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小池昌代の
「地上を渡る声 18」は恐ろしい詩だ。
「地上を渡る声」より 小池昌代
18
乳母車を押していると
上空に はげたかが飛び回っているのが見えました。
ええ、この子供は、さきほどまで、鼻から血を流していたものですから
その匂いをかぎつけてきたのかもしれない。
わたしは 空をにらみながら いっしんに乳母車を押していきます。
きのう激しい雨が降ったので 水溜りがあちこちにできています。
その表面が かすかにゆれて わたしの不安をかきたてています。
子供はさきほどから眠っています。
もう永遠に 目を覚まさないのではないかと思うほど
青ざめたほほと白い耳たぶ
血の気のないくちびるに 目の下はくろずんで
古くなったラズベリーのジャムの色のようです。
乳母車が奇妙に重いのは
きゅうな坂道にさしかかったからでしょうか。
それとも――
わたしがいま 運んでいるのは
まだ二歳にも満たない新しいいのちなのに
わたしは不意に なにか別のものを運んでいることに気づいてしまう。
電信柱の影が伸びて 線路の小石に陽が差したりひいたり。
踏み切りの警報が遠くで鳴っています。
乳母車の椅子をくぼませているのは
重くてまるい、果実のような甘い肉のかたまり
そのなかに、固くうめこまれてある ちいさな死の実
近づいて かいでごらんなさい。
すでに腐ったような匂いをたてています。
あの 上空を飛び回っている黒い大きな鳥は この胸の実をついばみに来たに違いありません。
わたしは表情をおとしながら、ゆっくり乳母車を押していきます。
乳母車を押しているとなぜでしょう、いつも少しずつ ヒトでないものになっていく。
硬く腫れたような子の身体から できたてのパンのような匂いがしています。
さきほどは、腐乱した匂いが立っていたのに いったい どちらが本当なのか。
どちらもこの子の匂いに違いない。きっと死は
あるときは腐臭として あるときは甘く わたしたちをまどわして匂うのだから。
やがて子供は目をぱっちりと開けて 何もかも知っているかのように わたしを見つめるでしょう。
自分のなかで 何が育ち 何がにおい立ったのか
わたしたちが いったい どこへ向かっているのか
彼は知っていて けれど いつだって何も言いません。
ただ、不思議な目をして この世を眺めなおすだけ。
子は目覚めるたびに世界を組みかえ
世界も そのたびに新しくたちあがってみせます。
紙おむつを買うのを忘れていました。
紙おむつはいつもすぐになくなってしまいます。
さあ、駅前のセイジョー薬局へまいりましょうか。
そのとき 後ろから 小走りにやってきて
わたしの肩をたたく者がいる。
乳母車のなかをさっとのぞきこんだあと
ぞっとするほどに 甲高い声で言う。
「死んでいますよ」 詩集
『地上を渡る声』(書肆山田、2006年)より
◆死児のイメージは中原中也の詩に通う。「電信柱」や「乳母車」といったことばは宮澤賢治や三好達治を思い出させずにはいない。
二歳に満たない子供なのに、何もかも知っているようなのは、漱石の『夢十夜』の第三夜、背中に負ぶっている子供を連想させる。あれは六つの子だったか。
最後にゾーッとさせるのも同じだ。シューベルトの「魔王」の結末のような。
◆子が目覚めるたびに、世界は(子の力で)組みかえられ、世界の方も新しくたちあがって「
見せる」のだよいう。
だが、それは、そのように装われているだけで、ほんとうは何も変わっていないのかもしれない。
そのような計らいがなされているのだとしたら、それは誰のために?
「わたし」が希望を失わぬため、乳母車を押す歩みを止めないため?
中の子供が永遠の眠りについているのなら、その乳母車を押し続ける「わたし」は、生きていると言えるのか?そうしてそれは「わたし」独りだけのことなのか?
――詩の中に「わたしたち」とあるのは〈子供とわたし〉のことだと読める。だが、そうした〈死児とその母〉たちが、そこにもここにも、無数に群れをなしていて、どこに向かうとも分からぬまま歩いているのではないか?
はげたかの舞う空をにらみ、紙おむつのことを気にかけながら。