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アカシアの花の香[2024年04月30日(Tue)]

◆アカシア(ニセアカシア)の花が咲いていた。

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梢にも手が届くあたりにも。葉の緑に白が映える。

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顔を近づけてみると懐かしい匂いがする。

半世紀余の昔、朝の登校時だ。私鉄の跨線橋を渡って校庭に上る、その橋の高さまでアカシアが枝を伸ばしていた。花を咲かせるのは梅雨のころだったろうか。

アカシアの香りは甘美だ。パンケーキの匂いに緑が混じったような、と言おうか。
ミツバチたちが引き寄せられるというのも無理はない。


クルミの花[2024年04月29日(Mon)]

◆境川べりにのクルミ(オニグルミ)に花が咲いている。
たぶん、初めて見る。

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ほの赤いものから鮮やかな赤までヴァリエーションがある。

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クルミは雌雄同株だが、同じ木なのによそよそしく離れて咲いているようだ。
赤い雌花の間近なところには雄花がほとんどないように見えた。
200メートルほどの間に何本か映えているクルミを丁寧に探しても、雌花自体、ぽつりぽつりとわずかしか見当たらない。

雄花の方は、10~20センチ程のひげ状の花が垂れている。
下の写真2枚は、上の写真の雌花とは別の木だ。


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ガザ 赤ちゃんのその後[2024年04月28日(Sun)]

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オオデマリ(大手鞠)。
子どもたちが遊びたくなるような花の形と無垢そのもののような白さが目を引く。

花言葉の一つに「私は誓います」というのがあるそうだ。
大人が子どもたちに約束できる確かな未来が、いま果たしてどれだけあるだろうか。

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*******

◆4月22日にガザ南部のラファ、帝王切開で救出された赤ちゃん。
懸命の手当てと人々の祈りも叶わず、亡くなったとの報が世界をかけめぐった。

どんな言葉も慰めにはならない。

★24年4月27日【BBC News Japan】
空爆で殺された母の胎内から救出されたが……赤ちゃん死亡 ガザ地区南部
https://www.bbc.com/japanese/articles/c1038r1pe0vo





原田大助〈遠い道でもな〉[2024年04月27日(Sat)]

ツツジいろいろ

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白の気品もまた良し。一刷毛、ほのかなピンクのラインが入っているのもある。

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*******


〈遠い道でもな〉   原田大助

遠い道でもな
大丈夫や
一歩ずつや
とちゅうに
花もさいているし
とりもなくし
わらびかて
とれるやろ


 
高田宏『心の詩(うた) たましいの歌』(徳間書店、1996年)より

「大丈夫や」――この詩を読むひとのために発せられたことばであると同時に、自分自身に語りかけた言葉でもある。
自他に等しく向けたことばに気取りも背伸びもないから、読む者も、このまま受けとることができる。
それだけでなく、別の誰かにもそのまま伝わりますように、と願わずにいられない。

自分に語りかけ、一歩踏み出すエネルギーさえあれば、力まなくても次の人に確実に伝わる――そのような詩のことばだ。




井坂洋子「はるの雪」[2024年04月26日(Fri)]

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ケヤキの根方にハルジオンが咲いていた。



*******


はるの雪   井坂洋子


空が割れて
雪が降ってくる
破天荒な空模様である
小さなこどもの手をとり
物語の奥へと誘う
(ぼくはどこに行くの)
答えられないひとつめの質問
わたしたちが虫ならば
天地はお前の庭まで
わたしたちが人ならば
天地は夕暮れの鉄橋まで
こどもは
ひとつ胴震いして
目を大きく見開く

(ママはどこに行くの)
答えられないふたつめの質問
時間の流れを
順を追って思いだし
思い出すことにぶらさがっている
他にはなにも考えたくない
物語のはずれの
青い影の角で待ちあわせても
だれもこなかった



ハルキ文庫『井坂洋子詩集』(角川春樹事務所、2024年)より


◆小さなこどもの質問は、親と子の立場をひっくり返して、こちらが子どもの方に訊きたい質問のはずだ。
言って見れば、手をとったままブンと回転すればこちらの方が子どもになっているはず。

だから(ママはどこに行くの)というふたつめの質問は、そのまま「わたしはどこへ行くの」と自分に発し続けている質問なのだった。
答えられるはずがない。
(もし答えが分かっているのだったら、もう生きる意味だって失われているのだろうから。)

結尾「青い影の角」というのはこの上なく抽象的な場所だ。
「待ちあわせても」とあるが、それは「物語」の中での空想で、いつまで待っていても誰もこない。
何度繰り返してみても同じことなんだろうか?――もし、そうなんだと分かってしまったら、この天地(物語)の世界に「わたし」はいる意味もないはず――それだからこそ、「待つ」ことを決してやめたりはしない。
どんなに破天荒な空模様ばかりが続くとしても、だ。


***

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ケヤキの若葉は今頃がとりわけ清々しい。



宮澤賢治〔鉄道線路と国道が〕[2024年04月25日(Thu)]



〔鉄道線路と国道が〕 宮澤賢治
        一九二四、五、一六、


鉄道線路と国道が、
こゝらあたりは並行で、
並木の松は、
そろってみちに影を置き
電信ばしらはもう堀りおこした田のなかに
でこぼこ影をなげますと
いたゞきに花をならべて植えつけた
ちひさな萱ぶきのうまやでは
馬がもりもりかひばを噛み
頬の赤いはだしの子どもは
その入口に稲草の縄を三本つけて
引っぱったりうたったりして遊んでゐます
柳は萌えて青ぞらに立ち
田を犁(す)く馬はあちこちせはしく行きかへり
山は草火のけむりといっしょに
青く南へながれるやう
雲はしづかにひかって砕け
水はころころ鳴ってゐます
さっきのかゞやかな松の梢の間には
一本の高い火の見はしごがあって
その片っ方の端が折れたので
赭髪(あかげ)の小さな goblin が
そこに座ってやすんでゐます
やすんでこゝらをながめてゐます
ずうっと遠くの崩れる風のあたりでは
草の実を啄むやさしい鳥が
かすかにごろごろ鳴いてゐます
このとき銀いろのけむりを吐き
こゝらの空気を楔のやうに割きながら
急行列車が出て来ます
ずゐぶん早く走るのですが
車がみんなまはってゐるのは見えますので
さっきの頬の赤いはだしの子どもは
稲草の縄をうしろでにもって
汽車の足だけ見て居ます
その行きすぎた黒い汽車を
この国にむかしから棲んでゐる
三本鍬をかついだ巨きな人が
にがにが笑ってじっとながめ
それからびっこをひきながら
線路をこっちへよこぎって
いきなりぽっかりなくなりますと
あとはまた水がころころ鳴って
馬がもりもり噛むのです


『春と修羅 第二集』の〈九九〉
(『校本 宮澤賢治全集 第三巻』筑摩書房、1975年)より

【語注】
赭髪…赤い髪
goblin…ゴブリン。西洋の伝説では意地悪な森の小人。子鬼。


◆この詩が生まれたのはちょうど百年前だ。
さまざま者たちが登場するが、「もりもり」かいばを噛む馬や「ころころ」鳴いている水、はだしの子どもだって「うたったりして」いるのだから、誰も彼も春を謳歌していて、つまらないセリフなどは口にしない(ゴブリンだって座って休んでいて、悪さはしていない)。
「にがにが」笑う「巨きな人」もそうだ。

百年前に夢みることができた世界を、いま果たして私たちはどこに押しやったのだろう。
それとも、夢など全く必要としなくなってしまったのだろうか。




宮澤賢治[日脚がぼうとひろがれば][2024年04月24日(Wed)]

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境川遊水池前の藤棚。

*******


[日脚がぼうとひろがれば]     宮澤賢治
               一九二四、五、八、

日脚がぼうとひろがれば
つめたい西の風も吹き
黒くいでたつむすめが二人
接骨木
(にわとこ)藪をまはってくる
けらを着 縄で胸をしぼって
睡蓮の花のやうにわらひながら
ふたりがこっちへあるいてくる
その蓋のある小さな手桶は
けふははたけへのみ水を入れて来たのだ
ある日は青い蓴菜
(じゅんさい)を入れ
欠けた朱塗の椀をうかべて
朝がこれより爽かなとき
町へ売りにも来たりする
赤い漆の小さな桶だ
けらがばさばさしてるのに
瓶のかたちの袴
(モンペ)をはいて
おまけに鍬を二梃づつ
けらにしばってゐるものだから
何か奇妙な鳥踊りでもはじめさう
大陸からの季節の風は
続けて枯れた草を吹き
にはとこ藪のかげからは
こんどは生徒が四人来る
赤い顔してわらってゐるのは狼
(オイノ)
一年生の高橋は 北清事変の兵士のやうに
はすに包みをしょってゐる


『春と修羅 第二集』の〈九三〉
(『校本 宮澤賢治全集 第三巻』筑摩書房、1975年)より

◆『春と修羅 第二集』に一九二四年の五月八日の日付を持ち〈九三〉と付番された詩。
下書き稿の一つでは10行目から19行目までが下のようになっていて、上の詩の終わり、「大陸からの〜」以下の七行は削られている。そうして「曠原淑女」の題で知られている詩である。

今日でない日は青いつるつるの蓴菜を入れ
欠けた朱塗の椀をうかべて
朝の爽やかなうちに町へ売りにも来たりする
鍬を二梃たゞしくけらにしばりつけてゐるので
曠原の淑女たちよ
あなたがたはウクライナの
舞手のやうに見える
  ……風よたのしいおまへのことばを
    もっとはっきり
    このひとたちにきこえるやうに云ってくれ……


ウクライナ戦争をきっかけにこの詩を改めて読み直している読者も多いようだ。

◆ここで最初に掲げたテキストの方を載せたのは、今朝の朝ドラ『虎に翼』、法科に学ぶヒロインら女子学生たちが男子学生とハイキングに出かけるという話だった、というのが一番の理由だが、もう一つ、この詩の終わりに生徒四人(おそらくいずれも男子)が登場し、うち一人が「狼沢(おいのさわ)」という苗字で紹介されているからだ。

「狼沢」「狼野」など「狼」の地名は東北、とりわけ岩手、青森に少なからず存在する。賢治の童話でも、「狼森(おいのもり)」という小岩井農場の北にある山の名が登場する作品がある。

この「(おい)」で思い出すのは、小学校時代の遠足だ。「狼野長根(おいのながね)」という低山。子どもたちが「今年も”アキタ山”かァ」と嘆いてみせるのも恒例となっていた。
現在は五所川原市狼野長根公園として整備されて面目を一新したようではある。

◆上の詩が生まれたのは五月。まだ風は冷たいのだが、若者たちは屈託がない。日脚がのび、陽気に誘われ野山へと浮き立つ気分が生き生きと表現されている。
その気分は、「つめたい西の風」に「大陸」を感じ、想像の翼を広げてゆくことと不可分のものだ。

*「北清事変」(1899〜1901)は「義和団事件」の日本における呼び方。
日本も派兵したこの事変や、続く日露戦争を賢治がどうとらえて行ったか、帝国の高揚・拡張期に幼・少年期を過ごしたことと、のちの田中智学への傾倒とどうつながるのか、判断する材料はいま手元にないのだけれど、考慮の埒外に置いたままでは済まないだろう。



宮澤賢治「春」[2024年04月23日(Tue)]

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カタバミ

*******


春   宮澤賢治
        一九二四、四、二七、

向ふも春のお勤めなので
すっきり青くやってくる
町ぜんたいにかけわたす
大きな虹をうしろにしょって
急いでゐるのもむじゃきだし
鷺のかたちにちぢれた雲の
そのまっ下をやってくるのもかあいさう
  (Bonan Tagon, Sinjoro!)
  (Bonan Tagon, Sinjoro!)
桜の花が日に照ると
どこか蛙の卵のやうだ


『春と修羅 第二集』の「七八」。
(『校本 宮澤賢治全集 第三巻』筑摩書房、1975年)より


(Bonan Tagon, Sinjoro!)…ボーナン ターゴン、スィニョーロ。
  エスペラントで「旦那さん、こんにちは」の意。
 *原子朗『新 宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、1999年)による

◆「向ふ」からやってくる人物が誰なのか、この詩の下書稿によれば、「判事」もしくは「医者」あるいは「所長」と書き直しが何回かある。いずれにせよ、主人公とは確執か何か事情があって、未だ和解を済ませていないという間柄らしい。

ではあるけれど、春の雨が上がって、向こうが足早にこちらに歩いてくるのを、声をかけようと待ち構えて見ている、という場面のようだ。
悪くはない気分で、もう仲直りしても良いナ、とさえ思っている。
それにはお互い、わだかまりなく挨拶を交わすことだ。胸の内でその練習をして置こう。

そう思えるのも、春の光が誰をも包んでいるからだし、生き物の蠢動を促す風が町全体を吹き渡っているからにちがいない。季節の訪れは、誰にだって平等だ。



 
ラファの女児――宮澤賢治「嬰児」[2024年04月22日(Mon)]

◆4月21日、ガザ南部のラファで、イスラエル軍の空爆により死亡した妊娠30週目の女性から女児が生まれた。母親と父親、姉は空爆で亡くなり、赤ちゃんは帝王切開でこの世に生まれ出た。
病院の関係者は「この子は生まれた時から孤児だ」と、イスラエルを強く非難した。

*******


嬰児   宮澤賢治
         一九二四、四、一〇、

なにいろをしてゐるともわからない
ひろぉいそらのひととこで
(へり)のまばゆい黒雲が
つぎからつぎと爆発される
     (そらたんぽぽだ
      しっかりともて)
それはひとつづついぶった太陽の射面を過ぎて
いっぺんごとにおまへを青くかなしませる
  ……そんなら雲がわるいといって
    雲なら風に消されたり
    そのときどきにひかったり
    たゞそのことが雲のこころといふものなのだ……
そしてひとでもおんなじこと
鳥は矢羽のかたちになって
いくつも杉の梢に落ちる


『春と修羅 第二集』(『校本 宮澤賢治全集 第三巻』筑摩書房、1975年)より

*******

◆「しっかりともて」と嬰児に手渡された「たんぽぽ」は、その花びらの色といい、かたちといい、太陽から地上にもたらされた光そのものと言っていいだろう(元は黒雲の爆発から生まれたのだとしても)。

途中で消え失せたり、鳥たちのように落下することなくこの地上に生まれ落ちた以上は、たとい青いかなしみを抱え続けるにしても、その光を決して手放してはならない。




ネモフィラの青――宮澤賢治「暁穹への嫉妬」[2024年04月21日(Sun)]

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ネモフィラという花のようだ。和名は瑠璃唐草。
鮮やかな青い花たちに混じって、白いのがさり気なくアピールしているのが微笑ましい。
境川遊水池公園のビジターセンターにて。

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一面に咲く花をみつめていると、幻想世界に身を置いているような気がしてくる。
この花は、明け方の光の中ではどんな風に見えるのだろう。

そんな想像に誘う賢治の詩を、『春と修羅 第二集』から――


ぎょうきゅう
暁穹への嫉妬  宮澤賢治
          一九二五、一、六


薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかゞやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら
さっきはみちは渚をつたひ
波もねむたくゆれてゐたとき
星はあやしく澄みわたり
過冷な天の水そこで
青い合図
(wink)をいくたびいくつも投げてゐた
それなのにいま
(ところがあいつはまん円なもんで
リングもあれば月も七っつもってゐる
第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない
変らないどこかそんなことなど云はれると
いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
……雪をかぶったはひびゃくしんと
  百の岬がいま明ける
  万葉風の青海原よ……
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる


『校本 宮澤賢治全集』第二巻(筑摩書房、1975年)より

【語注】*原子朗『新 宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、1999年)、林弥栄・編『日本の樹木』(山と溪谷社、1985年)等に拠った。

暁穹…明け方の大空
薔薇輝石…ロードナイト、ロード石と呼ばれるバラ色の準輝石
過冷…過冷却。水をゆっくり冷却した場合など、液体を凝固点以下に冷却しても、凝固しないで液体のまま存在すること。
ところがあいつは〜…「リングもあれば月も七っつもって」とあるので、土星を指すか。
はひびゃくしん…ハイビャクシン(這柏槙)。常緑低木で、枝は地を這って横に広がる。別名、ソナレ、イワダレネズ。


◆寒い明け方まで「星」を仰ぎ見ているのは大失恋ゆえ。
夜明けとともに光を失い姿を消して行こうとしている星は、思う人が遠くへ去ろうとしていることに重ねているのだろう。

***

★この詩はのちに文語詩として改作されている(未定稿)。
こちらも全文を掲げておく。


敗れし少年の歌へる  宮澤賢治


ひかりわななくあけぞらに
清麗サフィアのさまなして
きみにたぐへるかの惑星(ほし)
いま融け行くぞかなしけれ

雪をかぶれるびくしんや
百の海岬いま明けて
あをうなばらは万葉の
古きしらべにひかれるを

夜はあやしき積雲の
なかより生れてかの星ぞ
さながらきみのことばもて
われをこととひ燃えけるを

よきロダイトのさまなして
ひかりわなゝくかのそらに
溶け行くとしてひるがへる
きみが星こそかなしけれ


『校本 宮澤賢治全集 第五巻』(筑摩書房、1974年)より




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