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平田俊子「まだか」[2024年10月10日(Thu)]


平田俊子の「か」連作から、三つ目の「まだか」を――


まだか   平田俊子


まだかについて考えている
まだ蚊について蚊んがえている
ユリイカに「か」を書き
現代詩手帖に「いざ蚊枕」を書き
まだ書き足りず 蚊き足りず
こうしてびーぐるに書こうとしている
最初は詩にするつもりはなかった
「蛾がどこかにいってしまって」という詩の朗読の前に
何か少し話そうと思った
朗読の場所が浅草だったから
蚊について話そうとした
浅草に近い本所という地は
蚊が多いことで知られていた
そういうことを話そうとした
でも蛾の詩を読むのはやめにしたので
話そうと準備したことが
ぼうふらになって残ってしまった
それを育てて蚊にした
詩にした

「か」という詩には蚊の川柳
「いざ蚊枕」にはコガネムシの俳句を引用した
「冬の蠅」は冬の季語
「冬の蜂」も「冬の蝶」も冬の季語だが
「冬の蚊」はどうだろう

今年 一月に見た芝居
季節はずれの『真景累ヶ淵』の中に
蚊はいた ぶんぶん飛んでいた
あばら家に棲む女と赤ん坊
悪党の亭主が蚊帳
(かや)を売ったせいで
病気の女も赤ん坊も
蚊にたかられて臥している
女の兄がこの家を訪ね
妹をあわれんで
自分の家から蚊帳を運ばせる
兄が帰ったあと亭主が戻り
蚊帳を持ち出して売ろうとする
旦那様 坊が蚊にくわれてかわいそうでございます
どうかどうか蚊帳だけは
お金がお入り用なら
兄が三両ほど置いて参りましたからこれを
亭主は金を受け取ったあと
女房と赤ん坊に湯をかけて殺した

ガ、ダ、ル、カ、ナ、ル
蛾と蚊が名前に棲みついた島
ホテルの部屋には殺虫剤があった
中古のクーラーは役目を果たさず
窓を開ければたくさんの虫
殺虫剤をひとしきり撒いた

ガ、ダ、ル、カ、ナ、ル
蛾と蚊が飛び交う熱帯の島で
殺虫剤を撒くように
銃で撃たれて人間が死んだ
食べる物がなくなり餓えて死んだ
蚊に刺され
マラリアに罹って死んだ
蚊が死ぬようにあっけなく
大勢の人間が死んでいった
「わが詩をよみて人詩に就けり」
高村光太郎の詩を読んで
死の底に飛び降りた人もいた


『戯れ言の自由』(思潮社、2015年)より

◆駄洒落から跳躍してガダルカナルの戦い(1942ー43年)に到達する。
ジャンプを可能にするのは鎮魂という左の翼と、想像力という右の翼によってだ。

◇光太郎の戦意昂揚詩は太平洋戦争までの射程だが、そこからガザに跳ぶことも可能だ、「ガ」のモスラに乗った双子姉妹の歌の力で。


※第三連、怪談『真景累ヶ淵』のくだりを入力中、淹れたての熱いお茶を足にぶちまけて大火傷しかけた。阿漕(あこぎ)な亭主の新吉が、お累(るい)と赤ん坊に煮え湯をかけて死なす話だ。偶然の一致と済ませられぬ気がする。
肝を冷やしたついでに、今夜は水風呂にして精進潔斎すべきかもしれない。



平田俊子「いざ蚊枕」[2024年10月10日(Thu)]

◆日中で気温15℃とか。本当に久しぶりに長袖のポロシャツとトレーナーを着込んだ。
半袖シャツに短パンの日々はどれぐらい続いたか。
今年は蚊が少なかった。居ても、刺す元気に満ちた蚊は少なかった。
「哀蚊」なんていう語を思い出すヒマもなく寒い秋に突入したみたいだ。

――そんな日に平田俊子『戯れ言の自由』という詩集を開いたら、「蚊」が飛び交っている詩が三っつも続いていて、むずがゆくなった。
「か」「いざ蚊枕」「まだか」の三篇。
そのうち二番目のを引いておこう。

***


いざ蚊枕   平田俊子


蚊についてもう少しいわせてください

鎌倉に住んでいる知り合いが
自分の住所を「蚊枕」と書くところを目撃しました
蚊がびっしり詰まった枕を想像しました
ソバガラや羽毛ではなく
大量の蚊でふくらんだ枕
枕の中で蚊は生きているのだろう、蚊
生きていればうるさいし
死んでいれば気味が悪い
蚊の生死をその人に問うと
「蚊枕って、蚊が寝るときに使う枕ですよ」
「蚊って、寝るとき枕を使うんですか」
「使います。小さな頭に小さな枕をあてがって寝ます」
「うわあ。知りませんでした」

いざ蚊枕
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
蚊枕に対抗しようと思えば
詩枕千代子になるしかない
「東京だよおっ蚊さん」や
「蚊らたち日記」を歌うしかない

漢字の「力」が
カタカナの「カ」に見えることがある
暴力=暴カ=暴れるカ
圧力=圧カ=プレスされたカ
電力=電カ=電気で動くカ
握力=握カ=握りつぶされたカ

毎年、夏には福岡の実家に帰ります
ふくお蚊のじっ蚊に蚊えります
今年は蚊が少ないと母がいいます
夕方、庭に出ても蚊が寄ってこない
猛暑のせいで水がなく
蚊になれなかったんだろうと母はいいます
蚊も、蝶も、雀もこの夏は少ない
かわりに蟻が家の中にいます
庭からリビング、台所にかけて
黒い紐のように行進します
こんなことは今までなかった
蟻は行儀よく庭にいた
なのに今年はどうしたことだ
白内障の母には蟻は見えない
だからつけこまれるのだろうか
シロアリさんからお手紙ついた
クロアリさんたら読まずに食べた
仕方がないので
殺しました
わたしは蟻を殺しました

実家の台所の床を
わたしは水浸しにしてしまいます
東京の自分の家の台所とは
水道のレバーの動かし方が逆で
水を出すときは上から下へ
とめるときは下から上へ
レバーを動かさないといけません
なのに つい習慣で
水をとめるつもりで
レバーをぱんと叩いてしまう
ほとばしる水
ほとばしる水
ほとばしる水がシンクを飛び出し
床にこぼれる

阪神大震災がレバーを変えた
倒壊した家屋の下で
レバーが押されたままになり
大量の水が流れ続けた
そういう家がたくさんあった
阪神大震災のあと
水を出すときは下から上に
とめるときは上から下に
レバーを動かす仕組みになった
わたしの住まいが建ったのは
阪神大震災のあと
福岡の実家が建ったのは
阪神大震災の前

実家のレバーに慣れたころ
東京に戻ります
そして今度は自分の家の
台所の床を水浸しにします

金亀子擲つ闇の深さかな
こがねむしなげうつやみのふかさかな
高浜虚子 た蚊はまきょし、の句です
金亀子なら擲てますが、蚊を擲つのは難しい
同じ虫でも、蚊と金亀子ではからだの作りも年収も違う
蚊は、金亀子のことを、きんきらきんのキザ野郎だと軽蔑している
金亀子は、蚊のことを、この素寒貧がと馬鹿にしている
人間のまわりをうろうろする蚊
人間の血をちゅうちゅう吸う蚊
あげくにたたかれ、落命する蚊
実に愚かだ、考えがたりない、
実におろ蚊だ、蚊んがえがたりない
金ぴかのからだをゆらし蚊をあざ笑う金亀子
蚊わいそうな蚊
あわれな蚊
水道のレバー
家屋とう蚊い
生きるべき、蚊
死ぬべき、蚊
火柱
蚊柱
人柱
命を賭けて
人の血を吸う
ば蚊で
おろ蚊で
あさは蚊な蚊


『戯れ言の自由』(思潮社、2015年)より

◆確か、ハイブリッド車や電気自動車(EV)が出す電子音をモスキート音と言ったはず。ガソリン車などのエンジン音の代わりに出て車の接近を知らせる音だが、その元祖たる「蚊」の方もかすかな音を立てながらターゲットに接近してくるので、自らの生死を賭けた戦いに臨んで潔い覚悟と言えるかもしれない。

それに比し、ステルス戦闘機やドローンの老獪卑劣醜悪なことはどうだ。
そんなものに費やす税金があるのなら、ガザ沖の公海上に人工島を作り、壁も天井もない楽園をプレゼントしたらどうだ。




韓永男「絶対孤独」[2024年10月09日(Wed)]

『韓永男(ハンヨンナム)詩集』からもう一篇――


絶対孤独   韓永男


行く途中で出会った
岩一つ

億劫をああやって隠していたんだろう

肩に落ちた空だけでも
重ねて三千尺 ぐらい

億劫でああやって無口でいたんだろう

森羅と万象の音を
飲み干してもなおひもじい

生きていて出会った
一つ岩



柳春玉/南鉄心/林施ホ・訳
『韓永男詩集』(土曜美術社出版販売、2024年)


「劫」は、もともと仏教で長い時間を指す語だ。
さる所に百何十里四方という大きな岩があって、そこに天女が百年(20年とか三千年とか諸説ある)に一度舞い降り、羽衣で岩を一撫でする、それを繰り返して岩がすり減ってなくなる、その長さが「一劫」だという。「億劫」はその億倍、というわけだから、気の遠くなるような長い長い時間ということになる。
(落語『寿限無』の始めの方にある「五劫の擦り切れ」はそれよりも短いから、我が子の長命を願う親としては、まだ控え目な命名というべきかも知れない。)

さて、その膨大な長さの「億劫」を思えば、やる気が起きない状態になってもやむをえない。
この詩の岩も、やる気なさを全身に表して寝そべっているように見えるのだが、詩の主人公は、この岩に不思議な感情移入をする。
岩が隠している膨大な長さの時間、上にのしかかっている空、そうして、この世界に殷殷と響いて来たあらゆる音――それらすべてを飲み干し、一身に引き受けていながら(あるいは、それゆえにこそ)、孤独から逃れようのない定めの「岩」。

「岩」を対象物として見るのではなく、「岩」の身になって、そこから世界を見ているのだ。




韓永男「月日」[2024年10月08日(Tue)]


月日  韓永男(ハンヨンナム)


月日の深さが 全て過ぎると
いつの間にか 刻まれた模様
その深さと
その重さと
その長さと
その中身と痛みまで

月日の模様に触れると
最後に感じられる この貧しさ
この恥ずかしさと
この照れくささと
この哀れさと
この器の小ささまで

月日 全て過ぎないで
月日 全て耐えないで

風に草の葉 揺れるように
美しい波となって
水のしわでも刻むべきだった

月日が過ぎれば
月日を忘れよう



柳春玉/南鉄心/林施ホ・訳
『韓永男詩集』(土曜美術社出版販売、2024年)

◆人間の肉体で「月日」を最もよく表すのは、やはり「顔」あるいは「手」だろうか。
他人なら、それらに刻まれた皺を「美しい波」と感じてくれることがあるかもしれないが、当人にはとうてい無理。恥ずかしく哀れな月日が刻印されていることは自分が一番分かっている。
(水に身を投じたナルシスは少年だった、ということになっているしね)

だが、この詩の主人公は、我が卑小さを確かめるためにこそ、皺に指を触れるみたいだ。
――風にそよぐ葉や、ひた寄せる波のようには美しくないことを恥じ、悔いるだけだとしても、そうすることが人生には必要なんだと自分に言い聞かせながら。


韓永男「秋菊」[2024年10月07日(Mon)]


秋菊    韓永男(ハンヨンナム)


涼しい秋風の中
野菊の中身が裂ける音を聞いてごらん
空は青いな
小川は澄んでいるな
野では熟す匂い
山では焼け焦げる匂い
時々 花の灼ける音に耳を傾けてごらん
チェロの音のような秋の香り
奥ゆかしい湖のような秋の歌
サクサクの果物の匂いの中
野菊の中身が裂ける音を聞いてごらん


柳春玉(りゅうしゅんぎょく)/南鉄心(ナムチョルシム)/林施ホ(リムシユン)
『韓永男詩集』(土曜美術社出版販売、2024年)


◆〈中国現代詩人文庫〉という詩集のシリーズが出た。これはその第1集。
韓永男(ハンヨンナム)[1967年生まれ]は、中国朝鮮族の詩人。


◆詩は、最少の言葉で世界の深奥に招じ入れる。
この詩では、「野菊の中身が裂ける音」がそれだ。
はたしてどんな音がするのだろうか。

同時にその音は、季節の香り・匂いと結びついているはずだ。
音が空気を震わせて聞く者を陶然とさせるように、匂いも空中にゆらめき広がりながら婉然と鼻腔にしみ入る。そんな時間に身を委ねたいと思わせる。



田村隆一「秋の山」[2024年10月06日(Sun)]


DSCN9664.JPG



秋の山   田村隆一



遠くのものが近くなる
夏が沈黙の喊声をあげて飛び去る時

この透明度には危険なトリックがありそうだ
遠くのものが近くなる時

近くのものは見えなくなる
国家と文明と人類は

近いものか
遠いものか

それに
はっきり見えるおれたちの悲哀は


  詩集『緑の思想』(思潮社、1967年)所収。
  講談社文芸文庫『腐敗性物質』(1997年)によった。


◆「遠く」と「近く」――本来、反対の意味を持つはずのことばだ。
大気の透明度が増す秋となって、遠くの山並みがくっきりと間近に見えるようになる。山と見る者との距離が変わったわけではない。だが、受ける印象には変化がある。変化は意識に作用しないはずがない。
ならば、変化が何ものかの意図によってもたらされるとき、受ける印象の違いは私たちの意識を変えずにいないだろう。「危険なトリック」とはその危うさを指している。

たとえば、近隣の国々を脅威として国民に宣伝する場合だ。「安全保障環境の変化がある」から「防衛力強化」が必要だ、という政府の宣伝。
確かにそうだ、と思わされると、目の前で起きている大変な事態は目に入らなくなる。
たとえば貧困による格差。
たとい困難に苦しんでいるのが他ならぬ自分自身だったとしても、その原因は誰某にあるとささやかれれば、鬱憤のハケ口をそこに向けるだろう。「愛国心」を煽るまでもない。





田村隆一「にぶい心」[2024年10月05日(Sat)]

◆夜、散歩していたら歩道をカニが横切って行った。
5センチほどはあったろうか。
川からも山裾からも少し離れている辺り、しかも夜。
何用だろう。どこぞの猿と一戦構えようとでもいうのだろうか?

*******


にぶい心  田村隆一


ぼくの知っている子供といえば
下町の死んだ子供たちだけだ

空から落ちてきたとしか思えない
あかさびた非常梯子をよじのぼり

つめたい電線より高いところが
きみの最初の隠れ家だ

  ぼくを呼んだのは?
  きみの仲間だよ

  二度目に呼ぶのは?
  きみの妹さ

  三度目に呼ぶのは?
  おかあさんかな

  四度目は?
  コンクリートにふる雨だよ

  五度目は?
  黒い蝙蝠傘をさした人だよ

  六度目?
  その人の疲れた心だよ

  七度目?
  世界のおおきな嘆息だよ

  八度目?
  さあ下りたまえ! ぼくは忙しいんだ



   『四千の日と夜』(東京創元社、1956年)所収
   講談社文芸文庫『腐敗性物質』(1997年)によった。 


◆詩が発表された時代を思えば「下町の死んだ子供たち」とは、空襲の犠牲となった子どもたちを指すだろう。

彼ら、さまよえる死児たちが居るのは、地上でも雲の上でもない。どっちつかずの、だが、手が届かないところだ。

だから生き残った者は彼らを呼ぶことしか出来ない。
――その一人として黒い蝙蝠傘をさした(父親の)「ぼく」もいる。
嘆息し、苛立ちをおさえようもなく、雨が上がっても頬をいつまでも濡らしたまま、佇むことしかできない人――

◆世界はいま、そうした人たちばかり、ひしめいているじゃないか。



田村隆一「遠い国」[2024年10月04日(Fri)]


遠い国   田村隆一


ぼくの苦しみは
単純なものだ
  遠い国からきた動物を飼うように
  べつに工夫がいるわけじゃない

ぼくの詩は
単純なものだ
  遠い国からきた手紙を読むように
  べつに涙がいるわけじゃない

ぼくの歓びや悲しみは
もっと単純なものだ
  遠い国からきた人を殺すように
  べつに言葉がいるわけじゃない



 『四千の日と夜』(東京創元社、1956年)所収
 講談社文芸文庫『腐敗性物質』(1997年)によった。 


◆イスラエルの非道が止まらない。賭けで失ったもの取り戻そうとしてさらにつぎ込んで取り返しのつかないぬかるみにはまり込んで行くようだ。
「ジゴクの何丁目」という言い方があるが、1丁目と7丁目に違いがあるわけじゃなし、ジゴクはジゴクだ。
それを「完全に、完全に、完全に」支持する米国も無明の闇をさまよっている。
それに属国としてしがみついたままでいるならこの国もまた。

◆上の詩、すべて反語だ。
「単純」と書くが、そこに至る複雑さを消し去っているだけだ。
「遠い国」と言ってのけてみせるが、その遠い国の人たちと、これほど深く歓びや悲しみをともにできる人はいないのだ。
彼は武器で人の命を奪ったりしない。
そんな必要がないからだ。

政治家は反語が分からない。
平叙の言葉も恐ろしく貧しい人たちなのだから、それは当たり前か。


根来眞知子「どこ?」[2024年10月02日(Wed)]


どこ?   根来眞知子


遠くかすかに救急車のサイレンの音
事故だろうか急病人だろうか
眠ろうとしていた時なので
ぼんやりと どこだろう

大雨で土砂崩れ 死者も出た
あれはどこ 中国の南部だったか
干ばつで作物は枯れ家畜も死んで
人々は飢えているという
あれはどこ アフリカのどこか
ISのテロを恐れて続々と難民が
国を棄て逃げているのだと
あれはどこ

次々起こるおびただしい災害のニュース
めまぐるしく変わりゆく
テレビの画面をちらっと見て
わかったつもりだけど
それってどこのこと?
すべて遠い国のこととしているが

地震と大津波で
メルトダウンした原子力発電所
今も高濃度の放射能を
どうすることもできないでいる
それはここ
日本 福島

たまり続ける汚染土
水もセシウムも洩れ続け
どうすることもできないものはどうにもできない
それはここ
日本 福島


『雨を見ている』(澪標、2019年)より

***

◆年数回発行している会報のためにこの数ヶ月の新聞記事からトピックを拾ってみている。

台風・地震がつきものの列島の住民の一人として、自然災害の多さには驚かないが、政府の対応のひどさには啞然とする。
受難続きの能登地方を目の前にして総選挙に突き進むことがどうしてできるのか。
被災地は投開票に人員・予算を割くヒマなどありはしない。

首班指名より先に解散を口にしたイシバ氏。
そこにキッチリ釘をさすどころか、夫人を「ファーストレディ」と呼ぶフライングを犯すメディアもまた、どうしようもなく罪深い。

以上は、「どうにかできること」も「どうしようという気もない」ここ日本の話。



根来眞知子「角を曲がる」[2024年10月01日(Tue)]


角を曲がる   根来眞知子


二十歳の角を曲がった
先の見えない長い長い道があった
白いドレスを着て華やかに花を抱き
道をそれていく人が疎ましかった

三十歳の角を曲がった
仮定の圧力に押しつぶされただ忙しく
流されていく不安がいっぱいだった

四十歳の角を曲がった
渾沌として少しずつ固まり始めた渦の中にいた
流れに逆らわないのも楽なのかと思いだした

五十歳の角を曲がった
目がかすみ耳が遠くなっていくのがわかった
いつまでもあると思うな命と意欲と知った

六十歳の角を曲がった
得なかったこと 捨てたもの
いろいろあったけどどもういいか
自分の意志のみで生きているんじゃないんだと悟った

七十歳の角を曲がった
周りの景色がいとおしくなりだした
あるべき様にある物たちと共にあろう
と思うようになった

今 耳元を
音を立てて時が過ぎてゆく




『雨を見ている』(澪標、2019年)より

◆「角」は曲がるしかないのか?
曲がった先に何があるかは誰にも分からない。
しばしば立ち尽くすことがあって当たり前だ。
ならば、引き返したらどんなものだろう。
もしかして、成熟とか、大人らしい分別とか無縁な生き方だってあるんじゃないか。

そうした、誰も答えてくれなそうな疑問や遅疑逡巡で頭をいっぱいにしている間は、周りの景色も見えていなかったのだろう。

◆節目節目で思ったことは、その曲がり角にさしかかったから初めて分かったのであって、して見れば年を取るというのも悪くはない。
何より、自分より大きく永い時間を生きているものたちがこの世界のあちこちに在ると気づいたのは、少しずつ曲がり角を通って来たからであって、もし最初から何もかも見通せていたとするなら、怖じ気づいて気が変になるか、圧倒され腑抜けになっていたか、どちらかだろう。



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