された悲しい目をした大統領が
愛したということば。すべての
戦争の目標は、戦闘でなく、帰郷なのだ。
わたしはわたしに言った。
紅茶にしよう。ピラカンサの実が、
日の光をあつめて、今年も赤く色づいてきた。
季節と共にある一日の風景が好きだ。
これがHomeだ、とわたしはわたしに言う。
戦争をしない国にそだったのだから、
わたしは心底に思い留める。世に
勝者はいない。敗者もまた、と。




長田弘『金色の二枚の落ち葉』[2025年11月17日(Mon)]


金色の二枚の落ち葉  長田弘


部屋の壁に、落ち葉を二枚、
額に入れて、二年前、絵のように飾った。
晩秋の郊外の森の道で拾って、持って帰った、
カエデとカツラの、きれいな落ち葉だ。
落ち葉は、いのち尽きた葉だ。
けれども、二枚の落ち葉は、かたちも、色合いも、
風合いも、まだすこしも損なわれていない。
時は過ぎゆくが、時の外に、落ち葉はとどまる。
ときどき目を上げて、壁の二枚の落ち葉を見つめる。
部屋に金色の日差しが入りこんでくる日は、
二枚の落ち葉は甦ったようにかがやく。
いまここに、何が、落ち葉をかがやかせるのか。
落ち葉の小さな神がかがやかせているのだと、
わたしは言う。小鳥屋のおじさんが、
遠い日に、幼いわたしに話してくれたみたいに。
万物すべて、小さな神とともに生きているんだ。
笑いながら、小鳥屋のおじさんは言った。
おじさんは左手がなかった。戦争に行って無くした。
でも、あるんだよ。そう言って、おじさんは
右手で、左手のあった場所を指さした。
この何もないところに、いまも
左手の小さな神がいる。
ツツーピー、ツッピー、四十雀が叫んだ。
わたしは、小鳥屋のおじさんにおそわった、
何もないところにいる小さな神の存在を信じている。
壁のカエデとカツラの落ち葉を見ると、思いだす。
この国の、昭和の戦争の後の、小さな町々には、
すべてのことを自分自身からまなび、
「視覚は偽るものだ」と言った
エペソスのヘラクレイトスのような人たちが、
まだいたのだ。子どもたちのすぐそばに。


   『奇跡 ー ミラクル ー 』(みすず書房2013年)より


◆何もないところに、見えない神がいる――なんと深いことばだろう。
わたしにもこの詩の小鳥屋のおじさんのような存在がいただろうか?

――居たはずなのに、すっかり忘れているような気がする。

そんなことを思っている晩秋のおだやかな一日。



長田弘「いちばん静かな秋」[2025年11月16日(Sun)]


いちばん静かな秋  長田弘


石一つ一つ。木々の梢一つ一つ。
雲一つ一つ。水の光一つ一つ。
およそ、もののかたちの輪郭の
一つ一つが、隅々までも
くっきりと見えてくる。
そんな朝がきたら、
今年も秋がきたのだと知れる。
一つ一つがおそろしいほど精細な
すべての、かけらの、
いっさい間然するところない
集合が、秋なのだ。一つ一つの
うつくしいかけらがつくる秋のうつくしさ。
もしも誰かに、平和とは何か訊かれたら、
秋のうつくしさ、と答えたい。
かけら(Piece)と平和(Peace)とは、
おなじなのである。ピース(pí:s)。
おなじ音、おなじ響き、おなじくぐもり。
ことばには、いまでも、
神々の息の痕がそのままのこっている。
時は秋、日は真昼、大気澄み、
紅葉
(もみじ)色づき、百舌(もず)鳴きて、
神々そらに知らしめし、
すべて世は事もなし。
かつてはそういう時代もあったのだ。
けれども、いまは、すべてが
ただ、束の間のうちに過ぎてゆく。
人の世の平和とは何だろうかと考える。
終日、シューベルトの「冬の旅」を聴く。
ああ、空がこれほど穏やかだとは!
ああ、世がこれほど明るいとは!


  『奇跡 ー ミラクル ー 』(みすず書房2013年)より


◆詩集名にふさわしく、思いをひそめて季節のただ中に在ることを全身で感じるとき、心は広やかに開かれているのが望ましい。
一つ一つのかけらが美しさをたたえているように、一人一人の人間も、ちがいを無視されることなく精妙ないのちとして遇されること、そんな当たり前のことが行われている世でありますように。

◆シューベルトの『冬の旅』、こんな夜だったら、誰の歌声が良いだろう?






長田弘「この世の間違い」[2025年11月15日(Sat)]


この世の間違い  長田弘


春、暖かな日がきたら、草とりをする。
家のまわり、日の当たらない、冷たい場所に、
いっせいに、びっしりと、生えでてくる、
幼い、名も知らない、草たちの草とり。
身を屈め、草たちをぬいてゆく。
ニガナ? ノミノツヅリ? ホトケノザ?
荒れた草をぬき、土をととのえる。
そして、風の小さな通り道をこしらえる。
ここは、家と家のあいだの、
ほんのわずかな隙間にすぎないのに、
ここには、神々の世界がある。
日の翳り。風の一ひねり。するどい
鳴き声をのこして飛び去るキセキレイの影。
白木蓮の落ちた花片。枝々の先の新芽。
沈丁花の匂いがする。ここでは、
どんな些細なものにも意味がある。
ここからは この世の間違いがはっきり見える。
ゲーテの言った、この世の間違いが。
限界を忘れて、神々と力競べしようとした
人間たちの冒した、この世の間違いが。

  『奇跡 ― ミラクル ―』(みすず書房、2013年)より


◆前回の「涙の日 レクイエムに続く詩は、一転して春の景だ。
暖かな春日、しかし、目が注がれているのは、日の当たらない場所に、それでも隙間なく生えでてくる草たち。
その微細なものたちを抜いて行ってできあがる小さな風の通り道に全身を開放する。
鳥の影や枝を離れた花びら、木々の枝にふくらむ新芽や沈丁花の匂い――それらに五感をゆだねれば過酷な原発事故に代表される人間の取り返しの付かぬ所業、その間違いがはっきり認識される。
――草のところに身を低くして見えてくるもの、聞こえてくるもの、肌で感じるものをないがしろにしない生き方、それこそは草莽の魂というべきものだろう。




長田弘「涙の日 レクイエム」[2025年11月15日(Sat)]

涙の日 レクイエム   長田弘


あるところに、女がいた。
男がいた。走りまわる
子どもたちがいた。じぶんを
羊だと思っている年寄りもいた。
来る日、来る日、慈しむように
キャベツをそだてる人がいた。
道を尋ねるように、未来は
どっちですかと、尋ねる人もいた。
石の上にはトガゲが、池には
無名の哲学者のような
ツチガエルがいた。
遠く赤松の林がみごとだった。
そうして、一日一日が過ぎたのだ。
そうして、無くなったのだ。
それら、すべてが、
いちどきに。
いつもとおなじ、春の日に。
そうして、一日一日が過ぎたのだ。
そうして、いつもの年のように、
やがて朱夏がきて、
白秋がきて、柿畑に柿は
実ったが、収穫されなかった。
その秋、ヒヨドリたちは
啼き叫んで、空をめぐったか?
絶望を語ることは、誰もしなかった。
けれども、女も、男も、
大声で笑うことをしなくなった。
風巻く冬が去って、
陽春が、いつものように、
めぐり、めぐり来ても。


  『奇跡 ― ミラクル ―』(みすず書房、2013年)より

◆前回の「未来はどこにあるか」に続く詩。
やはり3・11をテーマとする。
収穫されなかった柿の実は、放射線が音もなく村の生活から奪い去ったものを象徴する。
それをついばむ鳥たちも沈黙した。

廃炉の見通しが立たないまま、原発再稼働。そればかりか、原潜を持とうとする国家なんて、まともじゃない。
だが、しかし、それでも、なお、人々は正気を保とうとしている。



長田弘「未来はどこにあるか」[2025年11月13日(Thu)]

DSCN3903チェリーセージ(サルビアミクロフィラ).JPG

チェリーセージ(サルビアミクロフィラ)という花。名の由来は葉の香りかららしい。


*******

◆長田弘の最晩年の詩集『奇跡 ― ミラクル ―』、昨日の「空色の街を歩く」に続く幾篇かは、3・11を経て紡がれたものたちだ。


未来はどこにあるか  長田弘


冬の日差しが差し込む
二つならんだ細長い窓の前、
二つの脚立に、差し渡しただけの、
大きな一枚板が、わたしの机。
引き出しがないので、
何も隠すことはできない。
机の上に、無造作に、
散らばっているとしか見えない、
小さなものすべてが、
今日という、とりあえずの、
人生の一日に、必要なもののすべて。
ウィンドウズXPの、古いパソコン。
古い新聞の、古い切り抜き。
読みさしの本、いくつか。
ジョン・ニコルズの、空の写真。
あるいは、チャールズ・アイヴスの、
コンコード・ソナタのCD。
けれども、未来はどこにあるか。
机の上に、雑々と、散らばる
小さいものたちのあいだの、
どこに、未来はまぎれているか。
未来。未ダ来ラヌ時、後ノ時。
明治二二年からの辞書からの書き抜き。
けれども、いま、未来はどこにあるか。
ある日、東北の、釜石から
送られてきた、手づくりの句一つ。
「三・一一神はゐないかとても小さい」
未来はいまも、未ダ来ラヌ時だろうか。
もう、そうではないのではないか。
いま、目の前にある、
小さなものすべて。
今日という、不完全な時。
大切なものは最上のものではない。


  『奇跡 ― ミラクル ―』(みすず書房、2013年)より

*詩にある「チャールズ・アイヴスの、コンコード・ソナタ」とはアイヴス(1874-1954)のピアノソナタ第2番のこと。
この詩に接して初めて聴いてみた。演奏時間45分を超える長大な曲だ。やはり長大なベートーヴェンのハンマークラヴィア・ソナタ(第29番)を思わせる。
四つの楽章からなり、第一楽章から順にエマーソン、ホーソーン、オルコット家(『若草物語』のルイザ・メイ・オルコットやその父ブロンソン・オルコット)、ソローにちなむ。いずれもアメリカの詩人や作家たちである。


◆詩の後半、「けれども、未来はどこにあるか」は、詩人の自分自身への問いとして始まるが、それが「けれども、いま、未来はどこにあるか」とただ一語「いま、」が加わっただけで、詩を読む我々への問いとして立ちのぼる。問いは未来の応答を待っている。
答えることが不可能だとしても、問いに応えて何らかのことば、あるいは何らかの行いとして返すべきこと、少なくともそこにうながす語りかけが、ここにある。
結語も重い。
「大切なものは最上のものなのではない。」

昨今「最適解を求めて」という言い方が流行る。それがイコール「最上のもの」でないことは明らかなのに、そのことを誰も怪しまない。「大切なもの」を見失った浮華と頽廃を何としよう。



長田弘「空色の街を歩く」[2025年11月12日(Wed)]


空色の街を歩く   長田弘


空気が澄んでいる。
道の遠くまで、
あらゆるものすべてが
明確なかたちをしていて、
街の何でもない光景が
うつくしい沈黙のように
ひろがっている。
家々の屋根の上の
どこまでも、しんとして
透き通ってゆく青磁の空が、
束の間の永遠みたいにきれいだ。
思わず、立ちつくす。
両手の指をパッとひろげる。
何もない。―――
得たものでなく、
失ったものの総量が、
人の人生とよばれるものの
たぶん全部なのではないだろうか。
それがこの世の掟だと、
時を共にした人を喪って知った。
死は素
(す)なのである。
日の光が薄柿色に降ってくる
秋の日の午後三時。
街の公園のベンチに、
幼女のような老女が二人、
ならんで座って、楽しげに、
ラッパを吹く小天使みたいに
空に、シャボン玉を飛ばしていた。
天までとどけシャボン玉。
悲しみは窮まるほど明るくなる。
秋の空はそのことを教える。


  『奇跡 ― ミラクル ―』(みすず書房、2013年)より

◆年齢を重ねると、ちょっとしたしぐさやふるまいに浅くはない意味を見出すことがある。
この詩では、空に目を奪われて立ちつくしたこと。そうして思わず両手の指をパッとひろげたこと――そうしてその時、生きることの真実を発見する。

「得たものでなく、/失ったものの総量が、/人の人生とよばれるものの/たぶん全部なのではないだろうか。」

この真実を裏書きしているのは喪失の深い悲しみだ。

◆詩の終わりに登場するのは幼女のような二人の老女。
彼女たちは本当にそこに居るのか。
ひょっとして秋の空が見せてくれた幻なのではないか――そう思わせるほどに明るく美しく、この世のものとは思えないほどだ。





「寛容」――次期学習指導要領への視点[2025年11月11日(Tue)]

◆中教審で次期学習指導要領に向けた審議が各ワーキンググループ(以下「WG」と略記)で一斉に進行中だ。
今日は、その一つ、幼児教育WGの審議において、委員の一人K氏から「寛容」について述べた意見が印象的だった。
子どもたちの成長における「他者との関わり」をめぐって、今回の配付資料の次のくだりをふまえた発言である。

自分とは異なる他者への寛容を基に、思いや考えを伝え合い、自他を尊重し、幼児なりのルールや納得解を形成するなどして、園内の身近な社会の一員として遊びや生活を作っていくことを通じて、当事者意識と社会参画意識の芽生えが育まれることが重要
  *教育課程部会・幼児教育ワーキンググループ第2回配付資料2(2025年11月11日)6頁

◆K氏は、大略つぎのような意見を述べられた。

そうか、「自分とは異なる他者への寛容を基に」なんだ。
共生社会を目ざす上で、想像力と寛容が大事なキーワードだと思っているが、そうか、幼児はもともと寛容さを持っているんだ、って。

寛容さを育てなければいけないものだと思っていたが、そうだよな、と思ったんですね。恐らく葛藤はあるし、さまざまなイザコザもありながらも、まあいっか、と収めていく力は子どもにはあるんだろうな、と思う。
じゃあ、なぜ、逆に、成長に伴って寛容さを育てなくてはならない、という風になっていくのかと思うと、大人たちの規範意識が強すぎる、とか同調意識が強すぎる、という問題があろうかと思う。


◆重要な指摘だと思う。
規範意識」という言葉は現行の学習指導要領にもしばしば言及され、文科省は「規範意識を育む」ための指導例集なども出して学校現場に浸透を図ってきた。そればかりか、全国学習状況調査(いわゆる学力テスト)における子どもたちへのアンケートにも「規範意識」に関する質問項目を設けて、子どもたちの意識をここに向けさせることに力を入れてきた。
平たく言えば「学校生活のルールや決まり」を守るのが大事であり、そのような子どもは学力も高い、ということを刷り込むことに熱心であった。逆に言えば、そうでない子どもは路線から外れて行く。ルールのおかしさに気づいても、あえてそれを先生や大人たちに訊ねたりしないのが「賢明な」生き方だ、と思わせることに注力してきたわけだ。

もう一つ「同調意識」は今次の学習指導要領改定に向けた議論で、委員諸氏からすでに何度か言及がある。日本社会に根を張る「同調圧力」が作用して、子どもたちの主体的な学びを阻害することのないように、と繰り返し注意が促されて来ているのである。

ならば、現行の学習指導要領に残存する「規範意識」や「同調圧力」の誘引となる古い根を総ざらいして取り除くことが必要になってくる。特にその最大のものは「国旗・国歌」にかかわる事項である。
しかしながら、9月に教育課程企画特別部会が出した「論点整理」にはこれを検討した形跡がない。
このままでは、行事のたびに子どもたちはジレンマに立たされることは必定だ。
必然的に〈自らの人生を舵取りする力〉を備えた〈民主的で持続可能な社会の創り手〉の育ちを支えることはおぼつかない。
価値観の衝突が起こりうる問題に頬被りしたままで議論を進めていては、子どもたちが問題をとらえて解決に向かう力を押さえ込む、上からの「教育」しか行われなくなってしまう。

  ★〈 〉内は「論点整理」6ページに掲げる今次改定のキーワード)



検索
検索語句
最新コメント
タグクラウド
プロフィール

岡本清弘さんの画像
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index2_0.xml