• もっと見る
« 2025年09月 | Main | 2025年11月 »
<< 2025年10月 >>
日 月 火 水 木 金 土
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
日別アーカイブ
ユズ&ソウリ[2025年10月31日(Fri)]


IMG_20251031_121358.jpg

ユズがあちこちに姿を見せている。年の瀬近しと思わせる。

*

この季節に出回るチョコレートが店頭に並んでいた。
何と去年の5割以上の値上がり。
米も相変わらず4,000円をはるかに超えたまま。

ソウリたるもの、米空母に乗って大はしゃぎしたり、各国首脳に顔見世するより、民草のカマドをつぶさに見て回る方が大事じゃないのか。


中原中也「修羅街輓歌 IIII」[2025年10月30日(Thu)]


修羅街輓歌 IIII  中原中也 

いといと淡き今日の日は
雨蕭々
(せうせう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如
(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いはれもなくて拳
(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。


  池澤夏樹編『日本文学全集』第29巻『近現代詩歌』(河出書房新社、2016年)より

*「IIII」は「�W」に同じ。「修羅街輓歌」は詩集『山羊の歌』(1934年)に収められ、序詩および�T〜IIIIからなる。


◆しばらく秋雨が続いたせいか、こうした詩が似つかわしい気分。
第2連「石の響きの如くなり」の比喩が良い。

過ぎた時間は戻らない。
拳を固めても誰を責めることができよう。



今年もポイ捨て回収1,000本達成[2025年10月29日(Wed)]

◆今年も残すところ2ヶ月ほど。
境川周辺のポイ捨てペットボトル等回収、今年もめでたく千本を越えた。

今日の時点で、ペットボトルが491本、空き缶496本、ビン19本。総計1,006本だ。

2010年4月がスタートで、毎年千本を目標にして続けているのだが、2ヶ月を残して目標に到達した。これで、大晦日までの60日あまりを全くサボっても大丈夫、というわけでメデタシ、メデタシ……。
株価平均5万円台に湧いた証券会社にあやかり、くす玉でも割るところだと思っていたら、似た形のものを頭上に見つけた。

IMG_20251029_105858.jpg

ザクロである。一個だけ実を付けていた。
小ぶりながら、千本達成のささやかな内祝いとして、アップして置く。

IMG_20251029_105426.jpg



今井文世「虫の声」[2025年10月28日(Tue)]

◆ようやく始まった山上徹也被告の裁判の初公判。
TVで取り上げたもののうち、山上被告の母親への取材ノートから掘り下げようとしたものに目が留まった。
夫の自死や上の子の難病に苦しんだ母親が救済を求めて宗教にのめりこんでいったこと、なすすべもなくそれに巻き込まれていく子ども。
どんな家庭にも起こりうることとして事件の背景の大きさ深さに触れる思いがした。

◆同時に、事件から3年余、裁判への動き出しがどうしてこれほど鈍かったのか、腑に落ちないことの一つだ。報道はそうした点にも探照灯をおろしてほしい。

*******


虫の声   今井文世


家の外でも中でも
こおろぎが鳴いている
遠く近く鳴きつづけている
月明りの空の下に 虫の声がまあるく
家を包んでいる

暮らしていくことは
まわりを汚してしまうから
私の手からすべり落ちていくたくさんのもの
使わなくなった積木や 小さくなった服
読みすてられた本 食べ物の残骸らが

夫やこどものそれぞれの想いが
家という容器の闇の部分に積もっていく

なにげなく交わす言葉にも
心を刺す刃先はかくされている
生きていることが相手を傷つける悲しみに
家がぐらりと揺れることがある

泣きじゃくる声 それをなだめる声が沈んでいった
あやうく保たれている一点で
家の中の片すみの暗い場所で
一匹のこおろぎが鳴いている

やがて季節のどんな時のすきまに
鳴き声は消えていくのだろう


  新・日本現代詩文庫『今井文世詩集』(土曜美術社出版販売、2017年)より

◆「夜明けまで」の連作は詩人にとっての「家」を「台所」に象徴させて、家族の成長や変化、衝突、すれ違いやそれをめぐる葛藤を見つめ、時に受けとめきれずに悩み自問する自身をも描いていた。
「心の錘」という表現があった(「夜明けまで(3)」)。この「虫の声」にもそれはぶら下がっている。
思念が注がれるところにあるその錘は、家族の関わり合いの中に生まれる危機を反映して時に揺れ振り切る寸前まで行かずにはいない。
その目撃者あるいは苦悶する「私」の代弁者のようにこおろぎは鳴く。
深まる季節は、生きることの重さに最も深く思いをひそめる日々でもある。






今井文世「夜明けまで (3)」[2025年10月27日(Mon)]

◆連作詩「夜明けまで」の昨日の続き――


夜明けまで (3)  今井文世


一日の終わりに台所の灯を消すと
その日私が燃やした火が
部屋を濃く彩ってひろがる

野菜の陽の凝縮した緑や
魚の光る雫である
時が
正確な速度で
一つの大きな鍋に炊かれていく日々

食卓から湯気が立ちのぼる
食器の触れ合う音
溢れる笑い声や鳴き声怒り声が立ちのぼる
いつかやって来る
食卓に誰も帰ってこなくなる時まで
この部屋は 私を待ち 私を縛り
心の錘となる

記憶の中の空襲で街が燃える火
薪で風呂をわかしながら見つめていた火
神楽
(かぐら)のそばで一晩中燃えさかり社の闇を不気味に照らした火が
食物を炊く火に映る

空白の
夜明けの台所にも
残像となって火が燃える


  新・日本現代詩文庫『今井文世詩集』(土曜美術社出版販売、2017年)より

◆作者が空襲を経験したのは昭和20(1945)年、6月29日未明の岡山空襲だ。
一日の終わり、その日に台所で燃やした火の残像に、さまざまなものが重なり映る。
食卓に供する魚菜だけではない。家族の悲喜こもごもの歴史も。
いつか子どもらも独立してこの家から出て行く。

◆空襲で燃えさかる火、神楽(吉備路に今も伝えられている備中神楽)を浮かび上がらせるかがり火、それらは台所の隈々の闇を揺らすかまどの火と同様に、映像だけでなく音も伴って記憶の中で燃え続けている。




今井文世「夜明けまで」より[2025年10月26日(Sun)]

詩集『夜明けまで』より


夜明けまで(2)  今井文世


その日も 手がすべって茶わんを一つ割った
床にこなごなに飛び散ったかけらをひろい集めるときの
小さな戦慄
子どもの足の裏を染める血
白いかけらが血管の中を流れていく幻影を見る

それは家族の五つの茶わんのうちの一つ
食事のまえにまず並べられる
もうすぐここに帰ってくる
朝から夕べまでのざわめきを振りまきながら
あるいは力つきた抜け殻となって
小さな自分の茶わんの前に坐る

それは毀れる物でありながら
人間の肉体の一部のように
生きているあいだ あり続けるのに
いま 一つの空白がこの部屋に穴をあけ
持ち主をさまよわせる

食器を洗うとき
こころを遊ばせる習癖のある私が
手をすべらせて割ったかけらが私の足もとに積もっていき
私をおびやかす

深夜の食卓に
新しい花もようの茶わんを明日のために伏せておく
最後のとき 大きな意志の手で
はげしく茶わんが割られるまで
私は一つ又一つと買いたしていく


  詩集『夜明けまで』(1987年)所収。
新・日本現代詩文庫『今井文世詩集』(土曜美術社出版販売、2017年)によった。


◆「夜明けまで」と題する連作の(2)。
茶わんの一つ一つが家族それぞれの一部である、というとらえ方には、日々食卓を調え家族の生を支えている者の愛情と生活実感がある。
同時に、いつか突然訪れずにいない欠落にどう向き合うか、心を養生しておくとも言うべき、ふだん使いの思索がある。



  
 
今井文世「シジミ」[2025年10月25日(Sat)]


シジミ   今井文世

私のてのひらに
八千年を経たシジミの貝殻がある
白く色あせているが かけることなく
少しの泥をこびりつかせて

川が海と交じわるところ
人は貝を掘り 食べた
砂泥の中で 水の音や かすかな日射しを吸い太っていった
人の舌に味わわれてきた貝
てのひらの八千年という時間の果て

二人きりの食卓で
今日もシジミ汁を食べている
ほんの少し前だった この大きな食卓を
にぎやかに父や母 子どもたちが囲み
幼児さえ 貝の美味しさを言い
おかわりをした

ガラス越しに 静かに移ろっていく庭を見ながら
二人の食べ物を咀嚼する音はつづく
今という 通過していく時を
この腕で留めたい

時間の記憶の欠けらが
小さな貝殻の形を借りて
私に呼びかける
まもなく殻は捨てられて
遠い未来を埋めていく


詩集『峠の季』(2014年)所収。
新・日本現代詩文庫『今井文世詩集』(土曜美術社出版販売、2017年)によった。


◆松江を舞台にした朝ドラ「ばけばけ」でシジミ汁をいただくシーンが丁寧に描かれていた。
最初は大きなシジミだったが、松野家が没落して汁椀の中のシジミは小粒になり、数もぐんと減った。

◆今井文世(ふみよ)は岡山の詩人。県内でもシジミは取れるだろうが、岡山から北へ山々を越えれば松江である。宍道湖産のシジミが食卓に上る日もあったろう。

◆シジミには年輪状の筋があり、小さな一つの個体の寿命は10年ぐらいと聞く。
決して長いとは言えない個々の命を古代から今に継いで来たのは、汽水湖にシジミの名産地が多いことが示すように、川を下り海に注ぐ水の力だろう。流れ、たゆたい、満ちて溢れる水は、流れ、ゆらぎ、ほとばしり走る時間というものを目に見える形にしてくれているようでもある。とらえがたく場所場所で姿を変える水と時間。

気取ったところのないシジミ汁が盛られたお椀を両手で捧げ持つのは、そうしたことを感じながら「いただく」のだろう。






今井文世「コスモス」[2025年10月24日(Fri)]


コスモス   今井文世


道ばたに蛇が死んで
夏がうつろってゆく
とおい国では洪水がおこり
別の国では多くの人が餓死しようとしている日
また遠い国境では戦争はつづき
そしてここ私の手のとどく場所で
コスモスは花びらを開ききって咲く

洪水の中の街
飢えている母子の瞳
傷ついた兵士よ
花のそばにいる私が遠いなら
その遠さを私は知りたい

鳥にさえ越えることができない空間がある
私の魂の境界線はどこなのか

花のすぐ向こうに
生と同じ色をした死が
一瞬すきとおって見える


  新・日本現代詩文庫『今井文世詩集』(土曜美術社出版販売、2017年)より


◆偶然手もとにあった詩集、開いて間もなく昨日の続きのように蛇が登場していた。ただし季節の終わりを象徴するように息絶えた姿を路傍にさらして。
それと地続きのように遠い国の洪水や飢餓、戦争へと想像は及ぶ。
間を隔てる山や川、海があろうと、想像力の前に距離は問題ではない。

しかし、にも関わらず……だ。あるはずのない国境と同じように境界線が横たわっているのはなぜか。指呼の間ですら、越えられない彼方に遠ざけるもの、それは人間の憎悪や恐怖がもたらす死の谷だ。




中村稔「尾長の啼く庭」[2025年10月23日(Thu)]


尾長の啼く庭   中村稔


地を逼うように数羽の尾長が飛来し、
柿の木の稠密な葉がくれに
ギイッギイッと啼く。
柿の葉がさわげば、私の心が騒ぐ。

私の眼がまざまざと映している、
みるみる熟しゆく柿の実や
梢をわたる萌黄の風の色や、尾長たちの
はばたきにまぎれゆく私たちの生涯や……。

遅い午後の陽差しのなかで
柿の葉がさわげば、欅の葉がさわぐ。
確かに尾長たちは飛び去ったのだが、その時には

樹々の葉がみな一斉に騒いでいる。
――今日もどこかの林の底で
尾長の仲間が死んでいるにちがいない。



  現代詩文庫『中村稔詩集』(思潮社、1977年)より


◆尾長という鳥には思い出がある。半世紀前、真夏の東京でだった。
新宿区喜久井町の学生向けのアパート、暑さに参ってまどろんでいた耳に野太い啼き声が聞こえた。
西日の差し込む小さな窓の外に目を遣ると、名前の通り尾は胴体と同じくらい長く、優美と言っていいほどだ。
隣は誓閑寺という浄土宗のお寺だったが、アパートとの間は灌木と雑草が生い茂っていた。
うだるような暑さに加えて尾長の啼き声だ。追い払おうと窓に近づいてビックリした。間近の別の木に青大将がいたのだ。

◆のちに調べてみたら、尾長は夏産卵と子育ての季節らしい。卵か雛を狙う青大将を、親鳥が追い払おうと懸命に啼いていたのだったか。

◆上の詩でも尾長は啼いているが、幸い青大将は登場せず、柿の木の梢をわたる風も涼しげだ。
尾長も一羽ではない。彼らの動く姿や啼き声は柿の木やそれを見下ろす欅たちをも刺激して葉を揺らす。命あるもの同士、子育ての苦労を語り合っているのかも知れない。
それは我々人間だって同じこと。

鳥も人も、そうして木や草も、いずれ敵に襲われ、病を得、あるいは老いを迎えて果てる日が来る。

その時、樹々が一斉に葉を震わせて悲しんでくれるのなら、もって瞑すべし、ということだ。







中村稔「塔」[2025年10月22日(Wed)]


塔  中村稔


確実に天心を目差す
柔軟であった日の心の軌跡。
ゆるやかな破風はいくたびか地に叛き
そして そのままにかたちをなした!

木々はおのおの緑をつくし
林の向うには聚落がある。
今日人々は忙しげに往来し
もはや声をあげて笑うことをしない。

島国の晴天は傷つきやすく
ゆるやかな破風はふたたび又みたび
地に叛き 地に叛きつつ空に触れ合う。

ああ私たちが此処を発って 明日
いくばくの瓦礫をつむとしても
ついに稜角を成すことはないだろう……。


 現代詩文庫『中村稔詩集』(思潮社、1977年)より


◆この「塔」はどんな姿で建っているのだろう。
「破風」を持ちながら「塔」と呼んでいるので、最上階以外は破風を持たない、高く聳える層塔の天守なのだろうか。

空に触れ天を摩すほどの高さで風を受け流すために、破風の形はむしろ「ゆるやか」だが、天と対話するほどに地に対しては叛くことになる。
その代償のように、塔はいくたびか倒れ、だがそのたびに再建されて来たのだろう。

だが、それも、人々にゆとりがあり、塔を中心に生きる営みが可能であればこそ。
汗をふきながら塔を見上げて笑い合う余裕を失った私たちは、塔のあるこの場所を離れようとしている。

向かう先にあるのは瓦礫の街だ。それを積み上げたところで再び天心を目差す塔を建てられるとは思われない。

◆どこまでも続く瓦礫を目の当たりにしている私たちにとって、いま、この詩の「塔」と人々の物語は、他人事に思えない。









| 次へ
検索
検索語句
最新コメント
タグクラウド
プロフィール

岡本清弘さんの画像
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index2_0.xml