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洞口英夫「くるみ」[2025年09月21日(Sun)]

IMG_20250825シラカシ.jpg
シラカシ。くりくりしたドングリをつけていた。

*****

くるみ   洞口英夫


たにまのくるみの
樹の枝が
 川の流れのある方に
  枝を伸していって
    たねを落とすように
人はいつか
 永遠の流れにのびていって命を落す



  『一滴の水滴が小鳥になる』(思潮社、2024年)より

◆境川のサイクリングロードにはクルミ(オニクルミ)の木が何本か成長していたのだが、今年の春先にあらかた伐られてしまった。
だが、またそこここに姿を現している。

◆上流から運ばれてきた実が途中で居着く。だがそれも一時。実はいずれ流れ下る。
個体としては死だが、クルミ族としては命のリレーだ。

だが、上の詩ではそのような継承や再生に関心を向けてはいない。
永遠の流れの方向に自分を放り出す感じがある。

命は「落ちる」とは言わず「(命を)落とす」と言うのは、死が自分でどうこうできることではなく、何ものかが「落とす」力を持っている、と観ぜざるをえないからか。
ならば、人にできることは何だろう。







洞口英夫「落葉」[2025年09月19日(Fri)]

◆安保法制10年。憲法破壊にも慣れた――のか?
それでも専守防衛の大前提は生きている――と言えるのか?
日々の暮らし、そんなに変わってない――本当にそうなのか?

◆地球のあちこちで声を上げている何十万、何百万という人々。
それをドローンの映像で見せる――それが報道、なのか?

◆総裁候補の、これまで見せなかったくだけた顔や意外な趣味を画面に流す――それがニュース、なのか?

***


落葉   洞口英夫


秋の陽射しがいつのまにかなくなり
枯葉をふみつけて歩くように
自分をふみつけて歩いていた

おれはどうしてこうなんだと
だめな自分が落ちてくる
落葉の道を歩いていた

私はいつまでも
私が落ちてくる
枯葉のなかを
おれはどうしてこうなんだと歩いていた



  『一滴の水滴が小鳥になる』(思潮社、2024年)より

◆「暑い、暑い」と嘆いているうちに、頭を冷やせと涼しくなった。
お天道様はちゃんと次の幕を用意していたと見える。

グチってるヒマがあったら、濡れ落ち葉のような「だめな自分」を思い切り踏みつけて先に進まねば。



洞口英夫「境界」[2025年09月19日(Fri)]

       ほらぐち ひでお
境界   洞口英夫


幼いころ
地球に落ちる夢をみた
まったく同じ夢を年を違えて何度もみた
遠くの宇宙からやってきて
夜の地球の上をぐるぐるぐるぐる
廻ってそのあげく
地球に落ちる
夢はそこで終っていて
こわくていつもそこで
眼がさめていた

これが私の生誕だとわかったのは
おとなになってからでした



 『一滴の水滴が小鳥になる』(思潮社、2024年)より

◆こうした詩に出会うと、自らの生誕を身体感覚として記憶の古層に刻んでいる人がいるのだと思えてくる。
そうしてそのような人は、自分のお尻の蒙古斑を自分の眼で確かに見た、という記憶も持っているに違いないと思われてくる。
すなわち、生を授けた創り主のすぐ近くに居る人。



日本政府はパレスチナの国家承認を![2025年09月17日(Wed)]

◆パレスチナを国家と承認することを先延ばしにする日本政府。
アメリカに忖度した、腰砕けの「民主主義国家」。

三権(国会・内閣・裁判所)に属する人々は、日々の務めの始まりに、日本国憲法前文だけでも復唱し、一日の終わりには、それに照らして恥じることなかりしかと省みる時間を持つべきではないか?

せめて前文の終わり三つの文章を――

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。





ハナトラノオ(花虎の尾)[2025年09月16日(Tue)]

DSCN0081.JPG

ハナトラノオ(花虎の尾)。

宿根草とのこと。昨年と同じ所に、仲間を増やして咲いていた。

DSCN0085.JPG





平田俊子「目的、鼻的」[2025年09月15日(Mon)]

◆詩人は、聴覚・視覚とも鋭敏なだけでなく、それらを同時に働かせてしまう。


目的、鼻的   平田俊子


「お摑まり下さい」
バスが曲がるたび
運転手さんはアナウンスする
お言葉に甘えて
運転手さんの腕に摑まると
「お放しください」と叱られた
目的のない日本
目的語のない日本語
お放しください
お話しください
何に摑まれば安全でしょうか

「お摑まりください」
アナウンスのたび
ぎょっとする乗客がいる
ブラボー!がドロボー!に聞こえる人だ
縁起でもない 捕まってたまるか
逃げ延びるのがきょうの目的
あしたの鼻的
ライ麦畑で捕まってたまるか
玉ねぎ畑で捕まってたまるか
革は使われていない吊り革
そんなものに摑まってたまるか

ハンドルに摑まっている運転手
ハンドルを捕まえている運転手
乗客はバスに捕まえられて
目的地という敵地に
連れていかれる


 『戯れ言(ざれごと)の自由』(思潮社、2015年)より

◆「ツカマル」「ハナス」など同音異義語がある言葉に反応するのは、街に出かけ、乗りものに身を預けていてさえ、周囲の言葉に耳を向けずにいない詩人の習性によるのだろう。
耳が「ツカマエ」た音たちは、頭の中でグルグル回って、くっついたりほぐれたりしながらフワフワ浮かぶ。ちょうど綿菓子機のようなぐあいだ。
綿菓子はおいしいが、口以外のところにくっつくという厄介な性質がある。

言葉も、「誤解」を生んで「事件」になることがある。
バスの運転手さんのアナウンスでは何に摑まれというのか、目的語がないので、「誤解」を生じる。
ハンドルを「捕まえ」ているのか、ハンドルに「摑まって」しまっているのかわからないが、ともかく運転に注意力を集中させたい運転手さんが、わかりきった目的語は省く、その気持ちは理解できる。
だが、「摑まる」のは「吊り革」に決まっていると誰もが自動思考するとは限らない。
そんな「児童」思考からはみ出して、「目的語のない日本語」⇒「目的のない日本」という批評に転換させたりする人だって乗客のなかに居たって(至って)不思議はない。

広島原爆死没者慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」の意味が分かりにくいとしばしば議論になる。これも目的語を(ばかりか主語をも)省いた表現であるためだろう。「言わなくても分かるはず」という前提はもはや通用しない。記憶を継承することは平和の中味と主体をつくる目的をはっきり見定める時に可能になる。




ナンキンハゼの青い実[2025年09月14日(Sun)]

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ナンキンハゼ(南京櫨)が青い実をつけていた。
去年出会って以来、時々立ち寄る樹の一つ。

DSCN0053-thumbnail2.jpg

雌雄同株のはずだが、すぐ隣にあった別の一本には実が見当たらないようだった。
11月頃には実が弾け、紅葉も楽しめるはず。





平田俊子「貝殻」[2025年09月13日(Sat)]

DSCN0062.JPG

*****


貝殻   平田俊子


本日はお日柄もよく
なきがらも笑ってやがら
しがらみから解放されて
ほがらかな笑み
浮かべてやがら
誰かを待ちながら死んでいったか
泣きながらだったのか
ワタリガラスの俺は知らない
ぬけがらとなった今
いやがらせをする人はない
遅ればせながら駆けつける人も
涙ながらに送る人もなく
なきがらは燃え殻になる
がらくたのように生きた日々
生まれながらの独りぼっちは
ついに がらんどうになる
ひとごとながら
さりながら
涙らしきものが落ちるのは
われながら不可解だ
何もかも片付き
からっぽの部屋
あとに残った貝殻ひとつ


 『戯れ言(ざれごと)の自由』(思潮社、2015年)より


◆「がら」の音で組み上げたコンポジションというべき一篇。

諧謔の薄布の下にあるのは、実際には無二の人を喪った悲しみだ。
骨揚げの段になってさえ、突き放し笑いのめさずにいられない、そのような哀惜の表出になることだって人間にはある。

愛児を喪った小林一茶の句「露の世は露の世ながらさりながら」を思い出させずにはいないが、この詩は、青春期以来の心友のとむらいに臨んで、というのがふさわしいように思う。

もう一つ、自分の死をイメージし総括した自己放下(ほうげ)の詩と読むこともできる。





クサギの花と実[2025年09月12日(Fri)]

◆クサギの花が咲いていた。

DSCN0040.JPG

青い実も姿を見せ始めている。ズームしてみたのが下の一枚。

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例年訪れてみているクサギだが、アゲハに出くわすことが多い。この日も見事な白紋を持った黒いアゲハが飛んでいたものの、撮影は失敗。いずれまた。




葛の花[2025年09月11日(Thu)]

◆ツリーのようにまっすぐ上に伸びた葛の花。

DSCN0034.JPG


DSCN0037.JPG


横からの眺めもサマになっている。

DSCN0038.JPG

***

◆25回目の9・11だ。
銃社会から卒業できないアメリカでまた悲劇が。

加害者も理由も不明な段階で「極左が」と決めつけるヒマがあったら、まず銃を棄てよ。



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