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2024境川ポイ捨て回収報告[2024年12月31日(Tue)]

◆大晦日恒例の境川周辺散歩がてらのポイ捨てボトル等回収集計――
2024年の回収数は、ペットボトルが721本、空き缶625本、ビン40本で総計は1,386本ナリ。
昨年は1,293であったから、7%強の微増である。

◆冬枯れの川べりだが、木の芽はしっかり春に備えている。
たくましいこと、人間の比ではない。

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DSC_0507-A.jpg

彼らにあやかりつつ、来る年のどなたにとっても幸多きものでありますよう、祈ります。



中原中也「雪が降つてゐる……」[2024年12月30日(Mon)]



雪が降つてゐる……   中原中也


雪が降つてゐる、
  とほくを。
雪が降つてゐる、
  とほくを。
捨てられた羊かなんぞのやうに
  とほくを、
雪が降つてゐる、
  とほくを。
たかい空から、
  とほくを、
とほくを
  とほくを、
お寺の屋根にも、
  それから、
お寺の森にも、
  それから、
たえまもなしに。
  空から、
雪が降つてゐる
  それから、
兵営にゆく道にも、
  それから、
日が暮れかゝる、
  それから、
喇叭
(らっぱ)がきこえる。
  それから、
雪が降つてゐる、
  なほも。

       (一九二九・二・一八)


谷川俊太郎『詩ってなんだろう』(ちくま文庫、2007年)より


◆繰り返される詩句がしんしんと降る雪の世界に招き入れる。
ある者は雪の向こうにあるものを見遣ろうとする面持ちで。
またある者は見慣れたはずの街が別世界に変容したことに目を見張って。
(詩に歌われた兵営とそこから喨々(りょうりょう)と聞こえて来るラッパの音は、中也の幼年時代から身近なものだった。)
別の一人は空を仰ぎ、我が身が地上を離れて行く感覚に息を吞んで……。

◆よく知られたこの中也の詩に薮田翔一が作曲している。
2016年の初演以来、すでに様々な声域の歌手たちが歌っていて、一つの歌がかくも多様な響きで表現されることに驚く。

1.テノールの松尾順二の委嘱により作曲されたものの初演(2016年)
ピアノ:式町典子
https://www.youtube.com/watch?v=KFlYjeoDCPA

2.同じくテノールの鳥尾匠海による歌唱(ピアノは大貫瑞季
https://www.youtube.com/watch?v=sZD9Zk54_zo

3.バリトンの黒田祐貴による歌唱も。(ギター伴奏は北田奈津子
https://www.youtube.com/watch?v=Sqa5czI1XKs

4.ソプラノ小川栞奈とメゾソプラノ石田滉による重唱もあった。原田芳彰指揮による西播磨交響楽団が伴奏をつとめている。
https://www.youtube.com/watch?v=4sI6vO6_OYQ


まど・みちお「ねむり」[2024年12月29日(Sun)]

◆アンソロジー『ぱぴぷぺぽっつん』からもうひとつ――


ねむり   まど・みちお

わたしの からだの
ちいさな ふたつの まどに
しずかに
ブラインドが おりる よる

せかいじゅうの
そらと うみと りくの
ありとあらゆる いのちの
ちいさな ふたつずつの まどに
しずかに
ブラインドが おりる

どんなに ちいさな
ひとつの ゆめも
ほかの ゆめと
ごちゃごちゃに ならないように


市河紀子『ぱぴぷぺぽっつん』(のら書店、2007年)より


◆オルゴールの音色とともに耳元で私のためだけに歌われる子守歌みたいだ。

*こうした詩は作曲家がほっとかないだろうな、と思って検索してみたら、横山潤子さんが合唱曲に仕立てていた。
下記の動画を参照。輪唱が波のように打ち寄せて眠りに誘う。
「あい混声合唱団」による混声合唱版】
https://www.youtube.com/watch?v=1aOWaisRbFk

もう一つ、こんにゃく座の萩京子さんによるシンプルな祈りの歌も生まれていた。
https://www.youtube.com/watch?v=j9RIF7IZg0I


工藤直子「名まえ」[2024年12月28日(Sat)]

市河紀子編のアンソロジー『ぱぴぷぺぽっつん』からさらに一篇――


名まえ  工藤直子


おおきなものにも
名まえが一こついている
「宇宙」…なんて

ちいさなものにも
名まえが一こついている
「ミジンコ」…なんて

「宇宙」と「ミジンコ」が であって
やあ、と
あいさつしたりなんかしている


市河紀子 『ぱぴぷぺぽっつん』(のら書店、2007年)より


◆大小の両極と言っていいほど異なるもの二つを取り合わせて、しかもその全く似たところのない者同士があいさつなんぞしているのが面白い。
どちらにも「名まえ」がついている。詩人にとってはどちらも大切でかけがえのないものだからだ。
ちっぽけなやつだからと無視したり、大きすぎて捉えどころがないからといって意識しないで済ましたりなんかしない。

ガザのムマル君やナディーンちゃん、ウクライナのイゴール君やナターリャちゃんを決して無視しちゃならないのと同じように。





まど・みちお「ゆきが ふる」[2024年12月27日(Fri)]


ゆきがふる   まど・みちお

ふるふる ふるふる ゆきが ふる
ゆきを みあげて たつ ぼくに
ふるふる ふるふる ゆきが ふる
とつぜん ぼくは のぼってく
せかいじゅうから ただ ひとり
そらへ そらへと のぼってく
ふと きがつくと ゆきが ふる
ゆきを みあげて たつ ぼくに
ふるふる ふるふる ゆきが ふる


市河紀子『ぱぴぷぺぽっつん』(のら書店、2007年)より


◆雪が降りてくる空を見上げる。
とつぜんの感覚の転換は、世界が急に大きく変わったことを表現している。
それは内面にも大きな転換が起きたことを意味する。違う世界へのスイッチが入った瞬間だ。

橋の上から川の流れを見つめた時も、不意に、船首に立ち海原を突き進んでいる感覚に襲われることがある。
ここでは垂直方向へ。

振り仰ぐ勇気さえ失わなければ、雪はしばしば啓示をもたらす。


谷川俊太郎「どこ?」[2024年12月26日(Thu)]


どこ?   谷川俊太郎


ここではない
うん
ここではないな
そこかもしれないけれど
どうかな

「場」をさがしあぐねているのだ
みちにあたるものは
まっすぐではなく
まがりくねるでもなく
どこかにむかっているらしいが

そうだ
まなつのあさの
くだりざかをわすれてはいけないな
ひとりよがりで
ひたすらおりてゆけばいい

「場」があることだけはたしかだから
うん
そうおもっているものたちはまだ
いきのびているはずだ
そこここでことばにあざむかれながら

とおくはなれたところにいても
そこにいれば
ほら
そこがここだろというばあさんがいて
わかものらははにかんでいる

とにかくいかねばならないなどと
いきごんでいたきもちが
きがついてみるといつか
うごくともなくうごく
くものしずけさにまぎれている

おんがくのあとについていっても
うん
みずうみのゆめがふかまるだけ
いちばんちかいほしにすらいけない
なさけなさをがまんするしかない

そう
ありふれたくさのはひとつみても
はじまっているのか
おわりかけているのか
みきわめるすべがないだろ

〈そう〉は〈うそ〉かもしれないとしりながら
きのうきょうあすをくらしているのが
きみなのかこのわたしなのかさえ
ほんと
といかけるきっかけがみつからない

ただじっとしているのが
こんなにもここちよくていいものか
「場」はここでよいとくりかえす
かぼそいこえがまたきこえてきた
きずついたふるいれこーどから

「場」がいきなりことばごときえうせて
うん
ときがほどけてうたのしらべになったとき
わたしはもう
いきてはいなかった


『さよならは仮のことば』(新潮文庫、2021年)より


◆ぼうっとかすんだまがりくねった「道」の向こうに何があるのか。
それより、「場」に通じるその「道」は、実は自分の記憶のなかにしまい込まれていて、あせらずそれを思い出しさえすれば、「ここはどこ?」などと惑う必要はない。
たとえば「まなつのあさの/くだりざか」のように。それは確かに一度通ったことのある道だ。
(だったら、「まふゆの宵ののぼりざか」だって通ったことを覚えていないか?と読者のひとりとして半畳を入れてみる。ただし全く悪意はなく。)

◆詩中、「うん」という肯定のことばは、受けとめてくれる相方の存在を思わせる。ただし、その相方は、すでにこの世にいないのかも知れない。これもまた記憶の中の「彼」をより良く思い出せたときに聞こえて来る相づちなのかも知れない。
だとしたら、彼と「わたし」がいる「場」に違いは無くて(だから〈「場」がいきなりことばごときえうせて〉しまうのだ)、その状態を一般に「死」と呼んでいるだけのこと。






谷川俊太郎「死んでもいい」[2024年12月25日(Wed)]


死んでもいい  谷川俊太郎


おれは死んでもいいと思う
まだ十六だから今すぐってわけじゃない。
かと言って死ぬときを自分では選べないから
まあそのときが来たら
死ぬほかないんだから死んでもいい
生きてるのがつまらないから
死んでもいいんじゃない
死ぬのが死ぬほどいやだってやつもいるけど
おれはそうじゃないだけ
生きてるのがうれしいから
死んでもいいんだ
死んでももしかするとうれしいのが続くかも
昨日うちのじいさんに
死ぬのをどう思うってきいたらさ
「死んでこまることはない」だってよ


『さよならは仮のことば』(新潮文庫、2021年)より


◆愉快な詩だ。
この詩の「死」を「生」に置き換えても「詩」としては成り立ちそうに思える。
例えばじいさんの「死んでこまることはない」という至言は「生きててこまることはない」と言い換えてもやはり達人の名言として通用するだろう――特に「生きる」ことに行き詰まっている人にとっては。
凝った肩を一旦外し、また戻してシャンとさせてくれる。
脱力は再び力を取り戻す効果があるようだ。



谷川俊太郎「私は王様」[2024年12月24日(Tue)]

◆昨日のTVドキュメンタリー「第2の家」を見た気分が続いているからだろう、次のような詩に目が留まった。


私は王様   谷川俊太郎


いまここにいる私
は他にどこにもいない私
がいまここにいる
ここがどこかも知らずに
雲の帽子かぶって
泥のスリッパはいて

いまここにいる私
の隣にいるあなた
はここよりあそこがいい
と言うけれども
あそこにはここにあるものが
ないではないか

いまここにいる私
を誰も動かせない
いまここにいることで
私は王様
行こうと思えば
ここからどこへでも行ける


『さよならは仮のことば』(新潮文庫、2021年)より


◆第二連、「あそこにはここにあるものが/ないではないか」という一節が目に沁みる。
どこかに青い鳥が居ると信じて探しに行く人は、”ここにないもの"が、”ここでないどこかにきっとある”と思って旅に出るのだろうけれど、現に「ここにあるもの」が「かけがえの
ないもの」であることに気づかないとするなら、それは不幸なことには違いない。ただ、そのことに気づかないように仕向ける大人たちの悪意や支配者意識が若い人たちを不幸にしている、ということから目をそらしてはならない。

◆「ここにあるもの」に対するに「いまここにいる私」が存在していて、その「私」は、誰がどうたくらんでも動かすことができない。
だから「王様」なのだという。であるなら、この「王様」とは、人間存在の「尊厳」の別名なのだろう。この王様が、その自らの価値にパっと気づいたら、頭の上には雲の帽子ではなく、素敵な王冠が載ることだろう。「王」の上に「、」を戴せれば「主」という文字だ。
自分が自分の物語の主人公であること、それがどんなに大切なことか。
いまもこの先も、ずうっとここにいていいし、行きたければいつでもどこへでも行くことができる。すべての人がそうであるべきだし、そうでなければならない。




ドキュメンタリー「第2の家」+谷川俊太郎「いや」[2024年12月23日(Mon)]

◆日曜深夜(というか、日付が変わって今日23日の月曜が始まってすぐ)、日本テレビのドキュメンタリー、山形放送制作の「第2の家 あなたの再出発、手伝います。」を途中から見始めたら、最後まで見る結果になった。
生きることの再出発を目指す人たちの居場所、それが「第2の家」だ。

一人は父の元を離れ働き始めた40代の男性。

◆もう一人は親から虐待を受けて育ち、家族にも社会に絶望しかけた女性。だが学校を終えたら働いて再スタートしようと決意している。高校卒業までの三ヶ月を「第2の家」で過ごした。支援者に心を開いた訳ではない。だが、支援者の発案で当座の生活費と旅立ちへの支援をSNSで求めたところ数多くの人たちが応じてくれた。
その一人、自らも同様の経験をした女性が女子生徒に会いに「第2の家」に訪ねてくる。そこからが素晴らしい。

ラストシーン、彼女が「第2の家」を巣立つ日にスタッフに宛てた手紙は、健気なほど律儀な言葉で綴られていた。それはなお硬いガードを崩していないことを示す。それだけに、18年の人生において、人の善意への警戒を解かずに生きてきた若者が抱えているものの尋常でない重さに、見る者は圧倒される。
だが同時に、並々ならぬ決意で生き抜こうとしている、その痛切な一歩がまぶしい。
祈り、エールを送らずにいられない。

★再放送がある。12月29日(日) 8:00から。BS日テレだ。

*******


いや   谷川俊太郎


いやだ と言っていいですか
本当にからだの底からいやなことを
我慢しなくていいですか
我がままだと思わなくていいですか

親にも先生にも頼らずに
友だちにも相談せずに
ひとりでいやだと言うのには勇気がいる
でもごまかしたくない
いやでないふりをするのはいやなんです

大人って分からない
世間っていったい何なんですか
何をこわがってるんですか

いやだ と言わせてください
いやがってるのはちっぽけな私じゃない
幸せになろうとあがいている
宇宙につながる大きな私のいのちです


『さよならは仮のことば』(新潮文庫、2021年)より

 
うめだけんさく「癪の種」[2024年12月22日(Sun)]


癪の種  うめだけんさく


癪の種は
なくならない
時の流れとともに
形を変えながらありつづける

かつて辺境の地から叫び続けた詩人がいた
 「おれたちのなかの癪を 世界の癪を*」
 「南の辺塞よ
  しずくを垂れている癪の都から
  今夜おれは帰ってきた*」

間違った戦争で愛するものの命を奪われ
被爆の痛苦を生きたものの声を遮り
戦後の廃墟をはいずり作り上げたこの国のありようが問われる
ヒロシマ・ナガサキも
第五福竜丸の悲劇も
地殻変動で揺れ動く小舟のような列島
あの黒い津波で失われたもののことさえ
活かすことのできない癪が
動けないおれの腹に湧き上がる

払拭できないままの不安をかかえ
七十数年の時を経てなお癪の種はついて回る
見せかけの平穏がいつまで続くか
神聖たるべき議事堂でさえおかしな道化が踊る国
崩れた原子炉のような
メルトダウンがいつかくるに違いない
地獄絵図がそこに見える

* 谷川雁詩集より



うめだけんさく詩集『海へ向かう道』(土曜美術社出版販売、2020年)より

◆ここでは「癪に障る」「小癪な」といった軽い意味ではない。
時代劇でよく耳にする「持病のシャクが……」の「癪(しゃく)」、本来は胸や腹に走る激痛・疼痛を指している。
かつての癪の原因同様に、「癪の種」は今も多岐にわたり、いずれも命に関わる大事である。
生死の境目に呻吟する人々を他人事とは思えぬ詩人は、共苦懊悩し満腔の怒りをたぎらせる。
他人事として何ら痛痒を覚えぬ人士の罪を厳しく告発し続ける。






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