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谷川俊太郎「色」[2024年05月31日(Fri)]

DSCN1002.JPG

ヤマボウシの季節となった。

*******


色   谷川俊太郎


希望は複雑な色をしている
裏切られた心臓の赤
日々の灰色
くちばしの黄色
ブルースの青にまじる
褐色の皮膚
黒魔術の切なさに
錬金術の夢の金色
国々の旗のすべての色に
原始林の緑 そしてもちろん
虹のてれくさい七色

絶望は単純な色をしている
清潔な白だ


『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫、2013年)より


◆「複雑な色」の「希望」に始まり、「絶望」の「清潔な白」に終わる。

それぞれを入れ替えても、つまり、対応する色を取り替えても、あるいは、「絶望」から始めて「希望」で終わっても、平仄が合うように見える。「詩」らしい体裁はととのう(ように一瞬思う)。

だが、この形でなければならない。詩人の人生観や死生観によるからだ(そんなもの……と言われそうだが)。

そんな言い方は大げさだろうか。
世界と擦れ合ったりぶつかったり離れたりして言葉が生まれてくるその成り行きは、取り替えの難しい、むしろ一回切りのものだからだ。



フランス政府にガザ支援を迫るスピーチ[2024年05月30日(Thu)]

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ガクアジサイ


*******

◆5月28日、フランス国民議会における〈不服従のフランス〉のアルマ・デュフォー議員のスピーチがX(旧ツイッター)にアップされている(字幕付き(byサキ氏)。
迫力に満ちたものだ。

★動画は以下から
https://twitter.com/i/status/1795932189579686200


ICC(国際刑事裁判所)がイスラエルにラファ軍事侵攻の停止を命じたにもかかわらず、50名もの人々が爆撃された難民キャンプで焦げ死にました。首を切られた子ども、ラファ病院は機能停止。イスラエル軍戦車はラファに到達しました。

この8ヶ月もの間、世界は見ています。200万人が地獄に生きるのを。
閉じ込められたまま水もない。食べ物もない。薬もない。
天井のない殺戮場の被害者を爆撃。

これは映画じゃなくて今現実に起きている。
「ハンガー・ゲーム」はもはや娯楽ではない。若者たちのスマホの中の現実となった。
もうすぐ8ヶ月。それなのにあなた達は殺人者にいかなる制裁も与えない。
さらに酷いことに、ラファ軍事侵攻の夜、アタル首相はCRIF(親イスラエルロビー団体)のディナーに出席。イスラエルへの説教を拒み、イスラエルを無条件支持したのです。
あなたは停戦よりも蜜月ディナーを選んだのです。
ジェノサイド国家への支持とともに政府の官房長官はイスラエル軍のインフルエンサーと自撮り。彼のインスタの最後の一握りの尊厳まで無くした。

ノルウェー、スペイン、アイルランドが本日、パレスチナ国家を承認。

あなた方はフランスを共犯グループの一味とするつもりか?
こんなフランスは嫌だ――多くの国民も私にそう言った。私もこんなフランスは嫌だと。
人権の国フランスが、今や弱肉強食の国に。啓蒙の国フランスが「蒙昧主義との闘い」の名のもとに人間を火だるまにするのを正当化するのは嫌だ。
革命の国フランスが民主主義を捻じ曲げ、民主主義の名の下に200万人を飢えさせることすら正当化することは嫌だ。

安全保障理事会の会合が今日開かれる。
フランスはイスラエルとの経済取引の中断を宣言するべきだ。そして一刻も早い国連軍の介入を求めるべきだ。

ラファは国境であるだけではない。鏡なのだ。
もし私の質問に答えないつもりなら、アタル首相、鏡に映るあなたはどんな姿だと思いますか?




ル・クレジオ〈子供と戦争〉[2024年05月29日(Wed)]

ル・クレジオ(1940年生まれ)『ブルターニュの歌』の末尾をかみしめている。

筆者と水遊びした年長の少年マリオは、ファシストと戦うための爆弾を運んでいて命を落とす。

あるいは疎開した村のすぐ近くで起きたできごと――国境を越えて逃れようとした多数のユダヤ人たちが峠で待ち構えていたドイツ兵に狙い撃ちされた事件――それは母からの伝聞としてあとで聞き知ったことであったのに、その現場に居合わせたのと同じ衝撃で子どものこころに刻み込まれた。

それらは、いつ終わるとも知れない飢餓の日々に穿たれた穴のように存在し、生涯それを抱え続けてゆくことになる。

戦争が幼い子どもの心に刻みつけるもののむごさを前に、沈黙して立ちつくすほかない。

***

生涯最初の数年を通じて間断なく飢餓を経験したこと、恐怖と空虚をひしひしと感じたことは、私を鍛えてはくれなかった。むしろ粗暴にした。それはおそらく戦時中に生まれたすべての子供の運命なのだろう. 犯罪や死や略奪の場面を見たということではなく、社会の規範がもはや存在せず、優しさや分かち合いというものがなくなり、どこか外の、人けのない街路や爆撃を受けた建物正面の裏側に、地雷が仕かけられた空き地に、強くて危険な別の人種がいることを、本能的に感知するのである。こうした粗暴さのせいだろうか。それとも食べ物が不足していたためか、免疫力の低下のせいか。終戦後、何度も重い病気を患い、抑えようのない咳が出て吐き気を催すほどだった。近所の医者は痙攣性(けいれんせい)咽頭炎だと見立てたが、のちに肺結核に罹っていることがわかった。耐えがたい偏頭痛に何度も見舞われたのを覚えている。あまりに苦しくて、光が当たらないテーブルの下に隠れなければならなかった。こうした激しい苦痛、それは一個の恨みとして、だまされたような、世のなかに蔓延した一つの嘘のなかで生きたような漠たる感情として、今も強く身内に残っている。ぼくら、兄と私は、男が不在の世界で女手によって育てられた。そしておそらく自分たちの意のままになるよう大声を上げることに慣れた小さな王、小さな暴君になっていた。戦争による閉じこもりが終わり、ふたたび窓を開けることができるようになると、抑えがたい怒りの発作が何度も体をよぎったのを覚えている。その発作の間は、七階の窓から本やいろんな物を、家具さえも、手当たりしだいに放り投げた。涙を流し、喉が嗄(か)れるまで叫んだのを覚えている。それは気まぐれな怒りではなかつた。単純な憤激、対象も理由もない憤激だった。

ル・クレジオ『ブルターニュの歌』(中地義和 訳、作品社、2024年)p.194〈子供と戦争〉より

ル・クレジオ「ブルターニュの歌」表紙画像IMG_0002.jpg




ガザ、ラファ[2024年05月29日(Wed)]

アレチギシギシDSC_0423-X.jpg

アレチギシギシ(荒地羊蹄)。タデ科のギシギシの一つ。曇り空でも赤いツブツブが目立つ。

*******

◆ガザ、ラファの惨劇に言葉を失う。
国際世論の憤激にネタニヤフも弁解せざるを得なくなった。
遅すぎる。
即時停戦・撤兵を。

***


戦時中に生まれた者は、真に子どもでいることができない。

――ル・クレジオ『ブルターニュの歌』〈子供と戦争〉より
       (中地義和 訳、作品社、2024年)



〈モーツァルト〉[2024年05月27日(Mon)]

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◆近くのクリニックで小さなバラが咲いていた。

検索してみると、「モーツァルト」もしくは「バレリーナ」という品種らしいが、素人には判別が難しい。色の濃い目なのが「モーツァルト」だという。
ちょうど吉田秀和『レコードのモーツァルト』(中公文庫、1980年)を読んでいたので、バラの名前も「モーツァルト」ということにして置こう。

◆上の本、昔読んだ折には、登場するピアニストや指揮者の名前は聞き知っていても、たとえばハ長調のピアノソナタ(ケッヘル番号でK.330)などについて、Aというピアニストはこんな感じ、それに対してピアニストBの演奏は……とその違いが分かるように書いてあるのは分かった。
達意の文章とはこういうものか、としばしば驚きながら読むのだが、しかしそれらのレコードを聴けるような状態ではないから、間に薄膜をはさんで名画を眺めているようなもどかしさを感じつつ読んでいたように思う。

それが今は、取り上げているディスクのいくつかは、手元にCDがある。
ネット上にアップされているものも少なくない。
ありがたい時代だ(それでも、オペラや歌曲は未聴のものがたくさんある)。

◆この本、ふとしたエピソードがこちらの気持ちをわしづかみにする例が少なくない。
今回もまた同じ箇所で目が止まった。

154ページ、東京で暮らすヴィーン育ちの女性のところで夕食を呼ばれ、食後だれかがかけたレコードから歌声が流れた。
シュヴァルツコプフという名ソプラノが歌うモーツァルトのアリアである。

この時、女主人は「ああ、ヴィーン!」と一言。その目に涙がたまっていた。そうしてその気持ちが、その場にいたみんなに即座に分かった。

◆最初に読んだ時のことを思い出さずにはいられない。かつてと今と、自分の気持ちにおいて何の違いもない。
強いて違いを挙げれば、シュヴァルツコプフの歌声が今は分かる、ということ。
それともう一つ、かつてこの文章に胸を衝かれた時の自分が、40年余を隔てて真っ直ぐによみがえったこと、その二つだ。


ドブさらいの日[2024年05月26日(Sun)]

◆5月最終の日曜日は恒例のドブさらい。
朝、長靴が小さくなってハマらない――のではなく、足のボリュームが増えたのだろう(普通それはムクんでるというのか)。

あわてて最寄りのホームセンターまで自転車を飛ばす。
大きめの長靴を買い、集合場所にはそのまま自転車で駆けつけて何とかセーフ。

◆1年ぶりの同じ作業をやると、確実に体力が落ちているのが分かる。そのことを自覚できるのと、ご近所の無事を確認できるのが、この行事の利益(りやく)である。

◆自治会の参加者に新しく若い人の姿も見えるが、全体としては参加者は減っているようで気になる。
人数が少なければ一人当たりの作業は増える勘定だ。

新聞ローカル欄で、湘南台のさる自治会がイベントその他工夫して自治会参加者を増やす取り組みを進めているとの記事があった。どこも同じ悩みを抱えているようだ。
しかるべき金額を納めれば役員をパスできる、などという新ルールも考案したとあったが、反発喰らわなかっただろうか。

◆作業を終えて出発地点に置いといた自転車を取りに行き、久しぶりにポイ捨て空き缶などを回収しつつ帰宅。
お宮さんの裏の林の道には全く落ちておらず、意外だった。
どなたか拾ってくれたのか、それとも缶コーヒーを飲まなくなったのか。
後の理由だとすると、飲み物一つ買うのもガマンせざるを得なくなっているのではと気になる。
フタ付きの缶が吸い殻入れになっていることもしばしばあったから、缶コーヒーと一緒にたばこもやめたのではと想像する。

物価のみ上がるご時世に実質的給料は下がりばかりで辛抱を強いられているのだとしたら……
切なさが先に立つ。


DSC_0400.jpg

マメグンバイナズナ(豆軍配薺)という草らしい。
放射状に伸びた茎が目立つ。



トウモロコシ[2024年05月25日(Sat)]

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トウモロコシの咲く季節となった。

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雄花(上)/雌花(下)

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雌雄同株。
実りを確かにするために良くできている。



新川和江「少年は」[2024年05月24日(Fri)]

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玉縄桜が実を付けた。ソメイヨシノなどに較べて大粒のように見える。

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少年は  新川和江


ひとに告げたい思いがあって
少年は 笛を吹いた

告げてはいけない思いがあって
笛を吹いた


『名づけられた葉 なのだから(大日本図書、2011年)より


◆葦笛や草笛だろうか。
ここでは、少年の複雑な心の中に分け入ろうとしなくていい。ただ何かを感じて耳を傾け、笛の音が空気を裂き、消えてゆくその名残りまでをいとおしむことができればそれでいい。

「思い」という、便利だが実は扱いづらい言葉に、輝きとかげりの双方を含ませて詩にうたう人もいる、ということに感銘をおぼえる。



白秋「糸車」[2024年05月23日(Thu)]

DSC_0399クロガネモチの花.jpg

クロガネモチ。小さな花を開いていた。たしか、赤い実がたくさんつく。


********


糸車   北原白秋

糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
金と赤との南瓜
(たうなす)のふたつ転がる板の間に、
「共同医」の板の間に、
ひとり坐りし留守番のその媼
(おうな)こそさみしけれ。

耳も聞えず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
(ほの)かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに、
水路のほとり月光
(つきかげ)の斜に射すもしをらしや。
糸車、糸車、しづかに黙
(もだ)す手の紡ぎ、
その物思やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。



吉田精一『鑑賞現代詩T 明治』(筑摩書房、1966年)より
青空文庫では……
https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/2415_45802.html


◆白秋の『思ひ出』(明治44年)中の一篇。

糸車を廻しているのは老女なのだが、「(やはらかに)めぐると、糸車を主語として表現されているために、糸車がひとりでめぐっているように見えてくる。そうしていつの間にか、老女も、静物画のように置かれた南瓜や医館に置かれた骨格標本も静寂の中にかき消えて、ただ糸車だけが廻っているのが見える。
ここでの「見える」はそのまま無言歌のように「聞こえる」のでもある。

そのようにして音楽であり、また映像でもある不思議な詩。



ゆずりは(譲り葉)[2024年05月22日(Wed)]

DSC_0387.jpg

◆ユズリハ。正月の注連飾りを作るイベントで葉は見たことがあるものの、実際に植わっているのを見たのは初めて。
まあるく10枚ほどの若葉が日射しをあびて伸びやかだ。
豊かに若葉が育ったのを見届けるようにして古い葉が枝を離れるのだとか。

◆良く知られた河井酔茗(1874-1965)の詩を読んでおこう。


*******


ゆづり葉  河井酔茗


子供たちよ。
これは譲
(ゆづ)り葉(は)の木です。
この譲葉は
新しい葉が出来ると
入れ代つてふるい葉が落ちてしまふのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲つて――。

子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前たちに譲られるのです。
太陽の廻
(めぐ)るかぎり
譲られるものは絶えません。

輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命に造つてゐます。

今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑つてゐる間に気が附いてきます。

そしたら子供たちよ
もう一度譲り葉の木の下に立つて
譲り葉を見る時が来るでせう。



青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/001861/files/57431_58187.html


◆平明な詩だ。都市文明を素朴に肯定している部分を除いて余計な評言は意味をなすまい。

ただ、戦禍の時代に胸すぼめうつむいている大人たちは、このような言葉を紡ぐことは難しい。
子どもたちは変わらぬのに。

そのことをつらく思う大人たちにこそ、この詩はいま必要なのだと思える。



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